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若い奴に負けてたまるか!

 今日卒業生が二人、演劇をしたい、と。でも、短大に行くから、2年後。2年経てば気持も変わる。やりたい時が旬。

 もしかすると、たぶん、いやきっと、演劇に興味がある人は少なくない。でも、立ち止まってしまう。一歩を踏み出すだけで、世界は変わるのに。

 ぼくは演劇で助けれてきた。どん底のシンドイ時も、何もなくても、演劇があるという思いが支えてくれた。頗るつきの思いで、次の舞台で勝負!

 

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松岡和子訳『テンペスト』を読む

 先日『リア王』を読んだ時と同じように、以前とは違って味わって読んだ。ちょっとした台詞のうまさと深さ。やはりシェイクスピアは凄い。

 『テンペスト』はオペラにもなっているが、上演方法は多様だろう。映画にしてもいいかもしれない。『ハリー・ポッター』も吹っ飛ぶようなファンタジィにもなるだろう。その要素がある芝居を、照明も音響もない白昼の劇場で上演したのだから、当時の観客も凄かったのだろう。

 読むほどに味わいが深くなるシェイクスピア。この歳になって、初めてシェイクスピアの凄さを知ったのかもしれない。

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自分と向き合う

 今回の舞台の幕開きの台詞はぼく。旗揚げを観た友人に「一人だけシェイクスピア」と言われた。久しぶりの舞台に舞い上がって、その辺を考えていなかったので、今回はじっくり考えているのだが、方向に出会わない。

 振り返れば、ぼくは今まで役つくりとかせず、勢いだけでやってきた。勢いでやれる面白さもあるが、それは演技ではないし、この年齢では未熟すぎた。いけない。恥ずかしい。

 あr人間を演じるということは、別の人間になることではなく、自分のある面を封じ、別の面を引き出すことではないかと思う。だから演じることは新しい自分に出会うこともあるように思う。

 人間は変わらない。環境が変われば別の面が引き出されるだけのこと。舞台に立つということは新しい環境に身を置くということ。つまり、自分が置かれた環境を見極め、神経を小町針のように鋭敏にして、向き合うということになるか。後、2か月半。徹底した取り組みをしたい。

 

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松岡和子訳『リア王』を読む

 今まで色々な人の訳で何回も読んだし、松岡訳も始めてではないけれど、今回が一番面白く読め、これは名作だと改めて思った。

 松岡は後書きでこの作品には母性ないと書いてある。おそらくコーディリアに女性を集中させるためかもしれない。残酷な作品ではあるが、だからこそコーディリアが輝く。

 言葉の巧みさを堪能できる。道化とエドガーがいい。

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宋英徳『実験 ヒポクラテスに叛いた男』を読む

 芝居は雑多なところがあるから面白いのかもしれない。木下順二の作品にはそれがなく、それにしばらく浸っていたので、宋の作品は面白く読んだ。

 開演前の注意に橋爪功を使い言わせた台詞にも笑ったが、それがちゃんと最後とつながっている。話題の中心は戦争時代に中国で細菌兵器の研究をしていた部隊。ヒポクラテスは「医者は患者のために尽くすのであって、人間を選ばない」というようなことを言ったらしいが、医学の知識が殺人に使われたことで副題は付けられたのだろう。

 山の中の桜が咲いて、年に一度だけその在りかを知らせる季節。玖珠農業の校歌は野口雨情作詞、中山晋平作曲だが、「森は茂れり 野は広く われらが行く手は楽しけれ ・・・」と始まる。ガソリン買い控えでは問題は解決しない。この時期は歩くのがいい。朝の散歩が特にいい。あちこちに花が咲いてね。明日も早起きして、散歩だ。

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小学校の卒業式

 上の娘の卒業式でした。小学校の卒業式って、「卒業生起立」「礼」「着席」って号令がゼロ。高校は一つ一つ全部号令。それでも動きはまばら。小学生は号令がなくても一糸乱れない動き。練習はするんだろうが、素晴らしいと思った。爪の垢を集めて、高校の式の時に飲ませてやりたくなったほどだ。

 保護者代表で謝辞を述べました。職場の女性から「泣きますよ、絶対」と数回言われ、絶対を付けるのはすべからくそういうものなのか、それともぼくを見抜いてのことなのかと考え、第4稿まで考え、五百字までそぎ落としました。娘の母親なんか始まる前からハンカチを目に当てている。「花粉症か」と訊くと、首を振る。

 ぼくは入学の頃と今を比べながら、6年間という短いけれど、偉大な時間に驚いていました。これからが大変なのかもしれないけれど、くたびれたオジサンになってはいけない、娘に負けてたまるか、と、決心した次第。公演に向けてひた走ります。

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木下順二『暗い火花』を読む

 野間宏君はこの戯曲のことを戦後文学の「実験小説」に相当する作品であって、人間の意識の追及を試みようとした「意識のドラマ」といってくれていますが、それはその通りです。

 木下順二全集9には『暗い火花』と小説『無限軌道』が収められている。各巻には木下が作品について書いた文がいくつか収められている。今回、それをちょっとめくってみて冒頭に上記文章に接し、野間が本当に褒めているのか、そしてその野間の言葉を額面通りに受け取る木下の人柄に少々がっかりしている。

 実験小説ということは戯曲スタイルの小説いうことだ。野間は戯曲としては認めていないということになりはしないか。小説と戯曲は全く違うのだ。

 これで木下順二の全集と付き合うのは終わりにしたいと思う。日本演劇史の中で巨星の一人の作品を今回一日一作という方針で読んできた。木下作品は今でも上演されているようだ。でも、ぼくは、たとえば井上ひさしが戦争にこだわって書き続けている一連の作品の方が好きだし、面白い。木下が「思想がない」と批判したひさしの作品には、木下のような思想はないかもしれない。しかし、人間への眼差しがある。人間への眼差しこそ思想の根底ではないかと思う。木下にそれがあったのか、作品を読んだ限り、それは感じ取れない。彼の思想とは、時代への眼差しではなかったか。その時代を描くにしても、人間の感触豊かに描くしかないんではないか。もしかすると、自分が納得いく描き方を模索した木下自身が舞台にのせる一番面白い素材ではなかろうかとさえ思える。

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木下順二『子午線の祀り』を読む

 大作だ。かなりの時間がかかったであろうし、木下のこだわりがいい形で現れていると思う。それだけに上演も大変だろうと思う。今回は半分以上を声に出して読んだが、名前やらナンヤラ、詰まること度々。

 これを読んで一番の収穫は、義経が何故兄頼朝から討たれたのか、その理由がわかったように思えたこと。比類ない武将の面を確かめながら、この戦の後の彼を待ち受けるものを思いながら読んだ。

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木下順二『夏・南方のローマンス』を読む

 「神と人のあいだ第Ⅱ部」。

 戦争が終わって、日本の東京だけでなく、外国のあちこちでも裁判があったようで、第Ⅰ部は東京、第Ⅱ部は南方でのかなりいい加減な裁判が描かれている。漫才師の女が登場するので、かなり期待したけれど、う~ん。

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木下順二『審判』を読む

 『神と人のあいだ第Ⅰ部』。東京裁判が舞台になっているが、被告人ではなく、判事、検察、弁護の三者のやりとりがが中心になっている。被告人は50名を超えるが、一人一人の罪状認否が延々と続く。木下って真面目なんだな。戦犯を裁くのだけれども、その裁きの前提が曖昧でおかしかったのだという印象を受けた。専門用語やらが出てきて、エンターテインメントの要素をかけら感じないぼくのような人間には退屈な芝居でしかない。

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木下順二『白い夜の宴』を読む

 祖父、父、子の3代に渡り、時代と生き方を考える作品。木下の現代劇は単調だ。おそらくそうしないと破綻してしまうからじゃないかと思う。幕開きは、今まで読んだのと違う感触なのだが、結局は会話劇になってしまう。そしてその会話は、木下のある思いを乗せるためだから、その通りになれば、結局単調にならざるを得ない。中身は凄いことなんだがな。

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木下順二の脚本は何故面白くないか

 ぼくの読みの浅さはあるだろうことを断っておかないといけないだろうナ。ナニセ巨匠だから、その巨匠に素人が「面白くない」というのだから。今まで23本の木下作品を読んできた。全集にはあと4,5本あるから、一応全部読んでみるつもりだけれど、結論らしきものがあるので、ここで書いておきたい。

 木下順二には遊び心がない。

 遊び心がないのは観客不在だからだ。木下が井上ひさしの作品に「思想がない」と言い、それに対してひさしが「思想なんていらない、趣向だ」と反論した。ひさしの趣向とは遊び心と言い換えてもいいだろう。遊び心は、こう書けば(演劇だから「こうすれば」になるだろうが)受け手がどう反応するかを考えざるを得ない。受け手があってからこそ遊び心は成立する。それが木下順二にはなかった。

 彼には自分の問題を脚本という形で整理しただけではないのだろうか。

 木下の民話劇が面白いのは、既に受け手との間で成立している素材を扱うからだろう。

 木下のこだわりと書き続けてきたことには尊敬するし、困難な素材を会話で処理してくれると、わかりやすいから面白い。ただ、彼の現代劇は演劇ではないと思う。彼の「思想」を整理するための道具だった。(ああ、こんなこと書くと怒り心頭に発する人たちがいるかもナ。)以後、これを確かめる読書になる。

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木下順二『冬の時代』を読む

 堺利彦とその周辺をモデルに描いている。思想弾圧が激しかった時代を舞台に活動する人たちが「売文社」という出版社で語り合う。主人公渋六さんがコピーライターの仕事をしており、彼のつくるコピーは面白い。

 書く人間がいれば、それを面白いと思う人間がいても不思議ではない。木下と同じ時代を生きた人なら、「冬の時代」に共感し、楽しむこともできるおかもしれない。シェイクスピア作品も訳し、演劇についての本も書いているから、木下の深くて確固とした演劇観で書いているのだろうが、そういう時代だったのかと、頭で理解するだけで、共感はできない。心が動かない。悩むこともないのだろうけれど、心が動かない自分自身に首を傾げたりする。ただ、民話劇は面白いと思うけれど。

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木下順二『東の国にて』を読む

 全集も第6巻に入った。全集を最初から順番に読む経験は初めて。結構骨は折れるが、それだけに楽しくもある。

 東の国とは日本で、明治、鉄道工事が始まった頃が舞台。この作品も時代の一断面は見えてきて、それなりに面白く読めたものの、時代という波の彼方に人間が消えてしまう印象で終わった。

 小説、映画、演劇、どんな作品でも、結局は現在の私に着地する何かをどう描くかだと思うけれど、現在の私と作品との隔たりの大きさを感じてしまう。これは、もちろん、ぼくの力不足だとは思うが・・・。

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木下順二『オットーと呼ばれる日本人』を読む

 戦時中のスパイ事件に材を取っている。しかし、時代の逼迫した空気が薄いし、人間の感触が弱い。

 これはもしかすると戯曲形式の評論ではなないかと思ったりした。レーゼドラマという「読む戯曲」があるが、それではないか。劇団「民芸」が宇野重吉の演出、滝沢修主演で上演したらしい。

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木下順二『沖縄』を読む

 戦後の沖縄に広島も絡めて描いている。木下は沖縄に行ったことがないそうで、それがいいのかどうかは分からない。ただ、沖縄に行ったからこそわかること、生まれるものがあるような気がするのだが。

 坂手洋二も沖縄を舞台にした作品を書いている。坂手の作品に比べると、具体性に欠けるというか、観念的というか、だから、わかりにくい。読む時には戻ることができるが、舞台ではどうか。観客に手がかりが少ないのではないか。上演したいとも、観客になりたいとも思わないのだな。

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好きな歌 小室等『雨が空から降れば』

 別役実『スパイ物語』の中の挿入歌の一つ。

 雨が空から降れば 思い出は地面にしみ込む 雨がシトシト降れば 思い出はシトシトにじむ ・・・

 吉田拓郎はライブでそれを歌い、「十年に一曲の名曲」と言った。何故いいのか、どこがいいのか、それがはっきり言えない歌だけれど、いい。

 

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どこまでやればいいのか

 いわゆるアマチュア演劇が永遠にアマチュアと呼ばれるのに理由がある。その反論には、たとえば、「プロジェクトX」の技術者達の苦闘を幾つか見れば、理解できるのではないか、と、返したい。

 もちろん、と、自信を持っていうことではないが、うちもダメだ。私はもちろん大事だが、その私をどうするかというところの懸命さ、そこから生まれる厳しさ、そういうものが足りない。そういうところから表現は生まれない。

 ここまではない。もっともっとしかない。眼差しは高く。それしかない。それは誰のためでもない。自分のためなのだ。

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『釣りバカ日誌』オーディションを受ける

 佐伯でロケが行われるということで、芝居仲間と受けました。若い連中にいい経験になってくれればと思う。

 今日のオーディションは地元キャストということで、エキストラとは別物とかで、24名が集まっていた。うち、男性が13名。鶴岡高校の演劇部出身者がいた。

 一班4名で40分前後。まずカメラを向けられて、簡単に自己紹介。次に一人一人に幾つかの質問。ロケと仕事の関係はみんな訊かれた。

 そして受付で渡された前回の作品のシナリオの一部(登場人物は4人)を4人で役を換えて一通り読む。ただし、佐伯弁に直してという条件付き。ぼくの班にはうちの若手(ぼく以外はみんな若手だけれど・・・)の女性、大工の棟梁と保育士の女性。棟梁と保育士は方言がうまかったな。ああ、そういうの聴いたことがあるな、と。

 面接官は助監督二人と正体を明かさなかった人の3人。結果はともかく、ああいうのを経験するのは面白い。ただ、悔しくてならないのは、面白い人材が集まっているのだから、そこで芝居仲間に勧誘すればよかったと悔やまれる。佐伯の芝居の人材は結構多いことを確信した。

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木下順二『陽気な地獄破り』を読む

 朗読台本『えんま大王のしくじり』を劇化したもの。死後の世界を扱っているが、タイトル通り陽気な作品。部分的に、はて、これはどう演出するのだろうかと考えてしまうが、底抜けの明るさを楽しむことができる。これにも山本安英が出演している。

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好きな歌 平山みき『優しい都会』

 深夜のテレビも終わってしまったし 電話をかけてくれる人もいない 枕と話して眠ってしまおう 明日の占いを読んでから ・・・

 この歌には一人暮らしの女性の日常がヒシと伝わってくる。そして、実際にはこういう女性はいないだろうが、歌の中の女性のあれこれには、男からすれば憧れてしまう部分がある。

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木下順二『蛙昇天』を読む

 人間の人形を作る時、人間の髪を使って人間そっくりに作ればそれは神への批判になるが、戯画化して作ると人間への批判になる。別役実の『電信柱のある宇宙』にそんな一節があったように思う。

 この木下作品に登場するのはカエル。カエルの社会だが、それは人間を戯画化しているから、これは人間を批判いているということになるのだろう。ただ、木下作品は長いと観念的になってしまうように思う。これはいずれ彼の現代劇を読んだらもはっきりするかもしれないが、その観念的な部分が演劇的なものを削いでいるのではないか。彼にとっての劇的なものは何か。考えてしまう。ただ、彼は実に丁寧に書いていることは脱帽する。

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好きな歌 石川さゆり『天城越え』

 滅多に行かないスナックで歌う時、歌う。少し昔、この歌を頼んだら、店のママさんに「隣の人、その歌で大会で優勝した人ですよ」、と。負けてたまるか!って、負けるに決まっている。

 テレビの仕事をしていた時、函館ロケがあり、「抜けます」と、今はない青函連絡船に乗り青森までを往復した。青森駅を見た時「青森駅は雪の中」(『津軽海峡冬景色』)を歌っていた。雪がドシリと駅舎の屋根にかかっていた。石川さゆりについては、収録の度にスタッフに差し入れをしてくれたし、上のサブまで上がってきて挨拶をする姿に「なんていい人だ」と思った。

 『天城越え』から石川さゆりはオトナの魅力を出してきた。歌の世界ではあるが、人は一生に一度はこれに似たような恋をするのではないかと思う。

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木下順二『瓜子姫とアマンジャク』を読む

 人間は名前をつけたがる動物。ぼくはそう考えている。漫画家水木しげるは、日常のちょっとしたことに想像を巡らせ、妖怪という形で名前をつけた。

 アマンジャクもそうかもしれない。ぼく達が山でつい大きな声で「ヤッホー」とやってしまうのは何故か、約束事なのかもしれないが、その山で生活している人には奇怪に映るかもしれない。

 瓜子姫とアマンジャクを演じるのは山本安英。また山本安英だ。木下にとって、彼の演劇、劇作活動で、山本が果たした役割は大きいのだろう。山本がいたから書けた部分も大きいかもしれない。

 この作品は山本を考えて書いたということなら理解できる。彼女を前面に押し出しているのだろう。ただ、作品としては物足りなさを覚える。

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好きな歌 松田聖子『風立ちぬ』

 秋の歌。詞も曲もいい。

 試しに、酒が回り始める前に、自分の声で歌ってみるといい。松田聖子だけの歌にしてたまるか!と思うはずだ。この歌はおじさんの歌。もっとも、おじさんが好きな歌を並べているのだけれど。

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木下順二『わらしべ長者』を読む

 これもよく知られている話だが、木下作品の中ではトントン拍子の話は夢の中で、実際はその通りにいかない内容になっている。わらしべ一本で長者になる話というのは、あまりにノーテンキすぎるとでも思ったのだろうか。

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好きな歌 泉谷しげる『春のからっ風』

 20年近く前に買った歌の本。1枚が抜け落ちている。そこに泉谷の『春のからっ風』がある。いつもめくっては歌っていたから、付け根が弱くなって、こぼれ落ちたんだろう。

 春の歌だけれど、希望や喜びの歌ではない。かつて「フォークソング」と呼ばれた歌には生き方が濃厚に出ていたように思う。

 最近の歌にはそういうものが薄いものが多いと思っていたが、そうでもないと思うのはナントカという二人の歌うカントカを聴いた時だが、それでも薄い。

 泉谷は最近ヴァラエティ番組にも出るようになった。それはそれでいいことだ。もっと出て、もっと語って欲しい。

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木下順二『木竜うるし』を読む

 山の中の池の底に「うるし」が大量にあり、それを巡っての人のいい男とずるい男の話。まさに民話。特に取り上げるものはない。

 高校演劇で木下の民話を取り上げるのは一つの有効な方法ではないかと思う。成井豊の作品よりは遥かに優れているし、きちんと取り組めば舞台成果をあげることができると思うし、力量を上げることにもなる。成井のタイムスリップで訳が分からない作品よりは、はるかにいいのではないだろうか。舞台装置にも照明にも工夫の範囲は広い。

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木下順二『聴耳頭巾』を読む

 ラジオドラマ。鳥や木の声を聞くことができる頭巾という設定で、音を活かしている。内容的にはそれほどではあるが、最後の母親とのシーンが風景が浮かび、ほのぼのとして気持ちがいい。

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木下順二『おもん藤太』を読む

 手紙の書き換えは新しいことではない、なかった手が子どもを助けるために現れるというのも荒唐無稽。ただ、作品を支えるものがあれば、何故か許してしまう。おもんは山本安英だったらしい。木下を書かせたのは、山本という女優がいたからではないかと考えてまう。木下にとってのミューゼだったのかもしれない・

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木下順二『三年寝太郎』を読む

 ぐうたらが知恵を働かせて、勤勉な者から金品を奪う悪漢物語ともとれるが、これも彦市と同じで、寝太郎の知恵がどう働くかを笑いながら楽しめる。そしてこの手の物語に欠かせないのが「偉い人」や「金持ち」。そういう人が手痛い目に会うのを観て、観客は笑うのだろう。チャップリンの言葉にある;バナナの皮で子どもが転んでも人は笑わないが、気取った紳士が転ぶと笑う。

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木下順二『赤い陣羽織』を読む

 西欧のファルス風の作品。ファルスは日本では「笑劇」という風に訳されていると思うが、それに近いのは狂言かもしれない現代劇ではない。喜劇と笑劇の違いはよく分からないが、笑劇は劇的な要素が薄いように思う。

 木下順二は堅くて、真面目という印象しかなかったが、おかしいことも考える作家だったことを意外な驚きをもって楽しめる。

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木下順二『彦市ばなし』を読む

 熊本県八代市に伝わる彦市の話を基にしている。野津の吉四六に通じるものがあるが、この手の話は日本のあちこちにあるのかもしれない。木下は手際よく処理している。そして秀逸なのはエンディングだろう。こう終わらせたか、と、予想しなかっただけに面白い。

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美少女は何故美しくないか

 それは「美の少ない女」とも読めるからだ。

 クリントンとオバマのアメリカの民主党の大統領予備選。クリントンはどうにか巻き返したが、ぼくには、クリントンと顔がどんどん悪くなっているように思う。人間はとことんの状況で出てくるものがある。たぶん、クリントンは悪い方向に向かっているのではないか。

 一方、日本国の首相は顔が変わらない。彼は大臣に任せっきりなんだろうな。これは大変だと思えば、顔が変わるのではないか。首相を辞めて、吉本で「ボケ」を教えた方がいいかもしれない。

 「芝居より現実の方がすごくなっている」とかいうようなことを、つかこうへいは言った。今の国会議員は、次を考えている。でも、「次」は自分の保身のみ。つまり、無能な連中なんだ。自分に恥じない投票をしよう!

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木下順二『二十二夜待ち』を読む

 『風浪』『山脈』は長く、特に『風浪』は熊本弁でどこで区切ればいいかわからず読むのに時間がかかった。全集には作品に関して木下の書いた文章も収録されているものの、別に木下作品を研究している訳じゃないから読まない。全集は今日から三巻目に入る。

 『二十二夜待ち』は舞台はお堂での一夜。ばあちゃんと孫が実にいい。ばあちゃんが可愛く、ばあちゃん子だったぼくは気持が傾く。こういう二人を現代を舞台にして書くことはできるだろうか。木下作品のように嫌味なく、さらりと書けるだろうか。心が洗われる作品だ。

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木下順二『山脈(やまなみ)』を読む

 戦中戦後のある山村を舞台に書かれている。その中でよかった台詞を;

ねえ、こうやってさ、今二人が顔と顔とを突き合わして、お互いの息と息とを顔の皮膚に感じながら向かい合っている。向かい合ってよかった。今この瞬間にこうやって会えてよかった。この感情・・・この二人の愛情ってものが、これこそが世界の中で、いや宇宙の中で唯一最高のものだ。

 この台詞を言う女性を演じたのは山本安英。この作品のヒロイン。ぼくは木下の山本への言葉に思えてならないのだが・・・。

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木下順二『風浪』を読む

 『夕鶴』と並行して書いたので、どちらが自分の処女作なのか分からないらしい。

 井上ひさしが劇作家として活躍し始めた頃、木下が井上作品に対して「思想がない」と言ったとかで井上は思想なんかいらない、趣向だと書いていたような気がする。

 『風浪』は熊本を舞台に神風連の乱の頃を描いている。時代について語り合う台詞が多いが、それは現代にもそのまま通じるものが少なくない。よく調べて、丁寧に書いていて、歴史オンチのぼくにも理解できた。

 ただ。長い。最初は6幕だったものを5幕にしたらしいが、それでも長い。上演には4時間近くかかるんじゃなかろうか。その長さをよしとしても、もう一つ問題が残る。この作品のどこが劇的かということだ。歴史を語る上での方法としてではなかったのかとさえ考えてしまう。歴史モノの難しいところか。

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松田正隆『花のかたち』を読む

 暖かくなりました。朝、犬に挨拶する時に上着がなくても平気なんだから。

 木下順二をちょっと休んで、浮気。「テアトロ」200年2月号。木下作品の方が刺激的。

 明日は卒業式。ナバコフの小説が届いた。

 

 

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木下順二『でれすけほうほう』を読む

 萩尾望都に『11人いる!』という作品がある。宇宙船だったか何だったか、ナニセ読んだのが30年前後昔のこと。それには続編もあるのだが、萩尾にインスパイアしたのはこの木下作品ではないだろうか。きっとそうだ。萩尾作品、木下作品、どちらが先でもいい。一度読めば、ぼくの気持もわかろう。

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