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沼野充義訳『かもめ』を読む

 一気に読んでしまった。訳文がすごく読みやすく、訳者のこだわりと遊びにほくそ笑みながら、楽しめた。

 問題は「喜劇」。井上ひさしの『ロマンス』の中でチェーホフは「一生に一本でいい、うんとおもしろいボードヴィルが書きたい」と言う。そして『かもめ』にも「喜劇」と書いてある。喜劇とは何だ。

 悲劇には主人公がいる。『かもめ』には主人公がいない、と、考えるのはどうだろうか。人間模様。登場人物の誰もが、生活を持っている。別役実が『電信柱のある宇宙』で人形について書いていた文が思い出される。髪の毛まで人間のものを使い、人間そっくりの人形を作った場合、それは神への批判になり、戯画化したような人形は人間への批判。確かそんな文章だった。前者を悲劇、後者を喜劇と考えれば、納得がいく。そうなのかどうかは、今後他の作品を読みながら、考えたい。

 『ロマンス』で、スタヌフラフスキーとチェーホフが議論する場面がある。ある場面でえらく時間をかけ過ぎているとチェーホフは演出を批判する。喜劇はスピードがないと模様が薄れてしまう。

 『ロマンス』は昨年10月に『すばる』に掲載されていたようです。ウッカリ、ガッカリ。

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コメント

延岡のリサイクルショップで、ロシア詩集と世界戯曲集が「ご自由にお持ちください」だったので、遠慮なくいただいてきました。
主人公がいないのが喜劇というくだりは同感です。
というか、歴史からヒーローが消えてしまった。むしろ歴史自体がヒーローになってしまう時代なのです。
と、何かの本で読みました。

投稿: 田中 | 2008年7月 1日 (火) 22時28分

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