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あるお嬢様

 芸術系の大学に進み、大学院を出て、就職して、親が仕送りのためにアルバイトを始めたという話を聞いた。結構デカイアパートを持っているらしい。それなのに、・・・。

 そこに生活はない。ぼくらは自分の考え、嗜好に自信を持っていい。誰がナント言おうとも、リンゴよりミカンが好きだ、そういうものでいいのだ。理由? 遺伝子にきいてくれ。

 基本的には親がアルバイトをするレベルでは「お嬢様」とは言えないんだろう。子どもが困ればどうにかしてあげたいという親の気持ちも分かる。ただ、就職して、お前自分で生きろと言えないのか、と、思う。このままいくと「お嬢様」はバカの代名詞になる。実際バカだから、いいか。

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『大脱走』を観る

 昔、勝新太郎の兵隊やくざシリーズの一本を観た。その後アメリカ映画『史上最大の作戦』を観た。日本が戦争に負けたの理由が分かったような気がした。日本の軍隊では上官の前では直立不動で命令には絶対服従。しかし、アメリカの軍隊ではちょっと違った。軍の上下はあるが、人間の上下はない。

 『大脱走』は一人一人の持ち味が活かされて、それが機能していく面白さがある。多くの人が死ぬ。しかしその悲劇の裏で生きることへ向った人たちの懸命が感動になる。スティーブ・マッキーンはやはりカッコイイ。

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マリオ・ブラッティ『橋』を読む

 先日東京の演劇人Y氏が来訪。そこで飲んでいる時に、ぼく達の代表ヤマシンと二人で芝居をしたい云々。飲んでいて覚えていないのだが、Y氏は電話して「ナントカカントカの脚本を送って」と。そしてその二日後に届いた。三人芝居だが、折角の好意なので、声に出して読んだ。以前は三人くらいの脚本なら、自分で役つくりしながら読めたのだが、う~ん、かなりダメになっていることを痛感した。

 脚本は設定がいい。だが、そのまま上演するには時代の隔たりがある。設定をもらって、日本の現代版に書き直したいと思う。今の日本には使える。

 舞台に向けての基礎を書きながら、日常での会話力の衰えと発語量の減少。ある学校の修学旅行で、教師が夜見回っている時、携帯でメールをしている生徒がいた。「誰に送っているんだ」との教師に「隣の佐藤君です」。「隣に寝てるんだったら話せよ」とその教師は言い残して帰ったとのこと。

 現実が演劇の世界をこえてしまった、と、そんなことをずいぶん昔につかこうへいは言った。ただ、劇は人間を吸い取る部分があると思う。劇は人間がいる限り可能ではないか。

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『暗くなるまで待って』を観る

 オードリー演じるヒロインは盲目。そこに男達が「獲物」を求めて来る。ヒロインを盲目の設定にしただけで、単純なストリーが膨らみ、面白くなる。一点だけで観客を最後まで引っ張っていく。脚本の設定のお手本だと思う。スピルバーグの『激突』も単純だが、どうも彼の映画全般に言えることだが、人間の感触が希薄なんだな。オードリーファンの欲目かな?

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『久世塾』を読む

 久世光彦がシナリオライター志望者のために開講してた「久世塾」の記録。

 講師は大石静。内館牧子、竹山洋、青柳祐美子、糸井重里、山本清多、金子成人、小林亜星。

 暴力的にまとめると、打たれてもめげないだけの強さこそが大切だということになる。

 結局何でも同じことなのだ。

 そして、彼らはNOに対して何回も書き直した。書き続けることが一番の方法なのだな。

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生き方と演劇

 特に容姿端麗という訳でもない。でも彼らは輝いていた。アメリカで子どもが英単語のスペリングを正確に言うコンテストでのこと。地区大会を勝ち抜いた連中が全米大会のステージに立つ。順番に前に出て、与えられた英単語のスペルを言う。正解ならば、残り、間違うとそこで退場。最後に残った者がチャンピオンになる。そこで出題される英単語はまず日常では使わない。彼らの部屋には分厚い辞典が置いてあり、一日5,6時間勉強する。漢字検定一級には、マニアックな問題が多いが、それを考えればいい。

 空いている時間を何かで埋める。そのための演劇であれば、多分失敗する。高校演劇はお金を取らないが、金を取る取らないだけじゃない。気持ちの問題だ。目の前の観客に全身全霊で挑むことによってしか、劇場は生まれない。舞台と客席が一体となった時に、そこは劇場になっているのだ。劇場になれない舞台と客席だけの場所を流れる空気は冷え切っている。

 睡眠を削ってまで取り組むことはない。そんなことをしていいことは何もない。ただ、やむを得ずそうしなければいけないこともあろう。スペリングコンテストに挑む子どもたちの中には買い物や、集まりへの参加の時間を惜しんで取り組んだ。プロとアマの違いの線引きは難しいが、そういう彼らはプロだといっていいように思う。練習は繰り返し。何度やってもOKとしない。もっともっとを求める気持ちなら今すぐにでも持つことができるはずだ。後は、継続。

 つまらない舞台は、つらねえ生き方をしてるからだ、と、断言していいかもしれない。いい生き方をしよう。ついでに満足でき、満足させる舞台まで活力の枠を広げようじゃないか。

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雨の降る日は天気は悪い

 口内炎。二箇所。原因は、生きていること、か。

 飲めない、喰えない、喋れない。

 身体はわがまま。身体の求めに従順になっているのが現代の健康ブームだと思うが、精神の求めに応じてもいいんじゃないかと思う。生きるってことは消耗。肉体を酷使して、精神を満たす。

 身体の苦情は時々はきいてやる。こんな叛乱起こしやがって。タバコもやめて、酒も極めてひかえめなのにな・・・。

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国民を愚弄する政治家

 松岡大臣が年間水光熱費で500万だと。それを平気で出す。タダの議員会館で500万。麻薬の密造でもしてるんじゃねえかと疑われても仕方ない。月42万。「正しく処理してる」って言っても、納得できない。それに何もいわない安部首相もおかしい。「そりゃおかしいよ」という声が出ないことがおかしい。麻痺してるのかもな。安部の「美しい日本」ってぶっ飛んだな。所詮、確固たる生き方の反映ではなく、急拵えのキャッチフレーズでしかなかったということか。

 とにかく、選挙には行こう。選挙は顔の見えない人と手をつなぐ作業だと思う。今年の選挙は面白い。これには参加しないと。自分の一票が日本を変える。その目撃者にならなければ。

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花粉症が教えるもの

 ある年、ぼくは酒を飲みながら、ハサミで鼻毛を切っていた。毎日だから、根こそぎ、だ。そして春先、花粉症で涙ぐむ毎日を送った。鼻毛は切りすぎてはいけないことを学んだ。

 しかし、軽症だが、今年はどうも花粉症かもしれない。鼻毛ではなかったのか!

 この時期、マスクをする人間が年々増えている。自然からのメッセージだな。自然との共生がどういうことか考えることを促している、と、考えれば、結構いい方向に行くのではないか。

 ぼく達には毎日様々なメッセージが雨のように降りかかっている。しかし、その殆どが気づかれないまま地面にしみこんでいく。今、マスクをしている人はマスクに頼るだけでなく、自分の子どもや孫のために、どうすればいいかを考えるべきではないか。

 自分の名誉と金のためだけに考える今の政治家には望めない。そういうことを考える政治家を選ぼうね。

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新聞を読もう

 『ハムレット』はスポンジだ。そう言ったのはヤン・コット。時代を吸収するからだ、と、彼は言う。

 ぼくは余り時代のあれこれには関心がない。だからこそ新聞の見出しには全部目を通す。面白い記事はないけれど、「そうなのか」と頷いてパラパラめくる。テレビでニュースを観る。大変な時代になったと思う。

 司馬遼太郎の『坂の上の雲)をトボトボ読んでいる。知ること、情報がいかに大切かを痛感している。

 『ハムレット』だけでなく、芝居には時代を現すところがある。

 今を、現代を、知り、考える姿勢が要る。

 今の観客と呼吸する。そういう芝居をしたい。

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森進一の失敗

 ぼくは森進一がどういう台詞を付け足したのか知らない。しかし、ある程度見当はつく。

 多分台詞は、歌う時の歌い方で処理すべきなのだ。『おふくろさん』は彼の台詞の思いと同じところで書かれたのではないのか。それに彼が更に言葉を付け足すということは歌に足りないものがあるという批判にしかならない。それを言葉を付け足すことで解決した気になったことがいけない。解決してないのだ。歌の前後の喋りで母親の思い出を語ればいいんじゃないのか。それか新しい歌をつくる。

 ぼくの脚本が時々使われることがある。ぼくはその時の演劇部に書いたから、部の事情が反映している。登場人物が少ない。それを選んだ学校の演劇部にも事情があるだろうから、上演許可の求めに「どうぞ切るなり、足すなり、お好きなように」と承諾書に付け足す。まッ完成にはほど遠いからね。そういう形で、顔の知らない高校生と一緒に芝居をつくってるんだから、幸せだ。

 森進一は閉じてしまったのだ。

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森進一の教訓

 森が勝手に歌に台詞をつけたことが問題になっている。同一性保持に触れるとか。

 これで、脚本を勝手にいじるのが少なくなるだろうな。男子部員がいないから、女で演じるように書き直したり、あるいはある場面をカットするとか、全て作者の許可がいる。高校演劇の現場ではかなり厳しくされているが、完全ではない。森進一が著作権を普及させてくれた。皆さん、特に「アマチュア演劇」の皆さん、気をつけましょう。

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何故、漫才台本か

 ここのところ毎日脚本を考えている。脚本は語らない。押さえる。

 しかし、漫才台本は語る。攻める。

 語りたくて、攻めたくて仕方ないのかもしれない。説明になっていないか・・・。

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宴人

 えんじん、という名の漫才師の一人は教え子だ。大分市内の高校演劇同好会の卒業公演に客演してもらったこともある。大阪の大学に進学したと思うが、吉本に入ったという噂を聞いて、この十数年で2,3回テレビで見た。面白くない。元気な奴だが、滑っている。

 この前の日曜日大分市美術館にエッシャー展を観に行った。作品よりはエッシャー自身の方が面白いとか話しながら帰るクルマの中で、同居人が彼の話を始めた。どうしてかはわからない。そして、その夜のテレビで宴人の彼を見た。勝ち抜きで、何週か勝ち抜いているとかで、その週も勝ち抜いた。しかし、ぼくは笑えなかった。

 誰か、宴人の江藤に連絡がつけば、是非、ぼくに漫才台本を書かせてくれと伝えて欲しい。

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台詞が生まれない苦しみ

 どうしても台詞が出てこない時がある。そういう時、言葉に頼りすぎていることに反省する。

 脚本は、読むためのものではなく、舞台で役者によって演じられるためにある。そこに言葉がしゃしゃり出ることもないだろうと思う。無言でも舞台は成立する。

 多分台詞が生まれない、出てこないということは、言葉に頼りすぎているか、設定に無理があるからなのだ。

 おおらかに笑って、削除して最初からやり直せばいいだけのことなのだ。

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芝居、演劇、劇

 ぼくらが舞台でやることをどう呼ぶか。

 子どもの多くは劇という。ぼくは芝居とか演劇といい、劇とはいわない。しかし。

 もしかすると劇が正解なのかもしれない、と、思う。芝居とか演劇は、劇の根っこの部分から関心をそらしているのかもしれない。高校に入るまでの生徒は劇と呼ぶ。舞台で動き、喋る、その基本の面白さ、愉しみを押さえているのではないかと思う。

 小説、詩、音楽、絵画、彫刻等々の表現に劇的な要素はあると思う。ただ、「的」のつかない「劇」とは何か。舞台で動いて、喋れば、「劇」ではないのだ。「劇」とは何か。ベケットの「劇」をまだ理解できない。意識的に考えてみなければ、と、思う、ひな祭りの夜だ。

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