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デイビッド・ボールの言葉(2)

良い芝居は劇的だ。劇的でないものは、良い芝居ではない。劇的の反対は退屈である。

                         『戯曲の読み方』(ブロンズ新社・常田景子訳)

別に新しい考えではない。小説でもそうだ。次への関心、期待が必要だろう。ところが、表現者には事情があり、その事情を解決できないまま、上演する場合がある。これは観客への裏切り行為に等しい。

 今は亡き遠藤周作が戯曲を書き、これまた今は亡き芥川比呂志が演出した。「遠藤さん、上手にはけた役者がすぐに下手から登場することはできません」

 これは別格のことだろうが、書く人間は何でも書ける。しかし、役者と観客を想定しないと大変だろう。時間と金を使って、劇場に行く。そこで何を見せるか。何を見せたいのか。ぼくは悲惨、残虐、不幸だけをわざわざ観に行きたいとは思わない。笑うにしろ、泣くにしろ、客席の私に触れる部分を舞台にのせたい。劇場に行くと元気が出る。そういう舞台をつくりたい。

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早寝、早起きしかない

 昨夜は7時に寝た。階下の同居人の電話の声で目が覚めたら、9時半だった。眠れない。講談社の『類語大辞典』を読んだが眠れない。重くて、重さが覚醒させた。仕方がないので、布団を出て、ニュースステーションを見た。そしたら、政治家のバカな発言に怒りがますます覚醒させ、結局、そのまま朝を迎え、出勤。

 2日間、酒を飲まなかった。偉い!今日はカップを2つ買った。夕食も風呂も済ませた。8時過ぎには寝るだろう。3時に起きて、脚本を書き始める。コンポジションはほぼ整っているのだ。7時間睡眠で、酒は身体に残っていない。寒くさえなければ。早寝早起き生活は、朝方が一番快適な夏がいい。4時過ぎには散歩できる夜明けの光。ともかく、暖房器具のないこの部屋で、重ね着をして、時々手をこすり合わせて太ももで包んで暖めながら、脚本に取り組むのだ。春を引き寄せる作業になる。

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台詞を忘れる夢

 本番直前に台詞が入っておらず焦りまくる夢を年に一回か二回ほどみる。夢によっては、「ああ、これは夢だ」と思うこともあるが、台詞を忘れる夢に限ってはそんなことはなく、脂汗を流して、泣きたくなる。何故、そんな夢をみるのかわからない。微妙に周囲の顔ぶれが違うが、焦っているぼくに比べ、みんな平然としているところだけは共通だ。この夏、舞台に立つのか、立たないのか、どうなることやら・・・。

 

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不二家ってどうしようもないな

 お菓子に蛾の断片が入っていて、「健康には害がありません」と説明を結んだら。「じゃあ、食べて」と言われ「それはできません」と応えた。そいうう話が報道されている。

 食べてと言われれば食べる。それが「企業戦士」なのだ。ましてやテメエがつくったもんだろうが。つまり、企業でも何でもないイカサマ集団ということだ。不二家はつぶれても仕方ない。ただ、社員の殆どは無実だろう。その無実な人たちが被害にあう。

 多分、氷山の一角なのだろう。政治と連動している。政治家の中にはまだまだいる。会社の中にもまだまだいる。これが日本人の体質なんだ。その結果なんだ。日本人が体質を変える。それ以外にはない。「美しい日本」とか叫んでいる人間が何をしてくれている。自分はウハウハ、国民は酷民。日本は汚くなっている。いい加減を許してはいけない!

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特殊化と一般化

 あれは何という映画だったか。タイトルも出演者も忘れたが、ラストシーンだけは憶えている。かつての恋人が、街角ですれ違う。オヤ?みたいな感じで振り返るが、すぐに歩いて行く。そしてカメラがグーッと引いて、街角の人間が豆粒のようになる。

 あの二人のようなドラマは殊に珍しい訳ではない。あなたのそばの人にも、そんな感じの終わり方。二人の切ないあれこれは特殊なもの、しかし、カメラが引いて、どこにでもあるようなものになってしまうような気がするのだ。

 ぼくは今一人芝居に専心している。ぼく達の旗揚げ脚本を忘れた訳ではないが、一人の人間を書ききることをまず優先したい。

 何処の誰でもいい、一人を選び出す。よし、この人で芝居を作ってみよう。その人を何処に置くか。季節と時間、どんなことが好きで、どんな服を着て、どんな喋り方をするのか。それを考えるのは何処かの誰かを特殊な人間にしていく。その人が特殊でなくてはならないのは、舞台の時間が2時間を超えたくないからだ。特殊化しなくてはならない。しかし、そのままでは、妖怪博物館になってしまう。その人を日常に返さなくてはならない。特殊を日常にすることが表現だと思う。

 一人芝居に取り組むと細部まで神経を使う。乗っているクルマが何かさえ考えてしまう。「クルマが止まる」じゃダメで、「赤いシビックがゆるやかに滑り込んで、止まる」と書く、まァ、そんな感じだ。暑い、か、熱い、か。漢字の感じまで考える。苦しいけれど、至福の時間と言える。今晩も頑張らナイト。

 

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すごいネ、ネット商売

 ジョン・ヒューストンの本を読んだことを書いて、その中にマリリン・モンローの名前を書いたら、トラックバック。どうやって? こんなマイナーなブログに。

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ジョン・ヒューストン『王になろうとした男』を読む

 面白い。ハンフリー・ボガード、マリリン・モンロー、マーロン・ブランド、モンゴメリー・クリフト等の俳優、トルーマン・カポーティ、サルトル等の作家の裏話も面白いし、彼の映画への取り組み、趣味の徹底ぶりも面白い。最近読んだ中では最も面白い一冊だ。

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デイビッド・ボールの言葉(1)

戯曲は、並べて置かれたドミノの駒のようなものだ。一つの出来事が次の出来事の引き金となり、それがまた次の出来事の引き金となる・・・というふうに続いていく。 

 常田景子訳の『戯曲の読み方』からこれから幾つか引用してみようと思う。

 現在、一人芝居を書いているが、一人芝居の場合、ボールのいう連続性が特に大切なように思う。演技者がきちんと理解できるような流れにしないと演技つくりがきついだろう。だから最初の台詞が生まれる瞬間にえらく神経を使って、書いては書き直しを繰り返している。そこがきちんとできれば、芝居は転がり始める。

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『遭難、』が

 鶴屋南北賞を受賞だそうで・・・。賞金200万。以上。

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本谷有希子『遭難、』を読む

 芝居には世界や人間をえぐる働きがあるように思う。この脚本がえぐっているのは作者自身の感性ではないかと思う。表現活動にはそれが伴うのだろう。どうしても自分と向き合わなくざるを得ない。

 ただ、これを読んでいて、きつくなる思い。上演を観たら、全く別のお笑いになるのかもしれないけれど、きつい。学校が舞台だけれど、学校が一番表現装置としてはよかったということなのか。読解力の不足を思いながら、不思議な世界に出会ったような作品だった。

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『オール1の落ちこぼれ、教師になる』を読む

 いじめ、養父母の死去、若くして天涯孤独になった男が、NHKのアインシュタインの番組で物理学に興味を持ち、小学校3年の算数から勉強をし直し、定時制高校に入り、猛勉強して名古屋大学に入学、大学院まで進み、母校の高校に教師として戻る。

 職員室で読んで泣いた。20年前生徒から借りた庄司陽子の『生徒諸君!』でも泣いたが、あれ以来。

 何かを成し遂げるには途轍もない時間と労力をかけなければならない。これを、SWING-BYの諸君は肝に銘じるべきだろう。自分を甘やかしてはいけない。ちょっとした時間を見つけては柔軟をする、発声の口を動かす、布団で脚本を読む。できることは沢山ある。とにかく、買って読め!

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一人芝居の面白さ

 昨夜、緒方拳の『シラノ』をチラッと観た。テレビの悲しさだろう、面白さが伝わらなかった。

 前任校で一人芝居を4本書いた。一人芝居はある一人の人間を演じる。緒方拳は何人かを演じていた。対話がある。落語みたいなものだ。ぼくからすれば、あれはあれは一人芝居にはならない。井上ひさしの『化粧』、あれが一人芝居の傑作。

 一人芝居では空気を濃くしないといけないように思う。そのあれこれが面白い。久しぶりに一人芝居を書くことになった。どうやら役者には遠慮が要らないようだ。高校生ではできなかった舞台ができる。ワクワクする。

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とにかく喰ってみようや

 食べ物に限らず、何故か敬遠していたものが、ある瞬間好きになるということは少なくない。ぼくの場合たとえば開高健がそうだった。「『四畳半襖の下張り』裁判記録」で開高の証言を読んでいて、こいつは好きになれないと思った。東京に就職して、仕事帰りに抜弁天の短い坂にあった古本屋で『輝ける闇』を何故か買い、隣の酒屋で白波を買って、安アパートの部屋で酒肴に読んだ。それが滅法面白く、以後、開高にはまった。そういうことがある。

 もちろん、人生のある時期にならなければ「美味しさ」が分からないということはあるだろう。しかし、肝心なことは好奇心を常に持つことだろうと思う。

 仕事でもそうだ。県の総合文化祭の事務局が回ってきた時、何故オレなんやと思った。しかし、初めてのことだし、やってダメでも死ぬことはない。神様が用意してくれたハードルだと考えることにした。行事は勝手に動いてくれるので、大きな失敗もなく終わった。そして、結局、予算に83万が残った。そういうこともある。

 いつもの単調な繰り返しの中に一滴の新鮮を垂らす。それは何でもいい。通勤の道筋でも、初めての店でも、初めての本でも。肝心なことは好奇心を枯渇させないことではないか。

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そうだ!(2)

 大学で演劇を始めた。高校時代に好きだった女の子が演劇部だったので、どういうものか知りたかったからだ。そこには色々いた。高校演劇出身者が色々と話すが、ぼくには何のことかわからない。コンパの時は寝たふりしてた。それで、ぼくは本から入った。本になっているのは太鼓判を押されたものだから、素人には厄介極まりない。ただ、わからないまま続けていると、一つの言葉、一つの文、それが刺激して、次に進ませてくれた。

 ヤン・コット、ブレヒト、イヨネスコ、ベケット、ピーター・ブルック、わからないままそういう人の本を読んでいた。

 井上ひさしの『藪原検校』を上演した。濡れ場や強催促などをカットして3時間。ぼくは主に塙保己一を演じたけれど、先輩のアドバイスは「じれったくなるくらいゆっくり台詞を」だった。

 それを4年後に再演した。ぼくはある事情で大学に残っていた(詮索するなよ)。その時、濡れ場もやるという女性が二人。演出を始めてした。その時ぼくは先輩の教えを破った。台詞は速く。強催促の部分だけをカットして、2時間ちょっとの舞台になった。

 観客は一語一語を噛み締めるのではなく、展開を待つと考えたからだ。江守徹の『ハムレット』が恐ろしく早口だったという劇評が多分背中を押してくれたと思う。

 舞台の規則は多い。しかし、意味を感じなければ、それは規則にはならない。

 今でも時々「客席にケツを向けてはいけない」と高校演劇の場面では言われる。笑ってしまう。

 舞台ほど自由な場所は世界の何処にもない。

 だから、演劇は楽しい。

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そうだ!(1)

 学生時代。今はもう廃刊になった演劇雑誌で、吉田日出子さんの言葉に出会った。

 「舞台は私が私に成りきれる場所」

 自分のあらゆるものを総動員して演じればいいんじゃないか。「役に成りきる」という正体不明の言葉から解放され、自由になった。私は私。それでいいんだ、多分。

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田舎で演劇の刺激を受ける方法

 時々テレビで観ることができるが、面白いものを見逃さないにはかなりの努力が求められる。

 やはり、読むことだろう。『台詞の時代』『テアトロ』『悲劇喜劇』。二海堂書店に定期購読をお願いすれば、配達してくれる。この配達がたまらなくいい。その雑誌をめくりながら、新刊の情報があれば、それを取り寄せてもらう。それで戯曲、芝居関係の本は間違いなく手に入る。

 沢山、読もう。読む気持ちにならない時は、声に出して読むのも一つの方法だろう。肝心なことは、こだわりなのだ!

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尺間山に行く

 標高645mだったか。近くまで車で行き、400段の階段。腰に爆弾を抱えているので、足元だけを見ながら、足元だけに集中する。腰のことを考えると、腰が変なことを考えるかもしれない。途中、高所恐怖症のぼくは、見てはいけないもの、つまり、振り返ってしまった。気が遠くなる。

 天気が良かったので、素晴らしい眺め。遠くに四国が見える。完成間近な自動車道が線になっている。目が歓ぶと、気持ちが軽くなる。

 社務所にはかなり高齢な御仁。この人たちはどうやって。

 ちょっと違ったことをするだけで、世界は広がる。

 

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『ブラウニング・バージョン』を読む

 テレンス・ラティガン作 鈴木裕美訳 「台詞の時代」37号所収

 2005年の秋に発行された「台詞の時代」に入っている。教員が出て、舞台が居間ということで、今回の参考になればと思い、読んだ。

 主人公は心臓病で学校を辞める。妻は不倫をしている。不倫相手も登場する。主人公の後任も出る。台詞には面白いものもある。しかし、上演したいとは思わない。シェイクスピアの喜劇の手法があるのに、何故こんな風に重くするのか分からない。進級が問題になっている生徒が一人出るが、邪魔だ。校長も、後任の夫妻も要らない。三人の芝居にすればいいのに。

 芝居は、おそらく小説も、語りすぎてはいけないと思う。この脚本には不満が残る。

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上演日決定!

 8月25日(土) 鶴見町町民会館 上演作品は『Happy Birthday, Dear...』

 もう引けない。しかし、キャストが足りない。口説くしかない。

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三谷幸喜『戸惑いの日曜日』を観る

 WOWWOWで放送された三谷作品。演出は佐藤B作。計算されたドタバタで、笑った。メインの設定に様々な筋を絡めて、次を観たくなる。三谷は上手い。参考になった。

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観客について

 注意が集中し、内容に共感を覚え、そのリズムと気持ちが一体になりだすと、観客は、集団として、一観客の能力をこえた受容力と感受性を発揮するようになる。

 ジョン・ヒューストンが映画の観客について述べたものだが、演劇も同じだろう。書く者にも、舞台をつくる者にも、観客の視点が要る。ただ、これには抵抗があるかもなと思うけれど、譲れない場合がある。それで失敗することも少なくない。楽しいが難しい。

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