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ちょっと贅沢な休日

 本匠の湯に行ったが、11時から。それで直川に行った。サウナで汗を搾り出し、65キロを割った!

 祖母とトボトボ歩いて年に何回か訪ねた地蔵尊の道をくるまで辿り、祖母の思い出にひたった。

 秋の山道。まだ紅葉の気配は薄かったが、のんびりできた。日曜ならこうは行かない。土曜の代休で、束の間の独身だからこそできることだ。仕事はある。しかし、仕事はちょおと置いておいたところでどうってことはない。しかし、時には白い時間に身をゆだねないと、精神がくたびれ果ててしまう。それが多くてもいけないが、年に数回はあっていい。金はかからない。そういう場所を幾つか持っておくのがいいかもしれない。

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ゴルゴ13のトイレ解決

 ゴルゴは公衆トイレは利用しそうにないな。じゃあどうやって処理するのか。多分子どもの頃からの訓練でそうなっているのだろう。つまらない疑問につまらない解決。ごめんなさい。

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ゴルゴ13のトイレ

 最近、少し大きな建物のトイレを利用する時、幾つか並んでいる便器のどこをゴルゴ13が使うかを考えてしまう。一番奥か? でも仮に窓があったとしても、3階で飛び降りることができなかったら・・・。

 考えるべきことは沢山あるのに、気になってしまう。

 『ゴルゴの休日』っていう芝居は面白いとは思う。ただ、それを世界中さがしても、演じることができる役者はいない。でも、思い切って、全くイメージの違う役者でやってもいいかもしれない。次長課長の丸っこいのはどうだろう?

 

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私流脚本の書き方(4)

 芝居を書く。その時に、必要なものが幾つかある。その一つを捨てるようにしている。たとえば学校を舞台の芝居を書く時に、教師を出さない。生徒も出さない。親だけ。全部出してしまうと芝居にならないこともある。だから時間を夜の学校にする。親のあれこれを通して、学校や生徒や教師がうっすらと浮かぶだけでもよくはないか。

 ずっと昔に書いた『私の中の彼へ』(倉橋由美子に同名の小説があったが、全く関係ない)で、手術をした娘を見舞いに来た両親。母親が娘に話しかけるとき、父親が言葉を挟む。母親は「あなたはリンゴをむいていればいいの」と言う。リンゴなんてどうでもいいんだけれど、そのどうでもいいことが結構活きることもある、と、上演が終わってしばらくして気付いた。

 芝居を書くのは楽しい。

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私流脚本の書き方(3)

 場所と登場人物が決まると登場人物が語り始める。ぼくはそれを記録するだけだ。

 ただ、日頃から色々なものに触れておく必要があるように思う。その情報源にならないのがテレビだと思う。活字の方がいい。沢木耕太郎の『人の砂漠』のある章を読んで、ぼくはほぼ一日で『るるてんてん』という一人芝居を書いた。大分弁を使ったのはぼくの身近な人、特に祖母との語らいがあって、それが影響したいと思う。活字は自分でイメージを作るからいいのだと思う。散歩もいい。いつもは歩かないところを歩くと、家の脇に捨てられたような子どもの遊具が何かを語りかけることもある。

 「ミューゼよ、我に語らせたまえ」と昔の詩人は言ったとか。何かがその人に下りてきて、その人を通して作品となるだけなのだとある老齢の文学研究家が教えてくれたことがある。「それ」との出会いを求め続けていると、いつかは出会う。出会うまで求め続ける。それしかない。

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私流脚本の書き方(2)

 脚本は、小さな積み重ねを大切にしないといけないと考える。話題が飛躍してもいいが、それには理由がいる。作者の勝手な都合だけではいけない。作者には流れがあっても、観客には今があって次に行く。高校演劇の舞台で暗転が多いのはまず失敗だ。流れに急いで、一つ一つの場をきちんと組み立てていないからだ。そのため、ぼくは暗転なしの一幕一場の芝居を書く。

 ただ、先に進まない時がある。その時には異物を出す。『雨の街、夜の部屋』では学校に呼び出された二組の両親の芝居だが、途中で警備員を入れたところ、芝居は転がり始めた。

 たとえば子どもだけの芝居は、同じ立場の人間だけだから、難しい。いじめや両親の離婚を持ち出しても難しい。しかし、異物として、状況をガラリと変える話題は可能だろうと思う。ただ、それにしても、言葉だけでは弱い。だから、そも子ども達を何処の場所に置くかが問題になる。教師や家では限界がある。彼らを丸ごと、日常とはちょっと(ちょっと、です)離れた場所に置くと異物を出す可能性が広がる。

 ただ、異物は、メインの人物をあぶりだす装置でしかないから、でしゃばりすぎてはならない。

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フンドーキンのCM

 唐十郎が出てるんですね。唐が臼杵の町を歩いた。見たかった。

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私流脚本の書き方(1)

 高校演劇をやってきて、大きな間違いがある。脚本が弁論になっていることだ。メッセージを持つのはいい。しかし、それが台詞になってしまったら、観客は引いてしまう。

 これは生徒との面接練習ではもっと明確に現れる。たとえば「あなたの長所は?」の質問をすると「明るいところです」と応える。これは違う。自分を形容詞で説明してはいけない。面接官が「明るい子だなァ」と思うことが肝心ではないのか。

 ぼくが演劇部の顧問になって大会に行き、びっくりしたことは、上演が終わると幕間(まくあい)討論があったことだ。それ自体は特に問題はない。上演を終えた学校の代表数人が緞帳の前に出て、その裏では次の舞台の準備をしている。ところが客席から出てくる質問はただ一つ。「今の上演意図は何ですか?」。つまり、テーマは何ですかと訊いている。短い言葉で説明できるなら、1時間かけて上演する意味が薄れてしまう。

 いじめは良くない。これは芝居にはならないと思う。意見発表でしかない。いじめている人間を他の場所に置く。たとえば、友達のお誕生日会でもいい。いじめとは無縁なところにいじめている人間を置くほうがいいように思う。

 芝居とは、状況と人間だと思う。どちらが抜けてもダメ。そして、テーマは演じる側が観る側に与えるものではなく、双方が共有しているから成立するものではないかと思う。スケボーに熱中する少年の映画を茶道に興味があるおばちゃんが見ても通じない。しかし、そのおばちゃんの孫がスケボーに興味を持っていたら事情はちょっと変わってくる。芝居はそういう要素で支えられている。

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カレーの食べ方

 ぼくはカレーを食べる時、ご飯とルーを混ぜて食べる。ある女性と食べていた時、それをしたら、そんな食べ方信じられない、と、言われた。

 食事をした時、肉の焼き方でウエルダンにしたら、相手は「そんなのコーヒーに砂糖を10個入れるようなものよ」と言った。だから、食後のコーヒーで砂糖を10個入れた。

 今は昔のことだけれど、そして今だから、そういう状況の時の返す言葉もあるけれど、男と女はささいなところから壊れていくことは少なくない。

 人間って、ささいなことで支えられているのだな。

 野田秀樹は「初心は忘れた」と昔書いた。痛快だった。しかし、男と女(女と男、と、順番を換えたほうがいいか?)は、いつも初心、」「好きです。付き合ってください」という部分があった方がいいのかもしれない。

 愛情とは努力なのだ。努力を怠るようになったら、・・・。

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靴の物語

 8年目の靴について書きながら、話しがそれてしまった。

 子どもが生まれて、その手の平におさまる小さな足を見ながら、この子がどれくらいの靴を履きつぶすのかを想像したことがある。子どもの成長は早く2,3ヶ月に一回靴を買い換える。靴が傷むよりも、小さくなるほうが早いのだ。

 ぼくは靴が小さくなることはない。だから8年だって履けるのだ。

 今年の春、買ったばかりのスリッパを体育館から出る時になくなって(なくなることはないので、誰かがどうかしたのだが)、靴にした。滑りにくい、殺菌、消臭など11の機能がついている靴。それを使っていたが、夏、暑くなって、サンリブで700円のスリッパを買った。中国製。しかし、良くない。それでゲルマニウム入りのスリッパを買った。これは足元がしっかりしてて、断然違う。秋になって、靴をまた使い始めたが、スリッパと靴で10年は使える。しかし、あと6年で定年。

 何かの集まりで帰る時、入り口の沢山の履物。足を入れた瞬間、時にジトッとしていたりして、足を入れた瞬間、自分のものではないとわかる。足の記憶。

 昔ラグビー部の生徒を食事に招いた時、玄関の靴が異様にくたびれていた。

 何故か足元が気になるのだ。

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8年目の靴

 8年前、北海道への修学旅行の祭に買った靴をまだはいている。最近は外見がくたびれたので、犬との散歩用にのみ使っているが、足に馴染んでいるので、一番使いやすい。

 その靴をはいて、まだ暗い中、犬と2キロほど歩く。ただ歩くだけではもったいないので、軽い運動をしながら歩く。さすがに長袖でないといけない季節。返ると、犬と猫に食事を与え、シャワーを浴びる。

 犬との散歩を生活に入れる。そのためには生活全般を考えないといけない。強引に押し込むと他に影響があるからだ。

 朝の散歩は気持ちがいい。次第に明るくなる空は変化に満ちて美しい。季節の移ろいを全身で感じ取ることができる。夕方、くたびれた時よりは遙かにいい。お試しあれ。

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ヒューライツフォーラムに行って

 3ついいことがあった。

 一つは、途中清川村の豆腐屋で食事をしたこと。880円のおまかせ御膳に150円の豆乳というリッチな昼食。これがおいしかった。ご飯以外に13の皿や小鉢。エサではなく、食事。時々豆腐やアゲを買う好きな店。食事も良い。

 二つ目は、県下から教育関係者が集まり、視線の方向には知っている人が多く、そういう人と話せたこと。

 三つ目は、講演。森山資典さんの話が良かった。涙が出た。勿論悲しみのそれでもないし、感動のそれでもない。いい人、いいエピソードが嬉しかったと言えばいいだろうか。ぼくは整体を受けたことはないが、精神、心が整えられる感触が嬉しかったのだ。その講演の後、知り合いのスタッフと話したが、人権の講演だから、根っこには人間、人間を想う精神と姿勢がある。これは芝居と通じる。芝居の基本も人間なんだな。森山さんの話の後の茅野さんの『冬の銀河』はパスした。森山さんの話を聞いた色々な考え、想いを交換する時間を設ける方がよいと思った。

 色づく高原の景色を見て目、そして昼食で舌、森山さんの話で耳、心が満たされた一日だった。

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茶会、終わる

 2時間15分の茶会だったが、どうにか終わった。18人の部員が浴衣を着ているのは、お茶を飲む舌の歓びに加えて、目の歓びにもなった、と、思う。3年は今日で引退。残りは1年。3役を投票で決めた。

 これでほぼ茶道部の流れを理解したように思う。これからは、仕掛けていく。現在考えているのは「四季の茶会」。春夏秋冬に向き合いながら、季節を取り入れながらの茶会。とりあえず、12月に、引退した3年の保護者や担任等に感謝する茶会。これからはぼくも作法を学び、来年の茶会ではお手前を披露できればいいナ。

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実は、今年茶道部の顧問なんです

 茶道部の顧問を簡単に引き受けた。重たいものといえば鉄の釜くらい。大きな動きはない。そう考えていた。ところが違う。

 茶会ってのは、裏はバタバタだ。コンパルホールでの茶会の会議に出たが、普通は顧問は出ないみたいで、全てはお茶の先生達で協議するみたいだ。もう一つ。ぼくのような無作法者が顧問をできるのは、茶道の先生が教えてくれるからだ。お茶の先生方はぼくのような者に丁寧に接してくれる。ただ、お茶会というイベントの運営については過去のデータとかを考えずに、最初からする。ちょっと意見を挟むと、「学校の先生は慣れていらっしゃるから」とやんわり。反論ではないし、はぐらかされたというのでもない。茶席は、なんやかんやは関係なく、一服の茶を楽しむ時間と空間なんだな。これは面白い。貴重なシステムかもしれない。

 で、明日は学校の文化祭での茶会。準備や水の用意やら、甘くない。未経験のワンダーランド。

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『ノッティングヒルの恋人』と神田うのの結婚

 『ゴースト』を授業でやって、主人公が死ぬところまで読んで、映画をみせた。一度観てしまうと、どうかな、と、思い。作品を変えることにした。それで『ノッティングヒル』。

 以前観て、面白かった。ジュリア・ロバーツを持ち上げるような映画だけれど、持ち上げてもいいように思う。

 入試に英語が関係ない三年生対象。恋だの愛だのを考えるにはいいかと思った。脚本はインターネットで手に入る。

 昔、キャンディーズは「普通の女の子に戻りたい」と解散した。普通の女の子の幸せを求めたのだろう(じゃあ、それまで異常な女の子だったのか?)。ジュリア・ロバーツ演じるアナは大女優。その大女優が普通の男との普通な生活を選ぶのだが、そこが現実的ではないにしろ、いやだからこそ受けたのではないか。『ローマの休日』のアン王女と新聞記者との恋は結実しないことは見えていた。二人にも、観客にもわかっていた。ただ、そこを変えようととはしなかった。そこを変えようとしたのが『ノッティングヒル』だったのかもしれない。

 『ノッティングヒル』にはオトナの恋愛へのヒントがあるように思う。それについて考えることは、卒業前の生徒にはいいかもしれない。

 そんなことを考えている時に、神田うのの結婚報道。結婚しても遊ぶ、家事はしないと言い放つ。ちょっと違うんじゃないか。アナの結婚は夢を与える部分がある。アナとほぼ同じ歳のうのの結婚は、単なるイベントでしかなかった。バカバカしいほどのショーでしかなかった。

 

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『ゴースト』を観る

 もう何回目になるか。でも、新しい発見もあって、楽しめた。

 カールがウイリー・ロペスの部屋に行き、サムは黒幕が親友のカールだと知る。カールが車に乗って去る時、サムはカールに怒鳴る。その時電車が走る。この一場面も結構考えているんだナと思う。

 映画はどんどん出てくる。新しいものだけを追うより、以前観たものをもう一度ってのも、結構いいと思う。それは本も同じだな。

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無人島に持っていく一冊

 もし無人島に行くとして、一冊だけ本を持っていくとしたら、何にしますか。

 懐かしい質問。世界中では、多分聖書だろうな。日本では、読めない。井上ひさしは自分の書き込みをした『広辞苑』とかどこかで書いていた。

 ぼくは多分ポール・ヴァレリーの『文学論』ではないかと思う。毎朝自分のノートに書き続けたというヴァレリーの文を集めたもの。文庫で小指の幅ほどもない。

 熊本の人吉でお母さんを読者に北御門二郎はトルストイを訳した。騒音に乱されることのない晴耕雨読の生活。私が私であることができる生活。そういう生き方だってある。自分にあった時間、空間。そこに行き着くこと、それが「終の棲家」か。

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『朗読者』を読む

 7、8年前に買って、途中でやめてた小説。何故、以前、最後まで行かなかったのかはわからない。それが本の隙間から見つかった。そろそろ読んでもいい頃じゃない?とでも言いたげな感じ。一気に読んだ。

 甘くて、切なくて、悲しい。そして、奇妙な言い方だが、貴重な小説だと思う。作者の志が明確で、わかりやすく、丁寧に書いている。作者と作品の幸せな融合。

 7年ほど前の日本語版。映画化されると書いてある。映画を観たい。

 小説は演劇より映画に遙かに近い、と、思った。読みながら、舞台に、と、思ったが、できない。

 読んで損はない作品だと思う。

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秋らしくなった

 昨日は小学校の運動会。小学生は動きもキビキビしていて、気持ちがいい。年齢が上がるにつれて、それがなくなる。生きるに連れて一所懸命がなくなるのだろうか。手を抜くことだけ上手になっていくのか。

 その数日前、NHKの「中学生日記」でほどほどにを信条とする中学生のドラマがあった。人気投票でトップもダメだし、最下位もマズイという考えの中学生。この始まりは、もしかした『木枯らし紋次郎』の「あっしには関わりのねえこって」かな。文科省はアホみたいに小学生の英語授業を進めているが、外国人とのコミュニケーションよりは、まず家族や友達だろう。文科省って、簡単に自分達の仕事が見えることしかたらないみたいで、そういう考えの人間が学校や教育をいじるな!と言いたい。それに素直に従う県教委も生き方の流儀のない人間の集まりとしか思えない。

 秋。夜の充実は読書しかない。

 

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