« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »

劇場が全てを教えてくれる

 演劇が教えてくれるものは多い。しかし、上演しないことには演劇は意味がない。練習(ある演劇関係者は「稽古」って言いなさい!ってよく言ってたが・・・)して、劇場で上演する。上演する側は観客を選べない。そこで上演する。緞帳が下りて、一つ経験。そこでぼく達は沢山のことを学ぶ。小説や美術や音楽と違い、演劇は人前で上演して、初めて成立する。「分からないお前らなんか関係ない!」とは言えない。演劇の面白さはそこだろう。それを経験したら、芝居は人生の中で恋人の愛情より価値が出て来たりする。恋人は去るが、芝居はいつも自分の内部、自分の目の前にある。芝居は人が人として生きる上で、最も有用な道具だと思う。

 芝居、しましょう!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

三島由紀夫『わが友ヒットラー』を読む

 新潮文庫に女だけの芝居『サド侯爵』夫人』と収められている男だけの芝居。ヒットラーが狂気の一歩を踏み出す瞬間といえばいいのか、その辺を描いている。いいところを切り取ったと思う。

 戦争が好きで戦争を始めた為政者がどれだけいたか分からない。多分多くは戦争がいけないと思っていた、と、信じたい。しかし、戦争は終わらない。どこかで終われば、どこかで始まる。ベケットが「世界の涙の量は一定だ。誰かかが泣き出せば、誰かかが泣き止み。誰かが泣き止めば、誰かが泣き出すからだ」と書いたが、それと同じだ。戦争がいけないと思っていたトップが戦争に走り出す瞬間こそ断然面白いと思う。一兵士のあれこれより、劇的だと思う。

 男だけの芝居っていうのもいい。

 何かを描く時、幾つかの要素が並べられる。その肝心な一つをカットすることで、芝居がグンと立ち上がることがあると思う。理想の女を描きたければ、その女を演じられる女性を捜すより、話の中だけにした方がいいのと同じ。観客が、その想像力できちんと創りあげてくれるのだ。

 三島の知識の凄さ。翻訳劇、にしても、誰も疑わない。それは多分彼が書きながらクスクス笑いをしたのかもしれない。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

名作の言葉(1)

わたしたちの旅はまだ長いのだ。都市とともに老いてはならん。

                              唐十郎『二都物語』

 男と女もそうだけれど、演劇が時代に寄り添いすぎると、時代とともにこけてしまう。これはイカン。私をしっかりと保ち、自分の信念を持つことが今こそ求められるように思う。安部首相が「美しい日本」という極めて意味不明なキャッチフレーズで今日本を混沌とさせている。大体形容詞で語る政治家は信じてはいけない。形容詞には実体がないのだから。安部とはこけたくない。

 それにしても唐十郎はすごい。一時期彼の作品をやりたい時期があったが、もう体力も精神もとても太刀打ちできない。でも、本人はまだテント張ってやってやいるんだから、すごい。全集が欲しい作家だな。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Swing-by初練習

 簡単な設定で動いて、芝居作りの基本を確認。みんな仕事を持っているので、考えなくちゃあいかん、ナ、と。集まって、運動や声についてのあれこれを言っても仕方ない。みんな働いている。そこで芝居をするのだ。発声練習なんか要らない。舞台で演じることについての認識をはっきりすれば、それは個人でできることを稽古場に持ち込むこともない。

 面白かった。即興で二つほどやったが面白かった。肝心なのは気持だけだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

『演劇やろうよ!』はいい!

 以前触れたが、かめおかゆみこ『演劇やろうよ!』(青弓社)は高校の演劇部の部室には置いた方がいい。

 著者は、演劇が好きで、できるだけ多くの人が演劇に触れることを願っている。その姿勢がいい。演劇関係の本はかなり出ているが、かめおかほどの誠実さはない。かめおかのこの本が一冊あれば、そこから創意工夫していけばいいだけのことだ。殆ど基本的なことは網羅している。それをわかりやすい言葉で丁寧に書いている。多くの演劇本は、演劇のことより、自分を語っていることが多いのに、かめおか本は演劇が好きだ、演劇は面白いに満ちている。ぼくも初心者に近いが、出発点を確かめることができた。「間違っていませんよ」とポンと肩を押されたような思いだ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

デヴィッド・ボールの言葉(7)

脚本を一度か二度読んだだけで、稽古初日に乗り込んでいくなどもってのほかだ。

                            『戯曲の読み方』(ブロンズ新社・常田景子訳)

 ぼくの卒業論文は『ハムレット』、修士論文は『リア王』。ただ、最初にシェイクスピアを読んだ時は、全く面白くなかった。大学3年の夏の公演を解散覚悟で取り組んだのが『夏の夜の夢』だった。何故だったかは思い出せない。

 読む作業はかなりの労力が要る。小説より、戯曲の方が、そうだと思う。一回読んでわかるとは思わない。作品がまた読ませる。そしてまた読む。上演作品に決まったら、ほぼ毎日読む。流れを追う読み方では脚本の面白さはわからない。

 高校演劇の顧問の時、ぼくは毎回脚本を書いたけれど、役者は書いた人間と同じ苦闘すべきだと言った。一回読んで判断するなんざ、余りに安易なのだ。

 戯曲を読むには精神力と体力が要る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

井上ひさし『私はだれでしょう』を読む

 ひさしの新作。『すばる』所収。最近のひさしの新作はこの文芸誌で読んでいる。

 NHKのあるスタッフルームが舞台。そのスタッフがひさし自身を役割ごとに分けたような、分身のような感じがした。番組つくりの中で、戦後の問題をあぶりだしている。こだわり、徹底、そして持続。すごい作家。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

デヴィドッド・ボールの言葉(6)

私たちがすでに知っていることや、簡単に分かることを使って、私たちが知らないことや、簡単には伝えられないことを描写したり、詳しく記述するのが、イメージの働きだ。

                            『戯曲の読み方』(ブロンズ新社・常田景子訳)

 ぼく達「劇作家以前」は表現と説明の区別がついていないため、つまらない台詞、弁論大会や説教大会にしてしまうことがある。観客を信頼していないからではないかと思う。芝居の8割は観客と同じ知識、感性で成り立っている。『スター・ウオーズ』にしろ『ハリー・ポッター』にしろ、話としては新しくない。従来のあれこれにちょっと手を加えた程度。おそらく、だから、受け容れられたのだろう。

 観客を信頼すれば、信頼できるから、作品は大きく飛躍できる。

 戯曲は、小説より、詩に近い、と、ぼくは思う。尊敬する劇作家の一人は唐十郎。テネシー・ウイリアムズもいい。二人とも詩人の要素が大きい。イメージのない芝居は時間の浪費だ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

かめおかゆみこ『演劇やろうよ!』はいいかも

 かめおかゆみこ『演劇やろうよ!』(青弓社)をトイレに置いて、座る度に数ページ読む。演劇初心者には、もしかすると、バイブルになるかもしれないと思う。演劇部の顧問も、もう一度確かめるという意味では一読した方がいいかもしれない。

 ホントに便利な時代になった。ぼくが演劇をかじりかけた頃は、演劇の本は少なく、高価だった(ぼくが貧しかっただけかもしれない)。今はインターネットで、たとえば「ういろう売り」もすぐに、それもルビつきで手に入る。脚本だって、かなり手に入る(まともなものは1割か?)し、演劇用語も、スタッフワークも、知る事ができる。しかし、ぼくは本を買うことを薦める。インターネットは勝手。価値があるかどうか、その辺の評価をくぐりぬけていない。本は、出版社の検討があり、「価値あり」と判断されたから出版になる。

 かめおかゆみこ『演劇やろうよ!』は初心者向け。それもオトナ向けではないかもしれない。しかし、基本はきちんと押さえているようの思う。本屋に注文して、まず、読むべきかもしれない。初心者も、のぼせあがった顧問も。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

『50回目のファーストキス』を観る

 美人とは思わないけれど、何か魅かれてしまう女優だった。

 事故で、眠るとと前日の記憶を失ってしまう女性にあの手この手でアタックして、という物語。

 ぼくは入り組んだ物語は好きじゃない。物語を追うのに懸命になって、人間を観ないからだ。物語なんてのは作品の要ではない。その中で人間がどう感じ、考え、どんな行動をするか。そこが面白い。だから『スター・ウオーズ』は映画の技術発展には寄与したが、バカな映画ファンをつくりすぎてしまったと思う。技術を抜けば、あんな映画はゴミでしかない。

 人間を描くことが表現だ。じゃあ、風景画は? 私にとってはこの景色はこぅいう形、こういう色なのだ、ということではないのか。特撮とかCGに関心が向いた時点でそれは表現ではなく、説明になる。映画の内容より、これはどうやって撮ってるのだ?という疑問に傾いていたりする。だから演劇には所詮かなわないんだ。うん。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

ひなまつり

 先日、我が家でも女性陣が箱からガサゴサと出して雛壇にオールキャストを並べました。

 ということで、デザインをそれらしく。

 今日はチョコレート移動日でしたね。移動してきましたか。我が家では女性陣がワイルド・ターキーが恒例。酒を控えようとしている身には、残酷な誘惑です。飲んでいます。昔はこういうのをがぶ飲みしてたのに、少年老い易く、です。美味い。歯ぐき、舌、喉、とゆっくりと味わえるのがいい。飲みすぎないうちに寝よう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

劇場の問題

 劇場と呼べるものは少なく、殆どはホール。講演会やカラオケ大会にも使われる。

 そこが、結構問題が多い。建物は人の指紋がつくほどに長生きすると思うが、管理する側はそんなことは関係ない。管理するだけ。高校演劇の大会で減免のお願いをしても、「市の福祉関係の行事でもやっていません」という言葉が返ってきたりするところが少なくない。でも、滅多に使われることがなく、一年の使用率は3割程度ではないか。

 そこを使えば、人が集まる。ホールは人が集まらないことには死んだ空間だ。

 あるホールである劇団が上演して、前日の仕込みの時に役者の一人がムカデで噛まれ、急遽東京から代役を呼んだという話しがある。

 行政とは市民の中で呼吸することが肝心で、それがなされていない。

 大分の中では国東のアストくにさきがトップ。職員の方の姿勢が「使ってくれてありがとうございます」で、こちらが低姿勢になってしまう。三重町のエイトピア大野もいい。朝挨拶に事務所に伺うと、{どうぞ好きに使ってください」というおおらかさで、会場付近に姿を出すことはない。安心院の町民会館もよかった。どうにか10時までに会館外に荷物を出したら、会館の人が来て「ご協力いただいてすみません。一応10時までということになっていますので。外の明かりは一晩中つけておきますので、怪我のないように」。こう言われると、10時までがクセになっているので、嬉しくなってしまう。

 金をかけた建物が使われることなく、廃墟になっていく。そんなことやめた方がいい。どんどん使ってください、と、言えないか。朽ちていく建物だ。必要経費だけでもいいんじゃないか。

 もう一度言う。建物は人間が使って初めて価値がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『贅沢の探求』を読む

 金持ちになると、こんな生活ができる。宝くじが当たったくらいではできない。ほう、そうなのか、と、天体望遠鏡で遠くの惑星を見ているような感触だった。天体望遠鏡すら買えない人間には関係ないけれど、脚本の種が一つ。それだけでも儲けもんか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

再び、儀式について

 決められたことだから、そのままやるのはたやすい。エネルギーが要らない。

 たとえば、生徒会長が送辞を読み、生徒会長経験者が答辞を読む。それがパターンとしては多い。それを変えると何故かを説明しないといけない。

 なるほどね、と、分かるものはいい。

 ただ、送辞を卒業生に向けて読んで、答辞が、在校生に背中を向けて、校長に向って読む、それは分からないのだ。学校にはそういうものが多く、全校朝礼の時にステージに上がる校長がステージ奥に向って礼をする。ステージの神様に「すみません、また下らない話をします」と謝っていると思えば、納得できる。しかし、謝った人間がステージから叱る。怒鳴る。時には三年生に離しながら、一年生の方を向いて離したりする。形だけで意味がない。

 先日、葬儀に出て、僧侶が7人いた。お経の意味も分からないし、鐘や銅鑼やをガンガン鳴らす意味も分からない。以前、永六輔の講演を聴いたら、「これからこういうお経をよみます」と云うべきですと、言ってた。意味が分かるから価値がある。その辺を寺の坊主連中は考えているのかな。

 芝居をやっていると、何故かを納得できないと舞台では動けない。だから日常に目を移すと、納得したくなる部分がある。芝居は疑問を解決していく場所でもある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

儀式の意味

 一体それはだれのためなのだ、と、考えることがある。

 葬儀。戒名。僧侶の数。お経の長さ。死んだ者のためではく、生きている者のためではないか。

 卒業式で答辞を何故校長に向って読むのか。

 何故婚約指輪、結婚指輪があるのか。

 どこかの誰かが儲けるシステムに入ることはない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

デヴィッド・ボールの言葉(5)

戯曲の登場人物が、現実の人間以上に変化するということはない。

                            『戯曲の読み方』(ブロンズ新社・常田景子訳)

 至極最もなことで、だから登場人物のあれやこれや関係ないことまで、靴のサイズとかも気になれば、何センチにするかあれこれ考えたりする。

 現実の人間も変わらないものだ。もし自分を変えたいと思うなら、環境を変えること。違う環境は違う私の部分を引き出してくれる。卒業してしばらくして会って「あなた変わったわね」というのは違う環境で暮らしているから当たり前のことなのだ。

 芝居は設定だ。こういう人間をこういう環境に置いたらという設定で全ては決まると思う。

 現在二本の脚本を平行して考えているが、どうせなら登場人物を魅力的にしたいと思う。もしかすると最初で最後の舞台になるかもしれないのが、ぼくらの実情だからだ。ぼくらにとっては一生の思い出でも、観客にとっては街角の小さな出来事かもしれない。一陣の風かもしれない。出来るだけ多くの人の心に刻み込みたい。これがぼくの基本だ。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小池真理子『恋』を読む

 川端康成の『古都』は好きな小説だ。物語自体はオソマツだけれど、京言葉が実にきれいだ。物語が強すぎると京言葉の魅力が死んでしまう。川端は偉大だ。

 しばらくして、「川端は女を描くことが出来なかった作家だ」というのを読んで、何を今更と思った。今まで女を書けた作家がどれだけいるのか。

 『恋』は女性作家。設定はダイナミックで、細部まで目が行き届いている。久しぶりの恋愛小説(呼び方が不適切かもしれない)に手を伸ばしたのは、女のある感触というか生理というか感じ方というかその辺が欲しかったのだ。一人芝居のための取材のようなものだ。一つだけ見つけた。使えるものを。

 書く作業は砂浜で美しい貝殻を探すようなところがあるかもしれない。歩くだけでは見つからない。四つんばいになって指で砂を丁寧にまさぐりながるようなもので、あって儲けもん、なくて当たり前。どうでもいいことに時間をかける。ジグソーパズルのあるピースがはまった時、他にまだ空白はあっても、そこでピンと来るものがある。その瞬間を求めて砂浜を四つんばいになって進む。

 女と香水と食べ物を書けるようになったら作家は本物だと言ったのは誰だったか。女を書けるとは思わないが、朽ちかけた男が、女と向き合う作業だと思う。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

デヴィッド・ボールの言葉(4)

アクションというのは、ジェスチャーとか、飛んだり跳ねたりすることではない。アクションは、登場人物が、障害があるにもかかわらず、欲しいものを手に入れようとして、行動する結果、生じることである。

                        デイヴィッド・ボール『戯曲の読み方』(ブロンズ新社・常田景子訳)

最近の芝居には体育会系を思わせるものの方が多いかもしれない。一方では静かな演劇とかいうことで、退屈極まりないものもある。芝居はあるスタイルへのアンチのためにつくるのではなく、結果的にそうなってしまうこともあるだけではないのか。芝居はサークル活動かもしれないが、観客を前にする限り、表現なのだ。登場する人間をきちんと描かなければ、と、思う。お前はどうなんだ!と言われれば、とりあえず、笑っておくか。アハハ・・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

書店を散歩

 久しぶりに大きな書店を歩く。一人なので、ゆっくり時間をかけられる。かめおかゆみこ『演劇やろうよ!』『マーレーネ・シュトレールヴィッツ『ワイキキ・ビーチ』モーム『劇場』、2006年版BEST AMERICAN SHORT STORIESと学習参考書を買う。他にも読みかけの本が三冊あるのに・・・。

 本屋の中にお茶を飲める場所を設置して欲しい。買った本をすぐに開いてみたいのはぼくだけではあるまい。小さなテーブルに椅子一つ。安定感のあるカップでお茶を出してくれれば、最高の楽園になる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生きるということ

 卒業を前に生徒が事故。ICUは身体が生きようとして闘っている場所だ。

 おそらく身体、命には生き延びること意外はプログラムされていない。手首を切れば痛い。その痛さは生へと向う意志なのだ。異物を飲み込めば、身体は吐き出そうとする。身体は生きることを求めている。

 3年間付き合った連中と、今日が最後の授業。生きるということについて話した。

 人間には支えがいる。それは仕事であったり、家族であったり、宗教であったり。

 ただ、その支えにのっかかり過ぎてはいけないように思う。基本的には、私一人、一人の私。結婚の時に「一心同体」とかいうけれど、幻想でしかない。二心二体。みんなで山に登る時に、この人と登ると楽しい程度なのだ。そういう相手がいるだけでもいいんではないのか。

 ICUの彼が今懸命に生きることに向っている。身体への応援は医師がしている。ぼくは彼の精神に祈り続ける。生きよ、生きて、生け!

| | コメント (1) | トラックバック (0)

デヴィッド・ボールの言葉(3)

劇的であるということは、飾りではない。それこそが核心であり、何よりも良く情報を伝えるものである。

                            『戯曲の読み方』(ブロンズ新社・常田景子訳)

何よりも良く情報を伝える、ここが肝心。情緒に流されてはいけないのだ。高校演劇の現場では、毎年夥しい創作脚本が生まれているが、作者の感情が溢れるものの、きちんと描いていないために、シラケルことも少なくない。ある思いにおぼれてははいけないのだ。冷徹な眼差しで見極めて、きちんと書くことが必要だろう。ボールが書いていることはそれほど画期的なことではない。当たり前のことが見落とされていることが多く、それを忘れないようにしようということだ。是非注文して読んで欲しい。発行は日本劇作家協会。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »