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木下順二『龍が見える時』を読む

 副題に「群読のために」とある。幾つかの役はあり、民話風の物語が展開するけれど、はて、群読の目的、面白さがわからない。

 この一週間、木下順二の初期作品を読んで、この人は作品を練り上げる人だということがわかった。時間をかけている。今、桂文楽に関する本を読んでいるが、彼は一つの落語を仕上げるのに5年から7年かけたという記述があった。落語家は自分で演出、脚色もする訳だが、それにしても時間をかけている。

 日本人は米を洗うとは言わない。研ぐという。大企業から小さな町工場に至るまで、日本の会社は世界トップの製品を作り出している。それは米を研ぐという言葉に通じる志と真理があるような気がする。

 読書は自分との対話の部分がある。ゆっくり読んでいこう。

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木下順二『花若』を読む

 西川流家元の踊り、清元の三味線、新劇の役者の朗読。3者による「立会劇」。

 ストーリーもそれなりに面白く、踊りにも変化をつけるように工夫してある。これを基にミュージカルに仕上げることもできそうだ。

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木下順二『狐山伏』を読む

 都に出たもののうまく行かず、故郷に帰ってきた男が山伏なりすまして、騙そうとする。川辺で眠っている法螺貝でキツネを驚かすと、びっくりしたキツネは川に落ち、キツネの復讐を受けることになる。キツネが人に化けたりして、本人なのか、キツネが化けているのかで勘違いの喜劇が展開する。シェクスピアにお喜劇にも通じるものがある。面白い。

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木下順二『おんにょろ盛衰記』を読む

 中国の「除三害」を翻案・脚色したものらしい。木下作品では、虎狼、おろち、熊太郎(おんにょろ)が三害で、熊太郎が前の二つを退治して、さて、三番目はというところに一番興味があるのだが、少々拍子抜けの結末か。

 山本安英が「観客があんなに笑ったのは観たことがない」という村人の会話部分は、木下が各地の言葉(地域語、方言)を基に作りだしたものらしい。面白い作品だ。

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木下順二『夕鶴』を読む

 手つかずの全集に1巻から毎日一作ずつ読んでみようか、と。

 『夕鶴』は題名は知っている。昔中学校の国語の教科書に載っていた記憶はあるが、読むのは初めて。木下順二はヒロインつうを山本安英を想定して書いらしい。与ひょうが金に目がくらんで変わっていく様に、「あの人をひっぱらないで」と訴える場面は現在にも十分通じるものがある。ただ、舞台にするのは難しい。なお、山本安英の『夕鶴』の上演回数は森光子『放浪記』、松本幸四郎『ラ・マンチャの男』に次いで、歴代3位とのこと。

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古城十忍『声しか見えない』を読む

 アルツハイマーを内面から捉えて書いた作品。読みながら混乱したが、その混乱こそ、本人のものなのだろう。難しいテーマに挑んだのは、新聞記者の経験か。参考文献も多い。

 弥生町民会館で高校演劇の大会を開催した時、古城氏には審査員として来てもらった。「一跡二跳」主催。福井での全国大会の審査員をした時に再会した。また、俳優希望の生徒とある学校に行った時、夜練習を見学して、その後飲んだ。劇団のHPに訪ねてみて下さい。

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『ワールド・トレード・センター』を観る

 ニコラス・ケイジ主演。あの9.11の悲劇。あの歴史的な犯罪の裏でわが身を捨ててでも救助をした人たちに尊敬の念を覚えた。

 鶴岡高校で瓦礫に閉じ込められた脚本を書いたことがあり、その大人版を書こうとしている。そういう時にインターネットで番組表でたまたま見つけて観た。偶然? いやいや、必然なんでしょう。この世の中に偶然なんてない。全ては必然。つまり、書かなくてはならないということなのです。

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別役実『月と卵』を読む

 男と女の二人芝居。

 別役の芝居は最初はおかしい。この芝居でも、外国旅行から部屋に帰ると、男がいて、それももう数日間その部屋で過ごしているという。これはおかしい。おかしいと思いながらも、別役ロジックにはまってしまっている。

 別役ロジックでつくられる世界は遊びの精神に満ちている。

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井上ひさし『円生と志ん性』を読む

 どうも気が滅入る脚本を続けて読んだので、笑える脚本ということで、職場の椅子周りを探して、ひさしの作品を再読。

 戦後の二人の噺家のどん底生活を笑いを交えて描いている。修道女たちとのやりとりは面白く、元気をもらえる。そういう脚本を書けたらいいナ。

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トム・ストッパード『自由人登場』を読む

 パブのシーンはあるが、家庭劇と言ってもいい。欠点だらけの発明をする父親、それに反発を覚えながら家計を支える娘、そして何もかも承知上で、夫と娘を支える女。パブのシーンは男を描くために必要なのだろう。

 封筒の発明をパブで認められたと思い、ようやっと日の目をみれると思い、家庭を捨てて、出ていきながら、所詮はパブでのこと、夢破れ帰ってくる男。妻はちゃんと彼の食事を用意していた。

 切ない物語だが、家族が元の鞘に収まる。最後の娘の微笑みが美しい。

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大分演劇祭

 先日、朝日の朝刊で紹介記事が出ていた。主催がワルキューレの原尻。原尻は彼女の高校時代に知り合った。ただ、ワルキューレの舞台は好きではない。以前観た時よりは進化しているのかもしれないけれど、ぼくとは方向が全く違う。ただ。

 ただ、演劇祭の試みは失敗して欲しくない。他の劇団も参加しているのだから、それが夫々の今後にプラスになることを祈るばかりだ。

 佐伯の片田舎のぼく達は、佐伯で活動をする。ぼくは演劇祭には興味がない。ただ、佐伯でうちが前座で競演したいのが安心院の「彩風波」。彼らは、高校演劇の大会でも裏の仕事を手伝ってくれたし、昨年のうちの旗揚げでも最後まで手伝ってくれた。初代主宰者の安部、二代目赤谷。ぼくの尊敬する人物だ。ぼくは彼らと競演できるなら、いつでも安心院に行く。もっとも、彼らから受け入れられるかどうかはわからないが・・・。

 まッ原尻も頑張っているから、それなりの成果を。

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池田政之『喜田川歌麿女絵草紙』を読む

 喜田川歌麿の苦闘。周辺の人物に知っている名前の人物がいるので、興味はわく。

 美人画の裏で、こういうことがあったのか、と、驚くと同時に尊敬すら覚える。

 矢代静一に『北斎漫画』というのがあり、現在「一跡二跳」で活躍する奥村氏が学生時代に北斎を演じた舞台を観たが、学生でここまでできるのかと驚嘆したことを思い出した。

 この池田脚本には美人がたくさん出る。それもまた興味の一つになる。

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成井豊『アンフォゲッタブル』を読む

 「せりふの時代」2002年春号に掲載の作品。

 「悲劇喜劇」1998年11月号の演劇時評で小林和樹は『さよならノーチラス号』についてこう述べてる;

 「全く失笑しました。幼稚な作劇術と主題、もっと悪いことに演技が恥ずかしいくらいんです。しかし、観客は何がおかしいのかよく笑います。終始「これは一体何なのだろう?」と思いつつ、気が滅入りました。芝居というより一種のイヴェントなんでしょうね。」

 この時評を読んだので、成井作品を探したら「せりふの時代」にあったので読んだ。成井の『銀河旋律』や[広くて素敵な宇宙じゃないか』は高校演劇でもよく上演されている。ぼくはその二つは破綻していると思うが、書いた人間がいれば、それを受け止める人間がいても不思議えはない。

 「スキップ」という未来と現在を行き来する主人公の謎は謎のままで、解明されないもどかしさ。男と女の問題の甘さ。そして言葉が並べられるほどに、中身のなさだけが明確になる。

 深刻でもなく、不真面目でもない。でも成井を書かせているものは何だろうか。成井豊という人が顔のないヒトになっていった。これで舞台を成立させるには、成井は演出勝負の人なのだろうか。ワークショップは面白いという声を聞いたことがある。好きでも嫌いでもない。これで許されるのか、というところ。

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45円の差について考える

 酒の買い置きはしない。あると飲んでしまい、翌朝まで残ることを心配しているからだ。カップ酒を買う。黒霧の20度を2本。この黒霧のカップが店によって値段に開きがある。ぼくが知っているところで一番安いのは205円。一番高い店では250円。250円では買わない。高い店で10本買えば、安い店では12本買える。

 最近は定価という言葉が消えたように思う。小売希望価格が、最近はオープン価格。どんどん意味不明の言葉になっていく。

 消費者が賢くならなければならない。

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青木豪『海賊』を読む

 美容院を舞台にのい地方の祭りの準備と打ち上げまでが描かれている。些細なことが延々と続く。残り3分の一辺りで少女の死体が発見される。しかしその事件も日常の会話に埋もれてしまう。その恐怖が最後にじんわり。なるほど、こういう手法も面白いか。

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テネシー・ウイリアムズ『ナイチンゲールではなく』を読む

 刑務所が舞台。私腹を肥やす所長と囚人の物語。それだけで想像できるようなもの。だが、徹底して書きこんでいるから、悲惨がひしひしと伝わり、怒りを覚える。結末も安易ではない。いい脚本だ。

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小幡欣治『喜劇の殿さん』を読む

 古川ロッパの物語。

 私と対象の関係、その距離の取り方が問題か.

 何故面白くないんだろうか。

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木谷有希子『砂利』を読む

 作風という言葉がある。それはたぶん無意識に出てしまう何かで、その何かが他の作家と違う作品に味付けすることになるのではないかと思う。

 以前、木谷の作品を好きじゃないと書いた。しばらくして、その作品が賞を受賞したというニュース。ぼくは自分の読む力のなさを思いながら、合わないものは合わない、と、思った。

 木谷の新作。タイトルで読む気が失せる。ただ独特な作風で読ませる。それ以上は言えない。

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小幡欣治『坐漁荘の人びと』を読む

 首相も務めたことがある西園寺公望の別邸を舞台に2.26事件周辺を扱っている。評伝劇になるのだろうが、名前とちょっとしたことだけを知っている人が虚実入り混じって描かれているものを読むと、その人が身近になってくる。

 司馬遼太郎によると、日清・日露戦争に勝利した日本の軍隊はその時の体質のまま昭和の戦争に入ったらしい。日露戦争を描いた『坂の上の雲』を読むと、あの勝利は露西亜の思い上がり故の不手際で勝利しただけだった。乃木は人間的にはすぐれていたのかもしれないが、指揮官としてはどうも能力に欠けていたようだ。

 この小幡作品でもそういう軍部と日本の首脳たちの愚かさが垣間見える。芸者上りの女中頭の気風のよさと発言が舞台を活き活きとしてくれる。ただ、当時の空気みたいなものは伝わるけれど、芝居はそういう説明だけではないと思う。ここから、さて、と、料理が始まるのではないかと思う。

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ムーディに右から左へ

 とにかく書籍を処分したい。家で読めないものは職場に持っていき、昼休みに右手で箸を、左手でページをめくりながら読む。今までのナマケが情けない。

 ただ、戯曲を読むのが早くなった。ぼくは読むのが遅く、小学生の娘の半分かもしれないと思う。でも、遅いなりにいいこともあるのだとは思う。そう思うしかない。

 読んだものは処分する。手元に残さない。芝居関係以外の本を処分する時は辛かった。しかし、今後は可能な限り残さない。現在は演劇誌。それが終われば、単行本、全集。部屋の床が少しずつ広がっている。少しさびしい。でも嬉しさの方が大きい。

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佃典彦『プラモラル』を読む

 芝居でしか生まれない作品。軽妙、空虚、残酷、いい加減。時に眉をひそめながらも、最後まで読まないと気が済まない。上演云々は抜きにして、一読の価値はある。良い舞台、悪い舞台は知的な判断になるが、この作品世界は好きか嫌いかで別れるのではないか。好きではないが、嫌いではない。何か告白れた時の女子高校生の曖昧な返事みたいだが、そういう脚本だ。ぼくには。

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里吉しげみ『ロートレックの特別料理』を読む

 最後に「第一稿だから、公演までの稽古過程で変わっていく」といことを書いている。そうだろうなあ。芝居の転がりがあまりよくないのだ。加えて、「グルメ」を「ウルメ」と言い間違える辺りは貧困さを感じてしまう。ウルメってのはいわしの・・・と説明を加えてしまうとさらに悲惨になってしまう。何かないかと、探しながら読むけれど、今回は何もなかった。なお、特別料理とは娼婦。30年前の作品。

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小里清『アルバートを探せ』を読む

 舞台は西に向かう貸切列車。列車の主要人物はアインシュタイン。ただ、彼は登場しない。彼を取り巻く連中が彼を探す中、それぞれの結婚やら仕事の問題が絡み合いながら、時にドタバタしながら、芝居は進む。作品の中で最も誠実と思われる人間が広島で降りる。ドタバタの悲劇の終末がドーンとした余韻として残る。

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ナジェージダ・プトゥーシキナ『家族の写真』を読む

 母と娘の二人暮らしの部屋に、部屋を間違えた男がやってくる。娘はかんりの年配で、ちょっとした拍子のはずみで男と結婚することなる。また見知らぬ娘が飛び込んで、それが娘になって、家族が出来上がるという話。そうなってしまう会話が楽しめるけれど、ウ~ン、それだけなんだな。家族までいってしまうのに無理があるからだろう。

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面白いブログ

 熊本から公演に駆けつけてくれる医師のブログ。面白く、考える。

http://satoritorinita.cocolog-nifty.com/satoritorinita/

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いずみ凛『川べりの部屋』を読む

 舞台は二つの離れた部屋。仕切りはなく、その部屋の住人はその二つの空間をアクティングエリアとして使う。一つは女性の衣服仕立て屋、そこで結婚を控えた女性のウエディングドレスをつくっている。そこに登場するのは、仕立て屋の女性と、夫、そして結婚を控えた女性、それと仕立て屋の女性が布地を買う店の女性。その布地屋の女性は既婚だが不倫をしており、その男の部屋がもう一つの部屋。それに、仕立て屋の女性が窓からパン屑を投げてやるカモ(オシドリ?)の夫婦が、雑談の中に絡んでくる。タイトルからすれば、カモの夫婦がかなり重要な役割を占めていることになるが、つまり夫婦、結婚を問題に芝居は進んでいく。

 結婚、夫婦について描くのは難しい。アーダ、コーダを並べても、その多くは既に語られているからだ。だから、この作品はそこまで深入りせず、現象を描き、観る者が考えるという仕掛けになっている。ぼくも考えたもんな。

 学生時代にシェイクスピアの『十二夜』を「恋愛狂騒曲」というタイトルでミュージカルに書き直した。恋愛の次は結婚かという思いはずっとある。結婚について笑い飛ばすような芝居の方が好きなのだ。「校長官舎の夜」という芝居を2年近く考えているが、「結婚狂騒曲」というタイトルがいいのかmれない。

 

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唐十郎『ふたりの女』を読む

 田舎にいて演劇雑誌を通して東京や関西の演劇情報に接する。その情報の多くは「ああ、そうか」程度だが、無性に観たくなるものが「第七病棟」の公演だった。石橋蓮司と緑魔子夫妻が唐十郎の脚本を上演していた。そしてその公演場所が、使われなくなった銭湯やら、とかとかとかに手を加えて劇場にするということだった。石橋は毎回その会場を探す。結構大変だったようだ。

 どんな舞台を観たいかという質問には答えは多い。でも誰の舞台を観たいかとなると、ぼくはまず石橋蓮司をあげると思う。テレビドラマに出るようになっている。松田聖子の『私ってブスだったの』とかいう連続ドラマに松田聖子の父親役で出ていて、ここまで円くなったのかと、妙な感想を持った。でも、銭湯を上演可能な場所に替えるにはお金もかかるんだろうナと思ったものだ。

 『ふたりの女』は第七病棟に書いた作品。唐の破天荒な想像力。破綻しそうで破綻しない足腰の強さ。唐と石橋を楽しめる舞台。確か、もう活動してないんじゃなかったか・・・。悔しい!

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坂手洋二『定理と法則』を読む

 地下鉄サリン事件がきっかけになったのだろうか。科学者らしき二人の芝居。「科学のためにステップを用意してきたのは軍隊と戦争です」という台詞があるが、坂手はそういうものを認めていない。柄本明と角野卓三の二人が演じる科学者らしき二人は科学に振り回され、自分を見失っている。それは喜劇的でもあるが、実は怖いことなんだ。

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脚本の手直し

 脚本の手直し、時間をかけた割には、おとなしかったけれど、部分をいじりすぎると他の部分に影響して別物になってしまうような気がして・・・。今回はそこまではしたくなかった。脚本への愛着ということで。

 後は、練習の過程で手直しをしていきます。なお、今回からペンネームを捨て、本名でいくことにしました。

 

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東憲司『骨唄…骨、咲キ乱レテ風車…』を読む

 幕が上がって、舞台で展開する世界に初めて触れた時、戸惑いを覚えることがある。たとえば、河畔の赤テントで初めて唐十郎の芝居を観た時、舞台の奥の開け放った向こうには対岸が見え、男二人が川に飛び込み、泳いで渡り、舞台に上がって長靴にたまった水をこぼした時。ただ、あの時は戸惑った瞬間は既に舞台に引き込まれていた。

 この『骨唄』もまた戸惑いに始まった。その戸惑いは長く続いた。ただ、後半は面白く読んだ。舞台を観たくなった。しかし、その面白さがどういうもので、どこに起因するのかわからない。簡単に言えないからこそ、魅力的なのかもしれないけれど。男と娘二人の芝居だけれど、かすかの唐の風味があるような気もした。

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可能涼介『反論の熱帯雨林』を読む

 熱帯雨林についての小説を書こうとする作家と彼を取り巻く数人で描かれている。こういう作品を「観念的」といえばいいのかわからない。緑の壁、緑の服、その素材は食べることができ、取った部分はまた元に戻る・・・。苦手意識が理解が阻む、というより、理解力がないだけか。

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『電車男』に縁がない

 テレビをつけたら映画版『電車男』をやっていた。以前、帰ってテレビをつけたらテレビ版の再放送をやっていて、最後しか観ることができなかったが、テキトーに自分でつないで、楽しめた。今回の映画版も最後の10分くらいしか観ることはできなかった。嘘っぽいところはたくさんある。でも、現代の「シンデレラ物語」として、ぼくは好きなのだ。

 食と性の氾濫は、自分を確かめる最後の領域ではないかと思う。美食ブームと、アダルトビデオや各種性絡みのあれこれは、私を確かめる作業になっているように思う。『電車男』は、そういう時代に高く反旗を翻した。それは夢物語。しかし、誰もがみる夢のだ。

 ただ、一部しか観ていないけれど、ぼくはテレビ版に軍配をあげる。映画版の電車男はカッコよすぎるのだ。テレビ版の電車男はいい。ネットの処理も面白い。そして、何よりも、電車男が鳴らす携帯を取る時の「エルメス」の指の美しさ。

 一度、まとめて観たいと思う。『電車男』は夢と希望にあふれるドラマだと思う。

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ウイリアム・サローヤン『わが心高原に』を読む

 作品の向こうに作者が見えることがある。それはちょっとした言葉がきっかけだったりする。おういう時は、その作者に共感と興味を覚え、他の作品を探したりする。

 サローヤンは英文学を専攻していたので、名前は知っていた。だが、読んだことはなかった。『人間喜劇』という小説はそのタイトルに興味を覚えたことはあるのに。もしかすると買っていたかもしれない。押入れの中にあるかもしれないが・・・。

 いい作品だ。貧しく、恵みのかけらもない人達ばかりが登場するが、みんないい。悪人は一人もいない。最後、売れない詩を書く父親は老母と息子を連れて、家賃を払えずに何処かに行く。救いがないように思うが、人間っていいなあという思いが残り、そこに希望みたいなものを感じている自分がいた。人間が好きになる作品は少ないが、その少ない一作だ。

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ウイリアム・サローヤン『おーい、救けてくれ!』を読む

 ハヤカワ演劇文庫の新刊が届いたので、とりあえず一幕の作品を読む。もう一篇収録されているが、それは後日ということで、面白いのは作者の言葉。演劇について書かれた文章の中では、原点を見据えたもので、考えさせられる。自己弁護とかいう声もあるかもしれないが、一読の価値はある。作品は、ぶっ飛んだ。

 

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長谷川孝治『インディアン・サマー』を読む

 メアリー・ホールの20の質問だったか。名前も数字も自信がない。彼女は演出家で、役者に自分が演じる人物について好きな食べ物とか休日をどう過ごすか等を考えさせる、そういう話を聞いたことがある。演じる人物について考える一つの方法だろうと思う。

 『インディアン・サマー』はある大学の総合文化研究室の主任教授の一周忌の日、研究室前の廊下(廊下といっても、机や椅子、コピー機、キャビネット、書籍、ストーブ、コーヒーメーカー等が置かれているから、部屋みたいなものだが、通路にもなっているところがミソ)に出入りする人たちを描いている。何かが起こる訳ではない。将棋を指したり、ナメコ汁を食べたり、酒を飲んだりするだけ。主任教授の話の間の色々な雑談めいた話がほとんど、といった芝居。これが滅法面白い。搭乗員物が、書かれていないことを想像できるように書かれているからではないかと思う。登場人物は16人。そのうち外国人が6人。その6人が効果をあげている。

 メアリー・ホールの方法がどれくらい効果があるのかわからない。作家が書かなかったこと、捨てたことにこだわっても答えはないから、かえって迷路を複雑にするだけにならないのだろうか。長谷川の脚本を読んで、思い出して、そんなことを考えた。

 先月読んだ脚本の中で、『ワールド・トレード・センター』と『お隣りの脱走兵』には英語の台詞がある。『インディアン・サマー』には英語だけでなく、タイ語、タガログ語が出てくる。ゴキブリが一匹いれば、実際にはその何倍かのゴキブリがいるそうだから、外国語の台詞がある脚本はかなりあるのかもしれない。役者も大変になったもんだ。

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