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『あしたの私のつくり方』を観る

 いつごろだか、限定できないけれど、ある時期から高校生が書く脚本には必ずといっていいほど、ケータイが登場するようになった。大会の審査員の年配審査員の多くはそれに辟易するようなことを漏らすけれど、彼らよりも高校生の日常でケータイの役割ははるかに大きい。

 この映画もケータイが主人公かもしれない。ケータイを上手に使っている。高校演劇の人は、これを観れば、舞台でケータイを使うのがいかに難しいかがわかるかもしれない。ケータイは映画、小説で活かされるが、舞台では難しい。

 いい映画。ヒロインを演じた女優もいい。

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倉本聰『君は海をみたか』を読む

 それまで子どもを振り返ることをしなかった男が、子どもが不治の病におかされて、子どもとの心の交流を取り戻すという話。今まで読んだ倉本作品で初めて南国沖縄が登場する。そして、脚本の完成度は高い。無駄が微塵もない。子どもの最期のシーンも見事。目下一番好きな作品。

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倉本聰『祭りが終わったとき』を読む

 ある女優のデビューから突然の死までの2年の物語。いわゆる「芸能界」の裏、そこに巣食う様々な人種、マスコミの無節操な暴力、そして名もない人たちのパッとしない生き方ではあるが部類の優しさ。ただ、作品はズシンと重い。

 女優(桃井かおりが演じる)の結婚した男の死に方は尾崎豊を思い出せた。書かれたのが、はて、尾崎の死より前か後か・・・。女優の死はマリリン・モンローを思わせる。女優が付き合っていた政治家はジョン・F・ケネディかもしれないが、死のベッドで電話に手を伸ばしていた、その電話は政治家ではない。モンローを下敷きに書かれたものかもしれないと思うけれど、ならば、モンローが生き延びるという風にひねったらどうだろうかとも思う。

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倉本聰『駅ーStation』を読む

 高倉健と倍賞千恵子二人の居酒屋のシーンに矢代亜紀の『舟歌』が流れる。結構いい選曲だと思った。観たことがあるのだった。

 男と女、女と男、その様々なことはそれぞれの問題でもあるから、誰かに相談して解決できるものでもない。そういうものなんだ。そういうこともある。

 もしかすると、ドラマの基本は女と男ではないかと思う。今現代のあれこれの事件も同じだろう。古代ギリシャの時代からのその問題を、多くの哲学者、文学者、小説家、脚本家、ソングライター等々が取り組んできたけれど、解決は見えていない。だから難しいとも、面白いともいえる。

 女と男、男と女、その「と」の部分は誰にも見えないし、本人にも見えないかもしれない。それを描くには、二人の間に何かを介入させればいいだけのこと。でも、それで、OKとはならない。難しい。

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倉本聰『大都会』を読む

 事件が終わって、渡哲也演じる刑事が部下の刑事に「ラーメンでも食いに行きますか」といって、その回の終わりとなる。東京で働いていた頃、アパートでそれを観ていたぼくは、無性にラーメンを食べたくなり、部屋を飛び出して、ラーメン屋に駆けた。「お待ち」の声で差し出されたラーメンをみて、ガッカリ。醤油ラーメンなのだ。「ラーメンでも食いに行きますか」の台詞を求めて10回分を読んだ、が、ない。

 『大都会』の後、石原プロは『西部警察』を制作した、と、思う。ピストルを何発撃つかで、視聴率が決まるとか言われたものだ。ある時、VTRの編集で東洋現像所に行った時、先輩が「この階段、わかる?」「いいえ」「『西部警察』の最初、刑事達が下りてくる階段」、だと。その前はボーリング場だったとのこと。

 『大都会』は切なくて、悲しい人間が多く登場する。人間ドラマに近い刑事ドラマだ。

 

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(『解夏』を観る

 光を失っていく男と彼に寄り添う女。丁寧に作られた映画。途中から、感触が初めてではないような気がして、何だ、何だと心が騒いだ。最後、キャスト、スタッフで、わかった。さだまさしの原作なのだ。タイトルの「げげ」というペダンティック。なるほど、なるほど。でも、一見の価値はある映画。さだまさしの誠実さが漂う。

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倉本聰『あなただけ今晩は』を読む

 あるサラリーマンの奥さんが亡くなる。49日以内に「あの世」行きの列車に乗らなければいけないが、奥さんは「この世」の旦那のことが気になって、最後までこの世をさまよう。映画『ゴースト』の日本版みたいなものだが、倉本の脚本の方が先じゃないかな。奥さんを若尾文子、旦那を藤田まことが演じる。

 自分が死んだ後、周囲の人がどういう反応をするか。葬式では、どんな人が来て、どんな表情でどんな会話をするのか。そういうことに興味はある。その辺の部分をくすぐりながらドラマは進行する。楽しめる作品だ。

 

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倉本聰『たとえば愛』を読む

 深夜のDJを大原麗子が演じる。その周辺の些細な物語。

 高校時代、深夜放送は唯一の安らぎだった。「オールナイト・ニッポン」で最初にハガキが読まれた時には、長嶋が満塁ホームランを打った以上の興奮を覚えたものだった。

 今なら、大原麗子がささやく深夜ラジオ。これは、いい。大原麗子バンザイ、そんなドラマ、か。

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素晴らしき挑戦者

 津久見高校フェンシング部顧問が今朝学校を退職しました。彼はフェンシングの名伯楽で、21年間で11回日本制覇しています。大分では豊府高校がフェンシングではトップですが、ジュニア経験者が多い。津久見高校では、高校から始めた生徒ばかりですが、そういう生徒を上手に育てる。ただ、どうも大分のフェンシング界とは折り合いがうまくなかった部分があるようです。

 2年前ぼくが学年主任で送り出した生徒の中にフェンシングの生徒がいました。その生徒はどうですか、と、一度訊いたことがあります。2年生の頃です。ダメです。ただ、こうすれば勝てるという方法があるので、それで訓練します。結局、3年の時にインターハイで優勝し、フランスだったか、国際大会までいきました。

 彼は東京でフェンシングクラブを立ち上げる会社にコーチとして就任します。北京オリンピック選手3人がそこのクラブに入るそうで、目標はロンドン。21年の教職を捨てての決断。大分は捨てられたんだと思います。彼のような有能な人材にふさわしい場所を与えることがなかったのだから当然でしょう。でも、勇気ある決断。

 これから、フェンシングに注目して下さい。彼の名前は敷根裕一。

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倉本聰『機の音』を読む

 後数日でギネスに載る世界一の長寿になる、ということでのドタバタ。発想が面白い。

 津久見から弥生のトンネルを抜ける坂道に差し掛かる時の山の桜が美しい。桜が多い。そこは秋にはまたハッとするほどの赤や黄色に彩られる。いい季節になったと痛感する次第。

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『選挙』をみる

 横浜市議の補欠選挙を追った映画。候補者と監督は東大の同級生のようだ。選挙の裏が明言されていないものの、言葉や表情、動きに裏が垣間見える。

 石原プロモーションの『黒部の太陽』を観たくてレンタル店に行ったが、置いてなかった。それで5本、テキトーに選んだ。『選挙』は喜劇だと思っていたが、しみったれた実録。でも、そのシミッタレが面白い。子どもはみてもだめ。

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倉本聰『年の始めの』を読む

 ずいぶん前になるが、他県で教師をしている英文科の後輩が指導主事になった。出世コースの一つだろうと思うが、主事仲間から「お前、盆暮の付け届けをしているか」と言われ、してないと答えると、「そんなんじゃ出世できないぞ」と言われた、と、話してくれたことがある。10年以上も前のことで、その県が今はどうか知らない。

 大分のそういうことの昔と今は、興味が全くないから知らない。ただ、金やモノを贈ってそういう地位についた人間は、今度はそういうことを求めるかもしれない。組織は腐っていく。昨年の大分はその腐った部分を露呈したわけだけれど、誰もが納得した形での解決をしていない。これはいずれ、どこかで別の形で出てくるかもしれない。

 虚礼廃止が告げられたのに、気になって、妻と新年の挨拶に上司の家にいったら、来てるし、来るし、もの凄い数。そこでのバタバタが描かれている。社員の中に派閥ができているし、奥さんたちにもそういうものができている。ばかばかしいと笑えないことを、昨年の大分の教育が教えている。

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倉本聰『坂部ぎんさんを探して下さい』を読む

 午後から「ブラスフェスタ・イン・佐伯」に文化会館に出かけた。ほぼ満席。中学合同、高校合同、一般合同、そして全部の合同へと続いた。音楽を聴きにいったというより、豊南高校の野村先生の指揮を観にいったという方が正しいかもしれない。彼のキレがよく、時にコミカルな指揮は、このうえなく音楽を楽しんでいるように見えた。ああいう芝居をつくりたい。

 『坂部ぎんさんを探して下さい』は切なく、難しい。

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倉本聰『祇園花見小路』を読む

 オバマ大統領が自分の下手なボーリングに「障害者みたい」といったと取り上げられている。日本の政治家も問題発言をしては、撤回します、を繰り返すけれど、一回発言したものは撤回しますの一言でチャラにはならない。「本当に私がバカでした。こんなバカに政治をする資格はありません。ここに、議員を辞職し、勉強し直して参ります」くらいすべきではないだろうか。

 社会のシステムが変わると、価値観も変わり、それまでNOだったものがYESになり、YESだったものがNOになることは珍しいことではない。太平洋戦争に負けて、進駐軍によって黒く塗りつぶされた教科書は、その一つの例だろう。倉本のこのドラマは江戸から明治の過渡期のそれを描いている。八千草薫演じる芸妓の女っぷりがいいのは、そこに正しさが現れているからだろう。萩原健一演じる青年の屈折は、手のひらを返すように変わる人たちへの怒りだろう。「これを書く」とはっきりしていれば、登場人物はきちんと動く。

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倉本聰『ぜんまい仕掛けの柱時計』を読む

 子どもたちが友達とカラオケに行きたいというので、乗せていって、受付を済ませ、ぼくは外で本を読みながら、待った。保護者同伴という学校の決まりがあるらしくて、それで、同伴状態を保った。

 城山の東側には桜の白い模様が浮きあがり、意外に桜の木が多いナ、と。この時期だけ限定で確認できる。春の愉しみだ。

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倉本聰『父(とん)ちゃん』を読む

 擬音の効果マンが引退と一人娘の結婚が重なる、その周辺を描いている。

 ぼくが初めてテレビドラマを作る場に行ったのは、最後の音を入れるところ。たとえばオフィスのシーンでは、どっかで誰かが話したり、電話が鳴ったりとかの、そういう職場の音を入れる。一番びっくりしたのは、男が坂道を駆け降りてくる、塀を曲がったところで、家の中の女の顔のアップ(山口百恵だった)、そして再び走る男のシーン。音響効果のベテランはそのVTRをみるとアナブースに入り、砂をまいた鉄板に皮靴で立つ。VTRをスタートすると、彼はその鉄板の上を走る足踏み、女の顔のアップでは止まり、また走る。その彼の足音がVTRの男の走りにピタリと重なり、男の足音の完成となった。一回でやってのけた。「さすが」の声。昭和54年のこと。『父ちゃん』はその7年前の放送。

 『父ちゃん』とほぼ同じころ芥川賞を取った畑山博の小説『海に降る雪』も音響効果の人間が主人公だった。それに登場するおばあちゃんが今でも忘れられない。

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倉本聰『平戸にて』を読む

 夫婦喧嘩は犬も食わない、と、いわれる。珍しくもなければ、どうせ一時的なもので、犬さえも関心を示さない。犬さえ関心を示さないことに、人間が要らぬお節介を焼いてどうする。実際喧嘩している時にはまもとま話し合いなんてできるものではない。相手とやりあえる時はまだいい。まだ相手に向かっているからだ。どうしようもないのは、向かわなくなった時。最も痛烈な批評は無視である、と、開高はいった。

 これも、八千草薫主演。夫は緒方拳。夫の浮気が発覚、それと長年待ち望んでいた妊娠がわかる。妻は新興旅行で行った平戸の旅館に「家出」する。傍から見れば、フンと鼻でひとつ。ただ、新婚旅行の時の部屋担当の仲居さんが近々結婚すると話していたことを思い出し、訊ねると、今でもいるという。結婚して子どもがいる。その仲居が絡んでくると、少し興味が出てくる。夫婦の形を考えるようになる。

 倉本は様々な夫婦を書いている。多くはかなりの年月を経た夫婦。形ができた夫婦は強い。結婚したから夫婦になるのではない。二人の形ができて夫婦になる。

 関係ないが、最近は娘と姉妹のような、友達のような付き合いに嬉々としている母親がいるらしい。バカの典型。世間知らずの娘としか話が合わないだけだろうが。

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倉本聰『おりょう』を読む

 日常では考えられない事件が毎日のように報じられている。その立場になったら、どんな行動をするだろうか。勝手なことを考える。実際ではそうはいかないだろう。

 江戸末期、人のいい可愛い主婦が家に入ると、追われている「人斬り」がいた。彼女もそうなったらこうするといっていたのとは違う反応をする。それはいい。結末が、なるほどそう来たか、というもの。

 『前略おふくろ様』のパート2でおかみさんを演じた八千草薫が主演。八千草、倉本作品には結構出ている。前回の『舷燈』『ばんえい』『『遠い絵本』・・・。にこやかでかわいい人だけではなさそうだ。

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倉本聰『舷燈』を読む

 芦田伸介演じる作家。彼は戦争経験者で、現在は戦争を扱った小説を書いている。彼が酒場で学生から議論をふっかけられる。昔はそういう学生がいた。おそらく、今は皆無ではなかろうか。

 最近の東大生へのインタビューでは、官僚になりたいという声が多い。あの東大の安田講堂の学生たちは、そういう学生に比べると、はるかに健康だったように思う。子どもや学生は、大人や現状に簡単にYESと頷いてはいけないのではないか。官僚になりたいという背後に何らかのNOがあり、それを改革したいという志があればいいのだが、・・・。

 ただ、戦争の末端にいた者を「戦争責任者」として責めるのもむごすぎる。彼らもまた犠牲者なのだから。

 ぼくは、芦田伸介演じる小説家をある作家と重ねて読んでいたのだが、モデルはいるのかしらん。

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倉本聰『円型ベッド物語』を読む

 ケチケチ生活を送っているサラリーマン夫婦のアパートに円型ベッドが運び込まれる。映画のキャンペーンで当選したのだ。窓を壊して運び込んだそのベッドは、一間のアパートで生活していた夫婦の生活を変える。

 テレビの脚本家として、倉本は評価するが、舞台となると現在は評価ゼロ。テレビと舞台は違う。重なる部分があるものの、その部分はむしろ少ないかもしれない。『ベッド』は面白い設定だが、物語にしてしまった。テレビの宿命か。舞台は物語ではない。昭和41年の放送。有島一郎と河内桃子の夫婦。これはいい。再放送を!

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倉本聰『赤ひげ』を読む

 数年前、黒澤明の作品をほぼ全部観た。黒澤が好んで使った三船敏郎は予想以上に細かな演技ができる俳優だったが、そういう技術をこえた存在感は真似しようたってできない。

 山本周五郎原作の『赤ひげ』を倉本聰が脚本にし、三船と加山雄三が演じた二人を小林桂樹とあおい輝彦が演じたテレビ版。全2巻のこの脚本も読みごたえがあった。作品の核がしっかりしているから、ゆるぐことがない。2時間の映画とほぼ半年の連続ドラマでは、作品の質感は異なるけれど、山本周五郎への興味はかなり煽りたてられた。全集は出てるんかいな。

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倉本聰『浮浪雲』を読む

 この面白さは原作者のジョージ秋山に負うところが大きいだろう。ただ原作の熱心な読者ではないので、原作の魅力を語ることはできないけれど、主人公の個性と生き方の魅力は「つまみ読み」でも感じていた。

 倉本の脚本を読む限り、これは家族劇。父と息子の物語といってもいい。息子が進行役。面白く深い。「時代考証はかなりいいかげん」という断りもいい。時代劇は、現代のあれこれの要素を取り除いて描けるからいいのだろうな。

 ただ、雲役を渡哲也というのが、どうも・・・。渡のまじめさがちらついて仕方なかった。無理があるように思ったのだ。じゃあ、誰がいいか。2巻を読みながらずっと考えたけれど、とんと浮かばない。つまり、どこにもいない人間を創り出したということか。

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倉本聰『文五捕物絵図』を読む

 倉本聰が捕物帳を書いていたとは。加えて、松本清張の作品を下敷きにしてあるものもある。松本はそれを快く了承したという。

 岡っ引きは、現在の駐在みたいなものなのだろうか。いや、同心の公的助手か。身分は町民。その町民の岡っ引きの町民であるが故の無力、無力故の悲しさもヒシと伝わる。加えて、犯罪者もきちんと描いているから、この2巻に登場する人たちの生き様は確かな人間ドラマになっている。

 来た仕事にはとにかく全力で取り組む。好きなものばかり食っていれば、栄養が偏り、トータルな成長ができないように、仕事もまた同じ。意に沿わぬものこそ、成長のチャンス。そう考えたい。そろそろ学校は異動と来年の仕事分担が始まる。何でもきやがれ!

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倉本聰『りんりんと』を読む

 母親を老人施設に送っていく息子。母親は観光旅行と勘違いするようなことをいったりする。それがさらに切なくさせる。施設に送り届け、引き返して、やっぱり連れて帰ろうとするが、施設の長は「あなたは一度捨てたんだ。一年経ったら来なさい」と拒否する。現代の姥捨て物語が、辛辣なエンディング。是非再放送して欲しい。むしろ今の方が効果があるかも。 

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倉本聰『遠い絵本』を読む

 アラスカと北海道を舞台に過去と現在のドラマ。この頃までに、倉本は北海道放送に毎年2本のドラマを書いている。東京生まれ、東京育ちの倉本が何故富良野に移住したのかは知らないし、移住したから書いたのか、書いたから移住したのか、知らない。ただ、北国が好きなんだろうな。それと、寒い場所が舞台の方がドラマは書きやすいかも。

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倉本聰『スパイスの秋』を読む

 倉本聰のうまさの一つに子どもの使い方がある。『ガラス細工の家』は、小学生の兄弟を演じることのできる子どもがいなければ不可能だったと思うくらい、活きていた。この作品でも、夫婦を上手につなぎとめる息子が一番印象に残った。子どもは、テクニックで演じないから、はまったら怖いところもある。子役探しには苦労するだろうな。

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倉本聰『時計』を読む

 どこかで会ったことがあるような、あるいは、あの人はヤギに似ている、そういう問題を解決するために考案した理論が「世界の生命素の量は一定である」。

 ぼくがテレビの仕事に入って最初についた先輩Sさんは顎鬚をはやし、顔の感じもヤギに似ていた。この人の祖先はヤギかいな、と、思うほどで、でも、そんなことはない。そこでぼくは、生命を宿した生物の体が滅びる時、その生命素は新しい体を求める。生まれつつあるものに、それは宿る。そして新しく誕生したそれには、その生命素の以前の記憶があるので、以前の容貌に似たものになる。何という画期的な理論だ。ただ、ベケットの『ゴドー』の「誰かが泣きやむと別の誰かが泣き出す。誰かが泣き出すと別の誰かが泣きやむ。だから世界の涙の量は一定である」の台詞を使わせてもらったのだけれど。

 「生まれかわったら・・・」という台詞が『時計』の中で数回使われる。明治初期の北海道でのドラマ。最後は、生まれ変わったと思われる登場人物が、現代の雑踏の中ですれ違う。命の不思議みたいなものを感じた。

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倉本聰『ああ!新世界』を読む

 「新世界」には一か所だけシンバルの出番があるらしく、北海道で演奏会をする交響楽団のシンバルのパートをある男がやることになる。本番で自分の出番を待つまで、それまでのあれこれを回想する。人間には勝負の瞬間が何回かある。その瞬間をわかりやすい形にした作品。

 さて、ぼくのそういう瞬間は、と、考えるけれど、思いだせない。たぶんドキドキで迎えた瞬間はたくさんあったはずで、それで左右されたこともあるだろうに。それほど大きなものではなく、平凡の王道を歩んできたからなのか。乾坤一擲、遠くないいつか、待ってろ!

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倉本聰『ひとり』を読む

 一人の人間がいて、それをみる人間がいる。彼が何をみて、何を考えるか。そこで何を表現するか、どう表現するかが決まってくる。そこから生まれてくる多種多様の組み合わせ。おそらく今生まれている多くの作品のほとんどは根っこのところではもうすでに書かれたり、描かれているのだろう。もしかすると、表現領域で残された新しさの部分は手法にしかないのかもしれない。

 釣りをするひとりの男。退職する際にお世話になった会社の上司にヤマメを上げようと、合計100匹を目指すものの、思いだされるあれこれ、そして釣れない焦り。大きな不安を残して終わる。

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倉本聰『幻の町』を読む

 笠智衆と田中絹代演じる老夫婦が昔住んでいたサハリンの町の地図を記憶を頼りに作成しようとする。しかし記憶が確かでないので、昔住んでいた人を訪ねて聞き取りをしようとするものの、もう亡くなっていたりで、進まない。その地図を忘れて探し回っているうちに、他の人の目に触れ、それまで作成していた地図が北海道のある町の部分であることがわかる・・・

 4月に大学にいく人が、住むことになる町の地図をみるのとは、違う。老夫婦の作業に何の意味があるのか。地図を作ることで二人は活きている。紛失して落ち込んでいる夫に妻が「また作ればいいじゃないですか」という。その言葉によろこびと活力みたいなものを感じた。設定が勝利の脚本。

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倉本聰『聖夜』を読む

 計画した流れの中に予定外のものがポンと入り、やること為すこと全てが裏目に出てしまい、傷口がどんどん広がってゆく。そういう経験は何度もある。最近は、仕方ない、と、スッパリ諦めてしまうから、それほどでもないが、若い頃は「せめてこれだけは」とムキになって、醜態を曝したものだ。このドラマの切なさは、あの時のぼくの・・・。だからこそ優しさが沁み渡るわけで・・・聖夜のドラマが成立する。

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倉本聰『ばんえい』を読む

 『2丁目3番地』で主人公の父親と弟が喧嘩して云々という話が出てくる。父親と息子が取っ組み合いの喧嘩をして父親が負かされてしまい、父親も息子もショックを受ける。父親は呆然とし、息子は悲しくて泣く。それと同じ話が『ばんえい』にも出てくる。どこにでもある当り前のことなのだけれど、取っ組み合いの喧嘩で知るからこそ価値がある。ぼくには息子はいないけれど、娘とそういうことになったら、・・・。 主人公の亭主関白ぶりには爽快な羨望をおぼえる。

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倉本聰『風船のあがる時』を読む

 目が覚めたら12時半。こりゃあイカン、目覚めるには早すぎる、と、思いながら、イヤ完全に目覚めていると達観(こういうとき、使う言葉じゃない、カ)、起きた。テレビをつけあっちこっちチャンネルを回していたら、NHKで料理人の番組。

 その料理人の名前は西健一郎。この西という人のこだわりと徹底は凄い。「死ぬまで勉強」「手間をかけることで、要らないものをなくし、いいものを出す」「高いものだけがおいしいんじゃない」「本当にこの程度でいいのか」「変わったものと美味しいものは違う」「開けた瞬間に精緻で美しい配置」「客の気持ちを把握して料理する」。ナンダ、この番組を観るために、起こされたのか。

 西健一郎と倉本聰が重なった。

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倉本聰さよならお竜さん』を読む

 35歳で男性体験を持たない秘書室の「お局さま」、通称「お竜さん」を岩下志麻が演じる。

 今まで読んだ倉本作品は、男が中心だった。もちろん主人公には女が絡んでくる。しかし、どうも魅力的な女性を描いているとは思えない。『ガラス細工の家』でヒロインを演じた岸田今日子は女としてより、母親を演じた。『前略おふくろ様』で海を演じた桃井かおりは、作品の中では道化的色合いを帯びていた。『お竜さん』ではヒロインを岩下志麻が演じる。倉本の作戦かもしれないが、先入観を見事に裏切る、あるいはズラしてくる。そして、最後は都会の人込みの中の一人が哀愁の色を帯びて浮かび上がる。

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倉本聰『ガラス細工の家』を読む

 あんな奴だとは思わなかった、と、特殊状況の中である人間の日ごろと違う側面をみて、そういうささやきがうねることがある。現在の自分がイヤなら、そういう面が出ない環境に移ればいい。とにかく、人間は状況で生きる。

 長男の中学入試直前に次男が誘拐される。これはそういう特殊な状況の中の家族の姿。その事件の展開と結末も面白いが、ドラマ自体の結末が他の刑事もの、はんざいものとは異なる。いつかハズレに出会うんじゃないかと思いながら、今のところなし。

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