« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

品川能正『ねこになった漱石』を読む

 日本の国民的作家といえば、はて、誰を挙げるだろう。イギリスならシェイクスピアとディケンズ、アメリカはマーク・トゥエイン、フランスはスタンダール、ドイツはゲーテ、といったところを挙げる。じゃあ日本は、となると、ウ~ム、やはり、漱石? 対抗馬は浮かばない。大学出て、『猫』を読んだとき、巨大だがよくわかった。

 猫たちが描く漱石の生涯。ちょっとピンボケのような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

倉本聰『6羽のかもめ』を読む

 今日、倉本聰の3冊を返し、新たに5冊借りた際、司書に寄贈のことについて話した。そこで、驚愕の事実。香典返しという形でお金をもらい、それで何か本を買う、当時は全集を買うのが流行りだったというのだ。唖然、呆然、ただ愕然。ここ数日間の興奮は何だったのか。宝くじが当たって歓んでいたら、それは前回の宝くじだった、みたいな・・・。

 さて、倉本作品も4作目。今まで読んだ作品のどれもが「老い」を扱っている。そして、倉本聡は同じものを繰り返す使うことがある。たとえば、眠る前に枕を叩いて「枕さん、枕さん、明日の朝は○時に起こして下さい」というのは、今回の作品と最初に読んだ『2丁目3番地』にも出てくる。あるいは、新聞の写真とかで「○○さん、一人おいて、△▽さん」のひとりおいては、『前略おふくろ様』にも出てた。倉本の認印みたいなものか。なお、この作品には蜷川幸雄がプロデューサー役で出演している。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

倉本聰『前略おふくろ様PARTⅡ』を読む

 いったい倉本聰コレクションを寄贈した人はどんな人なのか。倉本作品を読むほどに興味は増した。PARTⅡをトイレに行く時も読みながらの二宮金次郎方式で読み終え、巻末のおふくろ役の田中絹代についての倉本の文章に泣いた後、学校で一番古い人のところに行き、訊ねた。彼は同窓会名簿をめくって調べてくれた。ナント、在学中になくなっていたようなのだ。ぼくは名簿を見せてもらい、その時のクラス担任の名前を覚え、職員室でその担任教師の現在の勤務校を調べ、以前同僚だったと思われる教師に彼がどんな教師なのか、訊ねた。たぶん亡くなった人の親が寄贈したと考え、できれば担任教師に、何故倉本作品なのか確かめたくて、たとえば電話してもいいかどうか、判断材料が欲しかったのだ。言葉に詰まって、ユニークな人です、と、だけ。どうもよくないようだ。ぼくは再び同窓会名簿で、その前後の卒業生の担任を調べ、知っている教師の名前を探した。数名いたが、話せるのは2名。夜にでも、電話してみようか、迷いながらも、傾斜していく。

 ほとんどない情報でぼくが勝手に推測しているだけで、知ったところで、だから何だということなのだけど、ぼくに倉本聰を引きあわせてくれたことを、運命なんて言葉も浮かび、その運命に導かれていきたいと思う。まだ5冊読んだだけで、残りは25冊。ゆっくり考えよう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

倉本聰の面白さ(2)

 「男の頭がラジオの配線なら、女の頭はテレビの配線よ」

 『前略おふくろ様PARTⅡ』の2巻目に出てくる台詞。巻末のキャスト表によれば、小松政夫が演じている政吉の台詞。開高健は好んで「本質は末端に現れる」ということを書いている。この政吉の台詞もまさに倉本聡の鋭さと深さを現わしているように思う。

 倉本聰の台詞はクドクない。切れ味のいい包丁でスパッと切る爽快感がある。クドイ台詞なら誰でも書ける。それを的確な短い言葉で描く、それが職人、プロだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

み~けさん

 『うちのホンカン』は23巻目です。現在読んでいるのが、『前略おふくろ様PARTⅡ』のい2巻目ですから、3月中にたどりつけたらラッキーというところです。

 津久見高校図書館に倉本聡の全集が何故、と、不思議な思いがしてましたが、内表紙にある人の名前があり、寄贈本なんです。女性です。

 開高健は、国語辞典しかおいていない井伏鱒二の書斎を理想としていました。ぼくは真似るつもりは毛頭ないけれど、ぼくの本をうちの娘たちが読むとも思えないので、処分するより、学校に引き取ってもらえないだろうかと考えることがあります。でも、芝居中心に、高校生が読むような小説もなく、読まれることなく処分されるのも・・・。2年前、電算化に伴い、すべての学校で図書が整理され、津久見高校でも読まれない古い本がかなりの数廃棄処分されました。処分するのだから、その後のことまで考える必要はないのだろうけれど、考えてしまいます。

 でもでも、ともかく、倉本聡は面白い。こんなに夢中になって読む作家は久しぶりです。生きててよかった、とさえ思います。いつか『うちのホンカン』について感想を交わしましょう。んじゃ!

| | コメント (1) | トラックバック (0)

倉本聰の面白さ(1)

 『前略おふくろ様PART1』での成功の仕掛けは、主人公サブの母親への手紙文が、ナレーションになっていることだ。これがあって、不器用で、口下手な主人公が動けるし、職場や友人関係で見えない彼という人間もわかるし、彼の成長もわかる。

 そしてこの作品の根底には人間、家族が明確に描かれている。それを強引に解決しようともしない。あるのはヒント程度。解決するのは、読者(視聴者)なのだ。書き手(制作側)が解決していいのは『水戸黄門』だけだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

倉本聰『前略おふくろ様PART1』を読む

 全2巻に18回放送分が収められている。面白くて、一気に読んだ。

 面白いのはト書き。音楽の指定で、「忍びこむように」とか「刺すように」という指定。脚本家だけでなく、演出家の視点が入っている。

 このドラマが放送されたのは、昭和50年10月から翌年の4月。学生時代。部屋にテレビはないし、テレビをみるのは下宿の食事時。生活にテレビが入り込んで、今まで、テレビをいちばんみなかった頃。DVDになってないかな。観たい!

| | コメント (1) | トラックバック (0)

倉本聰『2丁目3番地』を読む

 ぼくが最後にテレビでした仕事は古谷一行と大場久美子の『本郷菊坂赤門通り』という土曜日9時からの連続ドラマで、先輩が『北の国から』を担当していた。連続ドラマでも、『北』の方が一回あたりの制作費が500万ほど高い3200万。本当かどうかわからないが、機材が寒冷地仕様だからとか云々。その先輩は、倉本總が稽古段階から付き合いダメ出しをするとか・・・。

 昨年暮れ、宮本輝を2冊引っ張り出し、カウンターにいく途中、倉本聰コレクションを見つけた。最初から読もうかと思ったが、第1巻は『前略おふくろ様』で4巻。ちょっと重い。それで1巻もの、と、思い、『2丁目3番地』という軽そうな作品を抜き取った。忘れたままになっていたそれを読んだ。

 面白い。登場人物の独創性と組み合わせ。そして、根っこに人間や家族を見据えながらも、重さが暗さにならない会話の妙。決めた。今年は倉本聰全作品に挑戦する。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『7つの贈り物』を観る

 今は梅が盛り。朝犬と遊んでいると、2メートルほど先の梅の木にメジロが数羽、花にくちばしを突っ込んで飛び回っている。ほぼ同じ大きさの黒っぽい小鳥も。田舎もいいもんだ。

 さて、我が家の女性陣が『20世紀少年』を観に行くというので、ぼくはウイル・スミスの『7つの贈り物』を観たかったので、一緒に出かけた。

 なんだかよくわからないまま進み、カットアウトのような終わり方。こういう作り方しかなかったのか、という疑問が残る。18年ほど前に高校生と作った『私の中の彼へ』を思い出したラストシーンだった。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

脚本の書き方を変える

 ト書きを書かない 句読点を使わない そういう方法で今回脚本を書いている こういう形で

 一つは今回演出しないし、出演もしないので、演出と役者がどう考えるかをみてみたい誘惑があった。ぼくはト書きの多い脚本は好きではない。登場人物の台詞で考える方が楽しい。あまりに細かく書いていると、混乱してしまうこともある。また、平田オリザの脚本の記号も好きではない。こう喋れ、ああ喋れと記号で指示する。そう喋ってしまう書き方をすればいいだけじゃないのか、と、思う。読みにくいし、鬱陶しい。

 演出と役者への挑戦でもあるが、同時に、ぼく自身が読み返すときに、労力がかかるのもいい。ただ、書きづらいし、進度が遅い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『水戸黄門』に学ぶ

 今週の『水戸黄門』も面白かった。いつでもほぼストーリーは同じで、場所と顔が違うくらい。でも、偉大なるマンネリだと思う。

 人殺しも平気な悪党が、印篭を見せられ「恐れ多くも先の副将軍・・・」の言葉で平服するのもオイオイだけれど、それでいい。勧善懲悪は、現代にこそ欲しい。麻生内閣にそれがあれば、と、思うけれど、望むだけ空しい。だからこそ、『水戸黄門』なのだ。

 番組の後のニュースで、クリントン「大臣」が来日したニュース。中川「大臣」の醜態が報じられた後だけに、キレの良さを感じた。日本の政治家って、ホント、何もかも貧しく思える。今の政治家の発言は与党と野党のやりとりで、それを聞いている国民なんて眼中にないもんな。『水戸黄門』には、庶民の声がきちんと反映されてるだろ?

 つかこうへいは、芝居より現実の方がススンでいると言った。確かに、あれや、これやはフィクションを超えている。しかし、政治だけは遅れている。どうしようもないほど遅れている。

 『水戸黄門』のバックに江戸幕府は薄い。悪いものは悪い。悪いものは罰せられる。それが印籠の力なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『探究者たちー野田秀樹』を観る

 昔、昔、文学かじりかけ青年だった頃、「別冊文芸春秋」で毎回作家が「執筆5分前」という文章を書いていた。遠藤周作は、山手線に乗り、グルグル回りながら天啓を待つという内容だった。机の前で考えるよりも、目の前を風景が行き過ぎる場に身を置いた方が確かにいい。

 WOWOWをたまたまみたら、野田秀樹が出ていて、そのまま観た。ワークショップの風景、執筆風景、『パイパー』の稽古と上演、そういうものが映し出された。「最近、舞台、映画、テレビドラマって、人間関係を描いていて、それがドラマだと思っている風潮が強いけれど、必ずしもそうじゃない」という言葉に背中をポンと押される気がした。とにかく、めちゃくちゃ面白かった。野田を読む際の、確かな補助線を得たような気もした。

 観終わった後の興奮。天啓を得たような気がした。よし、書ける。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自分を直視する

 鶴岡高校に勤務していた時、強歩大会に出場したことがあります。24キロ。ほぼドライブイン宇目の距離です。日頃、犬とのチンタラ散歩くらいしか運動していないので、かなりこたえました。きつくて歩くけれど、歩く方がきつく思えて走り出せば、これまたきつい。ゴールさせてくれたのは、チンタラ歩いている連中で、こいつらには負けられないという思い。

 今日はポカポカで、散歩には最適。その天候での強歩大会。3割はチンタラの散歩モード。こういうのが年々増えているような気がする。走ればきつい。苦しい。それに向かわないでどうするんだ。一事が万事ではないか。

 昨日NHK教育テレビで「教育テレビの逆襲」とかいうタイトルで素晴らしい映像の連続を観た。開高健の若かりし頃の映像。彼は言った「外部からの危機は問題は大きくないが、自分内部の危機には対応できない」。そうなんだよな。

 生きていくことは自分を知る作業。自分を知るためには、知らない場所に行き、困難から逃げないことだ。来るもの拒まず。若い時はそうでなくっちゃァ。全ては必要なことなんだ。それをパスした人生に恵みはあるのか。

 NHK教育で世界のヤザワが言ったことが記憶に残る。「成人式の日に、タクシーに乗っていたら、成人式会場の前を通って、晴れ着の成人がたくさんいて、運転手さんに、この中で何人が幸せになるんでしょうかって、訊いた」。ほぼそんな内容だった。

 さて、我が身を考えれば、強制されて芝居をかじっている訳ではない。自分でやりたいからやっているのに、時に怠けたくなる。「強制して演劇部に入ったのか? 演劇をしたいから入部したら、今日は部活は中止によろこぶな。怒れ!」と言ったことを思い出し、背筋を伸ばす。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

バレンタイン狂騒曲

 今日は娘たちの買い物に付き合った。バレンタインの手作りチョコをつくるのに材料やら、作品を入れるものやらをあちこちで買うのだ。帰ってきてからも、あれを忘れた、これがなくなったで車を走らせた。彼女達の熱心さは日頃は見られないもので、その熱心さで、誰にあげるん?の質問とかに言葉も滑らかに答えてくれる。やがて母親のエプロンをつけた。気合がトップに入ったのか。

 娘たちがつくっているのは「友チョコ」というものらしく、下の娘があげるのは全部女の子。これがいつか本命が現れるのだろうナ、と、父は歴史の教科書の目次を眺めるような気持ちで思う。母親が、先生には?と訊くと、「我が家以外の男にはあげない」とキッパリ。ただ、あげる人リストの中にぼくは入っていなかった。

 行く先々の店では、バレンタイン関連グッズが盛り沢山。考えた商売人はしてやったりだろう。「チョコをあげないといけない」、この熱は衰えないな。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

松田正隆『天使都市』を読む

 以前、年表をつくっているということを書いた。それよりずっと前、「好きだった人年表」をつくったことがある。もちろん、思うだけだった、憧れただけという人もいるから、かなり手間がかかる。ただ、この手間がべらぼうに楽しい。その人のあれこれだけでなく、その当時のぼくのあれこれ、二人で行った場所とコースやらその経緯やら、思い出はとめどない。

 もちろん、苦いものも少なくない。その苦さも多種多様なんだが、当時よりも苦いかもしれない。あの時、ああしていれば、あんなことを言わなければ、と、青春のリグレットはぼくの背丈ほど積み重ねられている。

 ただ、苦しい結果に終わったものもあるのに、懲りないのは何故だろう。

 もう恋をすることもないと思う。ただ、その手前の部分でのちょっとした会話が楽しめれば、いい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

甘酒の誘惑

 甘酒という文字や音に接すると、何故か自分のないぶでフワーッと広がるものを感じる。その理由が最近確信できた。

 ぼくの住んでいるところは大内(おおち)。昔は梅林があった。梅林といってもテニスコート2面あるかないかの広さで、今はもうない。ただ、近くに住んでいるぼくは、見知らぬ人に「この辺に梅林があったんじゃないですか」とたずねられることがよくあったが、それも最近はほとんどない。

 犬と散歩していると、家々の庭や空地のあちこちに梅の木が多いことに気づく。その梅が盛りを迎えようとしている。梅の花が盛りの頃、大内の婦人会が梅林に店を出した。学校から帰るとそこに走ったものだった。オフクロも近くのおばさんも、いつもより小奇麗にしていて、花よりもそれがその場を明るくしていたように思う。その店に何を出していたかはおぼえていない。ただ、甘酒だけは覚えている。おそらく、甘酒という言葉には、あの時の空間と匂いと笑い声が混ざり合ったガヤガヤが詰まっているのではないかと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

坂手洋二『戦争と市民』を読む

 以前、学年通信に、一日を動詞だけで綴ったことがある。補助線として目的語を入れたけれど、B4サイズなのでかなりの動詞を使った。

 中学校の時の社会の教師は、家にいくつ蛇口があるか、いくつモーターがあるかで、文化程度がわかるといっていた。ぼくはすぐに数えた。蛇口は2つ、モーターは、・・・、冷蔵庫と洗濯機くらいだったろうか。ウチは文化程度が低い、と、思った。

 人間と動物では動詞の数が圧倒的に違う。人間だけにあって、動物にはない動詞が、もしかすると人間をよくあらわしているのかもしれない。

 今日は暖かく、春のようだった。家の周辺の枯れ葉やごみを拾った。首輪をはずした愛犬がついてまわった。彼女の住まい周辺を片付けているぼくをみている彼女に、「人間の文化って不思議か?」と訊いた。もちろん、彼女が応えるわけがない。応えない彼女の視線に、ぼくは恥ずかしさを覚えた。

 『アメリカ古典文学研究』の冒頭でロレンスは「一番不自由な人間が一番自由だ」と書いた。文化も度数が増えるほどに、不便になっているのかもしれない。景気がよくなったら消費税を上げるという政治家は、幼い。将来の人間像が全く見えない議論ばかり。早く「政治家検定試験」をつくって、「この人はトップ当選でしたが、準2級でした。滑り込みセーフですね」というのもいいナ。平和を守ろうとすると、その守る行為が悲惨を招くこともある。

 戦争は莫大な浪費と犠牲。どんな正当化も成立しない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

恐るべしヒートテック

 今年の冬はユニクロのヒートテックで上下を包んだ。今朝は寒いナと思っても、寒さに震えることがなかった。地球温暖化のせいだけではないと思うのだが・・・とにかく、もう手放せない。来年の冬は更に強化せねば。

 靴下もヒートテック。もう他の靴下ははけないのだが、どれくらいすごいかって、左足の人差し指(足で指さすって失礼だな)と薬指の間の水虫が、買ってしばらくしたら騒ぎだしたのだった。地球温暖化のせいではないと思う。そして、その騒ぎ様がちょっと度を過ぎてきたので、薬局に走った。来年に備えて、完治しとかないと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

高橋正圀『シャッター通り商店街』を読む

 どんどん店が閉まっていき、追い打ちをかけるように近くにショッピングセンターができるなか、奮起する人たちの姿を描く。

 読みながら、佐伯の仲町銀天街の映像が頭から離れなかった。高校生の頃までの賑やかさは絶えて久しい。どうにかしようという動きはあったが、最近はその動きも見えない。ただ、佐伯では老舗の集まりだから、「腕」はいい。ぼくが頼りとする「二階堂書店」は、先日新聞広告に載ってた関西のお笑いについての本をお願いしたい、と、電話でいえば、数日後には自宅に届いている。こんなものが出ています、と、早川書房の劇文庫も紹介してくれた。

 また、「音響堂」は以前、ドラゴンなんとかいう曲なんですが、と、いったら、カウンターを離れ、これでしょうか、と、差し出してくれた。演奏者の名前をみて、「!」。神業に思えた。そういう人材がほかにもたくさんいるはずだ。そういう彼らの技術や知識やこだわりを前面に出せば、と、思う。

 商売をするなら、ぼくは断然本屋だ。ただし、コミックは置かない。週刊誌も置かない。小説と戯曲とペーパーバックの洋書中心。そして、お茶を飲みながら読める場所を設置する。本を買ったら、開く瞬間はワクワクだが、ゆったりできる場所で開きたい。でも、家に帰るまで待てない時もある。そういう時、「上、いい?」とか訊いて、許可をもらって入る場所。そこは店ではない。だから子どもは来ない。入れない。つまり、おとなの読書好きな人たちだけのための本屋。そこで、読書仲間と出会うことになるのだ。

 活力ある町。それは活力ある人がいないことには。あッ、そうです、脚本を急がないと。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

井上ひさし『道元の冒険2008』を読む

 本を読む気がしない、何もすることがない。そんな時はウダウダとインターネットしていたのだが、今はそれができない。それで始めたいくつかのことの一つが自分の年表つくり。昔のことを思い出すことは老人にはいいらしいので。

 その年表によればぼくは大学の時、6本の芝居に出て、そのうち1本を再演の際、演出とギター演奏(恐ろしい)している。その6本は、先輩のオリジナル、共同執筆オリジナル作品、シェイクスピア2本、井上ひさし2本。独裁体制ではなかったけれど、ぼくの好みが反映されたシェイクスピアとひさし。

 懐かしさいっぱいで読んだ『道元の冒険』には「2008」がつき、ついたぶん、やはり変わっていた。男が小説のタイトルで自分の人生を語る部分では、『我が心は石にあらず』が消えて『ノルウエイの森』が現れるみたいに。あるいは男を治療する医療現場の用語も。こんなに歌が多かったのか、と、首をかしげた。ぼく達が上演した時は、ロックバンドを舞台にのせて演奏してもらったのだった。(その後、部長になるはずの男が稽古しているうちにロックに興味を持ち、結局そのバンドのドラムス担当になってしまった。)

 めちゃくちゃ面白い。昨年の今頃読んでいた木下順二は、ひさしの作品に思想がないと批判した。その批判にひさしは「一に趣向、二に趣向、三、四がなくて五に」、はて五に趣向が来たか、思想が来たか、ウ~ン。とにかく芝居は思想ではなく趣向だと言いきった。そのひさしの趣向があふれているのが『道元の冒険』だろう。こういう作品に出会えるから、読み続けることができる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宮本輝『夢見通りの人々』を読む

 そんなことでか、と思ったものの、とにかく親父を迎えにいかなければいけない。娘たちと列車を乗り継いで網走刑務所に向かう。時々、ぼくだけが乗り遅れたり、やたら坂の多い道を車で走ったり、迷路みたいな旅館に泊まったり、何故か死んだばあちゃんがいたり、と、波乱万丈の大活劇みたいな夢だった。夢で疲れて目覚めると、2時半。こりゃ早い。早いと思いながらも、もう眠れない。こういう時はウダウダするより、と、今日の職場でのあれこれを考えずに、起きた。パソコンを階下に運び、女房のパソコンにつないであるケーブルをさして、スイッチを入れる。部屋の温度は14度。ウッドデッキに出ると、雨。自転車通学の娘のことがふと気になる。

 昔、映画青年だったころ、淀川長治の文章だったか、これまた記憶が定かではないけれど、ビリー・ワイルダーの映画のラストで、カメラが主人公の部屋の窓からズームアウトしていく、それはつまり多くの人の中の一人の物語だということです、そんな内容だった。その影響があるように思うのだが、ぼくは丘の上からの夜景よりも、ホテルの窓からの、家とかアパートの部屋の一つ一つの明かりが見える方が好きだ。明かりのついていない部屋の拾人のことをあれこれ思いめぐらす。退屈しない。街には色々な生活がある。

 『夢見通りの人々』はオムニバス。夢見通りに住む人達を取り上げて描いている。この小説は失敗作だと思う。それぞれの人を一人称で描くべきだった。そうしないと多様性が出てこない。そして、共通の問題を絡ませた方がよくないか。たとえば、安易ではあるけれど、近くにショッピングモールが建設されるとか。一人の詩を書く青年が人々をつなぐのでは、弱すぎる。この辺が宮本輝、打ち止めか、ナ?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

たかお、ありがとう

 紹介されたところにいき、読みました。松下竜一の魅力が伝わるいい文章ですね。特に緒方拳の部分がいい。

 2月になりました。以前ある劇団の人が我が家に泊まった朝、ちょうどもらっていた豊後梅の苗を記念植樹してもらいましたが、その豊後梅が咲き始めました。今日から3年は卒業考査。来週から仮卒。ぼくは週7時間、授業がなくなります。本に触れる時間が増えます。ささやかな幸福です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ふたくちつよし『かもめ来るころ~松下竜一と洋子~』を読む

 昨年はこの時期26本の脚本を読んでいた。しかし、今年はまだ4本。もちろん、昨年の方が異常だった。あの勢いは何だったのか。一年で114本の脚本を読んだのは自己最高記録。木下順二とチェーホフの戯曲を読んだのは114本という数よりも読んだという思いを与えてくれる。集中して一人の作家を読むと、作家個人がほのかに見えてくるような気がする。

 松下竜一は『豆腐屋の四季』で売り出した。大分県中津の人。個人。『豆腐屋の四季』はテレビドラマになり、緒方拳が竜一を演じた。その辺は記憶にあるが、その後は何か運動をしているようだという程度しか知らなかった。

 ぐたくちの脚本は竜一が売れる頃から、亡くなるまでを丁寧に描いている。松下竜一全集が出ていると思うけれど、読みたくなる。作家を知って作品を読みたくなる、そういう経験ははじめて、だ。

 ふたくちはおそらく全集を読んでいる。彼が竜一と洋子に言わせる言葉は、作品の中から拾ったのか、オリジナルかはわからないけれど、実にいいものが多い。これからふたくち作品も手をのばすことになるだろう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »