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向田邦子『女の人差し指』を読む

 日本版「プレイボーイ」が創刊されて、創刊号だったか、2号だったか、インタビューに三浦雄一郎が出た。PBのインタビューは面白く、深く、読み応えがあった。そのインタビューの中で三浦は人間を2種類に分けていた。「星を背負っている人間とそうでない人間」。確かに同じことをしていても、流れに乗る人間と乗れない人間がいるような気もする。

 向田邦子がラッキーだったのは、最初ラジオ番組で、そしてテレビの脚本を書き始めたころ「だいこんの花」で森繁久弥といっしょに仕事をしたことではないか。そして、ある番組の打ち上げか何かで、森繁は、渡された花束を向田におくり、「あなたの時代が来ましたね」と囁いたという。

 もし生きていたら、そういう仮定はないものねだりの甘ったるさを感じて好きではない。でも、『竜馬が行く』を読んだ時、その仮定法がクルクルと頭上を旋回していた。そして、向田邦子のエッセイを続けて読みながら、また、同じフレーズが旋回している。せっかく招き寄せた「時代」を生きていれば、どえりゃあ名作が誕生していたかもしれないのに、と、思う。

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向田邦子『夜中の薔薇』を読む

 中学生の娘が友達と大分に遊びに行くというので、駅まで送っていった。切符の買い方を説明。みんなニコニコで、「切符買うのって面白~い」という声が出た。上り下りを説明しようと改札に行くと、ちょうど大分行きの普通が止まっていた。彼女達はドドドッと乗り込んだ。バスに乗り継ぐらしいが、予定より30分ほど早い電車だから、開店を待つことになるのか、それでも間に合わないのか。

 午後はひたすら向田邦子のエッセイを読んだ。時折メモを取るのは図書館便りの「本の中の言葉」の2回目に使うため。

 この『夜中の薔薇』を書いていた頃、向田は恋をしていたのではないか、と思えるフシがある。それに沿って読み進めたが、途中でそれを忘れるくらい面白かった。今までのエッセイ集の中では一番好きだ。上手くなっている。

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向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』を読む

 趣味は何ですか、と、最近訊かれることはない。そういう場所にいかなくなったからだろうし、また、他人から関心を持たれることもなくなったからだろう。もし、訊かれたら、草取りとこたえるかもしれんな、草取りをしながら考えた。

 昨年11年目の家の外壁を塗り替え、ついでにウッドデッキを広くし、玄関へのアプローチ部分を整えた。トラック数台分の小石を家の周囲に新たに敷いたのだけれど、草はその隙間からニョキニョキと出てくる。今朝も5時過ぎから30分ほど取った。数えてはいないけれど、500本くらい。休日はその5倍くらいは取る。取っても取っても、顔を出す。最近は気にしなければわからないくらいになったけれど、ここまで熟練してくると1センチ以下のものだって容赦しなくなった。そういうことに家人は気づいている気配はない。朝の草取りの時はまだ寝ているから当たり前だ。もし、ぼくがある日突然召され、バタバタの数か月後、家の周囲を埋め尽くしている緑の侵食者に、ぼくのコツコツの草取りに気づくだろうか。草よりも、毎週のゴミ出しの時、不便を感じるかもしれない。いや、それよりも使っても使っても減らないトイレットペーパーがなくなった時の方が不便の度合いは大きいかも。便の時の不便。いずれにしても、所詮はその程度かもしれないナ。そんなことを考えながら草を抜く。結構快適な時間でもある。

 これは、向田邦子のエッセイを読み始めてからのことのような気がする。ありふれた日常にちょっと目を凝らすようになった。ちょっとした日常がとても面白くなった。

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土田英生『初夜と蓮根』を読む

 嫁入り前の娘と社会人の年齢だが社会に出ていない息子がいる夫婦が実は性体験を持っていないという設定。相変わらずのバカバカしい設定ではある。家庭という舞台のせいか、あるいは家族劇になっているせいか、どうも土田の天衣無縫さというかパンチがない。巻き込まれていく快感がなかった。

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別役実『風のセールスマン』を読む

 今日は家族でパークプレイスに行った。もう子どもたちに付き添う必要はない。むしろ付き添って欲しくない年頃になった。ぼくは、だから、家電販売店に行った。約束の昼食の時間まで90分。そこで鶴岡、津久見の卒業生に会った。二人の卒業には7年の差がある。時間の流れを感じた。ぼくの目的は一眼レフカメラだった。買うのではなく、品調べ。今使っているデジカメは4台(代?)目だが、持ち歩くには最適だけれど、それはメモにはいいが、文章を書けない。キャノンの派遣打ち切りがなければ、教え子も被害にあっていなければ、キャノンをみたかもしれない。ここ2代キャノンなんだけれど、完璧に無視。ぼくはNIKONを一番みた。昔、昔、キャンディス・バーゲンとかいう女優が趣味の写真と語る、その手元にあったのはニコンだったように記憶する。一眼レフは、カメラ屋のカメラにしたい。昔持ったのはキャノンAE1だったが、レンズ機能の進化は凄い。これはいいなあ、そう思ったものは20万を超える。買えない。ただ、下げる気持ちは毛頭ないので、買える算段をしながら、ハードディスクを買った。320ギガで1万を切る。パソコン2台目の時、ハードディスク8ギガを買った時、あるいは5年前修学旅行のためにデジカメを買った時に2ギガカードを買った時、1ギガ1万以上だった。それが、今は、ナンテコッタ、パンナコッタ。

 一人芝居。別役作品のいつもと同じ設定。ただ、別役の昔の暴力がない。すごく落ち着いてきた。川端康成がノーベル文学賞を受賞した時のスピーチは「美しい日本の私」。鶴城高校の国語の先生(徳永、だったか、今思い出すたびに、彼は素晴らしい教師だった)は、「日本と私、と、しなかったのがいい」と授業中におっしゃった。日本語の助詞は難しい。ただ、セールスマンには場所がない。風と同じ。じゃあ、今のワタシは?

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海堂尊『チーム・バチスタの栄光』を読む

 休日だから、6時過ぎに起きて、ウッドデッキで本を読む。もっとも、雨で、トレーナー一枚では寒く、カーディガンを羽織る。昼前には雨も上がり、夕方近く時折、ホントにチラチラ程度の時折、あえかな日差しがあった。

 遅ればせながら、話題作を、話題が途絶えて読んだ。別に話題作を読んでいないことに何の後ろめたさも恥ずかしさもない。『源氏物語』を読んでいないのは、恥ずかしい。今年中に誰かの訳で読んでみるつもりではいる。その「つもり」も忘れることが多い。必要なものは、向こうから来る。慌てることはない。

 知らない(知りたくない)世界を専門用語が氾濫するジャングルではあったが、そこそこ楽しめた。安部公房が読んだら、どう、思うか。そんなたあいもないことをがふとかすめた。

 医学的治療を受けるのは嫌いだが、医者は嫌いではない。自分が現場にいなければ、好奇心がウズウズする世界のことは知りたい。そのウズウズの「ウ」くらいのところで読んだ。ぼくはそれほど評価できない。何故なら、この作品には人間が描かれていないからだ。映画になったが、それは観てみたい。小説のいいところを活かして新しい世界にしているか。それに興味がある。それ以上に、竹内結子をみたいから。

 

 

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オーウエン・マカファーティ『シュート・ザ・クロウ』を読む

 まだこういうスタイルで書く人がいるのか、と、訳のわからない感想を持った。タイルはり職人たちの逃げ場のない日常とそこでの右往左往。それだけ。国立劇場で上演されたようで、演出がやたらハイフンの多い台詞の意味を理解しかねていたようだ。原文がどうなのかはわからないが、句読点では感じが違うためだろうと思われる。ぼくの今度の脚本は句読点もハイフンもない。どうだ、こっちの方が厄介じゃないか?

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清水邦夫『エレジー』を読む

 職場にパソコンの持ち込み禁止、USBメモリーもダメとなって、家での仕事ができなくなった。そのくせ学校でのパソコン使用時間が一日平均2時間を超えると、何やら検査を受けるとかナントカ…。何月何日にどれだけ使ったか、分単位で示すアイコンが月ごとにデスクトップに一つずつ増えている。だから一日90分以上は使わない。どうしても3時間とか使うことがあれ、次の二日は使わない、と。ぼくのような人間には、デジタル化された社会は非人間的になっていくように思えてならない。職場のコミュニケーションとか一方でいいながら、そのコミュニケーションが失われつつある。奇形な社会だ。

 最初に引用しているサンドバーグの詩がいい。清水の成分の半分以上は詩人だから、か?

 芝居はアナログだ。社会がデジタル化されるほど、芝居は意味も価値も輝きも増してくる。清水邦夫も、また。

 

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山頭火という人

 金子兜太の『放浪行乞』の中で紹介されている山頭火の句のなかで一番好きなのは「後ろ姿のしぐれてゆくか」。引き締まっている中に、山頭火の覚悟と寂しさみたなものを感じる。金子はいい句は褒め、ちょっと甘かったりしたら遠慮なく指摘する。そこが面白かった。

 山頭火は各地を放浪した。一所に定住できなかった。金子の文章で放浪した地域をざっと知ることはできる。熊本を出て、鹿児島、宮崎、さて、もしかして佐伯が出るか、と、期待していると、竹田になっていて、ガッカリ。

 山頭火は酒が好きだった。造り酒屋の息子だったからか。彼が後を継ぐものの、結局はつぶれてしまう。熊本で店を持つが、あまり商売熱心だったようではなく、俳句と酒の日々。酒での失敗談は多い。どうしようもない人間だった。ただ、そのどうしようもない部分がうまく機能すると、句に出る。離婚して、彼は旅に出る。旅でつくった句の方が家でつくった句より、はるかにいいように思う。ぼくは秋口になると、教室から青空を眺めては芭蕉のいう「漂泊の思い」に駆られるけれど、山頭火の放浪を知ると、その困難、労苦、貧しさ、切なさ、寂しさに自分の甘さを痛感する。疲れ果てて定住しようとするが、また放浪する山頭火。どうしようもない人間の覚悟には並々ならぬものを感じる。ぼくにはその覚悟がない。なかった、と、過去形にしなければ。

 

 

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金子兜太『放浪行乞』を読む

 佐伯の不動産業者が山頭火についての本を出したから、か、どうかわからないが、今まで山頭火の名前はかなり目にしてきた。俳人がどう評価しているのか、と、軽い気持ちで手にした。

 基本的に見開きで一句。句といっても、五七五や季語の規制はない。その規制を突破して生まれるものに意味があるのかもしれない。

 山頭火の句は面白い。山頭火の生き方の方が面白いかもしれない。そして、山頭火と句について書く金子も面白い。ということは面白い本なのだ。この面白さについては、考えてみる価値がありそうだ。

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遠藤周作『喜劇 新四谷怪談』を読む

 遠藤周作最後の戯曲。慶応の偉大なる先輩・芥川比呂志が亡くなったのが劇作をやめた理由らしいが、『黄金の国』を書いた同じ人間が書いたとは思えない失敗作。失敗の原因は医者を二人も出してしまったこと。加えて、一人は精神科医。その二人が亡霊を見たという男のことをあれこれいじくるのだから、面白い訳がない。冗長で散漫。

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遠藤周作『メナム川の日本人』を読む

 山田長政が主人公。名前だけは知っていたが、はて、どういう文脈の中でだったかは、わからない。こういう人だったのか、と、意外な感じ。昔、「しおさいの詩」の小椋桂はアルバムカバーに岡田祐介を使っていたが、そうそういう感じなんだと思っていたら、本人はズングリムックリの人で、意外だったのに似ている。

 大分出身の殉教者ペトロ・岐部が登場する。ローマからの帰りだが、キリシタン弾圧から逃れてきた日本人が「帰るな」というけれど、困難の果てに帰り、結局は火刑に処せられることが述べられる。もしかすると岐部をもっと描きたかったのが、長政に魅力を感じて、結局、こういう形になったのかもしれない。作品としては冗長で散漫。『黄金の国』のグイグイはない。

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遠藤周作『薔薇の国』を読む

 朝から半袖で過ごせる季節になった。ウッドデッキに本とノートを持っていき、犬を放す。最近は本に飽きると、家の周辺の草取りをする。草は抜いても抜いても出てくる。際限がない。この溢れる生命が、地球を青くしているのか。さっき読んだことを考えながら草を抜くのは、まァ、咀嚼みたいなもんか。

 『薔薇の国』は『黄金の国』の時代を先の戦争の時代に置いたものだが、歯切れが悪い。一つには絡まる要素が増えていて、そのやりくりが難しいからか。信仰は心の問題で、心は目に見えない。目に見えるようにするためには、場所と人物の設定こそ脚本の要なのだ。

 さて、草抜いて、ビールでも飲むか。

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遠藤周作『黄金の国』を読む

 大学時代に遠藤の小説『沈黙』を読んだが、内容は忘れてしまった。踏み絵を「踏んでいいんだ」という神の声だけ覚えているのみ。この『黄金の国』はテーマは同じだが、戯曲としての完成度も高い。書こうとしていることがはっきりしているからだろう。キリシタンを弾圧する井上筑後守を以前キリスト教信者という設定(事実かもしれないが)にしたのがいい。

 それにしても、キリシタン弾圧の何と悲惨なことか。ここまで人間はやるのか、と、恐ろしくなる。遠藤のたどり着いた「踏みなさい」という考えは、凄いと思う。

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遠藤周作『親和力』を読む

 最近ぼくはある作家の作品を集中して読む傾向にある。これは、はて、図書館の係になったから少しは借り出さないといけないという義務みたいなものがあるのは確かかもしれないが、昨年の木下順二、チェーホフは借りたものではない。まとめて読むと、重なっている部分が明確になり、その作家の核みたいなものが見えてくるような気がしてくるのだ、というところで、誤魔化しておくか。

 遠藤周作はクリスチャン。神と人間、神は人間を救うのか、それが彼の核にある、と、思っていた。遠藤の作品を読んだのは学生時代で、専ら小説。そして、今回、遠藤の全集を図書館で見つけて、戯曲だけを読んでみよう、と。

 『親和力』というタイトルが、もう少しどうにかならなかったか、と、思う。ゲーテの影響がどれくらいあるのかわからないが、それにしても・・・。観たくなる舞台の看板じゃない。

 人は生きている限り、謝ってチャラになるようなことばかりではなく、解決も、その糸口さえ見出せない、そういうことが澱と重なっていく。それにどうやってケリをつけるのか。そこに宗教はどう挑めるのか。宗教に解決はない。宗教は装置。自分が自分を考える装置、その時間と場所なのだと思う。遠藤の劇作術は幼いけれど、彼が提出した問題に誰が納得いく答えを出せるだろうか。遠藤でも、出せないように思う。だから、価値があるのかナ。

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歩く

 遠足で歩いた。生徒は歩くのが遅い。ぼくは嫌われるくらい速く歩くけれど、我慢して合わせて歩いたけれど、我慢が難しかった。サンダルで行けばよかった。

 歩くということをもう少し考えた方がいい。どうせ歩くのだから、健やかな歩き方、カッコいい歩き方でもいいが、歩くのは運動なんだから、どういう歩き方が運動として一番いいのかを考えればいい。人生に無駄は必要だが、運動は効果を考えないといけない。歩くという単純な行為に、自分なりの科学をしたい。誰かの、大学教授のナントカではなく、自分で考えることが必要なのだ。自分で考えない人が増えてる、と、思う。

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遠藤周作『女王』を読む

 黒い寓話と呼んでもいいのか。大学時代「狐狸庵シリーズ」を笑いながら読んでいた。あのとぼけたおっちゃんにこんな面があるのか、と、意外だった。人は多面体だから、状況に応じて、ある面がググッと出てくることもあるだろうが・・・。

 朝のテレ朝の天気コーナーから甲斐まり恵が消えたのがさびしい。今度の人もいいけれど、甲斐のあふれるばかりの可愛さは良かった。朝を迎える歓びだったのだが。

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井上ひさし『ムサシ』を読む

 ずいぶん前、井上が宮本武蔵を主人公に脚本を、それもミュージカルを書き、ブロードウエイで上演するというニュースが田舎にも届いた。それは結局立ち消えになってしまった。今回、蜷川演出で上演されるという新聞記事を読み、「私たちはみんな小次郎です」という蜷川の言葉の笑いつつ、はて、どんな形になるのか、興味があった。

 新聞広告で文芸誌に戯曲が掲載されていることを知り、佐伯の書店をかけずり回り、3軒目でようやっと手にした。

 宮本武蔵を描いているのではない。宮本武蔵を取り込んだのだ。いつもの井上作品。ブロードウエイを思い出した分、期待が膨らみ過ぎたところもあるが、でも、やはり、井上ひさしは面白い。

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向田邦子『無名仮名人名録』を読む

 向田邦子の文章を読んでいると、人にはそれぞれ欠点があるが、それはそれでいいんじゃないの、悩みなさんな、と、言われているような気がしてくる。この中でも、向田自身のオッチョコチョイや愚かさ、思いこみの激しさ故のドタバタ等が、率直に語られている。こういうのは、一回やってしまうと、おおっぴたにすることで、自身が救われる場合もあるように思うが、向田の何とおおらかに語ることか。その辺が愛された理由か。

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向田邦子『眠る盃』を読む

 脚本を書いていて、ここはこうしないと、というところが増えた気がする。昨年、木下順二、チェーホフの全戯曲を読んだ時にはなかったが、倉本効果だろうか。30冊は、放送回数にすれば300回分くらいの量になる。それをほぼ40日で読んだということは、一日7時間ちょっと観た分量になる。効果がない訳がない。

 さて、向田エッセイ第2弾。ミ~ケさんが以前書いた部分に出会った。男性鑑賞法の中に、倉本聰の項があり、そこに書いてあった。ぼくが膝を打ったのは、『うちのホンカン』を向田が「短編小説として読んだ」という一行。ぼくは何回か倉本の脚本は小説だと書いたが、向田が賛成してくれたような気がする。それにしても、倉本にズドンと言えるのはそうはいまいと思うのだが、向田はストレートにズドン。痛快だ。

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向田邦子『父の詫び状』を読む

 面白い。今まで本屋の棚で何回か手を出しかけたものの、とどまった理由はわからないが、後悔後に立つ。

 視点が面白い。文章の歯切れがいい。発泡酒だったかのCMで快感は?に松坂が「バットをへし折った時」と答えるのがあったが、向田邦子の直球の切れ味は松坂以上に爽快だ。笑ったり、泣いたり、フムフムだったり、文字を追いながら、心が動いているのを実感できた。

 母と妹の香港旅行を見送るシーンでは、胸を打たれた。「どうぞ、飛行機が落ちませんように。落ちるのであれば帰る時でありますように」という祈り。思わず息を飲んだ。

 向田邦子を読み始めた、と、ある女性にいったら、「彼女、ファザコンでしょ」という言葉が返ってきた。知性と可愛さ(逆の方がよかった、か?)の人からのファザコン言葉に、ああそうなのか、と一つの視点を与えられたような気がする。

 向田の父親のような父親は、もう絶滅しているかもしれない。向田の父親の多くのNOは結局はYESになっているように思う。そして、その結果、向田の内部に潔さとかアッケラカンの強さが育ったのではないか。エッセイを読んでこんなに楽しんだことはない。『徒然草』『枕草子』なんかメじゃない。ぼくが大学に居残りを決めた年の刊行なのに、古さは全くない。普通の人間がそこにいるからだ。

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市長・市議選

 市長候補は4人、市議候補は、・・・忘れた・・・、とにかく多い。誰かを選ぶにも判断材料がない。何人かのリーフレットは郵便受けに入っていたけれど、全員のものがなければなければ、意味がない。

 選挙カーが近づいてくる、うちまでくれば何か一言かけて、その反応が確かめられる。心待ちにするけれど、向こうの通りまでいくけれど、ここまでは来ない。わずか4軒しかないから、か。こうなってくると、ここまで来た選挙カーに投票してやろうと思うけれど、近づいては遠ざかるだけ。

 仕方ないので掲示板を観察した。顔だけで投票してやろう。ところが投票したくなる顔がない。人間は顔ではない、と、いわれる。ぼくはそうは思わない。キムタクのようなイケメンである必要はないが、その人の生き方、生き方から培われた誠実性や優しさは顔に出る。ましてや選挙に出る方はどなたも艱難辛苦を経ていらっしゃるから、顔で判断していい。顔もダメなので、文字を読む。初めて知ったけれど、ポスターには印刷会社とそこの社長の名前が記載されているんだね。市長候補と市議候補にそれぞれ一人、大分市の印刷会社があった。佐伯市の選挙なのに、と、首をかしげた。まあ、色々事情があるのかもしれない。

 明日は投票日。明日までに決めることができるのだろうか。朝、犬の散歩の時、もう一度顔を見てみよう。

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倉本聰『ひかりの中の海』を読む

 灯台マンが、妻の癌によって夫であることに目覚める物語。簡単にいえばそんな話しだが、『君は海を見たか』の父と息子を思い出した。屈折した男がその歪みをなくし、相手と自分を直視するためには相手の死が必要なのか。

 さて、めでたく、これで倉本聰コレクション全30巻終了。最終巻は『昨日、悲別で』だが、5冊ずつガバッと取ってるうちに、順番に並んでいないのに気付かなかったのだ。

 宮本輝全集全巻制覇を目的に挑戦していた時、ふと目に入ったものの、宮本輝をぶっ飛ばす面白さだった。一行のト書きにも、倉本のこだわりがあった。道の電信柱を歩きながら触っていて、自転車が来たので、よけて一本触れなかったら、わざわざ戻って触ってなかった一本に触るということを、3つくらいの脚本で登場人物にさせている。そういうのがいくつかある。ついつい出てしまうのかもしれない。ダブる部分に作者の何かが見えてくるような気もする。

 津久見高校の「演劇・脚本」のコーナーの本は少ない。7割は倉本作品。後は『北の国から』があるが、「遺言」までを収めたそれは1000ページをこえる。重そうだ。敷地外に煙草を吸いにいく時にも、トイレに行く時も歩きながら読むので、あまりに厚い本はイヤーな感じを与えるかもしれないナ、とか、考えながら、今しばらくは30巻の余韻に浸っていいんじゃないかと結論した。

 今年生誕100年の太宰に挑もうかと、考えていたので、日本文学のコーナーに行き手を伸ばしかけたら、その下に向田邦子の全集があった。これも厚い。以前、ミーケさんからのコメントにあった向田の倉本作品について書いた言葉に出会えるかもしれない、と、思い、その第1巻を借りてしまった。実は今まで読んだことがないのだ。

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倉本聰『ガラスの知恵の輪』を読む

 大竹しのぶ演じる若い人気女優がスキャンダルに追われ、その種をまいた責任を感じる萩原健一と周辺を描く。大竹しのぶにヤクザの兄がいて、ガッツ石松が演じる。ガッツを抜いたヤクザ3人の芸能レポーター批判はおかしくて、的を得ている。一番面白かったのはそこだ。

 『祭りが終わったとき』にも出たが、スキャンダルの記事を買い取ってもらい、その記事を他の雑誌に売るという手口があるようだ。ぼくは芸能人がどーのこーのには興味がない。だから、朝食時のテレビでそういうのが流れると腹が立つ。ましてやナントカさんの新しいCMが届きましたとやるのは、バカじゃねえか、と、思う。

 ただ、倉本作品は、はて、どう話を落とすのか、その興味を掻き立てながら、そう来たのか、と、なる。

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口ずさめる歌

 いつ頃からか、カラオケで美空ひばりを歌うようになった。もちろん、いつもではない。ぼくが歌うのは「港町13番地」。もしかしたら、ひばりは「柔」で人生の応援歌を歌ってからダメになったという、小沢昭一的ココロを聴いたからかナと思うこともある。ただ、歳とるごとに好きになるのは何故だろう。春日八郎の「山の吊橋」も好きだ。一人で生きている姿が目に浮かぶ。

 風呂では何故か「路地裏の少年」をいつも歌う。かぐや姫の「おはようおやすみ日曜日」も増えた。土曜日10時の山田パンダのラジオを聴き始めてからだ。

 志のある生徒と朝勉強をしているが、その教室に向かう時は「始めるぞー」をチャイム代わりにサザンの歌を歌いながら廊下を歩く。主に「いなせなロコモーション」。

 最近電子辞書が普及している。ぼくは業者に、それに入れる辞書をさせてくれればいいのに、と、いつもいう。難しいみたいだけれど、いずれ解決されるんではないかと思うけれど、はて。

 日常がどんどんデジタル化されているけれど、人間はアナログだ。これは死ぬまで変わらない。ところが、デジタル人間がアナログ人間の優位にあるように感じている人間がいる。

 私は私。下手なことを考えるより、好きな歌を唇にのせるほうがいい。断然、そう思う。

  

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倉本聰『波の盆』を読む

 ハワイに移住した人たちの戦争と現在。戦争を違った角度で見直すことができる。盆ダンス、そして精霊流し。精霊流しの光が西へと流れる。西方浄土というけれど、実は日本の方に向かっているという最後の台詞に打たれる。

 ぼくは姓名判断を信じない。もしビル・クリントンの女癖を出せるのなら、信じるかもしれない。同じように仏教に基づいたあれこれも信じない。迎え火、送り火って、ねえ。信じるか信じないだけ。ただ、この倉本作品を読むと、そういう形で亡くなった人を思い出し、幾つかの思い出にひたるのもいいかもしれないと思うようになった。今年の盆まで覚えているかな。

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倉本聰『わが青春のとき』を読む

 将来も恋人も捨て風土病の研究に挑む若き医者の物語。直球勝負の作品。ヒロインが樫山文枝だから、ずいぶん前に書かれたのだろう。

 親から経済的に独立することを自立だとぼんやり考えていたが、この作品を読んで、挫折や失敗したら、自分一人で立ち上がるしかない時もある訳で、自立とはそういうことではないかと思うようになった。痛み、苦さ、悲しみ、自立にはそういうものが伴う。生きることと真正面から向かい合うことからしか、自立はないようにも思う。春。また新しい生活が始まる。

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倉本聰『うちのホンカン』を読む

 ホンカンとは本館で、警察官とその妻の行く先々の駐在所を舞台に繰り広げられる日常。大滝秀治と八千草薫が演じる。二人とも、倉本作品の常連。誰もの周辺にいるような人々のドラマは、もしかするとテレビに一番ふさわしいかもしれない。SFまがいの設定やスーパーマンは要らない。大滝秀治を想定して読み進めるからか、また味わいひとしお。佳作。

 

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ヒゲを剃る

 12月のはじめ床屋に行き、それからヒゲを剃らずにいた。時々手入れみたいなものはしたけれど、『レッドオクトバーを追え』のショーン・コネリーみたいになればと思いながら、どうせモミアゲから顎にいたる部分は砂漠気候というかツンドラ地帯というか、毛がはえない。それでも不思議に家族からはNOがなく、加えて「いい」というある生徒の評価を顧問伝いできくと、イヤ、コリャ、マイッタナとかで、何故ヒゲを伸ばした(剃らなかった)のかがわからなくなった。

 昨日、12月以来床屋に行き、坊主に毛がはえた状態まで刈り込んだ。ヒゲはどうしましょう、に、刈り揃えて下さい、と、庭木の剪定みたいな感覚で答えた。本当は剃り落としたかったけれど、マドンナが「いい」といったらしいから。

 で、結局、さっき洗面所で剃り落とした。どっちでも目くそ鼻くそだけれど、ならば、いつでも剃れるんだから、剃らずおいた方がいいかなと思った。後悔後に立つ。

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倉本聰『ブルークリスマス』を読む

 青い血の人間が増え始め、赤い血の人間が排除しようとする。荒唐無稽ではあるが、ナチスがやった厳然たる事実があることを思い出してしまう。一回だけナチスが出てくるが、それが出るタイミングが、読みながらそう感じ始めたころだから、ニクイ、な。

 ラストシーンの青い血が恋人の血の方に流れていところ。ぼくはそれをおぼえている。映画を観たのだ。はて、誰と観たのだったか。大学時代だと思うけれど。ぼくが誰かと映画を観た最初の記憶は弟。『涙君、さよなら』(これも倉本の脚本かもしれない、その時覚えたのではなく、倉本脚本を読みだしてネットで倉本聰をボンヤリ調べていたときの曖昧なものだけれど。十ディ・オング主演だったと思う)。まだ佐伯に映画館が5つあった頃で、ぼくが中学生(すると、弟は小学生だ)、映画の終わるころ隣の弟をみると、泣いていた。他の人で泣いていた記憶は『上海バンスキング』。それみて惚れたもんな。誰かとの記憶では『All That Jazz』。『ギルバート・グレイプ』。今思いだせるのはそれくらいか。ずいぶん前から、映画は一人で観ることしにしている。『ブルー・クリスマス』は誰かと観たような記憶があるけれど、思いだせない。もう、思い出が届かない、のかなァ。

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倉本聰『冬の華』を読む

 高倉健主演の映画脚本。ポスターは目にした記憶がある。

 関東と関西のヤクザの抗争。刑務所を出た高倉演じる男が、足を洗いたいと思いながらも再び巻き込まれていく。『あにき』の方が作品としても健さんとしてもいい。

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倉本聰『あにき』を読む

 独特な画風で一世を風靡した滝田ゆうが画家として出演、彼の眼でみた高倉健と大原麗子兄妹とその周辺をナレーターとしてつづっていく。倉本の作品はナレーションが多く、その多くは「~わけで」という形で終わるのが多い。

 健サンが連続テレビドラマに出演していたとは。無口で不器用というイメージが健サンにはあるが、このドラマでも同じ。彼のイメージに合わせたのか、それともそういうイメージにしたのか。ト書きに「あの高倉健サンが、異様ににやついている」とかいったものがあった。

 倉本作品を読みながら思うことは、最近オトナ向けのドラマが少なくなったように思う。子どもや女性をターゲットにしたスポンサーが多いからか。チャンネル権(死語か?)を子どもや女性に奪われてから、テレビから男が離れていった部分もあるかもしれない。イカン、な。ファーストフードのようなドラマではなく、懐石料理やフルコースのような、そんな食べ応えのあるドラマが復活していいんじゃないか。これからのターゲットは金を持ってるオトナにしないと。

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倉本聰『昨日、悲別で』を読む

 北海道の廃れていく町、そこの人々、東京に出て不器用に夢を追いかける若者、母と息子、母と娘、兄と妹、男と女、愛情や友情の様々な形、ショービジネスの光と影、そういうものが丹念に描かれている。いい作品。ただ、登場人物がはるかに少ない、父親と息子に焦点をあてた『君は海をみたか』の方が、感銘深い。

 倉本聰コレクションも24冊目。ぼくは脚本のカテゴリーで書いているけれど、テレビドラマの脚本は、演劇よりもむしろ小説に近いような気がしている。ちょっと暴力的に理由をあげれば、読んでシンドクナイのだ。芝居の脚本を読む時ほど体力が要らない。台詞の多い小説とでもいえばいいか、その都度ト書きで作者がポイントを示してくれるので、小説よりも読みやすい。ただ、倉本作品を一冊借りた時は、宮本輝の全集制覇に向かっていた。気分転換に借りた倉本作品は宮本輝を吹き飛ばした。面白いことは間違いない。

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