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沈黙と観客

 昨日の日田三隈の舞台での沈黙がずっと頭にひっかかっている。三隈の生徒がまだ克服できていないと書いたけれど、それは、沈黙が「台詞がない」状態になっているように思われたところがあるからだ。

 沈黙は金。沈黙が言葉より雄弁な場合もある。

 ある掲示板で、作者が「気持の流れを大切に」と書いているが、沈黙で、それが途切れてしまうところがあったように思う。だから難しいんだな。あの時、演じる高校生はどうしてたのだろうか。ぼく達は黙っている時、ある言葉を繰り返していたり、どうしようと迷ったり、苦しんだりしている。それが動き、表情に現れる。だから「どうしたの?」という言葉をかけられたりする。

 観客が沈黙のシーンでおいてけぼりを食ってしまってやいないか。最初はわからないだろうが、黙るほどに観客にはわかっていくということはできないものか。

 難しい。

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日田三隈高校『ボタン』を観る

 高速で日田まで90分。3150円。夢のようだ。一般道なら3時間はかかるだろうから、それは考えるだけでシンドイけれど、高速ならそれはない。ガソリン代がもう少し安く、高速料金もっと安くすれば、利用者は増えるだろうに。

 さて、日田三隈は昨年に続き全国大会に出場する。今年は群馬県桐生市。三隈の上演は8月10日らしい。

 岩男衣世さんの脚本を演劇部が潤色した『ボタン』は饒舌な芝居が多い中、沈黙が多いという意味で、意欲的な作品と言ってもいいかもしれない。沈黙の演技は難しい。台詞がある方が、ごまかしがきくけれど、沈黙はごまかしがきかない。もちろん、三隈の生徒がそれを克服しているとは言い難い。しかし、こういう舞台があることを全国大会で示すことができれば、高校演劇に新しい視点を与えるかもしれない。

 高校生の芝居を観るのは久しぶりだけれど、高校生は手を抜かない、ひたむきな取り組みが、教えてくれることは多い。ぼくはメモを取りながら観た。彼らに感想を求められた時に、きちんと応えようと思ったからだが、今、それを読み返して、次の舞台つくりに参考になるナと思う。

 日田三隈高校の全国大会での活力と充実の舞台を応援します。頑張れ、三隈高校!

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山本一力『だいこん』を読む

 一度は読んでみたい作家だった。テレビでの話し方にひかれたのだ。

 雨や火事の多い作品だ。ヒロインつばきの生き方が気持ちいい。家族もいいし、周囲の人もいい。文章の端々に作者の優しが漂う。もう何作か読んでみたい。

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マイケル・モーパーゴ『兵士ピースフル』を読む

 一応「児童文学」のジャンルらしい。今年の課題図書の一冊になっているとか。高校生の図書委員の研修会があり、そこでの読書会でうちの生徒が司会進行をすることになっているので、ぼくも読んだ。2か月ほど前に読んで、読んだ本を生徒に回して、そして校内で読書会をやってみて様子を見た。慣れていないせいもあり、シドロモドロだったが、ぼくは読書会に出たことはないから、「理想の姿」はわからない。

 高校演劇とは何か。高校生がつくる演劇だ、としか言いようがないように、児童文学もまた読者に「児童」を想定して書いたもの、としか言えないのだろうか。ただ、高校演劇でもオトナが観ても十分楽しめるものがあるように、児童文学も、また、同じ。

 ピースフルという名前の兵士も「熱い氷」みたいなものがあるが、子どもが大人になっていく成長を描いたものと考えてもいいかもしれない。ただ、その成長のために用意されたものが、父親の死、学校、初恋、生活のための苦闘などに、戦争が加わっている。無駄のない文章で、丁寧に、愛情を持って描かれている。結末に反して、読後の感じは悪くない。「読んでみたら」と子どもに言いたくなる。

 

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横山秀夫『クライマーズ・ハイ』を読む

 大分まで映画を観にいく気力も時間も金もないので、文庫本を買った。ぼくは本を読むのが遅いけれど、一気に読んだ。日航ジャンボ墜落事故を報じる地方新聞社の人間達と家族が無駄のない引き締まった文章で、描かれている。しかし、これをどう映画化したのか気になって仕方ない。

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『田舎に泊まろう』のBGM

 『田舎に泊まろう』は好きな番組で、よく観る。泊めてくれる家の人がいい。人間の一番いい所に出会うことができ、荒廃した世相の中のオアシスのような感じがして、きちんと生きていこうとか殊勝な気持ちになったりする。

 もう一つの魅力はBGM。ぼくが若い頃によく聴いた曲が流れる。その辺が懐かしい何かを刺激したりする。その曲を聴いた頃のことをほのかに思い出しながら、田舎の人たちの優しい気持ちと混ざり合って、いつもとは違う部分で脳が働いているような気がする。

 それと逆のような、発展途上国の人を日本に呼んで「都会に泊まろう」みたいな番組があるが、あれはいただけない。「ウルルン」みたいじゃないと。

 たかがテレビの番組。でも、自分にいいように引き付けながら観ればいい。解釈は自由だ。今の私を確認し、元気にやっていこう、でいいじゃないか。

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奇妙な音だね

そう言いながら、子どもをいつもの場所で下した時、下りて確かめたら、パンク。車にはこの前の公演の段ボールが満載。やがて、太陽が元気になり、ディーラーに連絡がつくまで90分。釘が刺さっていました。汗、たっぷりの朝でした。

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村上春樹訳『ロング・グッドバイ』を読む

 面白い。その一言で十分な作品に久しぶりに出会った。

 昔、文庫本を買って読まないままだった。チャンドラーの『長いお別れ』を処分するはずはないから、ぼくの部屋か実家のどこかにあると思う。今回、村上訳を買ったのは、子どもの算数の問題集を買いに行った時、財布を忘れていることに気づき、カードは免許証と一緒に持っていたので、それを使うことにしたが、300円にカードも何かアンバランスな感じがして、それを埋め合わせるだけの厚い本がいいと思い、近くにあった『ロング・グッドバイ』を手にしたという次第。

 ストーリーよりも、文章がすごくいい。描写がいいし、会話がしゃれてる。フィリップ・マーロウもカッコいい。そして、村上春樹のあとがきがいい。作品を読んだ後、それを読みながら、チャンドラーを読む面白さを共有できる。これは手放せない。いつかまた読まなければ。

 ぼくが生まれた1953年にベケットの『ゴドー』が生まれた。何も関係ないけれど、誇らしいものを感じたりする。これからは、『ロング・グッドバイ』も生まれたことを付け足すことができる。

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『ハイ!ミラクルズ』を観る

 中学校の子どもが県の芸術鑑賞事業みたいなものに応募してチケットをもらい、一人で三重町まで行かせる訳に行かず、家族で行った。会場は高校演劇でお世話になった「エイトピアおおの」。仕事から帰り、家に入ることなく、そのまま三重町へ。

 会場に入ると、セットが迎えてくれた。これから始まる芝居へのワクワクよりも、何か魅力のない装置だなァ、と。台詞の言葉遣いに統一感がなかったように思う。幾つかの笑いが起こったシーンでも、ぼくは笑えなかった。腕時計の明かりをつけて、時間を何度も確かめた。新聞配達員という設定もウ~ン。あれこれして、結局70点満点というオチに、オイオイ、と。

 帰りの車の中であれこれ感想を交わした。中1の子どもは、面白かった、芸能人を見れたし、と。母親も楽しんだようだった。時には家族で同じものを観るのもいいナと思う。「子どものためのシェイクスピア」をやってくれないかな。どうせなら、異なる舞台を見せたいと思うのだ。

 

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暑中お見舞い

 頭の中が沸騰しているような灼熱地獄の毎日ですが、皆さんはどうでしょうか。この暑さの中、高校球児は甲子園目指して夏より熱くなっているんですから、すごいと思います。

 コスモスの花がちらほら咲いているんです、うちの庭では。毎年花が終えた後、ゴマ粒ほどの種をあちこちに蒔いているうちに、かなり増えました。場所によって成長の度合いも、咲く時期も異なるのも不思議。おそらく、彼らのセンサーは微妙な違いを感知できるんでしょう。

 学校は金曜日が終業式。生徒は夏休み。もっとも、補習やら、個別指導がやらは続きますが、それでも学期中に比べ、何でもやれる時間は増えます。二学期からの授業プリントやらを作りだめするのがメインですが、本を読む時間は増えます。今年の夏は「チェーホフ第一期」。小説を読んでみようと考えています。できる範囲にちょっとの無理で。このちょっとの無理がミソですね。

 とにかく、暑くても、何か面白いこと、それも一人でいつでもできる何かをやりましょう。活力と充実の毎日を!

 

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大分を応援しよう!

 7月27日(日)に日田三隈高校の公演があるようです。全国大会に向かう仕上げのための「最後のダメ押しお願いします」公演だと考えたい。行って、意見と感想をきちんと伝えて、「完全燃焼!ファイアー!」と叫びたい。佐伯の公演にわざわざ来てくれた彼らの舞台を観たい!

 詳細は後日。

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教育界の不正問題

 大分のニュースが全国版のトップになって、学校で仕事をする者にとっては、気が重い。気が重いけれど、ここはとことん解明して、きれいにして立て直す以外にはない。Yahooのニュースでは県議も噛んでいるケースがあると。一体、どういう形で幕は降りるのか。逮捕された人たちへのコメントとして「いい人でした」「まじめで、教育熱心でした」というのがあるが、「やっぱりね」「何か胡散臭いところがあった」とかいうのであれば、その人たちだけになってしまうものの、そうじゃないから、こりゃあ多いな、やってない奴の方が少ないナと疑惑が広がる。だから大元がきちんとすべきなんだ。ところが、その大元が疑惑の中心だから・・・。芝居より面白い現実、か、・・・。

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井上ひさしのチェーホフ観

 『せりふの時代』夏号で『ロマンス』の作者井上ひさしのインタビュー記事が掲載されている。

「チェーホフ先生、あなたは笑える芝居のつもりで書いたかもしれませんが、舞台に立ち上げてちゃんと上演すれば、悲しくて泣けてくるではありませんか」というのが実は正しい答えなんです。あの四大戯曲を書いたのは晩年ですから、若いころの、力任せに無茶苦茶なドタバタ小説を書いていたエネルギーはやっぱり失っていたわけです。誰でもそうですけれど、人生の中で一番張り切って世の中と直に衝突する、あの感触は取り戻せなかった。そのかわり彼は、年季の入った才能を自分のものにしていたんです。愚か者ばかり登場して、愚か者がその愚かさゆえに、悲しい結末を迎える芝居ではあります。『三人姉妹』なんて、バカな娘三人がモスクワに行けばなんとかなると思って、モスクワモスクワと言ってるうちに、家を失って孤児になり、バラバラになってしまう話ですよね。これをそのまま書けば喜劇になったんだけれど、彼の才能がそうはさせなかった。三人の姉妹が舞台に揃って、「二百年後、二百年後には私たちの苦しみが・・・」とか言われれば、やっぱり誰だってジーンときちゃうんです。土台には喜劇の構造をしつらえるんだけれど、才能がそれを裏切って叙情劇に作り上げてしまう。そういう皮肉なメカニズムがあったんではないでしょうか。」

 晩年っていっても、40代だもんな。尊敬するひさしではあるが、ちょっと首をかしげてしまう。病を背負って、死を覚悟していたかもしれないが、作家としては思うことを思うように書けた年齢ではないのだろうか。若い時と違い、作品もコントロールできたのではないか。でも、ひさしが言うんだからなァ・・・。

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『日本小国民文庫 世界名作選(一)』を読む

 戦前に発刊された。「日本小国民文庫」というシリーズのタイトルが凄いもんな。「小」が「国民」につくのか、「文庫」につくのか。前者であれば、大国民は何を読むのか。

 世界名作選は山本有三編とある。表現に確かに昔のものだと感じさせるものが多々ある。この復刊は今は亡き河合隼雄の働きかけが大きかったようだ。彼の著作でそれを知り、注文した。トイレに本を置くぼくの真似をして、子どもがどこからか引っ張り出して置いていた。それで座るたびに読んだ。面白い。このアンソロジーの諸作品は、どれも今読んでも面白い。二巻だったような気がするけれど、それも読まなくては。

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鄭義信『焼肉ドラゴン』を読む

 昨日の鴻上作品とともに『せりふの時代』に収録されている。鴻上はもしかしたら根っこのない時代を描きたかったのかもしれないが、この作品には根っこがある。生と同じくらい確かな根っこがある。日韓合同公演らしく、日本語と韓国語で上演される形になっている。

 ここに登場する人達は生きている。生きているからこそ生まれる言葉、動き。生きていくことと向かいあっているからこそ生まれる強い言葉。共感を呼ぶ動き。哀しみや切なさ、怒り、様々な感情が入り混じる登場人物たちに、彼らの生き方に巻き込まれていった。これがいつ、どこで上演されたのか知らないが、観たい舞台。収穫の作品だった。

 

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鴻上尚史『グローブ・ジャングル』を読む

 グローブ・ジャングルというのは、公園から姿を消してしまった、グルグル回る遊具の名前だそうな。それと地球を重ねているようだが、ウーン、わからない。作家というより、」評論家の作品のような気がするが・・・。「虚構の劇団」の旗揚げ公演の脚本だとか。

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まだ『かもめ』について考える

 喜劇4幕。このチェーホフの但し書きが混乱を招いているとしたら、結局はチェーホフとのズレがあるからではないかと思う。今日も昼食の時にパラパラとめくりながらチェックしたところを眺めた。チェーホフは、もしかしたら、当時の芝居に対してNOを突き付けるために喜劇という言葉を使ったのかもしれない。『かもめ』の中で歓喜や笑いは乏しく、自殺、不倫、家庭崩壊の気配、諦め、そういうものが大半を占めている。ところが、それを観ている(読んでいるのだけれど)者は、そういうことより、たとえば人間相関図を書いたりしている訳で、なるほどこういう世界か、大変だァとか思っている。チェーホフにとって、人間世界が喜劇であり、それを描くのが芝居だったのではないか。書き方によっては、大笑いの芝居になってはいただろうけれど、彼は人間をきちんと書いたため、笑いよりも別の面が浮かびあがったのではないか。推測ばかり並べても仕方ない。ひとまず、チェーホフから離れて、盆辺りから彼の全集に取り組もうと思う。小説も含めて、全部読んじゃうぞ!

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沼野充義訳『かもめ』を再度読む

 オレンジの色鉛筆でチェックしながら読む。人物相関図を書いてみると、何とまあ色恋沙汰に満ちていることか。これを悲劇調でやったら、退屈な芝居になるだろう。トレープレフの自殺にしても、彼の最後の台詞から、考えると、人生への絶望とかは程遠い感じがする。結局彼が恋していたのは、ニーナじゃなく、母親だったようにも思える。もう一回読んでみるか。

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KazeのBooklet

 職場のぼくの机は隅っこの窓際にある。現在の職場は5年目になるが、机の移動は一回のみ。それも奥から二番目にところから向かいの奥に移っただけ。毎年、春先に大移動するけれど、ぼくは机の上を拭くだけ。後ろの壁には机を置いて、また窓際の棚も、物置になっている。ちょっと椅子の高さを下せば、同じ列の連中以外からは、見られることはない。ちょっと大切な書籍は目の前に並べる。その中に東京演劇集団KAZEのブックレットの一冊がある。2004年10月発行の「チェーホフと現代」。副題は「いま、なぜチェーホフなのか」。最近、チェーホフが頭の半分近くを占めているので、向こうから合図を送ってくれる。「そろそろ読んだら?」

 こだわっていればいいのだ。

 それを読みたい思いを押しとどめ、『かもめ』の再読を始める。今回はノートを傍に置いて、メモをとりながら読む。人間相関図まで書いている。結構、マジメに入れ込んでいる。普通はしない、傍線を引いたり、書き込みまでしている。一回読んで、もう一度精読。これはもしかしたら、脚本ほとんどにしてもいいかもしれない。全部じゃないんだけれども・・・。

 次は最後まで音読してみようとも思う。しかし、ロシア文学って、名前が長くて、そこで戸惑ってしまうってことが少なくない。ナントカローコフカントカヴィッチって、そこで立ち尽くしてしまう。

 チェーホフの入口に立って、KAZEのチェーホフのブックレットがグワンと浮かび上がった。しばらく持ち歩く。もしかすると、ロシアの医者は酒飲み大会で死んだという噂のある劇作家より、面白いのではないかと思っている。

 

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友澤晃一『あなたがいるから』を読む

 平成22年だったか、現在より数年後のある家族が舞台。夫婦とその親、娘と息子、前妻との間の娘、それに二人の浮気相手。引きこもりだった息子が自衛隊に入り、海外派兵で戦争。自衛隊初の戦争経験者ということでマスコミが押し寄せてというもの。上演の際にきちんと整理すれば、それなりに面白い舞台になるかもしれない。

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土屋理敬『田中さんの青空』を読む

 奇妙な味の作品。電車の中で痴漢を捕まえる女から始まり、子連れで友達と買い物に行く女、カラオケボックスで歌う女等、それぞれ一人で演じられる。次第に彼女達のつながりがわかる。ズームアウトしていくような感じといえばいいか。練習用に、使える、かも。

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『かもめ』について

 今日もぼんやり、うっすら、考えた。『かもめ』の幕切れは発砲らしき音がして、医師が確かめに行き、彼の医薬関係のナンテロが爆発したと伝え、一人の人物に母親を連れ出せ、彼女の息子が自殺したんだと伝える。自殺した彼を主人公にすることは可能だ。モスクワ芸術座で演出したスタニスラフスキーはそういう演出をしたのかもしれない。しかし、「自殺した」という台詞で緞帳が下りる時、涙が出ない。

 悲劇=涙、喜劇=笑い。おそらく世界はそんな簡単な図式ではないのかもしれない。『リア王』だって、結構みんなズレていて、笑えるもんな。『マクベス』だって、あのせっかち病は、喜劇寸前でもある。喜劇とか悲劇とかいうレッテルで芝居を観るのは如何なものか、もしかしてチェーホフはそういう問いかけをしたのかもしれない。ダンテの『神曲』だって、原題にはコメディいの言葉あったような・・・(怪しい、ナ)。

 「喜劇」だからといって、人間を道具として扱う限り、芝居ではない。ここまできちんと書きこんでこそ芝居なのだ。そういうことなのか、アントン?

 ともかく、あと何回か読んで、次の作品に行こう。作品は多く、ぼくの余生は短く。しかし、とことん納得こそ、だ。今度はじっくり読んでみよう。

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沼野充義訳『かもめ』を読む

 一気に読んでしまった。訳文がすごく読みやすく、訳者のこだわりと遊びにほくそ笑みながら、楽しめた。

 問題は「喜劇」。井上ひさしの『ロマンス』の中でチェーホフは「一生に一本でいい、うんとおもしろいボードヴィルが書きたい」と言う。そして『かもめ』にも「喜劇」と書いてある。喜劇とは何だ。

 悲劇には主人公がいる。『かもめ』には主人公がいない、と、考えるのはどうだろうか。人間模様。登場人物の誰もが、生活を持っている。別役実が『電信柱のある宇宙』で人形について書いていた文が思い出される。髪の毛まで人間のものを使い、人間そっくりの人形を作った場合、それは神への批判になり、戯画化したような人形は人間への批判。確かそんな文章だった。前者を悲劇、後者を喜劇と考えれば、納得がいく。そうなのかどうかは、今後他の作品を読みながら、考えたい。

 『ロマンス』で、スタヌフラフスキーとチェーホフが議論する場面がある。ある場面でえらく時間をかけ過ぎているとチェーホフは演出を批判する。喜劇はスピードがないと模様が薄れてしまう。

 『ロマンス』は昨年10月に『すばる』に掲載されていたようです。ウッカリ、ガッカリ。

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