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ジョン・マレル『パレードを待ちながら』を読む

 女の5人芝居。舞台はカナダ。いわゆる「銃後」を守る女たちを通して戦争を描いている。戦場を通してのものとなると、映画作品に優れたものが多いけれど、こあ女たちの戦争中の日常を通して戦争の愚劣、残酷、無意味を描いている。

 日本の防衛費がゼロになって、その費用を福祉や教育に使えば、どれだけの問題が解決することか。人間は戦争を否定しながら、戦争の準備は怠らない。海の向こうの戦争が芸能人の離婚と並べられる日本。戦争で莫大な犠牲と消えない悲しみを経験しながら、この有様だ。人間は静かに繰り始めているのかもしれない。

 脚本は上演のために書かれている。上演を観ることができれば、それが一番いい。しかし、上演は、演出と役者による解釈がある。脚本を読みながら、頭の中に舞台を描き、やがて顔を持ってくる登場人物、そういう楽しみもまた捨てがたいものがある。面白い脚本は人物が顔を持ってくる。

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第2回公演について

 『雨の街、夜の部屋’08』 6月14日(土) 弥生町民会館

 今夜、そう決定しました。国体の関係で運動会が6月に入るけれども、運動会は日曜日。どうにかなるでしょう。

 「せんせいしよん」バージョンを2週にわたって読んで、問題点を出してもらい、それを受けて、書き直しに入ります。以前使っていたペンネーム、旗揚げで使ったペンネーム、すべて捨てて、佐伯の人間として本名でこれからはやっていくことにしました。

 これまで脚本を読み続け、ぼく自身の基準を探ってきました。まだ、その作業は続くけれど、上演できる脚本だと判断しました。

 「せんせいしよん」で上演した時、ぼくは稽古が楽しかった。おそらくその時のキャストが頗るよかったから、です。あの時のキャストに比べると、ウ~ム。今回は長すぎない稽古で設定したから、化けるかも、と、期待。

 旗揚げのキャストが4人。今回は6人のキャスト。是非! 

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松本邦雄『アメリカ』を読む

 アメリカに留学中の男の部屋に、同じ日本人の男と女、韓国の男の留学生、日本人女の旅行者が絡んでの一幕一場。「お前俺達がバカだと思ってただろう。なめんなよ。バカを楽しむのと本当のバカは違うんだ」という台詞がある。ギクッ。「お前」ってオレのことか? しかし、何と言おうとバカはバカ。考える力を失った野放図な脳ミソと節操のない下半身。腹立たしくなるばかり。ゴミだ。

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岩淵達治『ブチ氏最後の8mm)を読む

 「これは私が死んだ時、8mmフィルムの箱に解説代わりにつけておくつもりです」と補遺に書いてある。「私」とは岩淵達治。ブレヒト関係で名前を知っているが、千田是也の演出助手を務めていたことを初めて知った。それでか。

 戯曲と銘打っているけれど、日本と外国のあちこちで撮りためた映像には興味深いものが多い。ベルナール・アンサンブルの『第三帝国の恐怖と悲惨』の舞台稽古。蜷川幸雄が演じた舞台。いっそのこと、岩淵達治演劇ミュージアムをつくって、日替わり映像で本人が解説するのが理想的な形に思える。独自のこだわりで演劇を駆け抜けてきた人がそこにいる。

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品川能正『夢ー歌舞伎町物語』を読む

 屋外での幕開き。そして劇場へと案内される。その後も観客は幾つかの劇場へと移動することになるようだ。こういう方法もあるか、と、その方法が一番印象的だった。

 戦前、戦後、現在を歌舞伎町を舞台に様々な人で描いた舞台。規模はデカイ。ただ、その規模の割には内容はおとなしい。ゲリラ的な上演に思えるけれど、内容は品行方正なのだ。ただ、あの歌舞伎町の歴史の一端には、そうだったのか、と、知って嬉しい一面もある。

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ブライアン・マッキャベラ『ピカソの女たち~オルガ』を読む

 読み終えて、オルガを調べた。評判が良くない。ピカソの最初の妻で、ピカソの絵になんくそつけたり、折り合いが悪くなって、財産云々でなかなか離婚に応じないで、とかとかとか。

 読み始めはピカソの陰の女だったが、最後はピカソが陰になってしまった。女の一人芝居だが、これは難しい。東京演劇集団風のブログでは現在、辻由美子が演じている最中のようだ。観たい。

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土屋理敬『栗原課長の秘密基地』を読む

 児童文学賞の表彰式が舞台。ところが佳作の受賞者がアダルトビデオの女優だとわかり、児童文学にそれはまずいんじゃないかとなり、しかし作者は女優名ではなく本名だし、作品や顔が出るわけではないので、全体写真の時に工夫すればいいということになるところが大賞受賞者に盗作疑惑が出て、と、出版社の担当者達の右往左往が展開する。

 いわゆるシチュエーション・コメディになるとは思うが、舞台が閉鎖された空間だ。そこが問題ではないかと思う。場所を出版社ではなく、ホテルにして、ホテルの人間を出すとかした方がよかないか。観客になんらかの形で関係ある場所の方がいいように思う。話の終わらせ方も安易ではないか?

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斎藤憐『世紀末のカーニバル』を読む

 ブラジルから出稼ぎに来た日系人を通して日本の変化を描いている。「この世のどこかにわしらが住む場所はきっとある」という幕を下ろす台詞が、その人たちのなめた辛酸とそれに耐え抜いてきた故の強さを感じる。

 「群馬県で今年百姓になった人は三十三人。医者になった人は六千人だそうだ。人間の健康に食い物は関係ええと思ってる」というような台詞は当たり前のことだが、当り前が当たり前になっていないから、批判になってしまう。日本の精神的貧困。それが事件となって現れている。

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国体の影響

 次年度は、小学校のい運動会が6月になるらしい。うちの学校もボクシングの会場になっている。教員の中には選手もいるし、運営にあたる人もいる。そんなこんなで運動会の日程も変わるようだ。

 大分には二順目の国体。ただ、国体の在り方も考えた方がいいと思う。開催県になることで、すべての競技に出場できて、出場すればポイントになり、だから天皇杯や皇后杯を取ることができる。加えて、結果的にスポーツへの理解と参加が増えれば、いいことだろう。しかし、現実的にそうなのだろうか。全く無縁な人の方がはるかに多い。国体やるぞ!じゃなく、すみません、協力をお願いしますという姿勢が全くない。財政困難な時に、プールのそばに会場をこさえて。今ある場所を使うべきではないのか。金のかからない国体を提案すればいいのに。そういう業者を儲けさせるための国体じゃないだろう。

 それで、もしかすると公演日程にも影響があると思う。

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唐十郎が

 今、浅見光彦シリーズのドラマに出ているではありまんか。いい顔になっています。昔は小太りのおっちゃんだったけど、いい。人間は顔をつくっていく手本みたいだ。

 熊本に白河があり、その河川敷に赤テントが立った。土手には長蛇の列。やっと入れたら、、「みんなで声を出して前に詰めましょう」の掛け声で、身動きできないくらいに詰めて。テントの向こうが開くと、向かいの川岸から飛び込んで、泳いで、舞台に上がって長靴から水をジャバッとこぼす。こんなのありか!の連続だった。

 ぼくが一番好きな演劇人は唐十郎。何だろうと、出没してほしい。 

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鐘下辰男『続・殺人狂時代』を読む

 今と違って、インターネットのなかった大学時代。情報量が少なかった。本を通して、教授や先輩との話を通してだった。ちなみにぼくは英文科で論文を英語で書かなければならなかったが、オリベッティのタイプで打つ。炬燵の上にそれを置いて、背中の後ろに布団を丸めておき、疲れたら後ろに倒れ、起きたら打つ、論文の仕上げ前は一か月ほどそんな生活だった。ミスタイプすると、結構大変だった。ワープロ、パソコンを使える今の学生がうらやましい。

 ぼくは遅れてきた読書好きなので、ああこの本を高校時代に読んでおけば、と、思ったものは多い。ただ、漱石の『吾輩は猫である』は高校生には無理。あれは「教養」がないとダメだ。そういう中、後悔した一冊に三島由紀夫の『潮騒』がある。あれから三島に興味を持ち、幾つかの作品を読み彼の生涯とかを眺めたりした。

 前置きが長くなった。三島が割腹自殺したことを、高校生の時、授業で聞いた。国語の先生で、彼はよかった。今話すことができれば話したいと思う数少ない先生だった。三島は「盾の会」を結成して、その思想の中で死んだ。ただ、彼と彼の作品に男は感じない。

 男を描ける作家はもしかしたら鐘下辰男しかいないんじゃないかと思う。『北の阿修羅は生きているか』(だったか?)を読んだ時、その骨太を感じ、唸った記憶がある。こんど読んだのも男だらけ。加えて軍隊まがい。さらに加えて、場所は地下。男臭い。そのムンムンに快感を感じたい人にはいい。でも、毒がある。

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稽古前の雑談

 稽古場は学校の教室の半分サイズ。1時間100円。冷暖房を使わなければ50円。テーブルも椅子も十分あるので、申し分ない。

 稽古は7時から。全員が揃うまで玄関のロビーのソファで雑談。宿題の脚本についての感想のやり取りが多いけれど、その他の情報のあれこれは結構貴重。気持を稽古にもっていくウオーミングアップでもある。ただ、そこは暖房がないので上着は脱げない。冷えることに警戒するぼくは、備え付けのスリッパではなく、量販店で買った靴で体温で足を温める。

 昨日のロビーでの会話の中心は井上ひさしの『藪原検校』の感想。ぼくが一番上演したい作品で、現在二人読んでいる段階だけれど、反応は上々。以前、大分の能楽堂で上演したくて話に行ったら、脚本を読ませてくれと言われ、読んでもらったら、ダメだと。会場が脚本を選ぶって信じられない。建物も道具も人間の呼吸や指紋を栄養にして生きるのではないかと思う。会場で、やりずらいスタッフは少なくない。使わせてやるという態度では、その場所、栄養不足でやせ衰えていくだけではないかな。

 

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別役実『やってきたゴドー』を読む

 ぼくが生まれた年にベケットの『ゴドーを待ちながら』は初演された。二人の男が一本の木がある場所でゴドーを待っている、途中別の二人が現れて、最後には少年が現れて、「ゴドーさんは今日はいらっしゃいません」と言って、「じゃあ行こうか」「行こう」と言って、二人は動かない。二幕もほぼ同じ。途中現れる二人が変わっているくらい。この作品は、ゴドーとは何者かという謎と同時に多くの日本の劇作家に影響を与えた。

 数年前、緒方券と串田和美の主演で舞台を観た。可笑しかった。

 この別役作品は思い切った作品だナと思った。だってゴドーが出てくるんだから。でも、ベケットの作品より、面白く、可笑しかった。昨年度の作品の中から、鶴屋南北賞を受賞したと新聞で報じられていたふが、別役と鶴屋南北という取り合わせも面白い。

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第2回上演作品について

 当初予定いた三人芝居だが、新顔二人の加入、しかも熱心に稽古に参加するので、その二人を舞台に乗せるのが一番いいということになり、急遽変更。

 『雨の街、夜の部屋’08』にしました。鶴岡高校で初演。「せんせいしよん」で新バージョンで上演。高校演劇セレクションに掲載され、幾つかの高校でも上演、ある芸能プロにも使われた脚本です。ただ、幾つかの点で書き直しは必要です。それを今日の稽古から読んで、指摘してもらっています。来週で加筆・修正箇所がはっきりすれば、それを受けて書き直しです。嬉しいことの一つは、ぼくも出演できるということ。旗揚げで久しぶりに舞台に立ち、やっぱり役者は面白いと痛感したので、一人ほくそ笑んでいます。

 6月の土曜日。場所は弥生町民会館。詳細は決まり次第。

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別役実『6月の電話』を読む

 電話取り次ぎ業みたいな女の事務所に、アリバイを証明する仕事の男が入ってくる。例によって、ズレながら、話は進む。そのズレ具合が面白い。こういう作品は別役の独壇場。芝居ではないが、『道具ずくし』『虫ずくし』も面白いぞ。

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出会った言葉(8)

この地球という星のすべてのいのちは、遠い昔、ほおき星のしっぽに乗って、宇宙のむこうからもたらされたものらしい。だとしたら、わたしたちの哀しみは、遠い遠い星のかなたからやって来たんだ。宇宙のはての哀しみと孤独の深さ。そのことを思えばね、わたしはもう少しやっていけそうな気がするよ。 竹内銃一郎『ラストワルツ』

 ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』で主人公のスティーブン・ディーダラスは、地理の教科書の余白に自分の住んでいるところを小さいところ、つまり番地から広げていって宇宙まで書く場面がある。宇宙の中では微小な存在、命だけれど、確かに生きている。悩み、苦しみ、そんなもん、ちょっとズームアウトしてみれば、大したとない。そんなことを考えた青春の日を思い出させる台詞でした。          

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岡本蛍『星逢井戸命洗濯』を読む

 「ほしあいのいど いのちのせんたく」と読むらしい。江戸時代の長屋が舞台。生活にかっつかっつの人たちばかりが登場する。摩訶不思議な現象が起こるが、それほど違和感がないのは、設定に負うのか、それとも、ぼくの読み方が悪いのか。下世話なネタもむしろ人々の活気みたいなものを感じた。

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マキノノゾミ『赤シャツ』を読む

 漱石の『坊っちゃん』を教頭の赤シャツを中心に描いている。原作とは違った人間像になっていて、原作ではどうもいけすかない赤シャツが愛着ある人間として、なるほどこうして誤解を受けたのか、と、原作の内容を変えずに描いている。そうなってくると坊っちゃんが出てはまずくなる。マキノは場面転換の時に坊っちゃんの声だけを出している。そういうところも上手いなァと感心してしまう。原作を知っている方が面白い。先でも後でもいい。漱石の小説と合わせて読むと面白さは倍増する。おススメの作品。

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竹内銃一郎『東京大仏心中』を読む

 結婚を控えた娘と父親が旅館を出るまでの回想を交えての二人芝居。昔、ある女性と芝居がしたくて、読みまくっていた時の一作だが、彼女が今では上演するにはちょっと高齢になってしまった、そんなことばかり考えた。上演したい時が旬だな。

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竹内従一郎『ラストワルツ』を読む

 ヴィスコンティの『家族の肖像』の映画の教授を中心に書いたらしい。ある「教授」の家に漫画家が仕事部屋を借りに来て、編集者、不動産屋、家族が入り混じってのあれこれ。楽しく読めたが、あれやこれやがあって、上演する時は整理しないといけないナと思った。こういう言葉で口説かれたら、どうしようかと思った台詞を一つ;

「わたし、先生のためになんでもしてあげる。お料理だって、お掃除だって、洗濯だって、子供だって作ってあげる。」

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太田省吾『ぼくは、君の夢をみた』を読む

 タイトルから予想されたが、やはり、日常と非日常の区別がつきにくい作品だった。こういうのは苦手だ。「おじいちゃんの写真、どこか他の女のところに廻っていたら、生まれなかったのね、お母さん。」写真で結婚した祖父と祖母。そのことを娘が母親にいう台詞には滑稽な感じがある。ただ、作品は全く違う。かしげた首が戻らないまま、読み終わった。降参。

 

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土田英生『崩れた石垣、のぼる鮭たち』を読む

 土田英生は面白い。雨が降り始め、3年前に一度止んだものの、また降り始め、世界がどんどん水の中に沈んでいく状況。こんな設定、結構好きなんだな。その雨の中、中学校のクラス会が行われる。これも面白い。主役がデンと構えて、脇役とかの芝居より、かつてのクラスメート達、そういう方がぼくは好きだ。それにかつてのクラス担任やどうしても思い出せない同級生、そして料亭の5人が登場人物。その料亭の5人が問題なのだ。

 この5人は「脇役」に徹した方がいいように思う。従業員の女がいて、それに同じ年齢くらいの男がいる。しかし、その女は大将とも、その大将の父親とも肉体関係があり、男が荒れ、幹事が殴られたりする。土田は破綻することなく描いているものの、ぼくにとっては邪魔な部分だった。同級生の店で、同級生とその関係者だけで描いた方が、ぼく好みなのだな。

 芝居にいくつの物語を持ちこめばいいのか。それへの答えはないかもしれない。ただ、この土田作品では同級生達のあれこれで十分に思える。そして、ぼくならもう少し若い年齢にして書くだろうナ。そういう脚本を書いてみたくなった。

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動いていた時計

 部屋を初期化しようとしている。かなり思い切って捨てている。本をかなり捨てることになる。思い出も捨てることになる。少しずつ、思い出を指でなぞりながら、ポイ。そのあれこれの中から昨年、旗揚げに使った時計が出てきた。

 HIHで買った1980円の時計。文字盤が大きく、秒針は音を立てない。芝居が実際の時間と同じスピードで進むことを示すためにぶら下げた。

 その時計が動いていた。秒針の音がしないために気付かなかった。ほぼ正確な時間。あの日電池を入れて、・・・。

 あれから流れた時間。どれだけのことをしてきて、何ができるようになったか。次の公演に向けて、始動する。

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ギィ・フォワシイ『湾岸から遠く離れて』を読む

 人は何故劇場に足を運ぶのだろうか。何を求めて、客席に身を沈めるのだろうか。感動だよ、という人がいるかもしれない。では何に感動するのだろうか。

 演劇は商品ではない。こうしたい、それが、観たいものであればウケる。ただ、ウケを狙ったものはこけることが多い。ウケを狙う時、観客を見くびっているところがあるからではないか。

 テーマは、舞台から客席に流れるものではない。それは観客にもあるのだ。観客はそうだ、と、頷く。共有する。

 手あかベタベタの言葉だけれど、ハムレットは役者達に「演劇は時代に鏡をかかげるようなものだ」という。観客は舞台に私を見出すのだ。私と無縁ではないのだ。私小説はあるけれど、私戯曲、私舞台はない。演劇は時代と向き合うところでしか生まれない。

 『湾岸から遠く離れて』は1994年の『テアトロ』に掲載された作品。登場人物は4人。その4人の誰もが切ない。切なさを感じながら読んだ。

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鈴木正光『心室ーベッド・ルーム』を読む

 寝室を舞台にした家族劇。これといって魅力がある訳ではない。気になるのはタイトル。寝室がベッドルームということはわかるのに、何故わざわざそういう言葉を並べるのかな。理由がわからない。この手の脚本は読む必要はないように思う。

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斎藤憐『お隣りの脱走兵』を読む

 ベトナム戦争のころの話。アメリカ兵が軍を脱走して、一般人の家に匿ってもらって、という内容。斎藤憐の作品にしては喜劇タッチのところがあったりして、面白く読めた。カラーテレビ、エアコンなどが家庭に入る時期だったようで、日本の世相の移り変わりがはっきり描かれていて、そこも面白い。

 実際にそういうことがあったのか知らないけれど、戦線や軍隊を舞台にして戦争を考えるよりも、ベトナムで戦ってきた兵士が一般家庭に入ってのアレやコレやよりも、はるかに効果的な方法だと思った。設定の勝利。

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坂手洋二『ワールド・トレード・センター』を読む

 坂手洋二主宰の「燐光群」25周年記念公演の作品。

 2001年9月11日の同時多発テロ。おそらく世界中で一番繰り返され、一番多くの人が観たニュース映像だろう。もう7年なのか、まだ7年なのか。老いた身体は時間の流れをきちんと刻むことができなくなっているのだろうか。

 マンハッタンにある日本語情報誌の編集室が舞台になって、あの一日を刻んでいく作品。出入りする人達が事態の断片を持ち込む。その断片にそれぞれのドラマがあるのだけれど、背景に「ワートレ」破壊というとてつもなく大きな事態があるのでかすんでしまう。しかし、それだけ大きな「犯罪」だったのだ。

 坂手の脚本は時代と向き合い逃げないところが魅力。この作品は面白い。10作くらい、これから読むつもりで保管しているが、燐光群の25年をたどることになる。

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別役実『トラップ・ストリート』を読む

 別役実の作品には珍しく室内劇。だから電信柱は出てこない。

 ずいぶん前まで演劇とは対立だと思っていた。そう書いてある本が多く、そうなのか、と、鵜呑みにしていた。確かにそういうものもあるけれど、いつ頃からか、ぼくはズレの方に興味が出て、以来、そちらを楽しむようにしている。別役実は好きな、ちうより尊敬している作家だが、彼はズレをつくるのが巧妙だ。ちょっとしたズレが大きくなって、ということも少なくない。

 『せりふの時代』2004年秋号に掲載された作品。劇団円に書いたもので、作品の冒頭に舞台写真が載ってあり、岸田今日子がその中にいた。読み始めて、彼女がどれを演じたのか見当がついた。別役にも、その思いはあったのではないだろうか。

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鴻上尚史『天使は瞳を閉じて』の思い出

 高校演劇の生徒の日常は大変だ。まず十分な練習場所がない。以前顧問をしていた頃は幾つかの学校に行って、演劇未経験の顧問の何かの手助けにになればと指導の真似ごとみたいなことをしたが、たとえば、体育館のステージだったりする。バスケやバレーの声の中での練習。そして、そのステージで学校公演。体育館のステージは演劇には向かない。声が届かないし、ましてや雨でも降れば、雨音が声を消す。加えて、貧弱な照明器具。

 そういう過酷な状況で頑張っている演劇部員に、卒業する時に満足いける舞台で上演させてあげたい、と、「卒業生公演」を始めた。その最初の舞台が『天使は瞳を閉じて』だった。鴻上氏は快く上演許可をくれた。その許可はコピーしてみんなに配った。本物は切望したキャストの一人にいった。

 この時のメンバーは安心院や三重からも参加してたけれど、みんな懸命に取り組んだ。凄い連中だった。高校生だけではキャストが埋まらなかったので、顧問も参加した。制作は、顧問劇団「Officeせんせいしよん」。練習場所は大分の上野の森の「出会いの村」。

 「出会いの村」は、才気煥発の糸永という教師が紹介してくれた。糸永に連れられて「出会いの村」の村長の安東静夫さんに会った。芝居の練習には申し分のないスペースを彼は家の地階に持っていて、「あなた達が使ってくれるなら、あれも喜ぶでしょう」と感激的な言葉で簡単に許可してくれた。それから安東さんとは芝居以外での付き合いがあった。感謝に尽きない人だ。

 最終的に福岡から照明の人間を呼び(彼は、生徒が数週間かけて作った装置を、重すぎて運べないので、簡単に作ってしまった)、どうにか上演できた。おそらく高校演劇ではできない舞台だった。

 高校生はある程度環境を整えればとてつもない能力と行動を発揮する。高校生畏るべし。無限の可能性を秘めている。侮ってはいけない。そういう存在として向い合わないと。

 以上、思い出の一部でした。

 

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鴻上尚史『監視カメラが忘れたアリア』を読む

 尚史は「しょうじ」で打っても出ない。「なおふみ」で打つといい。つまらないことですが・・・。

 鴻上は劇作家としてより演出家としての資質の方が優れているように思う。この「虚構の劇団」旗揚げ準備公演の脚本は、こういう脚本を書きたいところから生まれたというより、それを基にした上演設計書みたいな感じがする。彼の脚本で一番好きなのは『天使は瞳を閉じて』だが、それが『天使は閉じたら負けなんや!』という形で登場する。『第三舞台』の観客にとっては思わずニヤッとするかもしれないが、はて、あのころの観客がどれくらい集まるのか。それを知らない観客にとって、空振りすることはないのか。

 笑ったところが一つある。作品の舞台は近未来だが、その頃はあちこちにに監視カメラが設置されていて、たとえば東京の学校では教室にも設置され、生徒がきちんと「君が代」を歌うかが監視されている。「結果はすべて、東京都の教育委員会を通じて、都庁の屋上に現れる石原慎太郎元都知事の幽霊に報告されている」という件。

 この脚本の掲載された前の号の『せりふの時代』で鴻上は「虚構の劇団」の旗揚げについて語っていた。ぼくとしては、「第三舞台」の連中、様々な場所で歳をとった連中との舞台を観たい気持の方が強い。『天使は瞳を閉じて』で「第三舞台」は休みに入った。準備公演は「つなぎ」ということなのかナ旗揚げ公演にはどんな脚本を書くのだろうか。

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マキノノゾミ『殿様と私』を読む

 正月に『鹿鳴館』がテレビで放送されていたが、最後まで観ることができなかった。面白くなかったのだ。三島由紀夫の原作は読んでいないが、まさか原作があんなに間延びした作品ではあるまい。

 マキノノゾミの『殿様と私』は鹿鳴館時代を描いている。明治になりながらも、新しい時代に対応できない、しようとしないある「殿様」がひょんなことから鹿鳴館で踊ることになり、アメリカ人鉄道技師の奥さんから踊りの指導を受けるようになる。その時代の中での殿様とその周辺を描いている。

 幕末から明治という時代はメチャクチャ。メチャクチャだから面白い時代だったと思う。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』『坂の上の雲』を読むと、そう思う。あの頃の日本人の情熱のものすごさ。あのカケラでもあれば、現代を乗り切れそうに思う。ただ、そういう大きな時代変革の陰で、表に出ない人たちが描かれることはあまりない。

 『殿様と私』は表に出ない人たちを描いている。すごく面白い。登場人物がどれも活き活きと描かれている。殿様が断然いい。久しぶりに舞台を観たい脚本に出会った。上演してみたい、演じたい、そう思った。もちろん、ぼくらにその力量はないが・・・。

 

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清水邦夫『わたしの夢は舞う』を読む

 副題に「会津八一の恋」とある。早稲田大学の教授だったらしい。彼の家に出入りする弟子達とのあれやこれやで、先の(といっても随分昔だけれど)戦争が背景になっている。実在の人間を描いていて、わかりやすく、コミカルでもあり、清水邦夫にしては珍しい作品。

 教科書で戦争の扱いが問題になっているが、日本が悪かったところはきちんと認めないことには次にいかないと思うが、何故かね、そうでない人達は。悪かったごめんなさい、それでいいじゃないか。

 懸命な青春が戦争で散ってしまい、それを見ていた女性も結核で死んでしまう。なすすべもない会津。最後で泣いてしまった。時間をおいて、また読んでみよう。

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清水邦夫『火のゆにさみしい姉がいて’96』を読む

 溢れるというか、過剰というか、そんな思いあ何かの拍子に表出したら、それまでの現実と思い、どちらがその人にとって現実になるのだろうか。そういう人間が犯罪を犯した時、精神鑑定にかけられるのだろうか。

 眠りの中の夢で、ああ夢だったのか、と思う夢をみることがある。今パソコン向ってこれを書いているぼくは、もしかすると夢の中ではないのか。辛い時、夢なら醒めてほしいと願うが、そこで夢は覚めない。しかし、喉元過ぎれば、で、ああそういこともあったと思い出し、懐かしさすら感じてしまう。

 俳優とは夜毎に死に、朝になると蘇る生命体そのものだ。フランスの俳優はそう言った。眠りをおろそかにしてはいけない。

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山際淳司『スローカーブを、もう一球』を読む

 部屋を整理している。本さえなければナンテことないので、その本を7割処分しようと考えてい。開高健は井伏鱒二の書斎には国語辞典しかないことを理想と書いていたが、そんなのではなく、増えて足の踏み場が限られて、そうなると掃除をしようにもできないからだ。本当は見ないでボンボン箱に詰め込んでしまえばいいのだが、服や外で飲まず、ひたすら(というほどでもないか)本中心の生活だったので、一冊ずつ確かめている。そうすると読んでいない本もあったり、もう一度読んでみようかというのもあって、時間がかかる。春にはすっきりして迎えようと思う。

 さて、基本は小説と演劇中心の読書だけれど、時々つい買ってしまったりする本もある。その一冊だったのが、『スローカーブを、もう一球』。これには、ヒーローの陰に隠れた何人かのスポーツ選手が描かれている。もっとも江夏はスーパーヒーローだが、日本シリーズでのあの21球の江夏の心は、ホウ、と思った。マウンドの江夏のところに行って囁いた衣笠のエピソードもいい。

 ただ、表題作のピッチャーは断然いい。マウンドで、一塁手のあいつには彼女がいて、二塁手のあいつにも、・・・何故俺には・・・というのも高校野球って、こんなもんでいいんじゃないかと思う。ピンチの時に捕手がマウンドに行って攻略法を話し合っているかと思えば、オイオイというようなことだったり。

 スター選手にも壮絶なドラマはあるけれど、そうでない選手にも心を動かすドラマはある。最近朝のテレビを見てて、どのチャンネルでも同じ内容。順番が違うくらい。スターはあの局に任せて、うちは」というところが出てこないかナと思う。著者の山際の語り口は淡々としてて、極めて暖かい。

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今日の練習

 年明け初めての練習は発声と読み。『リア王』のリアとゴネリルの台詞。それと井上ひさし『藪原検校』の早物語。その後、エチュード。一つは、柔軟な発想、もう一つはぼくが台詞を拾うため。ハチャメチャでいいのに。真面目なんだな。エチュードは一歩踏み出すことで、面白くなるのに。来週からは「走り稿」脚本を使ってやります。

 この世の中で一番面白い場所は大学だと思ってきたし、今もそう思うけれど、芝居の練習場はその上をいくかも。ちょっとしたことで何かが変わる瞬間に立ち会える幸せ。

 ぼくは今回脚本と演出に徹するので、指示するだけ。次回は脚本も演出も他の人間で、役者に専念したい。前回の公演で、まァ色々な批判はあるけれど、役者は楽しい。練習してて、役者が一番面白いと思った。ともかく、役者は一回休み。その次は役者をする!

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出会った言葉(7)

たちの悪い連中と一緒にいたんじゃ、こっちの頭までよく炒られたポップコーンみたいにカスカスになっちまう。真保裕一『ボーダー・ライン』

 身の周りを見回せば、よくわかる。つぶされない程度に厳しい方がいいのだ。人間は自分に甘くなれば、どんどん落ちていく。まずいと思った時は、かなり重症だ。だから、そういう場所、そういう人間を求めていくことが人生の正解へと至る近道だと思う。となりの奴が眠りこけているから、自分も、ではいけない。お互い、ちょっとだけ無理して充実の生活を送りましょう!

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思いと眼差し

 何かを思えば、眼差しはそちらに向く。体はそちらを向かなくても、時々眼差しだけを向ける。ただ、いつまでもそのままだと、その思いは昔の夢という形で化石になってしまう。

 見果てぬ夢を追い 敵わぬ敵に敢えて挑み 耐えがたい悲しみににも耐え 行こう、勇者も避ける道を 正せ、正せぬ悪を正せ 清く純なるものを愛し 両の腕、疲れ果ててもなお届かぬ星に手を差し伸べよ

 映画版『ラ・マンチャの男』の吹き替えの「見果てぬ夢」の語り部分。田舎の老人はドン・キホーテと名乗り、遍歴の旅に出る。

 仕方ない、そんな言葉を覚えるために生れてきたの? これは中島みゆきの『はじめまして明日』の一節。何かのせい、誰かのせいにするのはやめて、思いも眼差しも体も、向けていよう。少なくとも職場を離れている時は。

 始業式の朝。自分に喝をいれる。

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いよさんの質問に応えます

 一番いいのは演劇雑誌の定期購読ではないかと思います。書店で演劇関係の本を置いていることは滅多になく、劇場もあれば演劇賞も出している紀伊国屋でさえ、大分では5,6段の書棚程度。文庫にも古典がおさまっていますが、とにかく本屋で探すと限りがあります。演劇雑誌を講読すれば、評判の舞台がある程度わかるし、必ず新作が掲載されています。面白そうな本だと思えば、書店に注文します。その本の後書きにはその作家の別の作品に触れていることが多いので、それを注文する。他の作家の作品の広告も出ていたりする。ぼくは『テアトロ』『悲劇喜劇』『せりふの時代』(これは季刊)を購読していますが、どれか一冊となれば『せりふの時代』にします。ひさしや別役実他の劇作家が編集しているので、戯曲3本と他の記事も面白い。

 新聞では朝日が演劇賞を設けていて(今年の発表は今日だったか、昨日だったか・・・)、記事は多い方だと思います。三谷幸喜の連載もありますし。

 e-honというのがネットにあります。演劇、脚本、シェイクスピアの三語をぼくは登録していますが、そうすると、その三語に関係のある本が出たらメールで知らせてくれるのです。ぼくはそれで、たとえば『ハリウッド脚本術』だの『アボリジニ脚本集』だのを知り、注文したことがあります。

 これで漏らした作品はそれほどのものではないと諦めるしかありません。もっとも、脚本を読むのが仕事じゃないから、そんなに沢山は読めません。アンテナを張り巡らせていれば、いい作品は必ずいつかひっかかると思っています。こんなもので、よろしいでしょうか?

 それにしても茶道部、とは・・・。 

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初釜

 茶道部の生徒と先生のお宅での初釜に行く。一年生だけだが、15人いる。それでうちの和室には入りきれないので、という事情もあるのだが。

 茶道ってのは結構面白い。今日知ったことだが、畳のへりを越える時、右足か、左足かという決まりがあるようだ。先生は生徒一人一人にその作法を教える。ぼくはもう一人の顧問にどういうルールでそうなっているか訊いた。右足は上り、左足は下りだそうで、部屋に入る時、まず床の間に向かうが、その時は上り。床の間から、部屋を斜めに行くがそれは床の間から離れるので下り。そして釜の方に向かう。それは上り釜から離れる時は下り。この理屈をまず理解すれば、後は足の運びの練習だけすればいいのだが、生徒は、壊れたロボットのように歩く。おかしくて・・・。

 脚本を脱稿したら、茶道の本を読んでみようかと思う。

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Windows Mail の功罪

 アウトルックの時は迷惑メールの消去が朝と夜の仕事の一つだった。Vistaではウインドウズメールになって、迷惑メールを自動的に消去してくれる。ところが。今日、自動的に消去されたものを開いたら、友人がブログを始めたというメールがあった。Spamの表示もないのに。それで急遽「推奨」の設定を変えた。

 便利の裏にはとんでもないことがある。便利に頼るのもほどほどにしないと、そこで失うものがある。そういう教訓を与えてくれる。気をつけましょう!

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お宝なんていらない

 テレビで自宅の宝物の値段を鑑定する番組がある。好きな番組の一つでよく観る。こんな物にこんな値段、と、驚いたりするが、逆の場合は嗚呼可哀そうにとゆるやかなジェットコースターみたいなものだ。大分でも愛媛でも土日の昼間なので(司会の島田伸介は「こんばんわ」と挨拶をする)、家族で昼食がてら観ることもある。子どもが「ひには何かお宝はある?」と質問しないのは、すでに見透かしているからだろう。

 神戸淡路大震災の時、大分のある人のグループが春休みに子どもたちを招待したことがある。ぼくは神戸まで迎えに行く役をやらせてもらった。船の時間までかなり余裕があったので、神戸を歩いた。潰れた家々を見て、モノを幾ら集めても、こうなったら、どうしようもないと思った。モノより思い出の方に軸足を置いた方がいいと痛感したのだ。地震にグラともしない家を造ればいいのだろうが、無理。

 宝物より、宝のような思い出を!

  

 

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出会った言葉(6)

 マリリンは一日の半分はぼうっとしているように見えた。それでも正常な時はすばらしい演技を見せる。正確に言えば、それは演技ではなかった。彼女は役中人物の感情をなぞっていたのではない。それは彼女自身の生の感情だった。彼女の演技というのは、自らの内面深く分け入って当の感情を見つけだし、それを意識のなかに引っぱり上げてくる、というプロセスから成っていた。結局のところ、優れた演技というのはみなそのようなものなのかもしれないのだが。ジョン・ヒューストン『王になろうとした男』(宮本高晴訳 清流出版)

 マリリン・モンローはグラマー女優と考えている人は少なくないと思う。しかし、演技者としても評価は高い。たとえば『ティファニーで朝食を』はオードリー・ヘプバーンが主演だったが、原作者のトルーマン・カポーティは最後までモンローを主張したらしい。もっとも、奇行の博物館のような人間が言ったところで、展示品行きだろう。でも、アーサー・ミラーがモンローのグラマーぶりに結婚したとも思えない。とにかくモンローという女優は虚像と実像には大きな開きがあるように思う。映画を観てもいないで、ナンテロだのカンテロだのを言う人もいるだろう。一度、映画をとくとご覧になれば、おわかりになるかもしれない。

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仕事始めは女子学生4人とのロングトーク

 仕事始め。といっても、実質的な仕事始めは始業式だから、生徒の仕事はチラホラ。受験を控える生徒が個人指導を受けたり、部活動程度。新年の挨拶をして、多くの教師はパソコンに向かい、試験問題や3学期の教材準備をする。10時過ぎに今年送り出した卒業生が4人来て、3時まで話して、帰った。昼食抜き。

 4人とも進学先は異なる。彼女達から学生生活のあれこれを聞いた。生きた情報は後輩に役立つ。話を聞いて共通するのは、勉強が大変だということ。高校時代の方が楽だったと口を揃える。レポートや小テスト、資格試験、進級試験。そして睡眠時間数時間の実習。行った先の学校もまた生き残りをかけてより良い学生を育てようと一所懸命なのだろう。昔とは違っている。昔の学生よりは勉強しているんじゃないか。ただ、その方が幸せなのだ。

 また、同級生の動向をこれまた根掘り葉掘り。恋や合コンやあれやこれもそれなりに活発なようだ。後2,3年もすれば大人になった姿になるのだろう。それにしても5時間。よく話したものだ。

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正しい脚本の読み方

 多くは黙読で済ませてしまう脚本だが、それで面白いと思ったら、もう一度、今度は音読をしたらいい。いい脚本は、役者が声に出すことを考えているから、声に出せば言葉の美しさ、表現の素晴らしさに満ちている。句読点も無視しないできちんと音読。すると、たとえば、黙読では長さと退屈さに辟易するシェイクスピアの台詞の面白さ、美しさに気づくかもしれない。面白いと思った作品は何度でも読む方がいい。急いで読んでも、死ぬまでにこの世の脚本を全て読むことはできない。ならば、一冊をしゃぶりつくす方がいいと思う。

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出会った言葉(5)

どんな脚本でも。一度や二度は、もう駄目だ、投げ出そう、と思う時がある。そしてそれをじっと我慢して、達磨のように、そのぶっつかった壁を睨んでいると、何時か道が開けるということを私は沢山脚本を書いた経験から知っていた。黒澤明『蝦蟇の油』

 黒澤でさえ。ましてや。ならば数十倍の時間をかけて。脚本に着手。いつ出来上がることやら・・・。

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2008年になっちゃいました

 明けました。皆さんの平和と活力と充実に一年になることを強く願います。ちょっとだけ頑張りましょう。病に追い込むような頑張りはダメです。頑張り過ぎはダメです。ほどよく苦しみ、ほどよく悩むことは大切です。それがない人間はバカです。そういう類を経験しながらも、生きていることを楽しみましょう。

 明け方、犬と歩きます。面倒だと思うことが多いけれど、起きて、着込んで、軍手をはめて、犬に近づくと、彼女(メスです)は元気に尻尾を振る。

 犬は元気。好奇心と活力の塊。ああそうだ、と、犬が教えてくれる。

 頑張って生きていきましょう。素晴らしい一年となりますように!

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