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時代が教えてくれる

 木下順二氏の逝去の報は新聞の一面で報じられた。劇作家がそういう形で報じられることは演劇の端っこにいるぼくとしても嬉しい。学校で習う文学史では戯曲は「ついで」でしかないから。

 劇作家の訃報、あるいは受賞とかの報道。そういう時に、その作家の作品を読むという姿勢はあっていいかもしれない。そこから広がっていくことは少なくない。ある小説を読んでいて、ロルカという名前が出て、本屋に電話してロルカの本をさがしてくれ、と言ったら、詩集が届いて、上下巻で愕然とする値段だったこともあり、慎重に、と、注意はしたいけれど。

 木下順二は井上ひさしが出た時に叩いた。思想がない、と。それに対してひさしは、思想はいらない。とにかく趣向だ、と、応えた。今になれば、趣向も思想であり、つまり、木下の趣向とひさしのそれとの違いでしかなかったのか、とも思う。

 とりあえず読んでやるか、で、いい。とにかく読んでみよう!

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木下順二氏、死去

 92歳。芝居と馬。学生時代にシェイクスピアの訳を読んだ。戯曲は、数篇しか読んでいないが、全集は買ってある。いつかまとめて読もうと思いながら、一歩が踏み出せていない。今年の冬の宿題にしよう。心から冥福を祈ります。

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大入島を守りたい

 県が大入島を好きなようにしている。ナントカ委員会みたいなところも、大入島に住んでいる訳ではないのに県にGOを言う。何かをする時にそこの人の意見を考えないで、やるってのは傲慢、強引、汚い。

 生きるということは政治と無縁ではいられない。

 だから言う。住んでいる人の生活を考えて何が政治だ。広瀬知事って、平松の強引と身勝手に比べて、もう少しまともだと思っていたけど、同じ穴の人間か。あれこれの利権が絡んでいるのか、ナ?       

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ジョン・ヒューストンの喧嘩指南

最初の一発で決めるんだ。相手から目を離すんじゃない。手を出す瞬間に向こうは目つきがかわる。その時左のストレートを鼻にくらわすんだ。十中八九それでカタがつく。

ジョン・ヒューストンがウイリアム・ワイラーにそう教えた。ワイラーは喧嘩なんかとは縁遠い感じだが、彼はその後数回その「指南」で相手を倒している。

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ブレヒトという演劇人

 ポール・ジョンソンの『インテクチュアルズ』の中にブレヒトが扱われている。それによると、私生活はいい加減。人妻、女優に手を出してはポイ捨て。加えて作品も盗作、それまがいのものが多いとある。

 ブレヒトはかなりの成果と影響を演劇に残した。ジョンソンがあれこれを持ち出したところで、評価は動かないのかもしれない。ただ、似たようなことでのあれこれは今も行われているだろう。ブレヒトがやったようなことはシェイクスピアもやっている。

 ただ、やはり私生活は作品に現れる。シェイクスピアの私生活は不明なところばかりだが、ブレヒトの作品よりは人間の手触りがある。「異化」だから、といわれれば、そうなのかもしれないが、知的な面白さはあるけれど、魅力に欠ける。

 もうちょっとブレヒトについては時間をかけて、考えたい。

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トルーマン・カポーティという作家

 世界ナンバーワンのホモ。ジェラルド・クラークの『カポーティ』にそいう言葉が出てくる。上下2段、700ページ近い伝記。読むのに骨が折れる。骨が折れるから、読むのに3年かかった。やめては、また、の繰り返し。その間、数十冊の本が先にゴールした。

 カポーティは戯曲も書いている。何と演出はピーター・ブルック。その辺の件は、若いブルックの右往左往といい加減さが見え隠れして、面白い。

 「本を書き上げたくないのは、書き上げるというのは死ぬようなものだからだ。」

 アル中で精神科にかかっていたカポーティーはそう言う。『冷血』の作家だから、説得力がある。クラークの大著の中で、一番面白いのは『冷血』執筆の部分。一つの作品を書くことは、命を削る作業に等しい。そういう気持で次の脚本に挑みたい。

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世阿弥を読む(1)

 1974年の3月に買った『世阿弥集』。学生時代に買って、読んでいない。読み始めてやめたのだろうが、受信状態ではなかったのだろう。それが何故か職場の机のあれこれの下にあって、パラパラとめくった。打ちのめされた。現代の演劇あれこれの殆どがあると思った。

いったい、老人の動作に、いくら歳をとっているからといっても、腰膝をかがめ、身体をすくめては、花がなくなり、古めかしい演出になってしまう。

600年も前の言葉。なのに、高校演劇や「アマチュア」演劇ではまだ行われている。ちょっと世阿弥を読んでみるか。

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練習じゃない、稽古?

 昔、ある演劇関係者と話していた時、練習云々といったら、「練習じゃないですよ。芝居は稽古っていわなきゃあ」と言われた。

 今日、買っただけで読んでいなかった『世阿弥集』を開いた。『風姿花伝』の最初の文の注釈に「稽古の原義は〈昔を考える〉こと。先人の教えに基づいて研究し学修する意に用いる。練習もその一部分であるが、中心は研究である。多くは【研修】と訳することにした」とあった。研修・・・か・・・。職場じゃないんだからな。でも、「稽古するぞ!」って、「啓子、するぞ!」って何かいやらしいもんな。やっぱ、練習でいいか。これまで「研修」した結果だから、許してね。

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転がる石に苔はつく

 動かないとダメだ。今、ここにいるだけでは、何も芽生えない。見て、考えて、聞いて、感じて、歩いて、更に見て、聞く。動くことが肝心だ。

 とりあえずは、ノートに書く。文字化することで色々見えてくる。見えてきて、考えて、先に進める。

 SWING-BYの文芸部はぼく一人。誰か参加せんか?脚本はメールでできるぞ!

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松坂の60億円

 色々と各種意見が出ているが、一人の野球小僧に60億円が提示されたことを、驚き、喜びたい。日本のプロ野球がダメになると喝を出す人がいるけれど、綺麗な女よりは超綺麗な女の方がいいということで、日本のプロ野球はもっと魅力的になればいいだけのことじゃないか。思惑よりは事実。それが商売ではないのか。今、いい芽が出てる。昨年のロッテ、今年のハム。巨人中心の構図が壊れているのに、巨人は変わらない。トップが一番先鋭的でなければならないのに、それをしなかった。

 昔、つかこうへいが『ジャイアンツは負けない』というのを書いた。いっそ、鴻上か野田、あるいは勘三郎でも監督にしたらどうだ。蜷川にするとお金がかかりすぎるかもしれないが、エラーをすると、客席から灰皿が飛ぶってのもいいかもね、渡辺オーナー。

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天啓か

 10時前に寝て、12時過ぎ、鳩尾辺りが傷み、水を飲んだら眠れなくなった。眠ろうと思いながら、あれこれ考えていると、ポンポンと芝居の設定が浮かんだ。今まで考えていたことが一つになった。どうにかいけると思ったら、ますます眠れない。月曜の仕事が気になるものの、起きて、これから、書き始めることにした。今の充実が明日をつくる。

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藤原紀香の結婚

 藤原のCMで砂漠の中で家具が出る作品(製品、と言った方がいいのか)。それで、藤原の胸に活力がないと思っていた。そう思っていたら、結婚。なるほど。

 発泡酒のCMでバスに乗り遅れたら、小屋から人相の悪いおっさんが顔を出し、皆で飲む製品。あのおっさんは麿赤児じゃないか。味のある、いい顔になっている。CMの製作者の人選って、結構面白い。いい目を持っていると思う。

 田舎で芝居をする。ぼく達の目の前には東京発信の情報が溢れている。そこから刺激されるのはいいとしても、東京を向いての活動はしたくない。しても意味がないのだ。今、ここで生活する私から生まれる表現でないと意味はない。だから、オリジナルでないといけないとは思わない。芝居は私と向き合う作業に始まり、私に返ってくる。返ってくるものをきちんと受け止めて、次の舞台に向える。

 SWING-BYがぼく達の名前だ。惑星の引力を利用してより遠くへ向う人工衛星のように、劇場に向かい、より遠くへ行きたいと思う。

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北村想『高校生のための実践劇作入門』を読む

 脚本を書く作業は、殆ど舞台をつくる作業と同じだ。舞台を設定して、そこを人間が動き、喋る。設定さえきっちりしていれば、書くのがじれったいほど、彼らは喋り、動く。そこまでが、しかし、時間がかかる。

 北村想の高校生のための脚本講座は、多分、設定を少し間違っているのだろう、余り面白くない。高校生にはストレートが一番いいと思うが、変化球で迫ってくる。でも、高校生は一度読むといい。脚本の技術は結局は芝居作りの技術と大きく関係がある訳で、その辺を知らない、考えない高校生は結構多いのだ。

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人間を研ぐ

 日本人は米を洗わない。米を研ぐ。

 芝居は研ぐ作業で成り立つのかもしれない。作家が言葉を研いで脚本を書き、役者は演技を研ぐ。観客は感性と想像力を研ぐ。

 芝居は人間を研ぐ場所なのかもしれない。

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再び、劇場へ!

 片付け終わった舞台から誰もいない客席に向かうと、さっきまでのざわめきや高揚が夢ほどにも感触がなく、切なくなる。その切なさに酒で騒いで、泥のように眠って、ヨレヨレになってふとんから抜け出し、呆けたように一日を過ごす。何度かの芝居経験のそのどれもが、そういう終わり方だった。

 片田舎で芝居をする。やるか?と声をかけたのがきっかけ。それほど本気じゃなかったが、来年夏の旗揚げのあれこれを考えているうちに、やることが多く、のんびりしてもいられないことに気づき、マジになってきた。

 ここに住んでいるから、ここだから生まれる舞台にこだわりたい。そのためにはオリジナル脚本を基本にするつもりだが、それだけにこだわると、痩せていくような気もする。だから、上演したい既成脚本も数本は常に持っていたいとも思う。

 来年夏までのドタバタ小劇場をここで発信しようと思う。

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