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再び、儀式について

 決められたことだから、そのままやるのはたやすい。エネルギーが要らない。

 たとえば、生徒会長が送辞を読み、生徒会長経験者が答辞を読む。それがパターンとしては多い。それを変えると何故かを説明しないといけない。

 なるほどね、と、分かるものはいい。

 ただ、送辞を卒業生に向けて読んで、答辞が、在校生に背中を向けて、校長に向って読む、それは分からないのだ。学校にはそういうものが多く、全校朝礼の時にステージに上がる校長がステージ奥に向って礼をする。ステージの神様に「すみません、また下らない話をします」と謝っていると思えば、納得できる。しかし、謝った人間がステージから叱る。怒鳴る。時には三年生に離しながら、一年生の方を向いて離したりする。形だけで意味がない。

 先日、葬儀に出て、僧侶が7人いた。お経の意味も分からないし、鐘や銅鑼やをガンガン鳴らす意味も分からない。以前、永六輔の講演を聴いたら、「これからこういうお経をよみます」と云うべきですと、言ってた。意味が分かるから価値がある。その辺を寺の坊主連中は考えているのかな。

 芝居をやっていると、何故かを納得できないと舞台では動けない。だから日常に目を移すと、納得したくなる部分がある。芝居は疑問を解決していく場所でもある。

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