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『追憶』を観る

 授業で歌を使い、それが The Way We Were 。その歌の解説に映画を出したけれど、自信がなく、借りて、観た。

 それぞれが生き方を持っていて、それが折り合わない部分があり、結局は別れて、・・・。

 新しい映画だけを追い求めるのもいいが、以前に観たものをもう一度観ることで、確かめられることは多い。 ヒロインを演じた女性は歌が上手い。彼女より上手い歌手がいるだろうかと思う。『ハロー・ドリー』のようなミュージカルならいいが、相手役が「きれいだ」という時の抵抗。きれいじゃない。でも、こういう映画をつくるハリウッドって、いいかも。魔術学校のクズみたいな映画よりははるかにいい。

 映画は今が全てではない。過去の作品の方がいいことが多い。

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テネシー・ウイリアムズ『バーサよりよろしく』を読む

 前回、ウイリアムズの作品について、「自己弁護」という言葉を使ったが、適切ではない。彼は作品に自分を色濃く投影しているが、自己弁護よりはもっと苦しいもので、弁護なんて要素はない。

 この作品のバーサは身体を壊した娼婦。身体を壊していなくても、もう客は取れない。現実を現実として受け容れることができない人間。そいう人物が、ウイリアムズの作品には多い。

 彼の自伝を読むとよくわかる。ただ、彼の生活と彼の作品は、ぼく達にとっては別物。ジョン・ヒューストンが自伝の中で撮影中の書き直しに「天才」という言葉を使っていたと思うが、テネシー・ウイリアムズは脚本という場所があったからこそ救われた部分は多かったように思う。

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『ギルバート・グレイプ』を観る

 ずいぶん前に観て、映画NO.1にしていた。それを観た。

 最初の感動ほどはないものの、やはりいい映画だと思った。脚本がいいんだろうな。無駄がない。適度の乾きを入れているので、悲しみにどっぷりということもない。俳優もいい。やはり名作。

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テネシー・ウイリアムズ『風変わりなロマンス』を読む

 表現するということは、受け手に向う作業と同時に自分の内部に向う、その二つに直面することになる。ただ、それは表現者だけの特権ではない。誰もが日常で直面していることなのではないか。

 テネシー・ウイリアムズ。弱くて、繊細で、ズルイ人間。作品で自己弁護をする以外に場所がなかった人間。

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吉永仁郎『深川暮色』を読む

 藤沢周平の小説の脚色で2部に分かれていて、一部は「時雨のあと」の意気地なし、二部は「闇の梯子」の入墨より、とある。民藝が三越劇場で上演したらしい、が、わかりやすい。藤沢周平の小説はわかりやすく面白いが、わざわざ舞台に乗せる必要があったのだろうか、と、思う。

 映画をノベライズした本があるが、これが一番下らないと思う。その逆の方がまだいい。ただ最初に触れた時の「刷り込み」みたいなのがあって、形を変えると、どうも抵抗を感じて仕方ないことが多い。

 小説を読んでみないと分からないものの、そういう経験から考えると、小説の方が面白いのではないか。藤沢周平が好きな人には、「ほう、こう来たか」という面白さはあるのかもしれない。ただ、時代劇は、ぼくらにはできない。

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マーティン・マクトナー『ロンサム・ウエスト』を読む

 史上最強のバカ兄弟。会えば罵りあい、喧嘩。喧嘩も銃やナイフを持ち出すほど。その二人に教会の人間と女が絡む。マリア像は焼かれ、破壊され、牧師だったか神父だったかは自殺し・・・。救いがない。救いがなくても、生はある。その生の何たる愚かなことか。救いは自分の中にあるのに、それを見出せない惨めな生。

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テネシー・ウイリアムズ『ロング・グッドバイ』を読む

 前回読んだ松本修の台本『アメリカ』は場面転換の時にカフカの言葉を映し出すようになっている。その中に次のような言葉があった;

「隠れ場所は無数にあるが、救いはただ一つしかない。」

『ロング・グッドバイ』も、他のテネシー・ウイリアムズの作品と同じく、ただ一つの救いを見出せない状況が描かれている。作者と重ねているようにも思える作家希望の主人公の台詞;

「おれたちは、いつもいつも、さよならを言ってるんだ・・・生きている時間の一瞬一刻に向ってね! それが人生というものさ・・・ながい、ながい、さよなら! 今日もさよなら、明日もさよなら・・・最後のさよならを言うまでは! その最後のやつってのは、世の中に対する、自分自身に対するさよならなんだ!」

 この作品に救いは見出せない。そんな作品のどこがいいのか。状況は異なるけれど、自分と重ねあわせる要素があるからだろう。心の襞を撫でるものがあるからだ。そういう作品で、これだ!を求めて、いつかそれを上演してみたい。

 ただ、その前に、つかこうへいの『熱海殺人事件』を佐伯を舞台に書き直して上演したと考えている。舞台初心者が多いので、勢いのある芝居でマラソンの距離を100メートルを走る勢いでの上演。

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松本修台本『アメリカ』を読む

 カフカ原作の小説を劇団員であれこれして、最終的に松本が一本にまとめたらしい。

 カール少年が主人公で、この少年純真というか、それ故に腹立たしいほど愚かな行動を取るのだが、船、大邸宅、戸外、ホテル、下町の怪しげな部屋、と、場面がどんどん変わる。それについていくためにカール6まで用意してある。試みとしては面白い。しかし、その慌しい転換に気持ちが途切れ途切れになってしまう。これを読むのは2回目。一回目より、面白さを感じなかった。ただ、松本修って人は好きなんだな。書いて、演出をし、訳者もする。高校演劇をやっていた頃は、審査員イチ押しの人だった。

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鈴江俊郎『完璧な冬の日』を読む

 空港建設に反対して、立ち退きをしない一軒家での男女三人の芝居。大きなうねりがそれほどある訳ではないが、作者は丁寧に書いている。反対運動と三人それぞれの生き方がしみでている。派手な照明やガンガンの音楽という舞台があってもいいが、こういう芝居が受け容れられる社会も、成熟しているのかもしれない。作者はそれぞれの人物にそっと寄り添う優しさがある。社会批判のための道具にはなっていない。一度観てみたい劇団だ。

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言葉遊び

 右か左か、悩む時はある。でも選ばないという選択もある。と、彼女は言う。

 じゃあ、悩むほどのことなのか、と、思う。選ばないことが解決ではないということがわからないんだな。選ばない人間は悩まない。選べないから悩むだけのこと。

 言葉で解決してはいけない。動きの中で感覚が解決してくる方がいい。ぼくは草取り、犬と山を歩くとかする。頭は身体の一部。思い上がるな、と、思う。知的なものより、身体の感覚の方がはるかに確かであり、強い。霞ヶ関の官僚って、だから、バカなんだ。刺されりゃ痛い。痛い感覚から世界と接することができる。

 外国語を勉強してコミュニケーションができると思っているバカが増えている。同時に日本の風土、歴史、文学について少しは勉強しろ。日常会話なんて、中学校の英語の教科書の一年程度だよ。

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テネシー・ウイリアムズ『しらみとり夫人』を読む

 上演すれば30分前後か。ただ、この作品は後の『欲望という名の電車』のエキスがある。

 テネシー・ウイリアムズは好きな作家。『ガラスの動物園』は作品とヒロインのローラが好きだ。

 この短い作品でも、存在の危うさ、切なさがヒシと伝わってくる。登場人物は三人。後半に出てくる作家は、作者本人だろうと思う。幻想の中で生きる「しらみとり夫人」に合わせて、彼は自分の名前を「チェーホフ」と名乗る。幻想にすがって生きるのは切ないのに、そんな作品蹴飛ばしても、と、思うが、そうじゃない。寄り添っている自分がいる。演劇にかぎらず、触れるということは、そういう自分に気付くことではないか、とも思う。

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三谷幸喜『コンフィダンテー絆ー』を観る

 舞台だけれど、観客を入れずに、クレーンや移動カメラを配置して録画したもの。

 ゴッホやゴーギャンなどの四人の画家のアトリエを舞台にして、そこにモデルの女が絡んで、画家達の日々を描いている。訳者は魅力的。特にゴッホとモデルの女がよかった。ただ期待した分、肩透かしをくらった感じが残る。もっと面白いと思ったのだ。モデルの女に比重を置きすぎているのだろうか。芸術と日常が中途半端なのだろうか。悪くはないのだが、魅力的な舞台にはなっていない。

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畑澤聖悟『夜の行進』を読む

 渡辺原四郎商店上演台本。作者は高校教師で、演劇部の顧問をしている。『修学旅行』で全国の頂点に立ったのは数年前で、それはプロの劇団でも上演された。ぼくは読んでもいないし、観てもいないが、評判は頗るよかった。

 ただ、この『夜の行進』は生きる切なさや孤独があるが、もどかしさが残る。設定がいいという訳でもなく、展開も、ラストも予想できる。場面が変わり、「それから5日後」というのが数回あるが、それがよくないのかもしれない。最後の場面の結婚発表から始めた方がよかったんではないかと思う。

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ニール・サイモン『おかしな二人』を読む

 訳者の酒井洋子が「台詞のボクシング」という言葉をあとがきで使っているが、正にその通り。その面白さこそ真骨頂なんだろう。しかし、『サンシャイン・ボーイズ』の方が面白い。

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芝居仲間に課題

 次の上演に向けて課題を確認して練習を終えているが、もう一つ課題を出すことにした。

 週に一本脚本を読む。

 いわゆる「アマチュア演劇」の人たちで脚本を読む人は少ないように思う。読む人は読むけれど、読まない人の方が多い。高校演劇でオリジナル脚本に走るのは、読むのが面倒だからではないかと思うことも多々あった。いつか上演したい脚本に出会うことも大切ではないか、と、今週から脚本を差し出して読んで下さい、ということにした。

 それぞれが仕事を持っているから、ぼくは「兼業劇団」と呼ぶことにしている。ぼくの理想はそれぞれが独り立ちできるくらいになれたらいいということ。もちろん、ぼくにそれだけの指導力等がある訳ではないけれど、できるだけのことはしなければ、と、思う。別に集団を立ち上げるとかがなくても、誰かが抜けたら解散ってのはあまりに切ないではないか。

 独り立ちできる人間の集まりであれば、上演する舞台がつまらないものになるわけがない。

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ニール・サイモン『サンシャイン・ボーイズ』を読む

 面白い。もしかしたら、彼の作品では一番かもしれない。まだ読んでいない作品もあるけれど。訳者の酒井洋子は劇中のコントがどうも・・・ということだが、おかしくて笑った。ニール・サイモンのこだわりが徹底していて、これ以上は書き直しができないのではないかと思う。できれば、上演したい。

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ハロルド・ピンター『灰から灰へ』を読む

 今年の4月に読んだ。男と女の二人芝居。男が女に尋問するような形で進められる。背後にあるものが何かよくわからなかったし、今回もわからない。ただ、前回よりも少しだけ明確になったような気がする。気がするだけだが、また読めばいい。ある時、きっとストンとぼくの内部に落ちるかもしれない。落ちないかもしれないが、言葉も台詞も堅固で、魅力的なのだ。繰り返し読んで、落ちなければ、それだけの作品か、ぼくの力が及ばないということなのだろう。多分後者だが。

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ジャン・アヌイ『ひばり』を読む

 蜷川幸雄演出、松たか子主演の記事を見たのは今年だったか、昨年だったか。

 ジャンヌ・ダルクの生涯を実に手際よく、面白く仕上げている。手法は『ラ・マンチャの男』に似ているが、こちらの方が先か。浅利慶太が四季で日本初演。浅利の嗅覚はすごいな。

 読んで面白く、舞台処理の興味もそそる。人間をきちんと描いていれば、昔に書かれたものでも、今にも明確に伝わるものがある。劇作家の名人芸。

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アイラ・レヴィン『ヴェロニカの部屋』を読む

 ミステリータッチでグングン引っ張っていく。レストランで若いカップルが声をかけられ、ある屋敷に連れていかれ、その屋敷に仕えていたという老いた男と女から「ヴェロニカになって、妹に一言だけ言ってくれればいい」と女は頼まれ、ヴェロニカの衣裳を着て・・・。次第に先が読めてはくるものの、好奇心が勝る。ただ、幕切れがすっぽかされた感じが残る。すっぽかすという手法は結構使われるようにも思う。しかし、グングン引っ張っておいて、オイオイ。その気にさせて、おやすみってのと同じ。でも、一応上演候補に入れておこう。

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アレクサンドル・デュマ・フィス『椿姫』を読む

 玉三郎がほぼ30年前上演した台本で、渡辺守章が翻訳し、玉三郎との話し合いの中で何度も書き直したらしい。

 ストーリーは知られているが、高級娼婦のマルグリットと純情一途な青年アルマンの悲恋(だろうな)。この台本を読む愉しみは玉三郎がここはどう演じているのかを想像することになる。そういうことを考えながら読み終わって、この芝居のヒロインをやれる女優はそうはいないのではないかということだ。叩きのめすような美しさを持つ女優、誰かいるか? 歌舞伎と云う様式化された訳者であるからこそ出来たのかもしれない。

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アーノルド・ウエスカー『結婚披露宴』を読む

 訳者木村光一の後書によればドストエフスキーの短編小説『いまわしい話』が下敷きになっているようだが、確かにいまわしい。靴製造の社長が、従業員の結婚披露宴に顔を出し、しっちゃかめっちゃかになるという話。読んでいて、イヤナ感じが募っていった。こういう風に考えて、芝居をつくる人もいるんだ、と、不思議な思いもした。ぼく達には上演できる力量はないが、上演したいとも思わない。

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『武士の一分』を観る

 授業で『ゴースト』『ノッティングヒルの恋人』を扱った。脚本を丹念に読まないといけないので、論文を書くような気持ちで読んだ。そして、確信したことは、意味のない台詞はない、ということ。当たり前だが、予想していた以上だった。

 キムタクと山田洋二の『武士の一分』はそういう後で観たので、よくわかった。

 毒見役が、貝の毒で失明する。彼と妻と先代から仕える中元。その三人の心の動きがよくわかる。派手な動きも、妻の不倫での濡れ場もない。決闘にしても。静かな流れの中で、それぞれの心の流れまでがきちんとわかる。

 山田洋二は観客を信頼している。10あるものを半分カットしてもわかってくれると考えている。わからないのは観客のせいではなく、観客の前の人たちに問題がある。

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嶽本あゆ美『オリュウノオバ物語』を読む

 中上健次『千年の愉楽』より、とある。中上作品は読んだことはないが、「より」ということは小説の脚色とは少し違うのだろうが、脚本としての仕上がりについては疑問がある。場面転換が多く、雑多な感じがある。ゴチャゴチャ感が残るのだ。どう上演したのかの興味が残るものの、縁のない作品。

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清水邦夫『ぼくらが非情の大河をくだる時』を読む

 演劇とは何か。今までかなりの議論が繰り返された。答えはない。答えは、つくる側と観る側の間にあるのだろう。だから、それを求めてつくり続ける。

 ぼくは脚本を書き、演出もし、役者をすることもある。どこかの部分で確かな手応えを求める。それは頭ではなく、皮膚感覚に近い。皮膚感覚は言葉では説明できない。だから、芝居は小説より、詩に近いと思う。

 唐十郎と清水邦夫の作品には詩がある。言葉で支えられていないからこその、強さがある。二人の作品は不滅だろう。詩は肉体感覚から生れる。肉体感覚は人間感覚と言い換えても残るものはある。詩は表層を突き破る力がある。人間のナマが舞台に現れて、観客と共有できるある感覚。それは言葉にはできない。簡単に言葉にできる表現なら、簡単にしてしまえばいい。清水邦夫の脚本は挑発する。

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沢田次郎『星空のブルースーホームレスたちの挽歌ー』を読む

 ある町の一角の公園に住むホームレスたち。これにも副題がある。やはり。

 かなりの言葉が使われているが、理屈だけが流れる。人間は言葉があるから月まで行けるが、月まで行こうとする言葉でないと無理だろう。この脚本には月まで行こうという気持ちがない。場末の居酒屋でもいいくらいの設定なのだ。ホームレスの人に失礼ではないか。切実さも、孤独も、何もない。一人を殺しても、何もない。捨てる作業がないとこうなるのではないか。作者の意見発表が多すぎる。

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福田善之『妖精たちの砦ー焼跡のピーター・パンー』を読む

 忘れていたが、オールビーの『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』には2ヶ所、脚本が2段に分かれている。つまりその部分は台詞が同時進行するということだが、平田オリザの専売特許かと思っていたら、とっくの昔にやっていた人がいた訳だ。そしてその腰巻には推薦人の言葉があり、それは平田オリザだった。

 そして福田善之。昔『真田風雲録』(だったか?)を読んだことがある。何でも伝説的な作品だったらしいが、それが生れた時代の空気を知らないとダメなのか、ぼくはわからないまま通り過ぎた。『妖精たちの砦』は戦後の混乱期が舞台。これも、また通り過ぎた。作品とは関係ないが、副題がついているだけで抵抗を感じる。サスペンスドラマとか副題が長いもんな。

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エドワード・オールビー『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』を読む

 脚本の10本も読めば面白い作品には出会うが、100本読んでもスゴイ作品に出会うことはない。オールビーのこの作品はスゴイ作品だと思う。

 30年くらい前に読んだことがあるのだが、今回読み直して圧倒された。ジョージを演じるつもりで読んだけれど、疲れ切った。この作品を演じられる俳優を尊敬する。 (ハヤカワ演劇文庫)

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坂口瑞穂『鉄砲玉』を読む

 ヤクザの抗争の中での鉄砲玉の悲哀。荒削りな作品で、ぼくには使えない言葉がポンポン出てくる。最初は抵抗を感じながらも、最後まで読み終えた。結末とそれを語る女の長い台詞は残酷で、読みながらも顔をそむけたくなるもだった。荒削りながら、徹底があり、魅力的な作品だ。ただ、ウチのような兼業劇団には意識も技術も遠いかもしれない。ただ、活きのいい台詞がポンポンと重なり、練習に使うのはいいかもしれない。

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山田太一『しまいこんでいた歌』を読む

 幕が開いてしばらくして女が出てきて、男に「好きにして」と迫る。山田太一にしては珍しいタッチだなあと思いながら読むと、ドタバタのうちに終わってしまった。不満が残るのは、作者の都合の方が優先しているのが見えたからだろうか。

 昔ある劇団が学校に来て上演をセールスした時、脚本を読ませてくださいというと、「読んでもわかりませんよ」と言われた。十分理解できなくても、何らかの手応えみたいなものは感じると思うのだが。それにしても、じゃあ、ぼく達は何を手がかりに上演劇団を選べばいいのか。少なくとも「読んでもわかりませんよ」と平気で言ってのける人がいる劇団じゃないと思う。

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ブライアン・クラーク『請願』を読む

 退役将校と余命数ヶ月の彼の妻の二人芝居。妻が新聞に核反対の広告を出したことで、退役将校が怒るところから始まる。戦争と結婚生活について、二人は対立したり、寄り添いながら語られていく。淡々としながらもガッシリしている作品で、面白い。力量に問題はあるものの、上演許可や上演料の問題は抜きにして、いつか上演できればと思う。 『『悲劇喜劇』2004年9月号)

                      

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名言、か?

 寝たより楽が世にあるか、浮世のバカが起きて働く

 母が昔口癖のように言っていた。母も浮世のバカの一人だったが、寝ることの幸せを思っていたのだろう。

 昨夜は8時に寝て、今朝は6時半に起きた。10時間ちょっと寝た。風呂にも40分入った。あくせくしてたまるか!

 仕事は休日にはしない。犬と散歩したり、メダカの動きを見たり、ぼーッとして、頭の周囲をグルグル回っている次回公演が下りてきた時に考える。それだけ。顔のない時間を送り、浮世のバカではなく芝居バカの方がいいなァとぼんやり考える。で、また、浮世のバカに逆戻りする月曜日だ。これから寝ようっと。

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新しい年の新しい手帳を買う

 今年は3年、2010まで使える手帳にした。これからの3年がぼくにとっては結構周囲の変化もあり、右往左往の悩み、苦しみや感動やがありそうな気がしているからだ。

 この時期はこれからに目を向けるにはいい時期だと思う。過去のことは皿サラリと捨てて、また明日に向けてに生きていきましょう。

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犬に悪いことは人間にも悪い

 最近寝るのが遅く、犬の朝の散歩を怠っていた。最近犬の不満がたまっているようで、元気がない。

 職場の椅子に浅く座って、後ろにもたれる、と、背もたれの上にクビがきて、そのまま休む。意識が飛んで、眠ってしまう。死んだように眠ってしまう。

 セコセコしても仕方ない。まだ暗い中、人差し指大のライトを持って夜明け前の散歩に出かける。犬は嬉しそうに歩く。立ち止まっては臭いを嗅ぎに付き合う。星空のはるか東はまだ夜明の気配すらない。

 約30分。家に帰る頃には、あれこれ吹っ飛んで、快調な気分。犬も満足だろう、と、思うことにした。まッ、お互い、なんだな。

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NOTTING HILLを読む

 三年生相手に映画で英語を勉強しよう、と、現在は『ノッティングヒルの恋人』を読んでいる。

 『ラーマの休日』に対抗しているような感じがして、イマイチの印象があったが、脚本を読むと、結構練られていて、細部がわかるほど面白くなった。

 脚本はネットで手に入る。ただ、辞書にも出ていない単語が結構あって、その辺は、カンで片付ける。授業では二人の会話でわかりやすく、なおかつ流れの中で押さえておきたいところを抜粋した部分を使っている。時には直訳して、「さあ、その内容を日本語で、字幕をつくるつもりで考えましょー」てなことをやっている。生徒は、それをして映画を観ると、かなり入り込めて、理解も深くなるようで、懸命に考えてくれる。

 これ、たまたまある研修で講師を務めたある大学の先生も授業で扱っているということ。学生にはDVDを買わせたらしい。好きな映画の脚本をネットで拾って、その映画を繰り返し観る。これは楽しく英語を勉強する一つの方法でもあり、好きな作品をより理解する方法でもある。どうです?

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アキオ先輩へ

 いつも読んでるそうで・・・新しく書いてないと怒り心頭だとか・・・、「坂の上の雲」から連絡(?)があり、早速書いています。ありがとうございます。お子さん、順調ですか? ぼくは趣味はと訊かれ「子育て」と答えました。アッパレでしょう?

 『竜馬』早く読んで下さい。『雲』と、先輩が読んだら、「竜馬会」を作ろうかとさえ話しています。人生の指針になる人物が生きてる人間にはいなくて、これこそ、時代の問題だろうナと思います。龍馬は憧れるだけのものがある。早く読めよ!

 うちの文芸部に入りなさい。ナポリから練習に来いとは言わないから。どや?

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私流脚本の書き方(5)

 芝居を考える。考え始めると、ふと思うことがある。それを書き留める。とにかくメモを取る。戯曲賞に名前を残す作家は後輩にメモを取れと言ったらしいが、本人はしなかったらしい。メモは、準備体操みたいなもので、準備体操ができている人間には必要ないのかもしれない。

 ボイスレコーダをメモのために買ったが、やはりメモがいい。その時、関係ないと思わず、思いついたことはメモする。トイレにも、枕のそばにも持ち歩く。その持ち歩くことが、考えさせることにもなる。

 役者もスタッフも、表現者。表現者はどれだけこだわるかではないだろうか。極端なことを言えば24時間芝居を考える姿勢。そして、それが仲間と共有できること。それが芝居の細部を支えていくことにもなる。

 メンバーの一人として、ノートを持ち歩く。

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風の『ハムレット』を観る

 風の『ハムレット』を鶴城高校で観た。『マクベス』のほぼ2倍の長さで、T.S.エリオットは失敗作と烙印した。その作品が、きれいに刈り込まれ、一つの形として立ち上がった。見事だった。

 ぼくは卒論で『ハムレット』を扱った。その際に、幾つかの論文を読んだけれど、それに惑わされていたことを数十年後に風の舞台を観て気がついた。ある論文はちょっとしか出ないフォーティンブラスについてかなり力点を置いていた。ある作家はちょっとだけしか出ない二人の若者で芝居を書いた。ヤン・コットは「『ハムレット』はスポンジのように時代を吸い込む」と書いて、ぼくはそれに引き込まれた。

 シェイクスピアを専門にする主任教授の家に図々しく、大学演劇部の『夏の夜の夢』のチケットを売りにいったら、「座れ」と言われ、「向こうの演出家は研究者の意見を求める」云々と2時間ほど説教された。ぼくがただ一人だけ先生と呼べる人だが、研究者の論文では芝居は変わらないことがわかった。当たり前だが、現場でしか変わらない。シェイクスピアの作品を現場の感触で「こうだ!」を見つけて、初めて上演の価値が出る。研究者より遅かったら、現場の意味はない。

 風の上演は『ハムレット』がこういう芝居だったのかを教えてくれた。もちろん、それは一つの解釈でしかないのだろうが、面白く、刺激的な解釈だった。チャンスがあれば、是非!

 シェイクピアの作品の多くには元ネタがある。ぼくも彼の作品の一つくらいやってみようかと思う。この秋と冬に全部読み返してみようかと思う。

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ゴミ出し日の憂鬱

 週2回ゴミを出すのはぼくの仕事。ぼくの部屋のゴミ袋を持って台所以外のゴミをかき集める。台所は娘達の母親がまとめる。時にその袋が重すぎたり、ちょっとした破れ目から水分が出ていることもある。そういう時はもう一枚の袋に重ねて入れる。車に乗せてその水分が染み付いたら、臭いが抜けるのに時間がかかる。

 ゴミ収集場は、日によって量も臭いも異なる。

 今朝、指定の袋とは違う透明の袋で、口をきちんとしめていなかったものがあった。中はファーストフードの容器や包み紙。家から出すゴミにそういうものばかりというのは、家できちんと作っていないということであり、生活状態がよろしくないことを示しているような気がした。それにしても無責任でだらしない。そういう人間が界隈にいることに不安を覚えた。 

 ゴミは人間の末端だ。「人間の本質は末端に現れる」という開高の言葉を思い出す。どうでもいいところだからこそ、きちんとすべきだろう。

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