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チェーホフ『公判前夜』を読む

 未完の作品。予想はつくものの、チェーホフがどう終わらせるのか、読みたくて仕方ない。どうやら、短編小説をもとにしたらしいので、現在年代順に読んでいるので、数ヶ月後には出会うことになるだろう。

 これでチェーホフの戯曲は全て読んだ。これからは短編小説。気が遠くなる量だ。もしかすると芝居にする作品に出会えるかもしれない。宝さがしに、いざ!

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立ち止まった台詞(0)

 学校ってのは、日本の世間体が凝縮したような場所なんだ。(鴻上尚史『グローブ・ジャングル』)

 大分の教育が大きな問題になっている。ひどい話だな。どこかの教師が飲酒運転をすると、学校では「服務規律研修」が行われる。そんなことをしてはいけません、ということをやる。今回の不正を受けて、大元の県教委はどんな研修をするのだろうか。不正で採用された人より、採用した側の方がはるかに重罪なのだ。学校が活力を失っている中、空虚な横文字で事業をしてきたが、茶番だとわからない感性と想像力。そういう連中が現場を仕切っている限り、学校はよくならない。廃校、統合、それくらいしかできない。それは改革ではなく、後退なのだ。県教委がそれをしてどうするんだ。遠距離通学の生徒が増える。家計は苦しくなる。それに対しての思いやりのカケラもない。彼らは自分のことしか考えていない。だから、学校が悪くなる。

 鴻上の脚本は面白くない。ただ、彼には批評家としての才能があり、それが、彼の作品の中では面白い。

 これから、脚本の中で拾った面白い台詞を書いていきます。今回は、あまりに県教委の犯罪に怒りがおさまらないので。20万を挨拶と考える富松という審議監は異常ですね。その異常が当たり前になっているということでしょう。教委にしろ、管理職にしろ、自分のことしか考えていない連中の何と多いことか。学校の世間体って、教委や管理職の世間体です。

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チェーホフ『タチヤーナ・レービナ』を読む

 結婚式。神父の言葉や聖歌隊の歌の合間に交わされるささやき。舞台よりは映画向きかもしれない。その設定で現代日本のどこかの披露宴会場を舞台に映画化したら、面白くなるだろう。

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チェーホフ『街道筋』を読む

 街道筋の木賃宿が舞台。そういう場所だからこそ、どんな人間でも出すことができる。酔っ払い、巡礼の老人、馬車の故障で仕方なく立ち寄る金持ちの婦人、犯罪者等。チェーホフの舞台では珍しい。ただ、ここでも没落や不倫が漂う。チェーホフって、女でひどい目に会ったことがあるのだろうか。

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チェーホフ『プラトーノフ』付け足し

 チェーホフ作品の多くに没落していく人達が出てくる。広大な土地を持ちながら、その土地が借金の抵当になっていて、もはやどうしようもない状況にある。でも彼らはどうしようもない。どうしようもないまま、滅びに向かう。

 無節操な恋愛沙汰の何と横行していることか。そういう時代だったのか。

 プラトーノフには4人の女が情熱を傾ける。それを納得させる俳優がいるんかいな、と、思う。条件が整えば、「プラトーノフと4人の女」、そういう形で書きなおしてもいいかもしれない。こういうのって、誰かやってるのかいな。そこに絞り込めば、悠々我慢の時間内で上演できるのではないか。

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チェーホフ『プラトーノフ』を読む

 長い。チェーホフの4大戯曲を全部足したくらいの分量があるのではないか。原卓也の解題を読むと、いつ書かれたのかわからないらしく、表紙部分が欠落していて、タイトルがわからず、生誕100年の時に主人公の名を付して上演したらしい。『題名のない戯曲』『父なし子』とかのタイトルの場合もあるらしい。

 長いが面白い。たくさんの人間がごちゃごちゃと出る場面はそうでもないが、プラトーノフを中心に数人の登場人物になると、面白い。どう展開していくのかが気になって仕方なかった。

 この作品の中には後の彼の戯曲のすべての要素が入っているといってもいいかもしれない。そういう意味では一度読んだ方がいい作品だろう。読み終えても疲れよりも軽い興奮が残った。チェーホフ中で一番。もっとも、上演は難しい。

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チェーホフを読みながら

 先週の稽古場で話したけれど、旗揚げ、2回目、その公演のどこかで、ぼくの内に観客に媚びたところがあったかもしれないので、次はそういうのではなく、そっぽを向かれてもいいから、本当にやりたい芝居をしたい、と、話した。

 実は次の公演は笑いをメインにつくりたいと考えていた。しかし、チェーホフを読みながら、そして彼の不遇の劇作家時代を考えたりしながら、当り前だけれど、精一杯で挑むべきだと考えた。

 他の仲間はそれぞれ脚本を持ってくるだろうけれど、ぼくはやはり書くしかない。チェーホフに脚本には、背中を叩いてくれるものがあるような気がする。焦らず、丁寧に考えていこうと思う。これが白鳥の歌になる覚悟で。

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チェーホフ『森の主』を読む

 『ワーニャ伯父さん』はこれを書きなおしたもの。それは共通の台詞が多いのですぐわかる。ワーニャにあたるフルシチョーフ(ソ連時代の首相の顔を思い出してしまった)が自殺してしまうところが大きく違う。やはり書き直しの方が整理されていてわかりやすい。

 それにしても風に秋が漂ってきましたね。もう少しすれば、夜が読書には最適になる。今しばらくの辛抱。

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谷亮子はいい顔になった

 オリンピック閉幕に伴う特別番組に谷亮子が出演していて、彼女が涙をぬぐう仕草が時折あるので、カメラはアップで映し出すんだけれど、いい顔になってますね。その良さは彼女がもちろん自分でつくりあげた訳で、オリンピックに5回出場したそうで、20年間トップを目指した日々の取り組みの結果だと思う。一流の顔の好例かもしれない。

 時にはアルバムを引っ張り出して、自分の顔の流れをチェックしてみるのもいいかもしれない。こすっからしい生き方をすればそういう顔になる。女性は一日に何回も鏡を覗きこむだろうが、その辺の目は忘れない方がいいと思う。一番頑張った時の写真の中の自分をみるのは効果があるかもしれない。

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チェーホフの短編小説を読む(1)

 チェーホフの短編小説は11巻までに収められているのでかなりの量になる。はたしてどれくらい時間を要するのかわからない。千里の道も一歩から。

 今日読んだ数編の中で一番面白かったのは『隣の学者への手紙』。隣の学者に幾つかの科学的なことへ反論する手紙なのだが、彼の理論というか、それに笑い転げてしまう。彼の最初の作品かどうかわからないが、初期のものであることは確か。こんなに可笑しいものを書けるのに、彼の「喜劇」で笑えないのは何故か。もしかすると、短編小説がどこかで変わってくるのかもしれない。となると、彼の作劇の秘密が見つかるかもしれない。

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チェーホフ『桜の園』を読む

 チェーホフが死の前年に書いた最後の作品は「喜劇 四幕」と書いてある。

 『三人姉妹』のナターシャが『桜の園』ではロパーヒンとなって現れる。ナターシャより強力になっている。彼は農奴の子だけれど、最終的には桜の園を買う。そういう時代なのだ。そういう時代の流れを知ることもなく、だから抗うこともあんく、無邪気に翻弄されていく人達と違い、ロパーヒンは流れを知り、だから桜の園を救う術を知っており、アドバイスするんだけれど、桜の園の人たちは耳を貸さない。桜の園を出た彼らが、果たして生きていけるのか。悪い人たちではないだけに、思いやられる。

 そういえば、チェーホフの作品に悪人はいない。対立やズレ摩擦はあるものの、悪人はいない。ただ時代の流れ、というよりはうねり、か、そこでは人間の愚かさが出ることもある。ただ、希望はある。トロフィーモフの言葉の中にそれを感じた。『かもめ』のニーナの最後の台詞にも似たような響きがあった。

 人間だけを見つめて、その人間を語ることはできないんだろう。ある状況が引き出す人間の一面。作家はそこに目を向けるのかもしれない。

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チェーホフ『三人姉妹』を読む

 お父さまはちょうど一年まえ、それも5月5日の、あなたの「名の日」になくなったのね、イリーナ。

 『三人姉妹』はこの台詞で始まる。そういいえば、今まで読んだチェーホフ作品に父親はいなかった。明日読む予定の『桜の園』を開いて登場人物をみると、やはり、父親はいない。

 チェーホフは、父親の店がつぶれ、逃げて、他の家族はモスクワに移住し、16歳から19歳まで、孤独で過酷な3年間を故郷で過ごした。19歳の時に奨学金でモスクワ大学医学部に進み、家族と一緒に住むようになってからは、彼が「家長」として家族の生計を支えた。チェーホフは44歳で死去するが、妻オリガとの間に子どもはいない。彼の生活には「父性」は欠如していた。チェーホフ作品の父親不在については格好の論文材料になりそうだから、どこかの誰か書いてあるだろうから、そういうのはそれに任せておけばいいだろう。

 3幕は近くでの火事の場面。三人姉妹の家に迫ってくる火事は彼女達を襲う何かを象徴しているのかもしれない。彼女達は火事に抗うことはできない。次第に存在感を増すナターシャも、その何かの部類になるかもしれない。

 「1900年10月、作者は書き上げたばかりの戯曲をたずさえてモスクワに出た。クニッペルはチェーホフがはじめて『三人姉妹』を原稿を朗読したとき、芸術座の面々が”これは戯曲ではなく梗概だ、これじゃ演技できない、役柄がない、ヒントだけだ”と、口々につぶやいたという逸話を伝えている」(池田健太郎「解題」) バカな!

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チェーホフ『ワーニャ伯父さん』を読む

 『イワーノフ』のイワーノフ、『かもめ』のトレープレフ、ワーニャはその系譜にある。頭がよくて、それ故時代や社会に多くのNOを見出しながら、なす術がない。そして、たぶん、女性を引きつける容姿。ここまで似通った人間を描いていると、作者が反映されているのではないかと考えてしまう。イワーノフとトレープレフは銃で自殺、ワーニャは時代と社会の俗悪、独善の権化のようなセレブリャーコフを銃で殺そうとするが果たせず、「つらい」と泣く。死ぬこともできない。『かもめ』のトレープレフは演劇に多大な関心を持ち、幕開きには「新しい」芝居の脚本と演出をする舞台が展開するし、いずれは作家になる。『かもめ』には「喜劇 4幕」とあり、どこが喜劇なのだ!と思うけれど、トレープレフに自分を重ねていたのであれば、チェーホフは自嘲気味に「喜劇」としたのかもしれない。そして、ワーニャでは病は深まっている。

 一幕でのアーストロフとアーストロフの代弁をするソーニャの台詞に、自然保護を訴える部分がある。その通りと強くうなずてしまう。それが1890年の終わりに書かれたことに驚くとともに、チェーホフの英知を感じた。

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チェーホフ『かもめ』を読む

 神西清の訳。読みやすく、わかりやすかった。7月に沼野訳で3回ほど読んだいたからだと思うけれど。ニーナの最後の台詞がいい。

 明日は『ワーニャ伯父さん』読むつもりだけれど、「ワ」に「”」がついているので、はて?と思っていたが、『かもめ』でも「モスクワ」の、「ワ」に「”」がついているではないか。ぼくは国語科の教員のところに行き、、「ワ」に「”」がついているけれど、それはどう発音するのか訊ねた。そこに居合わせた工業科の教師は「えッ、そんなんがあるんかい」と異様に興奮した。国語教師もどうやら初めてのことらしく、インターネットで調べて推論を述べてくれた。ロシア語のある表記の時にそうなるのではないか、と。あるところでは「ヴァ」という表記もあった。どうせ、日本語では「R」と「L」の音に違いはないのだから、混乱を招く表記はやめて欲しい。それにどうやって打ち込めばいいのだ。

 明日も神西清の訳だけれど、申し訳ないけれど、『ワーニャ伯父さん』と表記させて下さいな。あらかじめ、お断りを。

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たかお氏のコメントについて

 訂正と解説を。 

ぼくの声が流れたのは「フレッシュ・イン・東芝 ヤング、ヤング、ヤング」というラジオ番組で、前田武彦と小橋玲子がパーソナリティをつとめていた。

 東芝が「アクタス」というカセットレコーダーを出し、それを記念して「アクタス・アドベンチャー・サウンド・コンテスト」を番組でした。携帯できるその録音機を使って、どんな音を録音するかというアイデアを募集。10人に「アクタス」が贈られ、録音したカセットテープを送るというもので、その10人に選ばれ、放送した2つの一本に選ばれたという次第。

 ぼくは「まっすぐ歩く」というアイデアで、近くの野山を歩いただけ。放送されたものは、それを上手に編集してた。放送されたものを聞いて、「できません」を「できましぇん」と言っているのをきいて、サ行の音には注意するようになった。

 40年前の話。でも、その頃カセットレコーダーを持っている人間は少なかった。テープが高くて、なかなか買えなかった。ぼくは人生の運をあそこで使い果たしてしまったのかもしれない。でも、たかお氏、よく覚えているなァ。

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チェーホフ『イワーノフ』を読む

 こんなに悩む人間を見たことも読んだことも聞いたことがない。イワーノフ自身ハムレット2,3回口にするが、ハムレット以上だな。悩める人間の代名詞にハムレットはなったけれど、ハムレットの方が先に生まれたからだろう。腹が立つくらいに、イワーノフは悩む。幕切れも、腹が立つ。腹が立つけれど、面白く読めた。その面白さの正体はわからない。

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様々な場面、様々な人たち(2)

 大学で演劇部に入った。プレハブの文化部の部室。高校時代の憧れの人が演劇部だったので、演劇がどういうものか知りたくて、と、言っているが、実は何故かわからない。覚えていない。

 大学紛争の残り火がくすぶっている頃で、部室にはヘルメットや角材があった。上演する学生会館ホールはガラスが割れ、壁には「日本帝国主義打倒!」みたいな落書き。「この辺で血が流れたんだ」と先輩は、「コーヒーでいいか?」と同じ口調で教えてくれた。

 その先輩の学費は年12000円。ぼくは36000円。入学した時の学費のまま卒業まで続く。ぼくが院に進んだ時は値上がりしたものの、70000万だったか・・・。とにかく、高校時代より安かった。

 変な学生が多かった。ぼくは先輩に連れられてあちこち、その変な人たちの場所に足を運んだ。ただ座って、観てるだけ、聞いているだけ。マージャンなんか知らないのに。でも、それなりに楽しかったし、そこでぼくは人間を観察する面白さを知ったように思う。そして、そういう流れの中で人脈みたいなのができ、ロックバンドを舞台に置いてのミュージカルとかもできたのだ。

 ぼくは今まで上の人から色々と可愛がってもらえたように思う。行動力がある訳でもないし、コミュニケーション能力がある訳でもなく、「いつも静かに笑っている」ような人間だった。記憶が明瞭でないのは、たぶん、いつもボーッとしてたからだろう。国立大学に合格できるとは思っていなかったのに、そうなって、ぼくは不思議な思いのまま、無防備だったような気がする。何があっても「ああ、そうなのか」てなことで、それを受け容れてたように思う。「肌の色をきれいに見せるにはどういう照明にするかを学ぶために、ストリップ劇場で照明のバイトをしたんだよ」にぼくはスゴイと思ったけれど、今ではそれがウソだと思うオトナになっちまった。

 昨年、英語教員の10日間研修を受けて、びっくりした。7割は無駄で下らないものだったが、岡山大学の先生のオールイングリッシュの講義の何と面白かったことか。最近の学生は幸せだ。ぼくの英文科ではなかった。だから、芝居に軸足を置いたのかもしれえない。その軸足は今もぼくを支えてくれているけれど。

 夏の終わりの感傷か。

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伊坂幸太郎『グラスホッパー』を読む

 最近読んだ小説の中では一番時間がかかった。読むのが苦痛だった。死の匂いに満ちていて、だからといって何もない。『終末のフール』の作者だから、何か仕掛けがあるのかと思って、でも耐えきれなくて、閉じて、とにかく最後まで読もうとした。

 昔、鶴岡高校の夏休み明けの読書感想文を読んだとき、『ハリー・ポッターと賢者の石』が多く、知らなかったので、書店に注文した。しかし、2ページでポイした。新しさも何もない。ところが、作者は今や城を買って・・・。だから、伊坂作品を我慢して読んだのではない。とにかく最後まで読まないとわからないし、何も言えないと思ったからだ。

 最近の図書館の本は、腰巻を表紙裏に貼り付けている。「面白いにもほどがある」という腰巻が貼られていた。そう。「ほどがある」んだ。こんな「ほど」はゴミという「ほど」か?

 3人の視点での繰り返し。何人が死んだか。そして、ウソ以外に何があるのか。頭で書くとこうなるのかもしれない。よかった、頭がなくて。

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夏休み、終わり

 地区の盆踊り。最後は受付でもらった番号で、半券を子どもたちが引いての抽選。我が家は4枚あったけれど、最後のおまけで傘が当たった。ちょうど雨粒が落ち始めていたので、ラッキーじゃないかということで。

 一週間の夏休みが終わった。豪雨のオン、オフの繰り返しの奇妙な天候で、植木の水やりは免れた以外、特にこれといって何もなかった。寝っ転がるか、ビールを飲むか、本を読むかだけ。メタボが進行したか。でも、芝居が心から離れたことはない。「動けない人たち」という一人芝居のオムニバスを考えついたけれど、はて?

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松尾スズキ『女教師は二度抱かれた』を読む

 文芸誌に演劇界の才能が掲載されるのが、面白い。文学がブンガクになったようにも思う。演劇と文学は別モノというのはお互いにあったけれど、書かれたものは読まれるのだから、どう違うのか?面白い現象かもしれない。ぼくは松尾の作品には興味がない。押入れ探して、もう一つ読んでみようか。

 

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チェーホフ『タバコの害について』を読む

 チェーホフ全集を買ったのは教員になって間もない頃だった。あの頃はよく全集を買った。モリエール、エリオット、ラテンアメリカ文学、福永武彦等。読んでるには3割。モリエールとエリオットは何回目かの引っ越しで失った。もったいない。今考えれば、若い頃は結構使える金があった。あの頃に戻れたら、結婚はしないだろうナと思うが、わがままな遺伝子がそうはさせないか。

 これを最初に読んだのは学生時代だった。その時は長く感じたが、短い。そして結婚という経験が、そうなのだ、と、思わせたりする。いやあ、歳は取るもんだと思う。いや、そりゃあ、歳を取ることで魅力的な女性との恋が遠のくのは無性に寂しいことではある。しかし、仕事などでの苦労に比べて、女性とのあれこれの何と屈辱的で、不毛で、絶望的なことであるか。まあ、そういうことをチェーホフと共有できる面白さを楽しめる。

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そんなアホな!

 焼肉タレのCMで、若者が焼肉を食っているところに若いお母さんが子どもを連れて「「タレ、貸して下さい」というのがある。どうやって返すんだ?

 面白いCM、すごいと思うCM、CMは短い時間で楽しませてくれるものがある。ただ、中には、首をかしげてしまうものもある。

 CMを作る人はかなり優秀な人がいると思うけれど、「タレ、貸して下さい」の一言はあり得ないと思う。効果がない。

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チェーホフ『創立記念祭』を読む

 喜劇に必要な要素を幾つか教えられる。期限が差し迫っていることが、一つ。それがないとダラダラでも問題ないので、喜劇にはならない。関係のない人間を出し、差し迫ったものが妨げられることで混乱を増幅させるのも一つ。そして、登場人物には必ず地位や名誉を重んじる人間がいること。『創立記念祭』にはそれがある。後は、そこから派生してくるものは無数にある。

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『崖の上のポニョ』を観る

 さきほどスーパーに行ったら、突然の雷雨。スパーの明かりが消えた。レジも戸惑い程度の混乱。不謹慎かもしれないが、貴重な経験を楽しめた。

 さて、『ポニョ』。

 始まりの絵がちょっと雑な感じがした。ポニョが母親かと思ったら、そうじゃなかった。それにしてもポニョの旅立ちの理由と目的地がわからない。ただ、最後まで観せるのはさすがだ。ただ、観終わった後、世界が水没した理由、どうやって解決したのか、そもそもそこまでの異変を出したのは何故なのか、それが大きな疑問として残る。映画の中にその糸口すら見いだせなかった。昨夜オリンピックの野球をずっと観て、睡眠不足のため見落としたのかもしれない。もちろん、作品の中の全てに説明は要らないけれど、そこに一人の少女がいること自体が奇跡的なことに支えられているのだと言われれば、ぼくは大きく頷く。でも、その奇跡的なことを描いているとは考えにくい。『トトロ』は小さな田舎町の小さな話で、それが日本のどこにでもある話だったが、ああいう風にはならなかったのかな。ウーム。ただ、観て損はない。全て手描きらしいが、コンピュータ画像が多い最近の映画の中では、手描き故の魅力はあるし、観たあと考えるのもいいではないか。

 チケットを買った後、上映までの待ち時間に書店に飛び込んだら『文学界』があったのも収穫だった。

 

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チェーホフ『披露宴』を読む

 結婚披露宴のドタバタ。チェーホフの時代のロシアでも、披露宴で見栄を張ってたんだなあと思う。

 日本の披露宴は色んな国や宗教のあれこれを取り込んでいるという文を読んだことがある。全ては業者の金儲けに協力しているとしか思えない。それに反対しても、「そういうものだ」と考えている向きも多く、それと闘うくらいなら、我慢する方が辛くはない、そう考えている人も少なくないと思う。もし、ぼくがまた披露宴をするようなことがあれば、こうしようという考えは沢山あるけれど、また結婚なんてことがあり得ないから、無駄な考えではある。

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チェーホフ『心ならずも悲劇の主に』を読む

 6ページ、11段に及ぶ長台詞で述べられる夫であるための苦しみ、辛さ、絶望を読んで、鼻で笑う既婚の男たちがいるだろうか。もしいれば、その人は例外的に幸せな結婚生活、家庭生活を送っているか、あるいは、仕事や遊びに逃げているかではないか。

 恋人と妻は全く別の人種だ。恋人時代の可愛さ、優しさ、くすくす笑いはすべて消え失せ、独裁者に「進化」してしまう。チェーホフが30歳前、結婚前に、これだけ書けるということは、彼の観察眼、か。

 観客を男限定にして上演したら、面白いかもしれない。

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『文学界』を探す

 今月号の『文学界』に松尾スズキの新作戯曲が掲載されていることを新聞の広告で知り、今日、佐伯の書店を数件回った。佐伯の町中には他県ナンバーの車が結構多く、いつもは一回待ちの信号で2回待った。昼日中にだ。そして、目的のものは見つからなかった。

 松尾の脚本は押入れのどこかにあるはずだ。まだ読んでいない。あれを読めばいいということなのだろう。ということチェーホフに専念しなさいということか。

 ついでながら、ぼくは仏教にはそれほど関心はない。だから、盆だからといって特別な思いはない。祖母がそこそこ仏教に敬意を払っていたので、彼女のために、すべきことはする。仏教抜きで、死者を思い出し、思い出をオソボソ語るのはいいと思う。また、それを機会に帰省し、旧友と会うのは意義深いことだとは思う。それだけだ。帰省された皆さんの無事の帰着を祈ります。

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様々な場面、様々な人々(1)

 「泥棒の役が上手いねえ」と佐藤先生は言った。中学の時にどういう経緯かは忘れたが演劇に出ることになって、ぼくは演目も何もかも忘れてしまっているが、佐藤先生の言葉だけは覚えている。次の年も英語劇でピエロの役をしたけれど、何故泥棒だったのか、何故ピエロだったのかはわからない。

 ただ、佐藤先生(女性の英語教師)の「泥棒の役が上手いねえ」は明確に覚えている。「泥棒の役」が上手いのか「役が上手いねえ」なのか、今はぼんやりと考えたりするけれど、褒められたことが少ないぼくにとっては、貴重な一言だった。

 褒めることが大切だという考えは教育現場にもある。ただ、その時に「叱る」とのバランス問題があるのではないか。昔、カウンセラー講座を受けたことがあるが、班ごとの実習の時にぼくは注意された、「もっと大きな声で相槌を打たなければダメよ」と。彼女はそういう経験があるのか、ぼくに注意してくれたが、ぼくは違う。大きな声で「そうだよね」とかいうのはウソなのだ。気持の問題は声だけではなく、視線や姿勢にも現れると思う。

 話が逸れた。

 佐藤先生が褒めてくれたことは、もしかすると、彼女も演劇が好きで、ぼくを認めてくれたのではないか、と、今、強引に結論したい。それを思えば幾つかの場面でしり込みしたことを後悔するけれど、中学時代のあの一言がぼくを励ましてくれる。「歳とっても上手ねえ」と言われたいナ。佐藤先生、お元気でしょうか?

 

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チェーホフ『熊』と『プロポーズ』を読む

 『熊』は最初から結末が読める。熊みたいな男と色白の華奢な未亡人のキスシーンで終わる、はて、どんなキャスティングをすれば面白いか。

 『プロポーズ』も最終的には結婚まで行きつくのだが、『熊』よりも面白い。プロポーズに来た先で女と土地の権利で口論になり男は帰る。ところがプロポーズに来たことを知り、呼び戻す、と、今度は猟犬の顎が短いだので口論になる。この二人が結婚してうまくいく訳がない、と、確信したところで、チェーホフは結婚させる。何ということだ。また不幸な夫婦を生産してして・・・ああ、でもそれが現実なんだよな。わかる。わかるよ。籠の外の鳥は中に入りたがり、籠の中の鳥は外に出たがる。フランスの諺だったか。まあ、チェーホフだって、幸せな結婚をしたとは思えない。これを書いた時は独身だったけれども。

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OBS番組を観て

 TOSと同じで、今までのまとめでしかない。新しい情報も、目を開く推察もない。何のために、誰のために、そういうことを考えると、そろそろ幕引きをしているそお先棒をかついだのではないかと勘繰ってしまう。

 教育長は「良心」を口にするけれど、良心があれば、今度のような事件は起きていないはずだ。それに、良心みたいな曖昧模糊としたもので解決しよという姿勢自体に膿を出す考えがないことを語っているとしか思えない。どうせやるんだから、世界に誇れるシステムつくりをしないと。簡単に幕引きはできない。

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贅沢な人生

 北島の金メダルについて「ニュースステイション」の報道を観て、才能をのばすために費やされたものがいかに莫大であるかを知った。松岡修三が2年前インタビューした時に、松岡は北島は終わりだと思ったと言ったし、北島も「誰か新しいスターを探した方がいいですよ」と洩らしたそうだ。北島が金メダルを泳いだ後、タオルに顔をうずめて泣いた。彼ほどの人が、と、思ったが、松岡の話でわかった。

 五木寛之の『日本三銃士』という小説に「文藝春秋」の1月号と9月号を買う男の話がある。彼の押入れには原稿用紙が山とある。もう作家の夢を捨ててはいるが、芥川賞作品が掲載される「文春」を買って読んでしまう。

 夢は誰もが一度は持つ。そしてその夢を叶える人間は1%程度だろうか。「ほぼ叶えた」という人はぼくの近くにもいるけれど、果たして、「ほぼ」という言い方でOKしていいのだろうか。夢は、向かっていくほど、明確になるのではないか。

 北島が今まで経験した苦難は凡人のぼくの想像を超えるだろう。それから逃げることなく、挑み続け、結果を出した人生は贅沢だと思う。贅沢ってのは他の人間が真似できないものだ。

 『想い出のチェーホフ』の中に次のような台詞がある;

 「もしあなた方が現在のためだけに働いているなら、あなた方の仕事はなんの役にも立たなくなる、ただ未来だけを見つめて仕事をすべきだ。」

 眼差しを上げ、遠くを見る。そしてささやかな決意をして、ささやかな取り組みを始める。全てはそこから始まるのではないか。そして、夢に養分を与えながら生きていこうじゃないか。芝居に、がんばります!

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チェーホフ『白鳥の歌』を読む

 佐伯は不安定な天候で、ズヴァーっと雨が降ったかと思うと、晴れ間が見えたり。おかげで庭(というほどのものではないが)の木々に水をやる手間がはぶけるのが何よりうれしい。ただ、「道の駅やよい」にメダカの水を汲みに行った時、ズヴァーッときたのには参った。

 北島康介の金はすごいが、バドミントンも世界ランキング1位を破ったそうで、これは試合を観ないと。

 『白鳥の歌』は老いた役者とプロンプターの老人との二人芝居。どんどん役がなくなっていく男の悲哀。帰っても誰もいない部屋。一度結婚のチャンスもあったが、その女との別れの件に、男の舞台へ向かう気概があるが、結局はこうなってしまう。ぼくも最近人生の仕上げ方みたいなことを考えているが、チェーホフはこの作品を26歳の時に書いたことを知り、若い時にできない奴が歳とってできるはずないか、なんて考えながらビールを飲んでいる。

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TOS特番を観て

 マスコミとしてひ弱な感じがした。最後に教育長の謝罪で終わるのもおかしい。言ってることも、滑舌が悪いうえに、内容は変わり映えしない。あそこから初めて、新しい視点なりを示すべきなんだな。ジャーナリスト魂がどこにあるんだ。今までのまとめだけではないか。『クライマーズ・ハイ』の地方新聞を読んだ後は、情けないと思った。圧力でもあるのか? 

 情報は流される。しかし、その多くはマスコミだけれど、マスコミが流すものを受けて、考え、話し、行動する。しかし、そのマスコミが真実を報道する気概があまり感じられない。ワシントン・ポストの記者の行為は映画にもなった。キャパの写真はどうだ。

 警察官、自衛隊員、消防士、みんな死を覚悟しながら、やっている。マスコミはどうだ?使命を自覚しないまま、情報を垂れ流すだけだ。受け手をなめてるんじゃないか。TOS特番を観て、そう思った。

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レオニード・A・マリューギン『想い出のチェーホフ』を読む

 チェーホフ、どうしようかと思っていたら、『悲劇喜劇』9月号が届けられて、それに民藝が公演する脚本が掲載されているではないか。チェーホフ、宿命か?

 どうもチェーホフが書いた、チェーホフに届いた手紙で構成しているようだが、作者の創作がどれくらいあるのかはわからない。もしかすると全部かもしれないし。登場人物の台詞はほぼ全てが手紙を読む形になっているので、一体どのような形で上演したのだろうかと興味を持った(初演は1971年で、演出は宇野重吉だったらしい)。動きがあまりないから、難しいだろう。登場人物の中にゴーリキーがいて、彼は面白い。彼の作品を図書館で探してみよう。

 で、チェーホフを読むことにした。色々と小用の多い一週間あけれど、はて、どれくらい読めるか。

 

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伊坂幸太郎『砂漠』を読む

 5人の男女の大学4年間を描いている。一人が左腕を失うような犯罪絡みのあれこれに出くわす。それなりに波乱万丈なのだろうが、犯罪を抜いてしまえば、それほど面白い学生生活には思えなかった。ぼくの学生時代の方が断然面白かったように思う。読み終えて、ぼくは大学時代をなぞったのだが、この本は面白すぎたらいけないと思って書かれたのではないかと思った。何故なら、自分の学生時代を思い出すきっかけを与えるのが目的だから。

 さて、ぼくは今日から夏休みに入る。9日間。チェーホフに挑むつもりだったけど、はて・・・。

 

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伊坂幸太郎『チルドレン』を読む

 小説で時々途轍もなく魅力的な人物と出会うことがある。『チルドレン』の陣内がそうだ。言うこと為すこと、笑ったり、すごいと思ったり、感心したりする。もしかすると小説家の才能は、そういう人物を創りだせるかにあるのかもしれない。

 図書館で伊坂作品を数冊借りた。『終末のフール』が面白かったからだ。『チルドレン』は家裁が舞台だけれど、『終末』に比べ、設定が小さいから、その小ささ故の面白さもあるけれど、『終末』は設定だけで読ませるし、何でもありの状況が想像をめぐらせた。2作目だが、ハズレはない。

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東野圭吾『容疑者Xの献身』を読む

 そこそこに面白い。それぞれの人物がもう少しくっきり浮かび上がる描写があれば、ドラマが生まれるかもしれない。

 昨日時間つぶしの本屋に入ったら、同じ本の文庫が積まれていて、映画になるらしく、物理学者を福山雅治が演じるらしいが、読みながら福山の顔がちらついて仕方なかった。でも、ピタリのキャスティングかも。その時、仕事帰りのOLとぼしき人がその山の上から2番目を一冊取った。妙に親近感を覚えて、声をかけたくなったが、やめた。

 そこそこに面白いと書いたが、かなり、じゃないけれど、面白い。暑さを忘れた。

 

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伊坂幸太郎『終末のフール』を読む

 地球に小惑星がぶっつかって世界が滅ぶという設定で、その中を生きている人達を描いている。そういう状況になったら、はて、自分はどうするかしらんという思いが読ませる。こんなことはしないだろう、これはするかも、そういう思いが入り混じりながら、最後まで行く。そう言う思いで、今日を生きていくしかなかろう、と、平凡だが確かな考えがくっきり浮かんだ。

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老人とんがれ、まるくなるな!

 小泉元首相が集票したのは、とんがっていたからだろうな。以後の安部も福田もとんがっていない。つまりはポリシーがないからだろう。

 まるくなるというのは歳のせいだろうが、同時に慣れ合い、あきらめ、エネルギーの低下ということになるのかもしれない。そのためには、こだわる何かを持つことだ。徹底的にこだわり、若い連中に負けない気持ちを持つことだろう。

 若い連中にわかってもらおうとは思わない。懸命さがなければ、こんなジジイに劣る取り組みと付き合う暇はない。だって、生きる時間が短いのだから。自分から若い連中に歩み寄ることも要らないだろう。そんなことをしていれば、当然、嫌われる。孤独な生活。それでもいい。いい加減な奴らに合わせて生きるよりは、孤独な生活でもいい。本と犬と花や木がある。そういうジジイでありたい。

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東野圭吾『黒笑小説』を読む

 最近目にするので、本屋にぶらりした時に文庫本を買った。『放課後』以来だから、20年以上ぶりになるか。江戸川乱歩賞受賞作ということで新刊を買ったが、それほど満たしてくれなかった。今読んだらわからない。

 長編はどれも厚いので気遅れした。短編集の方が、気楽な気がしただけのこと。

 昔遠藤周作を読んでいた頃、狐狸庵シリーズみたいなものかしれないと思った。本腰を入れて書くための、気休めというか、バランス取りというか。文章が推敲されていない粗さみたいなものを感じた。解説の人も「ガス抜き」という言葉を使っていた。ただ、「インポグラ」や「みえすぎ」は面白かった。やはり才能のある人なんだな。それで図書館で長編を一冊借りた。同時に、伊坂幸太郎と吉本ばななを。結構、今まで手を出さなかった作品群ではある。

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ゆっくり読書をしよう

 ぼくは本を読むのが遅い。小学生の娘の方がはるかにはやい。そういう時に速く読むことを意識して読むと、作品を味わえなくなる。遅くて当たり前という方法がある。

 音読。これしかない。声に出して読む。目と耳で読む。できれば、一音一音をはっきりと声に出すようにすれば、作品を鑑賞する以上の効果があるのではないか。どういう効果だ?と訊くか? わからん。わからんけど、それをすれば口に乗りやすい作品ほど作品にはまっていくし、他の雑念は消えるし、口の健康にはいいのではないか。

 「お母さんといっしょ」でもそういうコーナーがあったような。

 昔は、作品を書いたら、親しい人を招き、彼らの前で作者が音読したというではないか。傑作ほど口に乗る。

 ぼくは風呂に水をはって、そこにズボンと入り、本を読むのが好きだ。読書は、たぶん、自分と向き合う作業。ならば、好奇心であちこちに触手をのばせばいい。片寄は、他の自分の面を殺すことになるのではないか。

 無人島に持っていきたい本はありますか?

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とんがる

 『悲劇喜劇』の8月号に松本修が書いていた一言が頭から離れない。昔の「小劇場の連中のなんととんがっていて、かっこよかったことか」みたいな内容だった。

 大学で演劇部に入ったものの、「こうする、ああする」みたいなものだった。ある時、状況劇場が来て、唐十朗という名前は知っていたので、まァ暇だし、観に行った。河川敷に赤いテント。長蛇の列。待たされて、テントに入れば、満員調整。前に出てきた兄ちゃんが「せーのー」でちょっとずつずってスペースをつくっていく。そして、テントの向こうが見えて、対岸から男二人が飛び込むのが見え、びしょ濡れの二人が舞台に上がり、長靴から水をこぼして、芝居が始まった。根津や小林やらがかっこよかった。

 確かにとんがっていて、かっこよかった。

 どうやら、あの時のその辺を忘れていたようだ。

 かっこいいのは無理だけれど、どこかでとんがっていたい。そう思う。

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河合隼雄・吉本ばなな『なるほどの対話』を読む

 以前、河合が村上春樹との対談を読んだとき、村上の創作の姿勢、書き方みたいなものを知り、面白いと思った。今度は吉本ばなな。吉本の作品は読んだことがないけれど、読みたくなった。創作の根っこの部分がほの見えてきて、芝居を書く上でも、生きる上でも参考にもなった。

 いよさん、あなたも読んでみたらいいとおもいます。暑さにめげず、しっかり生きて、楽しんで、またいい作品を書いて下さい。高校生相手ではなく、オトナに向けて書きませんか。もちろん、ぼく達が上演します。

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