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M1を観る

 この夏、ぼくは無謀にも芝居仲間の一人とM1に挑戦しようと話したことがある。親子のような年齢差のコンビは少ないだろうし、学校には笑いの種がつきないし、と、考えていた。ただ、技術が何もないから、今年は無理だろう。その頃、キングコングが「今年優勝できなかったら離婚する」とかアホみたいな決意表明がテレビで流れたので、よし今年は不幸な家庭を一つ減らすために、と、いい口実ができたのだった。

 今日決勝戦を観て、やれるかもしれないと思っている。NONSTYLEには笑った。これは面白い。堅固なスタイルが出来上がっているじゃないか。敗者復活戦で勝ち上がったオードリーを観た時、これは通常のボケとツッコミのスタイルとは違うと思ったが、これはスタイルで流れてしまう恐れがある。ナイツは従来のパターンだ。ああいうボケは観るにはいいが、やるには抵抗がある。結局NONSTYLEが優勝したが、妥当だと思う。

 先日昨年のM1の放送を観て、そして今回もまた不思議に思ったのだが、あれだけのギラギラの電飾のステージに立って、すぐにネタに入る。時間が4分という制限があるらしくて、だからわかるのだが、会場を枕にしないことが不思議でならない。あの会場で消費される電力量から入ってもいいのになァ。

 さて、今日観て、やはりやってみたいという思いが強くなった。鬼瓦のような顔に加えて、いつも難しい顔をしている人間に何ができるものか、と思うムキは多いだろう。わかる。そうだよな。でも、やるだけやってもいいんじゃないか。漫才型の二人芝居として。

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『四日間の奇跡』を観る

 人間が好きになる映画。こういう映画は文句なしに好きだ。今まで観た映画の中でベストワンかもしれない。主演の吉岡秀隆は、相変わらずのボソボソだけれど、それも許せる。ちおり、と、まりこ役がいい。そして彼らを囲む人達も素晴らしい。敬愛する石橋蓮司(敬愛する、と書いて、漢字が違っていたら笑うナ)まで。

 映画にしかできない世界、オリジナルだ、と、思ったけれど、原作があるんだな。読んでみないと。

 最近は本も映画も刺激してくれるものと沢山出会っている。幸せだ。

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創作日記(8)

 次の脚本は遺書になると言ってきた。単なるメモじゃねえか、と、言われるかもしれない。仕方ない。ぼくは今まで設定だけで書いてきた。今回の設定は佐伯鶴岡高校の顧問の時に書いた『SOS』の設定だけれど、そこでは上っ面をピョンピョンだったけれど、今回は生きることを真正面から考えたいのだ。遺書としてはいい、でしょ?

 宮本輝の小説を読みながら、人間の生死を考えてきた。他にもっといいものがあるかもしれないが、たまたまの流れ。流れでいい。

 DVDで時にテレビで時にパソコンで映画を見ながら、文句も多いけれど、不意に涙を流したり。

 人生での出会いは基本的に私との出会いだろう。出会いは日常にゴロゴロしてる。目をこらし、耳を澄まし、前に向かう精神がないと、出会いは成立しない。出会いに才能が絡む。ぼくは才能がないから、意欲的に前にいくだけだ。

 何か、ぼくが望む世界に近づけているように思う。

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『となり町戦争』を観る

 面白い。世界のあちこちで行われてきた戦争を日本の小さい隣町の戦争にしたことがすごい。江口洋介演じる主人公の台詞「君だけがリアルなんだ」が新しい感触で残る。

 その後、パイオニアの映像と音の説明会に行った。パイオニアのKUROの映像は引き締まって美しい。それに40万を超すブルーレイの再生のみのデッキやアンプにスピーカー。パイオニアの人に「映画を観るのではなく、映画を体験する」と言ったら歓んでくれたので、そのセット合計で幾らと訊いたところ、250万、だと。宝くじが当たったら専用の部屋をつくって、揃えてもいい。OZAWAのベルリンフィルの「悲愴」を体験したが、映像、音、ともに素晴らしい。宝くじ、当たらないかナ・・・。

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宮本輝『花の降る午後』を読む

 人は何故生きるのか。それは結構意味不明な、バカげた質問かもしれない。小学生のころの「何しよるん」「息しよる」と似ている。

 人は何故生きるのかわからない。でも、ぼくは何故生きるか、こたえることはできる。最後のピースをはめ込むためだ。歳を取るということは、ジグソーパズルの作業に似て、最後になるほどに、全体が見え、だからこれだ、そういう判断ができるようになることではないか。

 宮本輝の全集は、以前読んだものをまた読んだりして、以前読んだからもういいか、とかで、7割ほど読んだ。宮本は好色だが、それを満たすほどはモテない男かもしれない。読むほどに、作者が見えてくるような気がするけれど、ぼくの考えはあまりに一般的すぎるし、宮本には外れているだろうナという思いはある。ただ、宮本も、たくさんの小説を書きながら、最後のピースをはめ込む瞬間に向かっているように思う。そこまでには紆余曲折がある。曲がって、折れる道だからこそ、最後のピースの価値は高まる。でも、誰もそのピースをはめ込むことはできないのだろう。

 宮本のエッセイ集の文庫を読んで、ぼくは小説を読み始めた。エッセイ集に井上靖についての文がいくつかある。宮本が靖を尊敬していることがよくわかる。ぼくは靖のいわゆる中間小説が好きだが、靖の描く女性に比べると、宮本の描く女性は魅力がない。読んでて、惚れない、あこがれない。底意地か? ああ、ぼくには宮本の足元にも及ばない、と、思う夜更け。

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『ありがとう』を観る(1)

 阪神淡路大震災が舞台。娘たちのDVDレンタルについていって、ぶらぶらしていて見つけた。

 あの震災の頃、ぼくは大分から鶴岡高校に通っていて、いつも起きる時間の前に揺れた。揺れたなあ、そんなもんだった。で、暗い中出勤する車のラジオで、「今ナントカホテルにいますが、ガラスがちょっとだけ割れています」とかいう声が聞こえた。学校について、あれやらこれやらの後にテレビで煙を上げる神戸の映像をみて、驚いた。あの日、目覚めてからのあれこれは、昨夜の夕食のおかずが何かだったより明確だ。

 ぼくは鶴岡高校の演劇部顧問のとき、地震で閉じ込められた二人の芝居を書いた。今回、オトナとの上演に向けて書き直している。まず、あれを書いて、高校生に上演させたことを悔やんでいる。申し訳ない。もっと、生きることを鮮明にすべきだった。

 来年1月7日の「拡大飲み会」でぼくは、鶴岡に書いた脚本の「劇的ビフォ・アフター」の脚本を渡すことになっている。来て下さい、愛しい人!

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iPOD-nanoに振り回される

 先月、娘二人の誕生日プレゼントにiPОDナノを買った。誕生日は年末と年始付近なのだけれど、たまたま何がいいか訊いたら、それがいいというので、早いけれど、欲しい時の方がいいかと思い、ええいッと電気店に飛び降りた。

 買ったその日に、右往左往してどうにかできた。そして、今日、CDを持ってきて、入れてくれというので、できるつもりが、できなくて、右往左往、左往右往して、立ち尽くした。できない! しかし、最近、老いてきた脳に冷水を浴びせ、マニュアルも一枚の紙の裏表、これはオレが難しくしているに違いない、簡単だからこそ人気があるはずだ、と、考えた。

 で、できた。そう、物事を難しくしているのは人間なのだ。

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宮本輝『道頓堀川』を読む

 『泥の河』『蛍川』に続く川三部作の最後の作品。

 宮本輝の作品には、母親より父親の影が大きいように思うことがある。父親を描きながら男を描いているとも考えられる。

 宮本輝の作品は、主人公を取り巻く脇役の人たち。この作品では、社会の底辺を生きている人達の「うごめく生」みたいなものが描かれている。生きるということ、それに皆様々なものを引きずりながら日々を送っている。宮本は、もしかしたらずば抜けた想像力の人で、場面、場面がはっきり見えているように思う。だから、映画を観ているように読めるのかもしれない。

 今日、図書館利用のライバル生徒に「あれから何冊借りた?」と訊いたら、「2,3冊かな」だと。逆転させてくれない。

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襤褸は着てても

 襤褸は「ぼろ」と読みます。読めるけれど、書けない。伊集院静かが、夏目雅子と飲んでいる時、「バラという漢字、書ける?」とか言って、指を濡らして、カウンターに薔薇と書いて、夏目雅子が感心、結婚したとかいうウソかホントかわからない話を読んだことがある。以来、漢字検定一級を目指している。目指しているが勉強をしていないから、まだ受検していない。まッ、退職したら3年以内には取ってやる!

 さて、現在宮本輝の全集に挑戦しているところだが、東野圭吾を読んだ後だと、書き手としては宮本の方がうまいと思う。比べること自体どーかと思うけれど、人間に対しての眼差しが強いと思う。東野はトリックの方に目が向いているだろうから、これもどーかと思うけれど。

 芝居をしているから、芝居の本を読むのは当たり前だ。ただ、小説は読んだ方がいいように思う。宮本の小説を読みながら、ぼくは映像がかなり明確に浮かぶ。行ったことのないドナウ川の風景やサラブレッドが走る姿、川に浮かぶ船の家の色合い、蛍の乱舞を見る少女の顔。新聞を読むのと、小説を読むのとでは、頭の働きが違う。新聞は情報だもんね。

 金がないから、最近はあまり本を買わない。学校の図書館を利用する。買った本でも、借りた本でも、読めば同じだ。ほぼ。「ほぼ」というのは、自分で金を払ったのとタダで読むのとは心の状態がちょっと違うと思うから。ともかく、金がないから、図書館を利用すればいいのだ。そして、できるだけ、360度開かれた読書をしながら、上質なものを必ず取り入れる。いつもカップ麺だけでは、精神は栄養失調になってしまう。「襤褸は着てても、心は錦」という歌が昔あった。錦を着てても、心は襤褸ではいかんのではないか。

 宮本輝を読めと言ってるのではない。上質への入口としてはいいのではないかというだけのこと。

 精神の充実を!

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宮本輝『避暑地の猫』を読む

 怖い小説だった。5人が死ぬのだから。そしてその背後にあるものが尋常ではない。映画にしたらいいかもしれない。以上。

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生きるということ

 学生時代だったろう。珍しく親父に客が来て、酒を飲み、そこに座った。酒を注ぎ合う手をみて、親父の手が老いているなァと思った。

 その頃の親父の年齢を過ぎている今のぼくの手をみて、あの時の親父の手ほどくたびれていない、と、思う。

 生きるということは様々なことがあるということだ。ぼくはある時から、メンドーな仕事を押しつけられた時、OKした。それがぼくの流れだと思った。流れがある限り、人間は腐らない。NOの時点で流れは止まり、止まって腐っていく。「ああ、そうなのか」

 受け容れることが生きるということではないかと思う。この辺はもっと説明が要るかもしれないが、オトナなら、わかる。

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東野圭吾『ガリレオの苦悩』を読む

 最近の科学を使った犯罪になると、そういうことが可能なんかいナ、と、どうも騙されているような気がしてしまう。ただ、犯罪者が最新機器を駆使することは十分考えられるし、実際、犯罪の質も犯罪者の質も、以前では考えられなかったケースは多い。

 大阪大学工学部出身の東野だから、書けるんだろうなあ。主人公湯川学は、どうしても福山雅治の顔で、喋り方で読んでしまうのは、まァ仕方ないか。

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芳行和子、引退

 次の舞台を最後に引退するそうです。自分のスタンスで丁寧に演技をつくってきた、まさに女優。

 ぼくは一時期吉行淳之介に傾倒していた。彼は黒のスーツを好んだというので、真似をして、以来黒のスーツばかり買っている。しかし、整理をきちんとしていなかったり、朝のバタバタで、上下を間違い、たとえば卒業式の会場で微妙に違う模様に赤面したこともしばしば。

 「自分で幕を引く」という姿勢も、また、生き方としてはいいと思う。最後の舞台の成功とその後の充実を祈りたい。

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宮本輝『錦繍』を読む

 学期末のバタバタが一段落。数ページずつだったのが一気に読み終えた。最後の方で、脇役の一人が泣くシーンがある。そこを読みながら、一緒に泣いてしまった。昼休み。女生徒が3人質問に来た。ヤバイ。泣いている所を見られてしまう。しかし、隠せない。いいや。開き直った。

 修学旅行や宿泊研修で大浴場を利用することがある。嫌がる生徒は少なくない。気持はわかるが、だからとコソコソと隠しながら動くと、他の人は見る。ところが堂々としてると、他の人は目をそむけてしまう。そんなことを言ったことを思い出した。そう、隠してはいけない。何のコッチャ。

 この小説は登場人物よりも、脇役が面白い。一緒に泣いた令子は一番いい。彼女の祖母ちゃんもいいが、令子がいい。令子に会ってみて下さい。

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東京演劇集団風『肝っ玉お母とその子供たち』を観る

 戦争は悲惨だ。しかs、その戦争で食いつないでいる人もいる。その立場に自分がなることにもなるかもしれない。「肝っ玉」はそういう僕たちの一人かもしれない。

 次男が死んだとき、「肝っ玉」は歌う。その歌は圧巻だけれど、彼女の悲しみに入り込むことを拒む。これがブレヒトの「異化」なのだろうかと思った。

 2年前、大分豊府高校で上演されたときより、ずいぶん良くなっていた。若手が育ってきたせいだろうか。ただ、何よりも、「肝っ玉」を演じる辻由美子は素晴らしい。上演が終わって、HRに帰る女生徒が数人「あのお母さんと話したい」と漏らした。立派だ。

 『フランクフルトに恋人がいるサックス奏者が語るパンダの物語』の二人が公演準備に帰るということで、夜のお疲れ会に参加させてもらったけれど、総勢14人の中に入るのは身体の細胞の一つ一つが躍動し続けた。一言求められたとき、「風の底力を感じる舞台」と言ったけれど、そういう舞台だった。

 毎度のことではあるけれど、風が去った後の寂しさったらない。月曜日は種子島らしい。ぼくは南の空を眺め、深いため息をつく。

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腰と会話する生活

 昔、開高健は「バックペイン」のために水泳をした。吉永小百合はバックペインがないのに、毎日1キロを泳ぐとか。ああ、プールに行けばいいかもとは思うものの、行動を小さくしてしまうのが現実。

 今日、稽古場で様々なアドバイスを受けた。

 目覚めてからずっと腰を意識しながら動いている。動かず、専念せよということなのか。そう考えると、まァこういうこといいか。だから治さないのかも。

 どうしようもなくなったら医者に行くけれど、自分でどうにかしようという姿勢は死んでも堅持したい。

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派遣を打ち切られる教え子

 派遣を打ち切られる、と、先日学校に来た卒業生が言った。どうするのか、と、聞いたら、ある離れた場所はどうかといわれたけれど、遠いし、寮があるけれど、汚いから断った、と。

 独身だから、仕事がある限りつづけて「使える私」を印象付けた方がいいのではないか。これから先もっと厳しくなるぞ、と、話した。

 そして、今報道されるむごい状況。これから、日本社会がどうなるか、全く予測できない。とりあえず、最悪の状況を想定して考えるしかない。

 美容関係は人気だけれど、不況になれば、節約するのはそういうところではないか。もっと心配なのがペットのあれこれの仕事。もともと、ウチではそういうところとは無縁だけれど、ペットのあれこれに余裕はなくなるのではないか。

 今までぼくは「実業」「虚業」ということで考えていたけれど、「実業」さえ今は危うくなっている。仮に景気が良くなっても、今度のことで「痛い目」に会った企業が今まで通りの人員を求めるとは思えない。むしろ、今までがおかしかったのだ、そういうかもしれない。

 何をしたいか。同時に何ができるかが肝心なのだろう。ぼくは退職したら、農業の真似事をしたいと考えている。今は休耕地が多い。加えて、日本は農産物の自給率が低い。一人に1万2千円ばらまいて、食事をして消えるくらいなら、何か作りなさい、援助します、とう方が長期的にみてはるかにいいのではないか。

 今の日本に政治はない。無能な議員が自己保身のためだけに動いている。醜い。それを感じ取ることができない人間い政治はできないし、そんな奴に政治を任せられるものか。とっとと辞職しなさい。どうせ、次の選挙で去ることになるのだ。政治家諸君、感受性だよ。首相には皆無。本当に悲しいけれど、悲しいけれど本当。

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寒いゾ!

 土曜日は、佐伯で雪が舞った。朝、いつもは6時に居間のストーブをつけるがここ数日は5時45分につける。点火したとき、部屋の温度が表示されるが、8度から9度。我が家の皆さんが少しでも暖かい朝の食卓でありますように、と、願ってやっておるんだが、暖まらない。ストーブが小さいのか、ナ?

 最近、そろそろガソリンを入れる頃かという時、灯油容器を車にのせて、ガソリンお入れる時に灯油も入れてもらう。今までは配達してもらっていたが、それよりは少しは安いだろうと。昨日のTBSの『ガッチリマンデー』(?)で「イーモバイル」の会長が社員にまで徹底していた「一円の節約は1円の利益」(だったか?)は、確かにそうなのだ。イケイケドンドンの時代は終わっているが、どんな時でも、自分の生活の足元をきちんとみないといけないと思う。

 もちろん、この発想は酒とタバコにはつながらない。遠くないいつか、その二つとも、かなり控えることになるだろう。それは灯油とは違い、舞台に立ちたいからで、タバコを控え、酒を飲まない翌日は明らかに体調が違うことが顕著になってきた。老いている、と、思う。

 老いる。これは、結構面白い部分がある。生活、生き方、そういうものが見えてくるところがそうかと思う。若い頃は何も考えずの行き当たりばったりで、やってきた。それでやれた。でも、もうダメだ。老い方をきちんと考えないといけない「年頃」になっちまった。

 夢の芝居を整理しておこう。

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家で仕事ができなくなった

 金曜日、職員室のほとんどの机にノートパソコンが置かれた。これから、自分のパソコンを持ち込んではいけないし、USBメモリーも使ってはいけない。ウイルス感染と情報流出を防ぐためらしい。外からみると「全員にパソコンが与えられた」と映るかもしれないけれど、全員ではないし、異動の時は置いていく。今まで、使うことが多いときは、パソコンを持っていくし、少しのときはUSBメモリーを持っていけばよかった。職場と家で仕事をすることができなくなった。これはかなりシンドイ。

 ぼくは授業プリント以外は、補習教材、試験問題や通信は全部家でしてきた。家で作成した文書をUSBメモリーで学校に持っていき、印刷していた。それができなくなる。してはいけないのだ。家で作成したものは家で印刷して、ということになるのだろう。部活動に熱心な人間の場合、結構深刻になるかもしれない。

 学校ができた頃、学校は時代の最先端を行っていた。ところが今では時代の後塵を拝するようになった。時代に迎合し、周囲の声に「ごもっともで」でという姿勢で、おかしくなってきた。その「おかしさの」しわ寄せが職場の多忙化につながり、健康を害しての休職が増えている。家で仕事はしたくないけれど、せざるを得ない状況なのだ。「してから帰ればいいじゃんか」と言う人もいるだろうが、それを上の連中は言えない。何故なら残業手当はないから。

 3月までは移行期間だけれど、色々と問題が出てくるかもしれない。ぼくはきちんと守る。何故なら、自由は不自由の中にしか存在しないと思うからだ。

 

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ブレヒト『肝っ玉おっ母とその子供たち』を読む

 東京演劇集団風の上演台本。昨日、風の数人と飲むことになっていたので、その前に読んでおいた方がいいと思い、読んだ。台詞が乾いているように思えた。

 夜は辻さん、柳瀬さん、稲葉さん、『パンダ』(長いので・・・)の中村、渋谷さんらと今日の鶴岡高校の上演に支障がない時間まで語らった。辻さんは、好きな女優というより、以前『響きあう者たち』の舞台を観て、演技に啓示を与えてくれた憧れと尊敬の人。その辻さんと話せた感動は大きい。そして話すほどに、人間性に触れ、ますます好きになった。店を出る時に、ツーショットでの写真をお願いした。こういうことは滅多にない。55歳のおっさんが恥じらいながらお願いしたのだ。

 今朝目が覚めたら、6時47分。いつもなら、朝食が終わる時間。バタバタの中で日常に戻っていった。来週、舞台を観る。

 水曜の予告は明日に回します。

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鉛筆の握り方

 中学、高校は期末考査。試験監督は監督に専心しないといけないので、ぼくにとっては喋れないので苦痛だが、色々と観察できるので退屈はしない。最近ぼくが観察するのは、鉛筆の持ち方、握り方。もっとも、鉛筆を使っている生徒は一人もいない。シャープペンシル。

 以前ノートやレポート用紙の表紙にペンを持っている右手のイラストが描いているものがあった。あれが正しいペンの持ち方だが、今は皆無に近い。親指の先でおさえるのではなく、親指の第1関節の辺りで押さえているのが多い。中には、中指と薬指で押さえているケースもある。これが、一部地域の、一部の学校なのかはわからない。もしかして、学力と関係あるかもしれないと推測して、成績のいい生徒を中心に観察する。ブルータス、お前もか。やはり、正しくない。

 うちの子どもも、同様で、注意して、その時はそういう持ち方をするのだけれど、身体にしみついているのか、直らない。箸の持ち方はいいのに。

 現在、採点の真っ最中。ペンの持ち方と関係あるのかないのか、時に暗号解読のような答案の文字。そこまでいかなくても、aとuとo、hとn、rとv、その区別が明確でない。

 だから、どうというつもりはない。もしチャンスがあれば、ペンの持ち方を観察したらいかがでしょうか。そして、自分の持ち方を観察する。さて、採点の続き。ぼくら、家でも仕事してるんです。そうしないと回らない部分はかなり、あります。愚痴じゃなく、金曜日の内容につながります。

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宮本輝『海岸列車』を読む

 もっとどうにかできなかったのか。そういうもどかしさが残る。そのもどかしさがどこにあるのか、それを考えてみようとは思わない。ただ、面白くないことはない。男と女について考える上ではいいかもしれない。もどかしさの正体は、もしかすると、そこを考える上で邪魔なものが多いからかもしれない。

 魅力的な女性だ、そう思って動かなくなって久しい。どれくらいかはいえないが、何もせず、何もいわず、日々のあれこれの中でまぎれて、消えさるのみ。これじゃあ、イカンかもしれん。老いらくの恋という言葉もあれば、灰になるまでとも言われる。灰をつついていたら、小さな残り火をみつけた。宮本輝の男と女を読んでいると、そんな部分がある。比喩、だからね、比喩。(何の比喩や?)

 

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大分の二つのTVCM

 以前から気になっていることがある。二つのCMなんだが、一つはアパート。「いいないいな、私もこんなアパートに住んでみたいな」というもの。「よし、私も○○に引っ越そう」という決意の言葉で終わる。もう一つは、「私も仕事さがそうかな」で終わる求人のCM。その二つとも、最後の一言がぶち壊しの一言なのだ。

 決めの言葉は難しい。もちろん、すぐに生まれるものではないし、期限があるだろうから、仕方なしということもあろう。しかし、プロだろう。プロにしてはあまりに安易に思えてならない。大分のレベルを上げるためにも、再考して欲しいんだけどな。

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