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脚本を書く(2)

 とにかく丁寧に書き込んでいる。ただ、タイトルの座りがよくない。タイトルに違和感がない時は、比較的早く書ける。多分、何かがひっかかっているんだな。書くほどに 夢遠ざかる 夕べかな

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脚本を書く(1)

 連休。とにかく、風が気持ちよく、生まれ変わった緑が目に嬉しい。あっちこっちの行楽地は混雑していることだろう。子どもには申し訳ないが、ゆっくり休む。朝、犬と山を歩く。森林の空気をたっぷり吸う。帰ると、早起きの次女と近くをサイクリング。マクドナルドで休んで、十三重の塔を回って、帰る。そしてひたすら脚本に向う。最近の乱読の影響か、とにかく丁寧に書き込むようになっている。以前の脚本は捨てて、設定もちょっとだけ変えて、とにかく書く。連休明けに脚本を提示しなければならない。

 丁寧に書き込むと、考えていなかった部分がはっきりしてくる。既にキャストは決定しているのだが、その中の誰かが「何故、この台詞を?」と問いかけてきたりする。そこで考えて、また書き直し。おそらくこれだけこだわって書いた経験は今までない。別に高校演劇を軽視したつもりは毛頭ないが、旗揚げ作品であり、失敗はできないという思いがあるからだろう。結構、神経をすり減らす作業ではあるけれど、それが楽しい。

 提示してからも何度も書き直しになることはわかっている。簡単に作れないからこそ、価値がある。挑むぞ!

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永井愛『僕の東京日記』を読む

 ホテル、アパート、場所をそういう所に置くと、どんな人間でも出せる。この脚本も下宿とアパートを足して割ったような場所で、変な人間がウヨウヨ出てくる。今のように学生が遊びやレジャーに精を出す前の時代。変な人間だけれど、みんな精一杯生きているところが良い。その空気が心地よい。

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怒涛のごとく脚本を読みながら

 この2週間で1年で読む半分近くの量を読んだ。これだけの量を短期間で読んだのは初めて。時にコクリと眠くなった時もある。でも読んだ。そんな読み方に意味があるのか。自分で問い続けた。多くの作品に触れるということでは、まァそれなりに意味はあるかもしれない。ただ、要はこだわりだと考える。ウトウトを目覚ましてくれる作品に出会うかもしれない。それだけだ。上演したくなる脚本に出会いたい。

 基本はオリジナル脚本だ。しかし、どんなに懸命に取り組んでも、A級の作品は書けない。その辺は以前から分かっているし、今回もまた確認している。だから、ぼくのフィールドで書こうとしている。これなら少しは希がある。

 ぼくが仮にA級の作品を書けたとしても、他の脚本を演じることは必要だと思う。大分には幾つかの社会人劇団がある。たとえば、「大分トイズクラブ」や「立見席」「ワルキューレ」は座付作者の作品だけを上演するから、感覚が固まってくる。繰り返しになる。繰り返しで創造は死んでいく。

 演劇を志す人間が集まる。そこは常に新しさ、繰り返し出ない何かが必要だろう。

 どこかで誰かがやった作品のコピーはしたくない。この佐伯で生まれたものがないと意味はない。だから世界の脚本を可能な限り読んでおきたい。腰痛と痛風、加えて虫歯やらのアレコレ。死の床にあって夢は舞台を駆け巡るという生き方でありたい。

 巨匠の作品であれNO。極めて個人的な、私的な接し方(読み方とはいえない)でぼくは脚本を漁り続けるのだ!

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アーサー・ミラー『壊れたガラス』を読む

 緊密で無駄がなく、さすが巨匠。ただ、巨匠になると難しくなり、そういう世界にはぼくのようなアチャラカには馴染まない。『セールスマンの死』とかであれば、表に見える部分で滲みてくるものがあるが、人種問題とかが絡んでくると、ダメだ。めげずに別の脚本を読むか。

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ニール・サイモン『求婚ープロポーザルズー』を読む

 親子を中心に男と女の複数形の愛を求めての絡み合いドラマ。上手く展開している。軽いもの、重いもの、切ないもの、どうでもいいもの。そういうものが混在して、進行する。そのため焦点がはっきりしなくなり、親子の部分がぼかされてしまう。顕微鏡で見ると面白いが、最終的には物足りなさが残る。

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ニール・サイモン『23階の笑い』を読む

 23階にあるコント作家達の事務所で繰り広げられるテンヤワンヤ。時は1953年であり、この年ベケットの『ゴドーを待ちながら』が生まれ、どうってことないが、ぼくが生まれた。サイモンの若き日を振り返っての郷愁みたいなのがあるかもしれない。出てくる奴、どいつもこいつもクレージーで、丹念に書かれているが、翻訳の限界か、ネイティブの人ならわかるであろうことがわからない。これってオレが無知なだけなのか。

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ジャン=ノエル・ファンウイック『喜劇キュリー夫人』を読む

 原題は『シュッツ氏の勲章』。日本人にはキュリー夫人の名前の浸透度が高いので、そうしたのだろうが、作品を読めば、「キュリー夫妻」とした方がいいかもしれない。キュリー夫人は黒柳徹子が演じたようだが、ラジウムを発見した時に、彼女が研究室のカーテンを閉め、夫を誘うくだりでは、黒柳徹子の顔が浮かび、笑ってしまった。

 伝記ものは難しい。はっきりしている部分が多く、それをなぞるだけでは面白くない。井上ひさしは多くの実在人物を書いてきた。資料を集めるだけ集めて、虚構、創作が入り込める隙間を探すらしい。彼の『本の運命』を読むと、一ヶ月に300万の書籍費とか、とにかく莫大な資料を集めるようだが、お金はもちろん、その資料を読みつくす作業に気が遠くなる。作家ってのは大変なのだなあ。

 キュリー夫妻の成果への苦闘の経過を知る上ではわかりやすい作品だ。

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土田英生『京都11区』を読む

 区画整理(?)で取り壊しになる建物で闘う人たち。ただ、その闘いがそれほど切迫感がなく、進む。イタリア国籍の日本人が面白いが、彼がいなかったら、作品は重く澱んでしまうかもしれない。会話の中に軽妙な面白さがある。土田作品は初めてだが、これから何本か読むことになると思う。

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ハロルド・ピンター『灰から灰へ』を読む

 巨匠の作品は一回読んだだけでは不明な点が多い。男と女の二人芝居で、演技者にはやりがいがあるとは思うが、日本人にはそれを受け取るだけの土台がないかもしれない。不明な点を解決するためにもう一度読むか?降参。

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ルイージ・ピランデッロ『万力』と『花をくわえた男』を読む

 『作者をさがす六人の登場人物』が一番有名か。ピランデルロっていう名前で覚えていたが、ピランデッロが現地読みなのだろう。その有名作品の序文で、

「ずっと以前のことである、わたしの芸術に小さなひとりの気のきく小間使いがかしずくようになったのは。しかし彼女は、いつもかわらず、いききと仕事をしてくれる。彼女の名前はファンタジーという」

 実生活はかなり大変だったみたいで、それが現れているような作品だが、作者自身もかなり痛手を負っているような気もする。乱れ撃ちみたいな読み方にひっかかっただけのこと。

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池田政之『極楽ホームへいらっしゃい』を読む

 ゴチャゴチャしてて、時代の幾つかの表面をかすめはするものの、印象に残らない。ぼくの読み方が悪いんだろうとは思うが、評価としては「D」。上演はもちろん、二度と読む気もしない。

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シャン・カーン『CLEANSKINS/きれいな肌』を読む

 貧しいアパート。宝くじやラジオ番組で今より良くしようとしている母親。息子は反イスラム。ジャンキーだった娘が帰ってくるがイスラム教。

 イギリスの何処かの小さなアパートの一室で三人が絡み合いながら生の感触をもとめてうごめきあう命たち。きれいな肌には二つの意味があった。

 楽しくはない。笑えることもない。悲しくもなければ、切なくもない。人間の皮膚感覚。これはいい。素晴らしい傑作。これは捨てない。

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ニール・サイモン『ロンドン・スイート』を読む

 ロンドンのあるホテルのスイート・ルームを利用する4組の客のオムニバス形式のドラマ。

 ニール・サイモンはビッグネイムで、今までに多くの傑作を送り出している。その半分は読んでいると思う。軽妙で粋な台詞は他の追随をゆるさない。ただ、彼の一番の傑作は『書いては書き直し』の自伝ではないかと思う。ちょっと面白かった台詞を幾つか。

「アメリカの猫の数より、『キャッツ』観た人口の方が多いんだって」

「才能はナイル川の水じゃない。毎年春になりゃ頭に溢れてくるもんじゃない」

「公平ってやつはあまり公平に行き渡らないものじゃないか」

「ゆうべ懐かしくてフィッシュアンドチップスを食べたんだよ。胃とノスタルジアは相性が悪い」

「妻でも恋人でもないなら、せめてお母さん役をやらせて」

『書いては書き直し』は続篇も出ている。一読をおススメします。

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中津留章仁『とんでもない女』を読む

 5年前に突如いなくなった妻が帰ってくる。しかし、男には結婚前提に同居している女がいる。最後に失踪の理由が妻の口から語られる。種明かしを本人の口からするってのがどうも・・・。作者の都合が前面に出すぎているような気がする。

 作者は大分出身。高校時代の彼に会ったことがある。なかなか存在感のある高校生だった。この脚本は彼の演出で、各地で上演されるようだ。出身地津久見も日程に入っているようで、公演のポスターが貼られている。「私の体の半分はワインでできてる」という台詞の妻は川島なおみが演じるようだ。川島のために書いた脚本のような気がしてならない。川島を見たい人にはいいかもしれない。

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J・P・アレーグル『アニェス・べラドンヌ』を読む

 役者論みたいな脚本。役者とはどういうものか、それが台詞で語られている。一度読めばいい。まッ確かにそうかもしれないと思う。

 日本では、焼きなおして、お笑いコンビにした方がいいかもしれない。

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木っ端微塵、『生徒諸君!』への期待

 庄司陽子の『生徒諸君!』を生徒が持ってきてくれて、職員室で読んで泣いたのは、もう20年くらい前のこと。大学時代に下宿していた女子高校生が庄司の『ヘイ、キャシー』を貸してくれて読んで、庄司陽子の名前を覚えた。キャシーが飼っていたセントバーナードの死ぬ場面で泣いたのだった。

 テレビドラマ『生徒諸君』はその流れでかなり期待していた。だから、じっくり楽しもうとぼくの部屋で観た。しかし、場所と登場人物が違うだけの焼き直しで、えげつないだけのドラマになっていた。

 終わると、小学校5年の娘が顔を出し、「『生徒諸君』観た? 面白かったな。続きが観たい」と興奮気味に話した。そして、ぼくが庄司陽子を読んだことを話していたので、「マンガと同じ?」と訊いたので、「マンガの方が100倍面白い。今度買ってあげる」と言った。子どもに否定的な言葉は出せなかった。

 時代が違うといえばそれまで。しかし、新しさは何もない、そう、まさに子どもだまし程度の脚本。「鉄火面」という文科省のエリートの絶大な権力。無気力で無責任な教師t達。そして不気味な生徒。奇形だらけ。もうその手の手法は捨てた方がいいと思う。庄司陽子が続篇でそう書いているのか?そうであれば、悲しみは更に深まる。調べてみよう。

 

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永井愛『パパのデモクラシー』を読む

 坂手洋二の『天皇と接吻』と扱う時代が同じで、同じ固有名詞が出てくる。ただ、坂手作品が莫大な資料の呪縛から逃れられない感がぬぐえないが、永井作品は完璧な創作という感じがする。少々かったるい感じがする。しかし、ラストがいい。ラストで作品がピリリと引き締まり、永井の眼差しを感じる。脚本とはこういうものです、と、教えられる。

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竹内銃一郎『月ノ光』を読む

 外国が舞台で登場人物は全て外国人。台詞で語られる残虐な犯罪も、そのせいか、生々しさが消えて届けられ、人間の濃淡がくっきり描かれている。

 上演したい脚本以外は手離すつもりだが、上演したくてもまず不可能と思えるものもある。その一つ。

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岩松了『こわれゆく男』を読む

 面白かった。鐘下辰男や坂手洋二とはまた違う感触。

 読んでは段ボール箱に入れていく。どんなに面白くても、手元にとどめるのはやめようと考えているから、その箱はぼくの脚本捨て場。読みながら、ぼくの中で何かがうごめいていくのを覚える。多分、野球部の生徒が炎天下でも寒風の中でも休むことなく練習を重ねることによって、「野球センス」が培われていくようなものかもしれない。毎日最低一本。しばらく続けて、脚本を考える「筋肉」を鍛えようと思う。

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坂手洋二『天皇と接吻』を読む

 戦後映画を作った人たちを高校生が映画で描いたという二重構造。緊密に構成されており、完成度は高いと思う。敢えて形容詞一つで語れば痛々しい。その痛々しさはこの時代のぼく達が押し隠そうとしているものではないか。坂手洋二はそこを抉り出す。彼がいるからその痛々しさは救われるのかもしれない。

 今日、練習に出る。わずか2時間足らず。腰痛と口内炎と疲れで使い古しの雑巾みたいになっていたが、元気が出た。腰痛だろうとヘトヘトだろうともっと積極的に挑もう。芝居がぼくのユンケルかもしれない。

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坂手洋二『最後の一人までが全体である』を読む

 脚本を読むには体力と集中力が要る。職場で机が片隅の隠れ家的なところに移ったのはいい。ところが斜め向こうの新任君のパソコンの調子が悪いらしくサポートセンターと話しているのだが、「それでどうすんの?」という言葉遣いで延々と話す。声よりもその言葉遣いにイライラして、そのイライラを押さえながら、読んだ。

 演劇は時代に沿っていくのではなく、時代に常に何か突きつけながら進化していく部分がある。坂手洋二の作品はそのむき出しの大胆と強さと激しさがある。鴻上の『僕たちの好きだった革命』と重なる時代の姿があるが、鴻上に比べると坂手は妥協していない。それが空気をたるませることなく作品は進行する。

 ただ、時々、立ち止まって考えたり、めくり返したり、と、読み手にも安易さを許さない。明日は、もう一つ読んでみるか。

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鐘下辰男『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・京都』を読む

 手元にある脚本を処分しようと思い、その前に読んだものも含め、読めるときに読んでおこうとしている。

 鐘下辰男は骨太の作品を書くので、好きな作家だ。舞台は幕末。商家から金を盗んでは薩摩に資金を提供している素浪人が主人公。幕末はシッチャカメッチャカに入り乱れた時代だから、そのどこかに焦点を当てれば、それなりの物語が作れるような気がする。ぐいぐい引き込まれ、読んでしまった。舞台転換も無理がない。

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黒川欣映『イエ丸に乗って、さらば故国よ』を読む

 自分達の理想とする社会をつくろうと船でヤフー島に向うある「家族」を描いた脚本。家族を「 」で括ったのは、家族と云う体裁を持っているが、寄せ集めの集団だからだ。結局目指す島は見つからないが、それでも理想を捨てきれない。まだ国境がなかった、あるいは曖昧な時代なら可能かもしれないが、そういう時代、移動も不可能に近い。移動が不可能ならそういう考えが生まれることもないかもしれない。ユートピア願望はいつの時代にも、多くの人にある。事件を起こした宗教団体もその一つの形の現われかもしれない。しかし、結局は『青い鳥』になってしまうのではないか。ここではない何処かではなく、今いる此処にしか築けないのだろう。

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司馬遼太郎『坂の上の雲』を読む

 長い。長いけれど、必要な長さであり、日露戦争が手に取るような思いでわかり、面白い。リーダーに求められるものも分かれば、生き方についても多くのヒントがある。

 日露戦争は運で勝っただけだった。戦争の愚かさ、バカバカしさが分かる。それは現在展開されているイラクや幾つかの地域でのことを観る目を養ってくれる。

 兄が陸軍、弟が海軍で活躍した秋山兄弟、それに正岡子規を絡めて描いた大作、力作、傑作。一度読むことを薦める。

 小説というよりは「記録」かもしれない。ただ、準備に5年かけ、執筆に4年3ヶ月かけた「雲」はライブ感覚になっていく。「竜馬」では竜馬ファンになったが、「雲」では秋山兄弟と同時に司馬のファンになった。ここ1週間はあらゆる時間を読むことに費やした。極めて、満足。

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独裁者の休日

 梅沢富美男が北朝鮮のあの人に扮して、ヘプバーンの『ローマの休日』のパロディをつくるのはどうだろうか。もちろん、田舎で芝居を考えているぼくらにはギャラを払えないからまさに夢芝居なんだけど、今だからこそ面白い企画と思うんだが・・・。

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鴻上尚史『僕たちの好きだった革命』を読む

 行政改革、教育改革等、「改革」という言葉が新聞紙上で踊る。ただ、それは小手先のことで、本質に迫るだけのものがない。もし本気であるならば、たとえば、英語が話せるようになるには、外国人を英語教員として採用するとか、一ヶ月生徒を外国に送り込むとかしないことには効果はない。それができない。できる範囲の中でしか考えない。今こそ、日本には色々な場所で改革ではなく、革命が求められているように思う。

 ぼくが大学に入った頃は大学紛争がくすぶっていた。学部長室占拠、授業のボイコット、集会、デモが頻繁にあった。あるデモの時、市内を動き回って、戻って来た時、ある教育学部の女の子が「コンタクト落とした!」の一言でみんなの動きが止まった。数年前なら彼女の言葉は届かなかったし、たとえ届いても動きは止まらなかっただろう。みんな地べたを這いずり回ってコンタクトレンズを探した。あの頃はおかしいもにはおかしいと言えたし、それが動きになった時代だった。

 あの頃高校で運動をしていた男子生徒にガス弾が当たり、入院して眠り続けた男子高校生がおじさんになった時に突然目覚め、高校に復学する。そして生徒のための文化祭の運動を始める・・・。

 幼い言い方だが、ゴチャゴチャしている。上演スタッフは大変だろうなと思う。どういう上演になったのか興味がある。それ以上に、50代以上のオジサンが観て、どう反応するかを見てみたいと思う。

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『ロミオとジュリエット』を観る

 『ロミオとジュリエット』の翻案もので一番有名なのは『ウエストサイド物語』だと思う。

 井上由美子版の今回の翻案は、警察と犯人の子どもという設定。対立をそういう形にしたか、と、安易なようで、ちょっと物足りない。最後も人情モノになっていて、別にシェイクスピアを下敷きにした意味が薄い。だからか、最後のヒロインの台詞「だって私たちロミオとジュリエットじゃないもん」が作者の開き直りの言葉に聞こえた。

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『王様の心臓』を観る

 シェイクスピアの作品がテレビドラマになり、明日は『ロミオとジュリエット』らしい。

 シェイクスピアの四大悲劇の中で『リア王』は他の『ハムレット』『マクベス』『オセロ』の中では一番悲惨で残虐だと思うが、それが喜劇になった。オリジナル作品もいいが、名作を現代に思い切って翻案・脚色しても面白いなと思う。シェイクスピア学者は憤慨するかもしれないが、シェイクスピアがこうしたのか、と、おかしくて仕方なかった。西田敏行って、どうやっても彼だから許せるようなところもある。おそらく彼だから出来たのかもしれない。史上最高の肥満のリア王!

 結末をどうするか、それがたのしみだった。オイオイと思いかけていたが、『リア王』に沿った形だったと思う。

 人間の愚かさ。それは至るところで見られる。リアも愚かだったが、周囲の人間も愚かだった。どうやら脚本家は喜劇的に進めるのがしかないと思ったのだろう。正解だと思う。ぼくは昔『リア王』の論文(めいたもの)を書いた。だから観た。満足。もっと観たい。明日の『ロミオとジュリエット』も、論文(めいたもの)を書いている。明日がたのしみだ。小田島訳でもざっと読んでおこうかな。翻案ものは、原作を読んでおいたほうが断然面白いです。

 

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春眠暁をおぼえず、というのに・・・

 芝居は既に始まっている。舞台袖から舞台を覗く、と、役者は見えないが、舞台前にプリンターが置いてあり、おそらく舞台の写真と思うのだが、それを次々に印刷している。プリンターの音が結構うるさい。いいのかよ、あんな所に置いて・・・。出番だ。舞台に出る。テネシー・ウイリアムズの『ガラスの動物園』のトムの役。客席を前にした途端、台詞が一言も出てこない。何か言わなければ、言えば、思い出すかもしれない。「母が、・・・」で詰まる。台詞が入ってない。

 時々台詞を忘れている夢を見る。今回新しいのはプリンター。初めてだが、あんまりだ。何でプリンターなのかな。さすがに目が覚めて、眠れない。いつもは2度寝をするけれど、思い切って起きた。4時だ。

 一人芝居は、夏の旗揚げ後になりました。ぼくが日常訓練が出来ていないで、マラソンに出た結果みたいなもの?

 今は旗揚げの第3稿に挑んでいます。捨てる作業で切ない思いも。

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