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まだ『かもめ』について考える

 喜劇4幕。このチェーホフの但し書きが混乱を招いているとしたら、結局はチェーホフとのズレがあるからではないかと思う。今日も昼食の時にパラパラとめくりながらチェックしたところを眺めた。チェーホフは、もしかしたら、当時の芝居に対してNOを突き付けるために喜劇という言葉を使ったのかもしれない。『かもめ』の中で歓喜や笑いは乏しく、自殺、不倫、家庭崩壊の気配、諦め、そういうものが大半を占めている。ところが、それを観ている(読んでいるのだけれど)者は、そういうことより、たとえば人間相関図を書いたりしている訳で、なるほどこういう世界か、大変だァとか思っている。チェーホフにとって、人間世界が喜劇であり、それを描くのが芝居だったのではないか。書き方によっては、大笑いの芝居になってはいただろうけれど、彼は人間をきちんと書いたため、笑いよりも別の面が浮かびあがったのではないか。推測ばかり並べても仕方ない。ひとまず、チェーホフから離れて、盆辺りから彼の全集に取り組もうと思う。小説も含めて、全部読んじゃうぞ!

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