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出会った言葉(4)

観客というのは謎である。観客の反応を分析する目的で、これまで幾度か心拍数や体温の計測を含めたさまざまな科学的実験が行われた。いずれの実験も、なぜ観客がひとつの心と体を持つように反応するのかその理由を解明するには至らなかった。映画に注意が集中し、内容に共感を覚え、そのリズムと気持ちが一体になりだすと、観客は、集団として、一観客の能力をこえた受容力と感受性を発揮するようになる。ひとたびこのような状態に入ると、観客はこのうえなく微妙なユーモアすら理解し、それに反応する。あたかも一個の集合的感性がスクリーンを前にして誕生したかのようになるのである。同様に、映画に反撥をおぼえると、観客全体が一枚の岩盤のようになることがある。ビクともしない障壁を自分たちのまわりにめぐらしてしまい、映画の語りかけにまるで耳を貸さなくなるのだ。ジョン・ヒューストン『王になろうとした男』(宮本高晴訳 清流出版)

 ぼくが大学で演劇を始めた頃は観客論が盛んだったような記憶がある。最近は余りないようだが、表現は受け手を抜きにしては成立しない。脚本着手の前に、肝に銘じて。

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読書シリトリ

 英米は前書き、日本ではあとがきという形になっている。本を開くと、そういう風になっている。だから、英米の作品の翻訳を読むと、前書きとあとがきがある。日本の方が正解だと思う。読む前に書くな、ウザイ! ただ、どっちにしろ、それを読んでいる人がどれくらいいるのか、と、思う。

 ぼくは前書きも、あとがきも、どっちも読む。すると、その中、作品の中はもちろんだけれど、ナントカいう作家のカントカというのが出ていたりする。その本を注文する。これはエンドレスになる。ただ、注意しないといけないのは、その値段を確認することだ。20年前、スペインの詩人の名前に出会い「彼の作品を」と本屋に電話したら、箱入りに2冊本で、18000円。打ちのめされた。

 ぼくは本であっちこっち行くことができた。学生時代、川端康成の『古都』を読んだのが始まりかもしれない。『古都』の主人公は京都言葉だと思う。それから、本で海外にも行った。

 一冊の文庫本で世界が広がる。これだ!と思う本に出会う幸せ。安上がりな人間だと思う。今でも、大切にしているのは厚さ1センチにも満たない文庫分本。この一冊があれば、生きていける。

 最近はそれをやめた。際限がないし、生活苦もある。

 そこで、読みなおし。これも面白い。ただ、新聞の書評での『ロリータ、ロリター、ロリータ』が気になって、注文した。そして、彼の翻訳の『ロリータ』と短編集も注文した。

 『ロリータ』は最初発禁された。ロリータ趣味とかの発信源。だからぼくは読んだ。美しい小説という印象が残った。今読んでどうなのか。新しい翻訳で読めば変わるのか。

 以前ここで『チャタレイ夫人の恋人』を称賛した。それを読んでいるとことを知ったある人は「ああ、あのイヤラシイ・・・」と言った。読んだことがあるのかな。

 イヤラシイから読むのは、健康的なことだと思う。でも想像したほどイヤラシクない。そこで何かを、考える何かの材料を得て、次のステップになる。成長の過程ってのはそんなもんだと思うが。

 好奇心。それはストップすることはない。できるだけいいものに向いた方がいい。「いいもの」を見極める力こそ、読書力の結果ではないか。ぼくは、後10年くらいで近づけるかもしれない。『ロリータ』で長くなりました

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正しい大掃除の仕方

 たいていの家庭では大掃除でしょうね。ぼくも数か所りました。10日ほど前に、マイゴム手袋やカビハイターを買い、少しずつやっていました。今日はそのブロック丸ごとですから、たとえば、風呂場では天井のカビにシュート!しかし、時間をおいて入った時にポタリと頭にカビキラーが。薄くなりつつある頭髪のピンチに、ぼくはその部分を入念に洗いました。2階のトイレも便器を抱くようにして、後ろも拭きました。

 そういう掃除って座ったり立ったりの連続で、ついに恐れている事態が。腰にきたのです。17年前、若い高校生と一緒に練習している際のぎっくり腰みたいなもの。

 結局、日ごろから掃除をまめにすること。そして、大掃除は一日でやろうとせずに、計画的にやること。そして、これが肝心なのだが、完璧にやろうとしないこと。ほどほどでいいのだ。大掃除は住居と同時に自分自身の心の整理みたいな機能もあるように思う。たとえ途中でも「今年はこれくらいにしておいてやるか」でいいのだ。無理してはいけない。そんな、中途半端な、と、怒る人がいるかもしれないだから、計画性が要る。メインはとにかくやってしまえば問題はないのだ。

 それと、こういう時になって思うのだが、買うべきものとそうでないものをよく考えた方がいい。今までは消費することが褒めそやされていたが、これからはできるだけ消費しないことだ。必要なものと無駄なもの線引きができるようにならないといけない。

 自分の部屋を眺めて、そう思う。

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市報補足ー文芸部

 ぼくは現在次の公演の脚本を考えています。佐伯発の芝居の基本はオリジナル脚本。ただ、毎回はよくないと考えています。傾向があり、同じ味になってしまうのは避けたい。そしてぼくが書けなくなる時もいずれは来るでしょう。だからこそ、文芸部、つまり脚本を書く人間が何人か欲しい。

 この文芸部はインターネットを利用します。つまり、文芸部員にメールで脚本を送り、意見・感想を返し、また書き直して、また送って、という方法がとれます。これを使わない手はない。世界中どこからでも可能ですから。

 文芸部員に参加を希望する方は下記にメールを;

  swing-by@cts-net.ne.jp

 もしかすると迷惑メールということで自動的に削除されるかもしれませんが、その時はコメントに書き込んで下さい。

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市報補足ー練習について

 現在は週一回です。ぼく達は「兼業」です。アマチュアとすると、プロでないことを明確にして、甘え、取組への手抜きが出るような気がして、だから「兼業」という言い方をします。ぼくの家は兼業農家でしたが、仕事をしながら、朝早く田んぼに行って、とか、休みの日には草取りや刈り入れを見てました。だから、兼業って、どちらにも一所懸命という考えです。でも、兼業だから、仕事の方で残業とか色々あります。だから、練習(かつて佐伯にあった劇団「トップ・クオーク」の加嶋氏は練習じゃなく、稽古だ!と何度も注意されましたが)で全員が揃うのはまずないのです。

 それで練習以外で何をすればいいか。基本の一つは声を出すことですが、それは「ご飯ですよ」という声を出す時に、自覚して声を出すようにしたり、とかでもいいと思います。ただ、それでは芝居に接することができないので、最近は宿題として、脚本を渡しています。来週までに読んで下さい、と。一年に40本を読めば、次第に芝居の何かがなんとなくわかると思うのです。高校演劇の顧問をしている時にこれをしていればと後悔しています。芝居に向かう原点は脚本ですから、多種多様な脚本に触れる方がいいと思うのです。先週は、井上ひさしの脚本でした。

 鶴岡高校に勤務していた頃、森林ボランティアに参加しました。ぼくは欅を植えました。係りの人にその欅が「一人前になるのにどれくらいかかります」と訊いたら、「200年。できれば250年」という答えに、ぼくは長い物差しをもらいました。明日や来週、来月、来年でもなく、250年後。焦っていい加減に生きるより、かたつむりのような歩みでも着実の方がいいとぼくは考えています。

 ぼくはあと10年はしたいと考えています。最後は、シェイクスピアの作品の翻案・脚色をした舞台に立ちたいというのが夢です。シェイクスピアはその名人でしたから。

 ともかく、自覚と責任で成り立つのが「兼業」芝居集団ではないかと思います。だって、佐伯発の芝居をつくるんですから。

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グレゴリー・マーフィー『伯爵夫人』を読む

 イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンとその妻の離婚に至るまでを描いている。ラスキンはラファエロ前派の画家達を高く評価したようだが、その中の画家の一人ミリィが夫人を「伯爵夫人」と呼び、二人は後に結婚する。

 芝居が始まって、三人で旅行に行く。そこだけで描いた方がよかった。ラスキンの両親とか邪魔だ。ラストも良くない。ラスキンの父親はワインで儲かった人だから、その家のセットも大変だろうと思うのだ。その大変さに見合うだけの内容があるかというと、内容はないよう、で・・・。

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コメントお礼

 《いよ》]さん、ぼくは白髪になる前にふと考えたのは、彼らは部隊は経験したけれど、えんげきは経験したのだろうかということです。たぶん、舞台に乗せ時に問われているのは「あなたの考える演劇って何?」なんでしょう。ぼくは縁起にしろ、音響、照明、衣装、美術、小道具の麺棒に至るまで、「私はこうしたい」がないものは意味がないと考えます。

 《ミウラ》さん、も、あれ、上演した経験がありますよね。作者にお子さんがs生まれ、お父さんが亡くなった時の作品だと聞いています。そういうところから生まれたんだと思います。ぼくはあれで、腰を痛めました。

 コメントありがとうございました。

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土田英生『衛兵たち、西高東低の鼻を嘆く』を読む

 面白い。小説でも映画でもコミックでも表現できない世界と時間。最初はアホな芝居かと思って、その軽さを楽しんでいたが、後半は意味深になり、もっと面白くなった。こういう芝居はやってみたい。男5人というのもいい。傑作。

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ロナルド・ハーウッド『どちらの側に立つか』を読む

 フルトヴェングラーという名前だけは知っている伝説の指揮者。第二次世界大戦が終わって、彼はナチスに協力したとかで「戦犯」の一人として扱われたようだ。この作品はマエストロを訊問する内容。訊問する責任者が、保険会社で支払いの際の調査担当者という設定がこの作品を面白くしているのかもしれない。ただ、政治と芸術の関係になると、どうしても主張する言葉が多くなってくる。

 裁判劇、法廷劇になるのだろう。しかし、読みながら思ったのだが、フルトヴェングラーが助けた人達との芝居にした方が良かったのではないか。作品に出てくるピアニストの妻とのエピソード。彼らとの場面を描く方が、個人が浮かび上がり、その個人と大きな問題とを描く手法の方がいいような気がする。

 何かを描く時には、全部を取ると、作品は意志を失う。この作品が取ったものより、捨てたものの方に強い好奇心を持った。とすれば、失敗作か。ただ、読み物としては面白い。フルトヴェングラーについて、ちょっとだけ調べたもんな。

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市報補足ー演じるということ

 昔から芝居を観た後の「褒め言葉」の一つに「役になりきっている」というのがあります。ただぼくは「役になりきる」という感覚がわかりません。学生時代に演劇を始めた頃から、なりきることができない自分に首をかしげていました。ダメなんだろうか。そんな時、女優吉田日出子がある演劇雑誌で「舞台は私になりきれる場所」ということを言っていて、それに救われました。細部にわたって、自分でこう演じるという方針で作り上げればいいのかな、と、思ったのです。演出がいるから、そこでダメが出れば、また考えればいい。ただ、他の誰とも違うものにしなくては意味がない。だから、ぼくの基本は「置き換えのきかない私」です。

 指定された台詞と動きをきちんとこなせば演技になるかというとそうじゃない。舞台に立つ他の役者と作り上げるものだから、そこがちぐはぐになると芝居が破たんしてしまう。演技の基本は相手の台詞を聴き、動きを見ることだと思います。そこで自分の動きと台詞が生まれる。観客の目の前で生まれるのが演技。これはよく見て、よく聞けば解決できると思います。でも、難しい。自分の台詞を間違わずに言えるかに懸命で目も耳も生きていないのです。だから練習しないといけないんです。

 練習の過程でビンビンに感じるのは自分自身です。理解力のなさ、技術のなさ、とにかく色々なことに直面する。吉田日出子の言葉の意味がわかるのです。舞台は「私になりきる場所」。自分のいろんな面に直面して、そこから逃げないことが大切なんでしょう。他人に手を抜いてもいいけれど、自分自身のことなので、手は抜けない。精一杯やるしかないのです。虚構の中で生きている私自身を如実に感じる。現実だったら、押しつぶされてしまうでしょう。芝居の魅力でしょう。

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矢代静一『笑劇 情けは人のためならず』を読む

 矢代静一が亡くなって、遺族が整理していたら、未発表の脚本が見つかった。「ラストにもう少し」というメモがあったらしい。その原稿に編集者がタイトルを付けた。道理で。センスがない。矢代が付けるタイトルか?と、違和感を感じたものだ。だから読まないままだった。

 矢代の作品では『北斎漫画』が一番好きだ。大学の後輩が上演した。その舞台で北斎を演じた男は現在プロになっている。

 この脚本は落語が元になっている。ある御店(おたな)の若旦那が放蕩をやめて、真面目に仕事に取り組もうとした矢先、占い師から近々死ぬと言われ、財産をどんどん上げて、無一文いなるが・・・というもの。似たような作品に井上ひさしの『太鼓どんどん』(表記には自信がない)があるが、ひさしの作品に比べれば、呆気ない。ひさしの遊び感覚も矢代にはない。

 ただ、こういう手もあるのことを教えてくれたのは有難い。

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鐘下辰男脚本『藪の中』を読む

 芥川龍之介の小説を脚色したもの。一人の武士の死をめぐっての謎解きという形だが、ウーム、死んだ人間が出てきて真相を喋るというのは・・・。登場人物もあれでいいのか・・・。ただ、鐘下辰男は好きな劇作家。読んでて面白い。

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市報補足ー名前と方針

 市報を読んで、このページを開いていただいた方、ありとうございます。市報の取材は2時間以上にも及び、その間費やされた言葉はかなりあり、担当の方も苦慮されたことと思います。風呂の水を丸ごとバケツに入れるのは不可能なことで、そのためには捨てるしかありませんから。

 まず、グループの名前について説明しておきます。ぼくが鶴岡高校に赴任した夏、NHKで惑星探査衛星ボイジャーの番組をたまたま観ました。こういうたまたまに出くわすと、何て運がいいんだと思うぼくですが、運をそういうところに使うから宝クジが当たらないんでしょう。それはともかく、ボイジャーが限られたエネルギーで今なお太陽系の果てに向かって飛んでいるのがSWING-BY理論だそうで、その説明の番組でした。惑星の運航を計算して、惑星の引力を利用して航行するのだそうです。これは面白い。これはいい、と、思いました。鶴岡高校の演劇部にその名前をつけました。劇団名です。ジャージを買って、背中にその文字を入れましたが、せだけだと寂しいので、下に「SAIKI TSURUOKA THEATRE-NAUT」という文字を入れました。宇宙飛行士のASTRONAUTの星、天体を表すASTROの代わりに劇場の意味のTHEATREを入れたのです。劇場航海士。舞台を踏む毎に勢いがついていくという気持ちからでした。

 鶴岡高校を離れ、演劇部がなくなったので、その名前を引き継ぐことにしました。弱小ながら鶴岡の生徒は頑張りました。12年間で一人芝居を4本、二人芝居を2本、そんな状態ながら、最後の年は九州大会まで行くことができました。彼らの頑張り、そしてぼくが12年間で莫大なことを学んだこともあり、廃部とともに消えてしまうことに抵抗があったのです。

 劇団という言葉ではなく、企画という言葉を付けたのは、面白いことなら何でもやろうという思いがあったからです。代表の鶴原は時々ライブもやってますが、そういうのもありだろうし、また舞台美術で手伝ってくれた人が個展をやれば応援したい。また、他の演劇集団を呼んでの公演もあるだろうし、という考えです演劇以外のことが、ぼく達が舞台を作る上での栄養になると思うのです。

 基本方針は佐伯発の芝居。東京で上演された舞台のコピーではなく、オリジナル脚本。もちろん、全てオリジナルではなく、時には東京で上演あれた芝居をすることもあるかもしれません。人数が揃い、力量がつけば、古典にも挑みたいと考えています。しかし、その脚本を翻案・脚色して上演したいのです。佐伯のぼく達がやるからこその芝居は、他の何処でも観ることはできない。そういう舞台を作りたい。

 旗揚げの『ずれていく人達』は和楽の大講堂で舞台を中央にして四方を客席にしました。ステージを使っていたらダメだったと思います。

 次回は初夏辺りの公演を考えています。作品は鶴岡高校が九州大会に行った脚本をオトナバージョンに書き換えたものを予定しています。

 少しでも興味を覚えたら、是非一緒にやりましょう。佐伯の寿司は世界一ですが、演劇で、少なくとも、佐伯市サイズ、つまり九州一を目指したい。ハムレットの言葉; 肝心なのは思い切りだよ!

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清水邦夫『楽屋』を読む

 廃刊となった『新劇』1997年8月号に掲載。早川書房の演劇文庫の清水邦夫Ⅰにも収められている。演劇の言葉を持つ数少ない劇作家の一人。濃密な空気をつくり、独特な抒情が流れる。

 「まるで冬の底冷えみたいな意地悪さだった」 「あんまりジロジロ見ないで、博物館になったような気分」 そういう台詞が可笑しく、印象に残った。

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平田オリザ『隣にいても一人』を読む

 離婚しようとしているそれぞれの弟と妹がある朝結婚していたという設定で軽妙な台詞で進行する。ある朝気がついたらベッドをともにしていたというのではない。そういうことなしに結婚していたというもの。

 カフカの『変身』めいた話だが、その感覚、わかるようなする。ぼくだって、結婚して、目の前で女の人が食事をしていることを不思議に思ったもんな。何故、この女は目の前で食べているんだろう。

 作品の中でその謎が解明さることがないまま、二人は婚姻届を出そうとする。ただ、二人の兄と姉をからませる中でわざわざ言葉にするよりは、ある感触を伴って理解できるような感じがした。

 面白いが上演する気にはなれない。

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出会った言葉(3)

ぼくに子どもが生まれました。とても不思議な気持ちです。毎日仕事が終わってから大急ぎで家に帰ります。玄関のドアを開けるとミルクの匂いが迎えてくれます。そっと、眠っている子どものそばに這っていき、起こさないように顔を近づけます。やわらかい頬にミルクの匂い。ぼくは幸せな気分になります。明日もがんばろうと思います。子どもの名前は飛雄馬。女の子です。健康に育ってさえくれれば言うことはありません。母さん、ありがとう。ぼくは幸せものです。神様、ありがとう。すてきな宝物を本当にありがとう。安部雅浩『狼になりたい』

 高校演劇から生まれた脚本。それをぼく達の上演に向けて書き直してもらった。引用した台詞は幕が下りる頃のもので、ぼくはその台詞を言いだすと泣けてきた。練習の時も本番でも同じだった。心をつついて仕方なかった。作者には他にも多くのいい作品がある。言葉を支える思いがある。表現は頭ではなく、心と連動していないと、ダメなのだ。

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変態男の末路

 女性の下着を身につけて、それを他人の家の木や玄関に捨てていた男が、14年前の強盗殺人の犯人として逮捕された。決め手はDNAだったそうだ。何でも地球上で同じDNAはおよそ4兆分の1だそうで、科学捜査の凄さに感動すら覚える。

 それにしても、変態男。何でも近所では花を愛する人として知られていたらしい。近所に花を配っていればいいのに、バカなことをして、大きな過去が暴かれた。結局ストップがきかないということなのか。だから人を殺して、破廉恥行為で喜ぶ。

 ストップがきかない、あるいは自分をコントロールできない人間が増えているように思う。食品の偽装問題にしてもそうだ。一歩引いた方がいいかもしれない。そんなに躍起にならず、ほどほどでいいじゃないか。金や名誉のために自分を失ってどうするんだ。バブルの価値観をまたひきずっている。あれは破綻したじゃないか。そこから学ぶことをしていない。消費という狂騒はやめよう。一部の人間が太るだけで、消費の幸せは一時的なものでしかない。幸せの形をもう一回検証した方がいい。

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出会った言葉(2)

 女優がいちいち自分の表現する感情に溺れていたら、きっと自分をずたずたに引き裂いてしまうことでしょうよ。 サマセット・モーム『劇場』(瀧口直太郎訳・新潮社)

 劇作家でもあったモームは、おそらく劇場に足繁く通ったであろうし、そこでこれはいけないということを見てきただろう。よく「役になりきる」と言われるが、なりきるためには私をきちんと確保し、演技をコントロールすることが必要だろうと思う。そんなに悲嘆のオイオイは要らないと思う。むしろサラッとやった方がいいかもしれない。演技者は観客が見えていないとダメだと、ぼくは考えている。引用した言葉は、ヒロインのジュリアの言葉の一部。彼女は多くの経験を積み、トップクラスの女優という設定。ただ、引き裂かれるくらいの思いを経たからこそ言える言葉だろう。

 ぼく達は、何かをする時にもっとひたむきであっていいと思う。全身全霊で全てに挑む。だからこそ、面白さ、充実、感動もある。

 こう言うと問題だが他人のことには手抜きでもいいが、自分に手抜きになったらおしまい、と、思う。メリー・クリスマス!

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鹿が

 家の傍を幅2メーターほどの谷がある。日頃は水は流れていないが、台風の時はどんどん水かさが増し、恐ろしい勢いで流れる。台風が過ぎると、水はあっという間に減り、数センチ水で子どもは遊んだりする。

 その谷に鹿が死んでいた。市役所に電話した。休みなので・・・と口こもりながら、じゃあ連絡してどうにか対処しますという返事。24時間になるが、まだ対処の動きはない。今日も休みだからな。

 生きていれば色々なことはあるだろうが、まさか、こんな経験をするとは・・・。

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モーム『劇場』を読む

 女怖い。女優はもっと怖い。そう思った。

 サマセット・モームの肩書は小説家だけはなく、劇作家もある。劇作家が小説で女優を描くとなれば、生半可ではない。舞台で生きることのあれこれが描かれている。ヒロインはかわいいところもある。ただ、かわいいからこそ、怖いのだろう。

  面白い小説。

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凄かった連中

 演劇に対しての偏見はまだ年配の人には残っているのかもしれない。ある生徒は演劇をやめないと小遣いをあげないと言われ、新聞配達を始めた。

 その生徒は演劇同好会で、部室も練習場もない。通し稽古は生徒昇降口前でやった。大会前は夕暮れが早く。車のヘッドライトの明かりで通した。そして、通し稽古の後、明日まで課題を出して解散した後、外灯の明かりの中で練習したという。

 新聞配達も外灯下での練習も、ぼくは知らなかった。後で知ったことだった。

 強制された入部した訳ではないのに、練習をさぼったり、練習が休みだと喜ぶのが不思議でならない。そういう連中が成果を残せるはずがない。

 彼らの卒業公演はコンパルホールでやったが、学校から入場料を取ってはならないと言われ、カンパをしてもらうことにしたが、20万をこえた。そして公演。会場は満杯で、ロビーで音声だけを聞いた人もいた。彼らは本当に凄かった。ぼくは彼らの後をいていっただけかもしれない。彼らに育てられたのだろう。これからああいう時間をどれだけ経験できるk。頑張ろうっと。 

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生活に余裕がなかったのか

 3連休の初日。部屋でギターえ歌った。高い音では声が出ない。ヤバイ。声を出す練習不足だ。冬だもんな。弦を抑える左手の指先が痛い。ヤバイ。夏以降ギターを弾いてねえぞ。歌詞の文字が見えない。ヤバイ。老眼だぞ。

 ぼく達のグループの名前には演劇の気配はない。それは、昔高校演劇の顧問達と立ち上げた「Office せんせいしよん」と同じ発想で、芝居がメインだけれど、他のことも愉しみたい、応援したいということ。音楽ライブもしたいと思う。でも、そのためには、オリジナル曲をかなり用意しないと。

 大分に通っていた頃、車の中で歌をつくっていた。交通渋滞前に佐伯を出たので、ほぼ一時間。何日かで歌はできる。主題歌をつくって、脚本を書く。そういう方法もあるのだろう。

 主題歌をつくって脚本を書くという方法をやめたのは何故か。う~ん。通勤時間が15分になったから、かな? 多分、芝居の趣味が深まったということかもしれない。

 何故あいつは昔の歌ばかり歌うんだ、と、プロを聞いて思う。でも、言葉と曲が生まれる時があるのかもしれない。つくるのではなく、生まれるからだ。生まれない歳になったのかと思う、冬の夕暮れ。 

 

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冬の雨

 東京で働いている頃、後輩が数名来て、劇団の養成所の試験を受けた。二人が合格した。こいつらよりはと思った、が、年齢制限をこえていた。それはいい。

 その一人が関係した芝居、斎藤憐の『グレイクリスマス』。そこで初めて、雪のないクリスマスをそう呼ぶのだと知った。ぼくにとって、脚本と劇場が一番の学校だったと思う。そこには人間の全てがある。ぼくはそこで支えられている。「神力」とかいう毛筆のアホみたいなものは要らない。

 雨が降っている。地球温暖化で、ホワイトクリスマスはますます遠のくが、クリスマスはクリスマス。準備OKか?

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平田オリザ『忠臣蔵』を読む

 松の廊下で主君が切腹して、さて、どうするかという所を数人の侍に大石が加わって話し合う。それも立ち話だから、軽い。言葉も現代語で、ボーボワールの言葉をちょっと変えたものなどが出たりする。平田オリザってこういうのも書くんだ、と、楽しみながら読めた。上演しようという気にはならなかった。

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いよさん、へ

 とりあえずおめでとうございます。作品がかなり変わったようですね。ぼくの昔の作品にも毎年数校から上演許可依頼がきます。ぼくは、好きに書き換えてくださいと書きます。本当はそれをこっそり観に行きたいのですが、遠い。変わった姿を観て、ああ、こう考えるのか、ってのも面白いと思うのです。

 できれば、ぼく達の文芸部に所属して下さい。書きたい時に書けばいい。でも、誰かが書けば、それをメールに添付して送りますから、それに意見・感想を送り返さなければなりませんが。アラスカにいても、子育てしていても、できるのがぼく達の文芸部です!もちろん、出演も可能。20年間、考える期間をあげます。

 時々個人的な書き込みになります。御免!

 

 

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修学旅行私見

 修学旅行で海外に行く学校は結構多い。オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール等。ただ、何故、海外なのかわからない。ある学校の教員に聞いたら、オーストラリアでは、20万を超えるらしい。子どもの旅行に費用がかかりすぎではないか。

 長野でスキー、そして東京というコースは多い。ただ、大分にスキー場ができたのに、わざわざ?と思う。

 海外も、スキーもディズニーランドも、就職してから自分の金で行く所ではないかと思う。修学旅行の目的とは何だろうか。それを根本から考えないまま、場所だけが変わっているような気がする。

 家族であちこち思い思いの場所に行っている時代、もう修学旅行は廃止していいんじゃないかと思う。修学旅行の意義はいくつでもあげることができる。しかし、その「意義を満たすだけの成果があるだろうか。子どもは楽しむことができる。しかし、その多くは遊びと買い物が実情ではないか。それにしては、やはり、費用がかかりすぎる。ぼくは、経済的に厳しい家庭のことをどうしても考えてしまうのだ。

 そりゃあ子どもは修学旅行は学校生活のメインエベントだから、廃止には反対するだろう。しかし、そんなの関係ねえ。オトナが子どものことを考えて一番いいことを考えればいい。子どもに口出す権利を与えてはいけない。オトナの責任を自覚して決断すればいいのだ。

 ぼくが感動した旅行がある。鶴岡高校で沖縄に行った時、チビチリガマだったか、そこでガイドの説明を受けた後、彼らは神妙な顔をして手を合わせたのだ。日ごろ見ることができない面を見ることができる、そういういい点もある。だから即廃止とは言わない、が、根本から考える時期だと思う。

 

 

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今年最後の練習

 ひさしの『きらめく星座』(以前引用したもの)を読んだ。ところが誰も満足に読めない。それでいいんだろう。台詞がそんなに簡単なものではないことを認識すればいいんだ、と、括った。

 さて、本日の練習を今年最後とした。ぼくはこれから脚本に着手。

 SWING-BY、来年世間に最初に出るのは、市報です。1月1日号です。

 練習は今日まででも、このブログは続きます。んじゃ!

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鶏皮にはまる

 仕事帰り、コンビニで黒霧の200mlを2本買う。紙パックだと飲みすぎてしまうので、抑えるための最近の方法。その時、一個(小さな紙袋に4片くらい入っている)53円の鶏皮を買う鶏の皮を揚げているもの。鶏肉は好きではないが、皮は嫌いではない。それをクチャクチャ噛みながら、帰る。空き腹にその温かさは美味しく感じる。先につまみを食べる、ということだ。53円だよ。それで束の間の幸福にひたる。安上がりな男だよ。

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煎餅の硬さ表示が始まるそうで

 1~5まででその煎餅がどれくらい硬いかが来年から表示されるらしい。現在歯を治療中で、硬いのを噛んでポロッとなったら困るぼくには面白い試みに思える。ワインを選ぶ時には、甘さ・辛さの表示が最終的な判断基準になるのと同じように当たり前になるのだろうか。

 ぼくは鏡餅がカラカラに乾いた状態で、ストーブの上に置き、その小さいかけらを齧るが好きだ。最近のストーブは熱風だけが出るのが多く、ヤカンを置いて湯気が出る楽しめないから、餅も焼けない。

 ただ、この表示傾向がエスカレートして、人間にも表示されるようなったら、オレなんか要注意の表示になるかもしれないな。くわばらくわばら。

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体重2キロ減

 弥生の湯に行き、サウナで汗を流した。体重を計ると、何と2キロ減っていた。加えて、血圧も60代と130代。暴飲暴食を避けたのがよかったのかもしれない。

 消費の時代。ぼく達は、消費することでしか今を感じることができないのかもしれない。そういう生き方から卒業した方がいいかもしれない。消費の多くは乗せられていることが多い。必要なものだけを買えばいいのに、今はそれ以上のものを買ってやしないか?

 今の時代乗り遅れたって、何でもない。むしろ乗る方がバカかもしれない。乗らなくていい。自分の生き方を生きればいいのだ。原油高騰はそれを考える機会を与えてくれたと考えればのではないか。

 

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坊主の仕事

 坊主の仕事は結構大切だとは思う。しかし、彼らの多くはそれを意識していない。人間の死を見送るということは、厳粛で、料金表を出す前にすることはある筈だ。医は仁術が算術になったと言われたが、坊主が算術に染まってどうするんだ。戒名なんて何の意味があるんだ。卒塔婆に書いた字(最近はパソコンでも書けるrしい)を、書道の専門家に判断してもらったら、どうかな。パソコンで書いたものなら、下手な字なら、その卒塔婆で坊主をぶん殴ってやりたい。

 人が死ぬ。それは仕方ない。遺族の悲しみを算術して、足元を見て、高額な戒名料をふっかける。そんな坊主は要らない。経の意味もわからない。永六輔の講演で聴いたけれど、「これからあげるお経はこういう意味ですと説明しなければならない」、と。

 ぼくは意味がわからないから、声を聞くけれど、その声に熱意のかけらもない。偉くなるほど、モヤモヤになるのか。冗談じゃない。痛い死を迎えた者にとって、坊主はその悲しみの欠片も想像できないほどではないのか。

 今生きている人間と生きていない坊主が多い。想像力と感受性のない坊主はいずれ滅びる。

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祖母の墓に

 ぼくは宗教を信じていない。それを更に強めたのは祖母の死だった。寺に行くと、すぐにメニューが出され、料金の交渉。祖母の何を知っているのか不明な坊主に戒名をつけてもらう意味がわからない。名前の漢字を一字入れるくらいだ。49日だったか、坊主が来て経をあげ、祖母の霊が今この世からとてつもなく離れた世界で安寧に過ごしている、正確な言葉は忘れたが、そのようなことを言った時、お前に見えるのか、と、ますます不審感が募った。

 それはともかく、祖母の墓に参っていなかったことが、気になっていた。歩いて10分ほどのところにあるのだが、毎日のつまらないことにかまけていた。それで今朝、犬の散歩の時に、参った。散歩のついでというのも申し訳ないが、それも含めて、詫びた。犬はいつもとは違うコースなので興奮していた。彼女の名前は上の娘がポロンと名付けたが、祖母はいつもコロンちゃんと呼んでいたものだった。コンクリートの上には枯れ葉がたまり、ドングリの実が転がっていた。今度は掃除に来なくては。

 ぼくの墓参りには宗教はない。祖母への思いだけだ。

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床屋での出来事

 久しぶりに床屋に行った。髪を短くして、伸びるだけ伸ばして行く方法をここ4年ほど取っている。伸びて、寝ている間に寝ぐせがつくようになったので行った。

 ここ5年、これが行きつけになるナという床屋をみつけ、そこに行く。そこの主人の話が面白い。ぼくは話さないが、他の客の頭をあたっている時の二人の会話を楽しむ。その時、奥さんが剃刀をぼくに当てているのだが、その奥さんも楚々として、感じがいい。

 そこで、「洗顔でいいのがあるんですが、やってみますか?」と話しかけてきた、「無料です」とすぐに付け加えて。時間があったので、やってみた。泡をぬって、それをこすらずにのばすという方法だった。驚いた。しっとりした肌になった。主人はつづけて、顔の半分にスプレイした。しばらくして、顔を見ると、スプレイした方の肌が引き締まっている。してない方は、ちょっと垂れ気味のまま。主人は「不思議でしょ?私もわからないんですけど、・・・」以外の言葉、つまりセールスの言葉は一言も言わなかった。買ってみようか、と、思う冬の夕暮れ。

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出会った言葉(1)

 この宇宙には四千億もの太陽が、星があると申します。それぞれの星が平均十個の惑星を引き連れているとすると惑星の数は約四兆。その四兆の惑星のなかに、この地球のように、ほどのよい気温と豊かな水に恵まれた惑星はいくつあるでしょう。たぶんいくつもないでしょう。だからこの宇宙に地球のような水惑星があること自体が奇蹟なのです・・・。

・・・水惑星だからといってかならず生命が発生するとはかぎりません。しかし、地球にあるとき小さな生命が誕生しました。これも奇蹟です。その小さな生命が数かぎりない試練を経て人間にまで至ったのも奇蹟の連続です。そしてその人間のなかにあなたがいるというのも奇蹟です。こうして何億何兆もの奇蹟が積み重なった結果、あなたもわたしもいま、ここにこうしているのです。わたしたちがいる、いま生きているというだけでもうそれは奇蹟のなかの奇蹟なのです。こうして話をしたり、だれかと恋だの喧嘩だのをすること、それもそのひとつひとつが奇蹟なのです。人間は奇蹟そのもの。人間の一挙手一投足も奇蹟そのもの。だから人間は生きなければなりません。

井上ひさし『きらめく星座』の中の台詞。生きることに背中を押してくれる。そういう言葉が沢山ある。これから時々。

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語学学習環境の変化

 最近の語学参考書・問題集にはCDが付いているものが多い。NHKのラジオ・テレビ講座のテキストも感覚やフィーリングで説明しているものが多く、番組の時間帯が生活に合わなくても、CDを用意している。また、電子辞書の多くは英語系、国語系の辞書が全部入っているので、英単語の意味を調べて、その日本語がよくわからなければ、国語辞典ですぐに調べることができる。また、ある英語のサイトではその日のニュースを聞くことができるので、今現在のネイティブの発音に触れることができる。

 その気になれば、駅前留学しなくても、勉強はできる環境になってきた。ぼくの高校時代にこういうのがあれば・・・と悔しい。

 ただ、やる気が根気につながらないのが実情だと思う。何かを手に入れようとすれば、何かを我慢をしなければならない。ぼくは車の中ではニュース以外は、英語のCDを流しっぱなし。それでも一日30分。そのCDのテキストをトイレに置き、小でも座って、目を通す。辛くないけれど、続ける設定をすれば、いずれは効果が出ると信じている。

 年が変わるのを機会に外国語の勉強を始めるのもいいのではないでしょうか。ぼくは、一日15分の音読をしようと考えています。

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『チャタレイ夫人の恋人』

 この小説はメラーズからコンスタンスへ(チャタレイ夫人)の手紙で終わる。長い手紙だ。ただ、この手紙を書くために、それまでの600ページ近いあれこれが必要だったのではないかと思う。この手紙は生きている。現代にも痛烈なメッセージになっている。猥褻文書で裁判にした人たちのアホみたいな感受性こそ罪悪だった。

 オマケながら、メラーズにも妻がいた。この女がすごい。他人(もちろんメラーズも入る)口を通して語られるバーサ・クーツには笑う。史上最大の悪女の一人に認定しよう。

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ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』を読む

 小説の傑作。若い頃、性描写を探すような読み方をしたので、また、そういう読み方をする年齢だったのでこの小説の偉大さを理解できなかった。

 ロレンスは小説家であると同時に詩人。ただ、彼の先見性。この小説の中で書いてある通りの時代になっている。ポルノ小説ではない証拠の一つとして;

「メラーズは女のなかにはいっていきながら、誇りや威厳や人間としての純粋性をうしなわないで、やさしいふれあいにはいっていくこと、これがおれのやらねばならぬことだとさとった。」 (羽矢謙一訳)

 人間を考える時、時代を抜きにしては語れない。ロレンスは時代を見据えている。それを男と女を通して描ききっている。小説の醍醐味を久しぶりに味わうことができた。

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コミュニケーションの大切さが叫ばれている時代に

自民党の年金解決不可能に対しての言葉は、妙な言い替えで誤魔化そうとする態度には唖然、呆然、ただ愕然。言葉は額面通りに受け取るから信頼が生まれ、次につながる。ましてや公約だ。「こう言いましょう」という人がいるのかもしれないが、極めて愚か。平成の大バカ者として恥を後世に残すことになるだろう。

 一所懸命やってきましたが、見通しが甘く3月までにはできません。ごめんなさい。

 何故、素直に謝ることができないのかな? 

 その方がまだ猶予を認めることができる。多分、裏がある。年金の不正な使い方がある。この問題を徹底的に追及しないと、困るのは政治家じゃなく、国民だ。数で押し通してきた自民党。まだ、その体質でやるつもりなのか。国民を愚弄するな!

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娘の結婚相手の条件

 読書好きの若手に、カミュの『ペスト』を推薦したら、「火が点きませんでした」。それで系統を変えて『勝ちにいく身体』(だったか? これは部活動の顧問は必読だと思う)はよかったものの、開口健の『もっと遠く!』『もっと広く!』の釣り紀行はダメ。『シャドー81』を口に出したものの、ウーン。福永武彦の『草の花』ではどうだろうか。安部公房の『他人の顔』は、ぼく自身今読み返して、どうだろうか。西洋に目を向けて、古典スタンダールの『赤と黒』。あッ、ナバコフの『ロリータ』はどうか。きれいな文章だったが。

 つながりは、司馬の『竜馬がゆく』と『坂の上の雲』。『竜馬』は主人公を巡る女性が魅力的で、「どれが好き?」という話で一晩と焼酎で話せる。『坂の上』は人間の賢さと愚かさで、コーヒー10杯で一晩話せる。司馬の作品は小説というよりは、ノンフィクション。だからこそ面白い。彼の徹底取材と研究には驚くのだ。

 娘達はまだ、小学生だが、いずれ男を連れてくる。それまで生きていて、なおかつ酒が飲めて、口が動けば、彼にぼくは訊くだろうな、司馬の「竜馬」「坂の上」は読んだことがありますか。読んでませんが、『世界の中心で愛を叫ぶ』を読んで感動しました、と、返されたら、ウーム。

 アキオ先輩がダールを読んでいるそうで、ダールなら問題ないか。昨年のうちの子ども達へのサンタの贈り物はダールの本10冊だった。彼女達、何でうちだけ本なの?とがっかりしながら、全部読んで楽しみました。もっとも、それはダールが子どもだったか、孫だったかのために書いたもの。大人向けの短編は、男が、それも結婚生活をある程度重ねた男には溜飲が下がるものがあります。

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パソコンを換える

 XPからVISTAに換わって、戸惑うことが多い。一番は以前のメール。簡単に移動できればいいのだが、手間と時間をかけて移動しているうちに面倒になって、もう、いいか、となった。

 Outlook ExpressがWindowsメールなって、いいのは、迷惑メールがそのフォルダーに行き、自動的に削除できること。

 マニュアルを読まないので、あたふたしているが、パソコンに使われているようで、何とも情けない。

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栗山民也『演出家の仕事』を読む

 芝居に向かう人は必読かもしれない。演出家は芝居の全てにタッチするから、芝居の全体像がわかるし、向かい方がわかる。岩波新書。

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敗者、歯医者に行く

 歯を徹底治療したい、と、前から思っていた。しかし、思い切って飛び込んだ歯医者は、「歯と歯の間が空いているいるのは、本来あるべきところにないんだからいけない」と言って、笑った。笑った彼には前歯がなかった。それで、椅子から降りて帰った。

 歯はゆるやかに病んでいく。20年前に治療した部分のブリッジ部分が金属疲労で折れた。ちょっと不具合を感じたら、歯医者に行けばよかったのだ。歯医者に歯がなくても、そんなの関係ねえ。

 でもやっぱり、あの椅子、研磨する機械の音、いけねえ。体をこわばらせていたので、疲れた。

 今回は一挙に全てをやってしまおうと思う。皆さん、歯を大切に!

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風邪か

 体が熱っぽく、だるい。職場で「大丈夫ですか」と声をかけられたが、与太話を飛ばして、どうにか乗り切れた。

 こういう時の症状の一つが活字への意欲が失せること。脚本マラソンも、今日は休み。

 実は別件の問題も起きたのです。それは別のブログで少しずつ書いています。ただ、悩んでも仕方ないので、それを楽しみながら、書く材料を与えてくれたことに感謝しながら、長丁場を綴っていきたいと思います。

 寝ます。寝たより楽が世にあるか。浮世のバカが起きて働く。

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テネシー・ウイリアムズ『東京のホテルのバーにて』を読む

 東京のホテルが舞台。本来は英語で上演されるから、日本人バーテンダーはぎこちない英語を喋るのだろうが、翻訳のため、その辺が浮かび上がってこない。それは、ニール・サイモンの作品についても、日本語にしてしまうと失われる面白さはあるだろう。作家としての資質を持ち合わせていないと、翻訳は作品を殺すことにもなる。昔、翻訳家河野一郎が、一つの作品が違う翻訳家によって訳されたものを比べると、間違いがおおいけれど、作品としてはより伝わり、面白くなっている、というようなことを書いていた。翻訳は難しい。職人芸の世界。この作品の場合は、さて、どうすればいいのか。

 孤独な魂は、極限状態で何かを求めると狂気に近くなるのか。画家は求めたところで何かを得られる訳ではないし、得たところでそれに応えることはできない。それをわかっているけれど、求めてしまう。そして、死んでしまう。作者が自分と重ねているのだろうか。奔放な妻は、求めながらも満たされず、やはり孤独な魂に思える。

 これからも読み続けるだろうテネシー・ウイリアムズ。ひとまず、終了。

 

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テネシー・ウイリアムズ『東京のホテルのバーにて』を読む

 東京のホテルが舞台。本来は英語で上演されるから、日本人バーテンダーはぎこちない英語を喋るのだろうが、翻訳のため、その辺が浮かび上がってこない。それは、ニール・サイモンの作品についても、日本語にしてしまうと失われる面白さはあるだろう。作家としての資質を持ち合わせていないと、翻訳は作品を殺すことにもなる。昔、翻訳家河野一郎が、一つの作品が違う翻訳家によって訳されたものを比べると、間違いがおおいけれど、作品としてはより伝わり、面白くなっている、というようなことを書いていた。翻訳は難しい。職人芸の世界。この作品の場合は、さて、どうすればいいのか。

 孤独な魂は、極限状態で何かを求めると狂気に近くなるのか。画家は求めたところで何かを得られる訳ではないし、得たところでそれに応えることはできない。それをわかっているけれど、求めてしまう。そして、死んでしまう。作者が自分と重ねているのだろうか。奔放な妻は、求めながらも満たされず、やはり孤独な魂に思える。

 これからも読み続けるだろうテネシー・ウイリアムズ。ひとまず、終了。

 

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ハーモニーランドに行く

 子どもが何かで入場券が当たったとかで、久しぶりにキティに会いに行った。以前は一年に数回行っていた。最初の時、キティを見た時の娘の興奮は忘れない。そして、城島の方がいい、と、なった。今回は入場券が当たってしまったので、行ったが、次に娘達が行くのは、自分の子どもを連れてということだろう。ぼくが生きていて、足腰が確かなら、孫を連れて行くかもしれないが、可能性は少ない。

 キティのお城が狭くなっていた。あちこちで写真を撮っては販売するところが増えていた。パレード「ノア」では客の子ども達との触れ合いが増えていた。久しぶりに行ったのに、驚きがないのだ。

 ヤバクないか、ハーモニーランド。あれだけの広さと、施設があれば、もっと面白くできるのではないかと思う。欠点も問題点もわかる。本腰入れて、再生して欲しい。

 

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テネシー・ウイリアムズ『話してくれ、雨のように・・・』を読む

 タイトルがいい。タイトルだけで魅かれる。タイトルは難しいんです。

 旗揚げの脚本も時間がかかった。最初は状況だけを考えていたが、ピタリとくるものがなく、人の方に転換したら、どうにか座りのいいタイトルになった。ある脚本なんざ、最初にタイトルが浮かび、夜に半分、残りを次の日に書き上げた。タイトルが決まると、脚本世界がはっきりしているということになるのだろうか?

 話してくれ、雨のように・・・。これって、日常でも使えるかもしれない。作品は、やはり、テネシー・ウイリアムズ。

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テネシー・ウイリアムズ『財産没収』を読む

 ここにも娼婦のにおいがある。それも子どもだ。社会の末端で生きる人の息遣い。豪奢な邸宅で、贅沢三昧の生活をしている人間にも生があるが、様々なベールで覆われて、それが見えないのかもしれない。テネシー・ウイリアムズは生と直面する人たちが沢山出てくる。去っていく女の子の向こうにはどんな生があるのか。

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