« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

『死ぬまでにしたい10のこと』を観る

 夫にも、子どもにも、母にも、恋人にも、自分に死期が迫っていることを知らせずに、死への準備をしながら、やってみたいことをしながら死を迎える。彼女があたふたしないので、乾いた眼差しで、彼女を見ることができる。不思議なことに、彼女は美しく、魅力的になっていく。

 生きることは教えるのに、死ぬことを誰も教えようとしない。そういうことを言ったは誰だったか。ただ、死は誰も避けることができないし、生きるということは死に向かっていることも確かなこと。交通事故を恐れて、家に閉じこもっていても、地震で家がつぶれたり、飛行機や隕石が落ちてきたりというこも可能性がゼロとは言えない。宗教は、死から今を考える方法の一つかもしれない。ただ、ハムレットが言うように誰も死の国から帰ってきた人間はいないから、死んだらどうなるのかは誰にもわからない。そのわからないことに過度の恐れや脅えを抱えて生きても、おかしい。だから、ぼくは、通勤途中にドッカーンとぶっつかり、ぶっつけられ、死んでもいいような生き方をするしかないと考えている。しかし、いざ末期ガンの宣告をされた時、彼女のように冷静に受け止めて残りの日々を堂々と生きていけるか、自信はない。自分をこれほど考える契機になる映画も珍しい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

立川談春『赤めだか』を読む

 面白い。談春の前座時代を中心に語られている。ただ、談春よりも師匠の談志の方が存在感が大きく、談志の方が見えてしまう。それくらい談志が偉大ということなのだ。確かに、弟子が引用する談志の言葉は偉大さを証明している。こういう面白い本を読むと、生きていてよかったと思う。

 脚本見習のぼくに響いた言葉を一つ。「ドラマ性をどんどん追及していくと、クサく、くどくなっていく」。そうなんだよなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お前、離婚したんだろうが!

 小朝と離婚した元女房が独り相撲しながら、疲弊しきっているような感じがする。会見の文章を読みながら、元女房は断ち切って、波当津の海岸で一人ボケーっとするくらいした方がいいんじゃないかと思う。

 男と女の問題は人類永遠の問題だ。二人三脚じゃない。わたしが歩いている傍にいる人。それdいいんじゃないか。

 求めてはいけない。できることをする、それが相手のためになればラッキー。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

創作日記(6)

 脚本が進まなくなると、何か異質なものを飛びこませることで、解決してきたことは多い。だから、たいてい脚本の設定は、キャストの数から、一人か二人引いて書き始めたりした。ところが一人芝居だと、それが難しい。ただ、そういう時は虫でもいい訳で、蟻をそれにしたこともある。蟻なら、客席から見えなくても何の不思議もない。

 今回は二人芝居。そして、それぞれが閉じ込められた狭い空間、加えて、明かりはほとんどない。音か、思い出、それくらいしかない。そう、今、行き詰っている。解決策は無数にある。、と、信じている。息詰まるからこそ、面白くなるのではないだろうか。そういう時こそチャンスなのだ。もちろん、成立していないからこそ、の可能性も濃厚ではあるけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『釣りバカ』と秋の風

 「間違っていたら、ごめんなさい」と、先日通夜に参列して帰ろうとしていた時、ある男の人が近づいてきて、「『釣りバカ』に出ていませんでしたか」と言われた。出たというより、かすめた程度なので「はい」と応えるのが苦しい。

 昨日はコンビニのカウンターで女性店員から同じようなことを言われた。これはいけない。画面をかすめた程度で「出ていましたね」と言われてほくそ笑むのはヒッチコックくらいだろう。恥ずかしい。こういうことは今後控えたい。

 冷えてきた。朝の犬の散歩もウインドブレーカーが要る。まだ暗い中、懐中電灯を持って出る。帰る頃には薄暗がりで明かりがなくても大丈夫だが、その頃、東の空の雲と光が描く空の模様はいつも違う。しばらく眺める。時々写真を撮る。そして、昼間、の青空。この時期、青空は遠くに誘う。視線が上を向いている時期だからこそできることがあるはずだ。季節に左右されてもいいんじゃねえか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『ショーシャンクの空に』を観る

 無罪の罪で終身刑になり、暴力と不正のはびこる刑務所に送りこまれる。脚本が素晴らしい。そして画面も引き締まっていて、最後まで目を離させない。

 『ノッティング・ヒルの恋人』の中の台詞に「男たちはギルダと寝て、私と目覚める」とかいうリタ・ヘイワースの言葉が使われているが、そのリタ・ヘイワースの映画がチラッと出てくる。その使われ方も見事。男たちの歓声もよくわかる。独房の壁のポスターがリタ・ヘイワースからマリリン・モンロー、ラクエル・ウエルチへと変わっていくことで、終身刑の時間の変化も出ている。

 そして最後は、それまでの押さえつけられて溜まりに溜まったものが一気に吹き飛ぶ爽快感。昔、ある同僚の女性が好きな映画に上げた時、何故すぐに観なかったんだろう。そういう素直さ(?)がないと、損することは多いとわかっているのに。大きな悔いと大きな収穫。間違いなく、ぼくのベスト5の一本に入った。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

宮本輝『血の騒ぎを聴け』を読む

 最初の「遠足」でやれてしまう。似たような思いはぼくにも経験がある。小学校の頃って、自分が何や何やらわからず、上手にコントロールできず、っていうやつ。

 宮本輝の小説は随分前に数編読んだ。面白い。『ドナウの旅人』を買ったところで、何かがあったんだろう、そして読もうとしたら、上下巻の上が見つからず、そこで終わったような記憶がある。それまでに読んだ小説は、今思い出そうとしても、どんな内容だったかだけでなく、タイトルさえ思い出せない。これは宮本作品だけでなく、これは面白そうだと買って帰って、読み始めたところで、これは・・・と思い、それでも読み続けて、ああ、これは以前読んだ!と気づいた時のショックは、老いを突きつけられたようで、何とも惨めで情けなくなる。

 もうエッセイは書かないらしく、これが最後のエッセイ集らしい。小説を読みたくなった。とにかく上巻をさがすか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

劇団ひとり

 劇団ひとりが演じた棟方志功のドラマを観た。よかった。

 劇団ひとり。ふざけた名前ではない。基本的には正解なのだ。一人立ちできない人間には芝居はできない。

 彼の演技もよかった(想定内だけれど)。棟方志功が支えた部分も大きかった。

 劇団ひとり、いい役者。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

『最高の人生の見つけ方』を観る

 封切りされる頃のCMで、これはいつか観るだろうと思っていた。昨夜、『ダイハード』を借りに行った店で、最初に目にとまったのも、縁、か。

 発想はいいと思う。しかし、J・ニコルソンを金持ちにしたのがよくない。金持ちだから何でもできる。そういうところで、最高の人生を語られても、ぼくのような昼食400円の人間にとっては接点が見いだせない。色々しなくていいから、たとえば、熊さんと八さんの二人が、という方が断然面白いと思う。

 最高の人生、その見つけ方も、すでに多くの人はわかっている。それを確かめるとこに金で解決してはいけないと思う。日常の当り前の「ほころび」から展開するようにした方がいい。ぼくなら、そう書く。

 昨夜から3本のアメリカ映画を観た。『ダイハード』はご都合、『幸福の追及』は実話だけれど作品の足腰が弱く、『最高の人生の見つけ方』は最高を金で解決した大間違い。腐ってもハリウッドだったのは昔。腐ってしまったハリウッドという印象を受けた。何が原因かは、ぼくなりに考えを持っているけれど、いずれ書くことになると思う。

 脚本を書く上で刺激を受けたかったのだけれど、ダメだった。古典でないとダメか?

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『幸福の追求』を観る

 いつかは生活が楽になるかもしれないと思いながらも、なかなかそうにはいかない。啄木はじっと手をみた。鏡で自分の顔をみる勇気はなかったのかもしれないし、鏡を買うこともできなかったのかもしれない。楽にならなくても、生きていかなければならない。それを受け止めて、生きていかなければならない。宝くじが当たった人間を殺して、その金を奪って、生きていけるかというと、生きてはいけない。何故なら、生きるということは積み重ねていくことだから、その積み重ねをチャラにしたら、どうしようもない。やった後で、チャラにした生活が愛しく思えるのではないか。

 実話を基にしたらしい映画だが、主人公には手をみる余裕はない。子どもがいるのがよかったし、それが生きる旺盛を支えていた。映画の最後で、主人公は貧困から脱出できたようだ。制作者のスタンスが曖昧で、何をどう描きたかったのかが、よくわからない。脚本にもうひと工夫があってよかったのではないか。実話が障害になったのだろうか。昔観た、マイケル・J・フォックスの『摩天楼はバラ色に』コミカルに描いていたが、そっちの方がぼくは好きだな。

 世界的に景気が落ち込みつつあるようだ。生活は過酷になるかもしれない。こういう苦しい人もいるけれど、彼のように旺盛に生きることに立ち向かっていかなければ、と、思う。主演俳優はいい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『ダイハード4』を観る

 落ち込んだ時はバカな映画がいい。その代表の一つが『ダイハード』。やはり、良い。観て、アハハ、そして何も残らない。アメリカ人はこういう映画をつくらせたらうまい。「何が映画が芸術だ、バカヤロー」ってなもんで。

 ただ、あんなに銭かかけて、アホだと思う。アホだと思うからいいんだな。

 大林宣彦の『さびしんぼう』の方がはるかに心は動く。

 でも、いいんだ。時にはこういうバカな映画も。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

葬儀の形

 昨夜通夜、今日葬儀に参列した。個人は一徹な人で、黙々と農業に取り組み、その一方退職した後は朝の子どもたちの交通指導に取り組んでいた。

 朝の交通指導は雨の日もあれば、冬は凍える。彼の前を通り過ぎる小学生は「何時ですか」とたずね、彼はその都度袖をちょっと上げて「7時14分」と答えていた。その子どもたちの母親の一人が「大変ですねえ」と言ったら、「こういうことができるのがありがたい」とこたえたという。葬儀では弔電披露の最後に、その子どもたちの代表からの感謝の言葉が読まれた。

 弔辞は友人、お別れの言葉は孫。孫の言葉の方が断然よかったのは、言葉に感情があるからだ。友人の言葉は、それを読む自分を意識してしまうのか、その都度乾いていく。孫のつたないけれど、ストレートな言葉はこういう時強い。孫の悲しみが伝わり、泣いてしまった。周囲からのすすり泣きはしばらく続いた。

 坊主も良かった。朗々とした声はつつましく、長くなく、気持ち良かった。彼は昨夜の通夜で歌うような読経をした。素晴らしい声で、オペラ歌手のリサイタルかと思うほどだった。

 ぼくもそんなに長くない。明日死んでもいい生き方、それは何なんだ。そういうことを深く考えさせられた葬儀だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

創作日記(5)

 朝、弥生の湯に行く。とことん汗を出した。入る前と後で体重が0.8キロ減っていた。ただ、血圧が高いか。

 その後、本庄の方を走り、おふくろの見舞いに行って20分ほど話し、本屋で数冊買い(こういうことは最近ない)、スーパーで買い物して、帰りに娘を拾って、帰る。

 ウッドデッキにパソコンを持ち込み、ビールを飲みながら、書き始める。犬も解いて、足元に。う~ん、いい。書き始めると、そうだったんか、と、思いながら、舞台と演技を想定して、微調整しながら、書く。今日は原稿用紙にして、4枚。たぶん書きなおさなくてはと思いながら、とにかく書いた。5時過ぎには、すぐ近くの西の山に太陽は隠れた。

 今日の収穫は、言葉遣いをちょっと変えるだけで、人物が広がっていくこと。つまづくな、近々。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

創作日記(4)

 今日は英検で日曜出勤。今まで、英検には興味がなかったけれど、英検の問題は勉強すれば答えられる。入試問題のように歪んでない。だから、生徒にはいいかもしれない。それに全国区。勉強し甲斐がある。監督しながら、筆記問題をやって、リスニングを聴いてると、睡魔。ある大学の先生は、喋っている時には生活音があるから、教室の中での英語は実際とは大きく違うというが、生活音はなくていいが、会話が単調で、こんな死んだ会話はあり得ないと、睡魔と闘いながら、呪った。

 とりあえず、今日は睡魔を鎮め、明日のウッドデッキとビール。1ページ書ければいい。自転車をこぎ始める時が一番力が要る。転がり始めたら、後は坂道だけ。それまでに勢いをつけないと。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

創作日記(3)

 この日記の一回目で眠ろうとしている時に考えたことか、夢なのかが曖昧だ、みたいなことを書いた。夢の手前だと思うが、タイトルを考えていた。それが、『たとえば、こんな二人』。たぶん、ポスターのことまで考えて、2列にするのは、それだときちんと2列におさまる、と、考えていたおぼろげな記憶がある。ウーム。タイトルは、芝居の顔だから、こだわるのだけれど、考えるより、浮かぶのを待つことが多い。

 登場人物の名前も同じ。高校演劇をやっていた頃、県外のある学校の生徒が「うちの顧問はスナックの女性の名前を使っています」と教えてくれたことがある。ぼくはも似たようなもので、どうしようもない時は好きだった女性の名前を使っていた時期がある。ある脚本で「伽椰子」という名前を使ったことがあるが、『伽椰子のために』というはるか昔に読んだ小説のヒロインのものを借りた。登場人物には思い入れがある、だから、結構同じ名前を使っていた、と、思う。

 最近は名前を出さない。男1、女1だけで通す。途中で名前を出せば、以後その名前を使う。

 今回は、相手を呼び合うから、名前が要る。ポチでも寿太郎でもいいのだが、名前で違和感を与えてはいけないと思い、一人は極めて平凡な名前にしたい。もう一方は、その逆がいいかナと考えている。

 場所が決まり、そこがどんな状態か、そして登場人物に名前をつければ、不思議に彼らはおしゃべりを始める。最初は、おいおい、それはないだろう、と注意すれば、聞きわけのいい彼らは、以後注意されることなく話す。ぼくはそを速記するだけ。今回、は、はて・・・。

 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

創作日記(2)

 ある程度ノートに書いていくと、世界がおぼろげならはっきりしてくる。この辺が一番好きな時間だ。パソコンで書き始めると、このワクワク感はなくなる。書き始める時は、炊飯器のスイッチを入れる時に似て、後は炊き上がりを待つだけ。

 ヨウカンさん、曲をつけてみたいとのことですが、この歌は男が女と付き合っていた頃に作った歌です。男の武骨さが漂う方がいいので、男が作らないとダメです。洗練さは要らないのです。曲をつけるのは、男を演じる役者か、ぼくです。

 明日は体育祭。月曜が代休なので、新装したウッドデッキで、秋の日差しの中、犬を傍らに、ビールでもすすりながら、書き始めようと思う。今しばらく、この揺り籠の時間を楽しもうと思う。実際は、考えることが多く、右往左往しているのだけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

創作日記(1)

 昨夜、二週間ぶりに稽古場に行った。オーストラリアの中学生へのおもてなしと腰痛。この腰痛、舞鶴高校時代に、生徒と飛んだり、跳ねたりした後、テニスをして、アコード・エアロデッキ(懐かしい!)に座ろうとした瞬間のズキン!以来、時々の数回目。だから、昨夜も、体育の授業の見学状態。

 そこで、新しい脚本について、現在たどり着いている所を話した。構想とか話しても仕方ない。現物を出すしかないんだけれど、今回は二人芝居ということを事前通知するのが目的。

 帰って、風呂に入って、黒霧のワンカップを飲んで、眠った。ところが眠れない。興奮するようなものはないのに。そこで、寝返りをうちながら、挿入歌を考えた。稽古場で書いた詞を代表に渡し、来週までの宿題にしたけれど、ぼくはぼくで曲をつけてみようと。そのうち、芝居の台詞が幾つか浮かんできた。起きて、ノートに書こうかと思いながら、ここは眠らないと次の日の仕事が危ういと考え、考えを追った。そのうち、闘いのシーンを考えていることに、こりゃおかしい、と、目を開けて時計を見たら、2時。夢だったのか。そして5時に起きて、犬と散歩しながら、夢のことを考えていると、身体の粒子が脚本に向かっていると感じた。

 犬との朝の散歩もウインドブレーカーを着るようになった。素手では冷たい、そんな朝だった。

 やはり、芝居を考えるには、稽古場の空気を吸うことだ。二週間のモンモンが、稽古場で話すことで、うごめき始めたのだから。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

フルイコの酒場

 以下、渡辺保『声と身体性のゆくえ』より;

 矢野誠一に『フルイコの酒場』というエッセイ集がある。

 矢野誠一はスペインに行ったらば是非ともフルイコという町の酒場に行きたいよ思っていた。

 偶然スペインに行くチャンスが巡ってきて、地図や観光案内で調べたがフルイコという町がない。スペイン舞踊の小松原庸子にも聞いたし、現地の人にも問い合わせたが、だれも知らない。しかし矢野誠一には、一度も行ったことがない「フルイコの酒場」の光景が目に焼きついている。多分写真で見たのだろう。「ちゃんと着飾った男女や、いかにも仕事帰りといった感じの労働者たcが、思い思いの恰好で古いテーブルに自分のグラスや酒を置いて、談笑している。あそこへ行きたい。

 しかしスペイン滞在中にフルイコの町は発見できなかった。

 そして帰国したある日、越路吹雪のイサイタルで、彼女の歌う「ろくでなし」をしばらくぶりに聞いて愕然とした。

 彼女が「フルイコの酒場で、たくさん飲んだから」と歌ったからである。「フルイコの酒場」はここにあったのか。そう思った次の瞬間、矢野誠一はさらに驚く。「フルイコの酒場」は実は「古いこの酒場」だったからである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

はるな愛を観に行く

 娘が是非みたいということで、彼女の友達を乗せてトキハに行った。

 開演40分前で、会場はすし詰め状態。「相方不在」という女性のコンビが前振りをして、登場。何故人気なのかわからない。15分ほどして、携帯に電話があり、もういい、だと。

 トキハでは同時に『釣りバカ』の写真展もやっていて、西田、竹内と写っている写真もありました。こちらは、観客はチラホラの「チ」くらい。今週の土曜に佐伯で舞台挨拶があるとかで、一応入場整理券が当たってはいたのだけれど、学校での業務の関係で行けない。実は今は観たくない。ほとぼりが冷めてから、更に数年寝かして、誰も借りなくなったレンタルDVDで観ればいいか、な、と思っている。だから、どうか、観たから云々とかいう話はしないでね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

演劇とストーリー

 昔書いた脚本の設定だけを基に脚本を考えている。この脚本にはストーリーらしきものははない。状況と人間だけ。

 ぼくは演劇にストーリーは要らないと、ここ、10年近く考えている。何故そう考え始めたのかは、わからないけれど、台詞で説明するような部分はできるだけ排除したいということかもしれない。

 以前、読書感想文について書いたけれど、あれから数人に読んでもらって、学年ごとに県大会に行く作品を決定したけれど、読む人によって意見がこうも違うのかと思った。何を書いたかより、どう書いたかをぼくは基本に考えた。たとえば、読んだ本の一言で書いてもいいと思うのだけれど、そういう結果にはならなかった部分がある。

 劇場に足を運ぶ人は何を求めているのだろうか。それは意味のない疑問かもしれない。ならば、何故演劇をするのか。ストーリーだけならば、小説でもいい訳だ。

 緒方拳と串田和美の『ゴドーを待ちながら』を観た時に、ぼくは『ゴドー』がすごく身近な世界に感じた。解釈しようとると、難しくなる。そんなに難しく考える必要はない、と。

 岩松了の『シェイクスピア・ソナタ』がまだ、頭を巡っている。何があって、どうなるんだ。「お前は、どう読んだ?」と問われているように思いながら、「すみません、もう一度読みます」という言葉を用意しているぼくがいる。

 こうなって、だからこうなるのよ、とかいう形で説明できない芝居に今度は挑みたい、そういうことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

緒方拳はいい役者だった

 彼のように愛された役者は珍しいと思う。

 今朝、「おはよん」で彼の死を知った時に驚いた。彼のHPの掲示板には多くの書き込みがあった。

 ぼくは彼のサインのある脚本を持っている

 彼と串田がやった『ゴドー』を観て、そうだったのか、と、思ったものがあった。

 『太閤記』を観たのは、ボーッとしてた頃だったが、面白かった。でも、一番好きなのは『必殺仕事人』だな。

 芝居で幅広く遊べた人だったと思う。生き方の地平で芝居をすることができた幸せな人だったのかもしれない。もちろん、そこまでいくまでの大変を乗り越えたからこそ。見事な生き方だった。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

岩松了『シャイクスピア・ソナタ』を読む

 シェイクスピア作品をさりげなく出しながら、それを生かしながら、人間たちを描いている。これがプロの作品か。

 打ちのめされた。まだ、立ち直れない時に、彼の作品が掲載された「せりふの時代」が届いた。勘三郎との対談もあり、その中で勘三郎が避けてきた作家と発言している。怖い作家だ。ただ、その作品も読まなくては。

 日常のあれこれに埋没して、芝居を考えなかった。脚本については忘れてはいないけれど、まとまった時間で考え、整理することを怠った。そうすると、さて戻ろうとすると、衰えた筋肉を感じる。生活の中心に据えないと。

 岩松の『シェイクスピア・ソナタ』は多くのことを考えさせてくれた。姿勢が変わった、か?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

オーストラリアから中学生が帰ってしまった(6)

 土曜日は城島から九重の夢吊橋へと。あんなもの1万もらっても乗らない、そんなものにお金を払って乗るのは、クレイジーとしか思えないものに、怖いもの知らずで、悲鳴もあげず顔色も変えず、ポンポンと乗っていく。参りました。日曜日はカラオケを経験。そして、今朝、帰っていった。

 そしてまたいつもの日常。何かをすると、「サンキュー」とか言ってしまう後遺症が。

 日常に異質なものが入ってくると、日常を見つめ直す機会になる。あるいは日常と異質なものとの間のズレが、オセロゲームのように現状を並べ替えたりする。異質なものを生活に取り込むことは、だから、意味があるように思う。

 さあ、演劇に戻らなくては。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

オーストラリアから中学生がやってきた(5)

 ちょっと具体的に書けないけれど、夕食に行った店はひどかった。そういう店に連れていったことが、国交に影響しないことを願うばかりだ(大袈裟か)。

 帰ると、彼女は、インターネットでメッセンジャーのについて設定し始めた。ただ、画面が日本語なので戸惑っていて、助けを求められたものの、それについて知識がないので、ちょっと待っていただいて、インターネットで調べて、それでどうにか設定は完了した。すると、彼女は娘と並んで座り、説明を始めた。わかるんかいな、と、思いながら、部屋に駆け上がり今度は使い方を調べて、手当たり次第にプリントして渡しに降りたら、どうにか使いこなしているではないか。それも英語で何やら書いている。今日で5日目。娘の進歩には目を瞠る。若いということは、こういうことなのか。それだけでも、今回短いホームステイの効果は十分あったと思う。

 こういうチャンスを与えてくれたことを、感謝! まだ終わってない。明日は、家族でとことん遊ぶことになっているが、雨が、また・・・? 雨の多い彼女の滞在になったが、この季節に雨が降ると、その雨が彼女を思い出させることになるかもしれない。そう。そうだった。まだ、終わっていない。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

オーストラリアから中学生がやってきた(4)

 昨日は、やたら眠くて、コトンと眠ってしまった。彼女の方が疲れているだろうにと思いながら。

 来る前は、色々考えて、その時は、と、考えていたけれど、実際はそれ以外のことの方がはるかに多く、はて、と、戸惑ったり、考え込んだり。もちろん、その時はどうにかやり過ごすものの、あとで、あれでよかったのか、こうしたらよかったのではないかということが多い。そういう経験を次につないでいくことが大切だと思う。

 今日、コンビニのおでんを「味見」として、ちょっとだけ試してもらった。ダイコンはNOだった。

 今さらではあるが、最初に、「我が家のルール」みたいな形で明確に示した方が良かったと思う。たとえば、一つだけ家事をしてもらうみたいな。結局距離感がつかめないまま終わってしまうような気がする。あと3日。打破する術はあるのか。

 3日もあるんだ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »