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星野道雄『アラスカ 光と風』を読む

 暑いときに、寒い場所について書かれた本を読むのもいいか、ナ。星野は誠実で、その人柄に打たれる。アラスカに住んでいる人たちとの交流。星野みたいにできるだろうか。アラスカの魅力も知った。それ以上に星野の魅力に打たれた。

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田舎のジジイ福岡を歩く(2)

 宿泊したホテルはキャナルシティにあり、広い浴室はシャワーカーテンがないのが良かった。子どもは、浴槽に身を沈めてテレビをみれることにいたくよろこんでいた。そして、チェックアウトが12時。朝食をすまして、10時に開店する店をウロウロして、それからチェックアウトできるのは実にいい。

 キャナルシティの店にぼくは入ることなく、ただただウロウロして、人々を眺めた。田舎の人間の目には、なんじゃこれは、と、思うような女性の姿がやたらと目についた。これでもかとムキになって可能な限り足をむき出しにして、加工された顔はしかし無表情で、ぼくは何度クレイジーという言葉をつぶやいたことか。なかには、とてつもなくヒールの高い靴で短い歩幅でぎこちなく歩く女性には笑った。あんな歩き方は退化していく人間の姿そのもではないか。奇形で滑稽。あわれ、と、言うべきか。

 ショーウインドウの中では、店員の女性がマネキンの衣服をいじって、少しでも良く見せようとしている、というより、暇つぶしのようにしか見えない。そいうところだけを見てのことか、「ショップの店員になりたい」という女子高校生がいる。仕事って、そんなもんじゃない。裏ではきっと、・・・。

 遥か昔、東京で働いていた頃、仕事場が新宿で、ウイークデイの昼間は新宿を見ていた。あふれかえる人。一体、こいつらは何をして生活しているんだ、と、不思議でならなかった。大都市というのは、コップが満杯になり、こぼれる状態かもしれない。こぼれるものを気にしない。そのおこぼれで生きていくことだってできる。大いなる都会は大いなる無駄で成立する。

 福岡は、しかし、清潔な元気がある。クレイジーな姉ちゃん達も、何故か許せる。これをこえてしまうと、マクベスの魔女の「奇麗は穢い、穢いは奇麗」で、街自体がクレイジーになってしまうかも・

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田舎のジジイ福岡を歩く

 子どもに連れられて、福岡に行ってきた。以前は一緒に歩いていたが、最近は待ち合わせの場所と時間を決めて、その間ブラブラする。とりあえず本屋に入って一時間ほどチョロチョロして2冊ほど選んで、煙草を吸いながらビールでも飲むか、と、思ったけれど、煙草を吸える場所がない。食事の次に「居酒屋」と書いてあったので、そこに入った。しかし、3時までは禁煙だという。訳がわからない。仕方ないので、ビールを飲みながら、本を読む。途中、カウンターの二つ隣に妙齢の女性が座り、ビールとサンマの刺身を注文、すぐにビールをおかわりし、それを飲みほすと、白波のストレートを2杯。そして、ごちそうさま、と言うと、サッと帰っていった。

 天神コアに入って、案内図を見て、屋上に行くことにした。なんと、そこは喫煙ができる。カップルが一組とシングルが4人。風が吹いて、暑くはない。煙草を吸うのにこんなに苦労しなければならない都会は大変だナと思いながら、そこの人々を観察。「女の子」と呼ばれなくなって久しい女性が、携帯をいじり、煙草を吸う。弁当みたいなものを食べて、煙草を吸う。何かを飲んで、煙草を吸う。芝生が敷き詰められた屋上は彼女にとってオアシスかもしれない。組んだ足は筋肉質。陸上でもやっていたのだろうか。

 カップルは若い。少年と少女。体育会系ではない黒ぶち眼鏡の細面の色白と図書委員風の穏やかな少女。何かを話している風でもないが、悪い雰囲気ではない。それから、おばちゃんやらデーハーなお姉さんやらが来ては帰って、カップルを見ると、なんと図書副委員長が男の肩に頭を任せているではないか。少年は目をつむっている。手を肩に回すとか、唇を寄せるとかではない、目をつむる。「ここまでしたら、何か具体的なリアクションを!」と求めることを少女もしない。恋愛初期では必須のことかもしれない。幸せに!

 子どもたちがコンサートに行っている間、大学時代の演劇部の後輩に会う。あんなにビールを飲んだのは久しぶりだが、それより会話量が多かった。彼のかつての芝居仲間情報やら今度の選挙やらで、かなりの言葉を費やした。もしかすると、一年間に『ハムレット』について書かれる論文の言葉の総量をこえたかもしれない。とにかく今度の選挙は滅多にない面白いイベントだと意見は一致した。

 コンサートを終えたという電話で、迎えに行って、屋台に行った。それまでのビールがトイレを急がせる。屋台の大将にたずねると、こっちか、あっちかのコンビニを使って下さい、だと。都会は、とにかく、歩かせられる。疲れる。to be continued.

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角田光代『ぼくはきみのおにいさん』を読む

 小学校の娘が読書感想文を書くのに、ある本のタイトルをあげたら、母親から「そんな本で感想文はダメよ」と言われた、と、こぼした。

 読書感想文は作品批評でも研究でもない。それを読んで、「私」のなかに湧きあがったものがあれば、それを書けばいい。だから、何を読んだかではなく、どう書いたか、それがポイントではないのか。そうしないと、もし、ドストエフスキーの作品を選んだら、どうするんだ。

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佐伯の歌

 ケーブルテレビを観ていると、時々、甘ったるい歌が流れる。佐伯の歌? 伊勢正三が作った「美しいもの~佐伯讃歌~」。これを聞くたびに虫唾が走る。何故市民に公募しなかったのか。経費も安く済んだはずなのに。ただ佐伯のあれこれを歌詞に織り込めばいいというもんじゃなかろうと思う。

 伊勢は津久見の出身だ。何故、津久見出身に依頼するのだろうか。わからない。伊勢の才能は認める。「あの頃のぼくは」は今でもいいと思う。それを考えても何故伊勢なんだ、と、思う。彼の「佐伯讃歌」は愚作。恥ずかしい。流さないでほしい。新たに公募したらどうか。誰が依頼して、誰がOKを出したのか。調べてみようと思う。

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ハロルド・ピンター『温室』を読む

 面白かった。しかし、わからない。わからないけれど、面白かった。

 わかるということはどういうことか。芝居を観ていて、先を読んで、その通りになったら、膝を叩いたり、「やはりな」とつぶやいたりする。わかるということは知的なことだが、表現とは知的なものは部分でしかすぎず、心が揺り動かされる方が主要であり、それには名前がつけられない場合も少なくない。「なんて言っていいかわからいけれど」という枕詞のあとに「感動した」「面白かった」とつながる場合のように。

 わかろうとする知的活動は捨てて、「こんなことアリかよ」「びっくり」「切ないナ」みたいな感情で接してもいいかもしれない。そんなことをぼんやり考えた。

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『トランスアメリカ』を観る

 女になる手術を一週間後に控えた「男」に電話がかかる。大学時代に一度だけ関係をもったことがあるが、まさか・・・。結局、息子と名乗るその男を、教会関係者だと名乗り、警察まで迎えに行き、車でアメリカを横断することになる。

 設定は面白いけれど、あと一つ何かが足りないような気がする。それが何かはわからない。「男」に深く入り込んでしまうと、観る者にはシンドイものになってしまうが、サラリとしたものになったために、何かが抜け落ちたのだろうか。ウ~ム。

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『モナリザ・スマイル』を観る

 ぼくが生まれた年から一年間の大学での物語。ジュリア・ロバーツが美術史の講師で、例の独特な笑い声を聞くことができる。

 アメリカは自由な国と言われる。その自由とは何かということも問題にはなる。ただ、アメリカという国は成立事情で、そうならざるを得なかった部分はありように思う。コロンブスが発見して以来、ヨーロッパ各国が入り込んだんだから、それを統一する過程であっちの事情も考えざるを得なかったんだろう。

 自由の国アメリカでも「赤狩り」でいびつな状況だった時期もある。『モナリザ・スマイル』はその辺の時代背景があるように思った。

 自由と身勝手が、今の日本では混同されているように思う。その違いがわかったら、身勝手な連中の人生は確実に面白くなるはずだ。

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地図帳を買う

 盆で他県ナンバーの車が目立つ。帰郷の必要がないのはいい。金と時間と労力をかけての往復は、100キロを超すと、シンドイ思いが先にたつ。

 図書館の文芸作品の棚を離れて、地理関係に移動した。そこで数冊借りたのだが、読み進むにつれ、どうしても地図が欲しくなった。それで本屋に行って選んだ。地図のコーナーと学習コーナーの地理の棚で比べて、学校で使っているのも何か抵抗があり、「グローバル・マップル」にした。地理の棚の「資料 地理の研究」も買った。この2冊でしばらくは遊べそうだ。地理はぼくの一番好きな教科だったのだ。ん。 

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『大阪ハムレット』を観る

 父親が急逝して、父親の弟が同居することになる。息子が3人いるが、この3人がタイプが全く違い、生き方も全く違う。

 ハムレットの前に幾つか都市名をつけてみる。おそらく世界中で一番興味をそそるのも、そして面白くなるのも、大阪ではないかと思う。勉強と一番縁遠い次男坊が『ハムレット』を暗記するほど読み、覚えた台詞を大阪弁でいうシーンがあるが、なかなか歯切れがいい。『シェイクスピアの面白さ』で中野好夫が「大阪弁で訳してもいいのではないか」と提案していたのを思いだした。

 ラストシーンで母親が4人目の子どもを産む。ぼくはつい「双子や!」と叫んでしまったが、そうではなかった。双子が断然面白いと思うのだが・・・。街並みの絵に母親の「ごはんやで」という声が流れるのがいい。

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鬼の顔(2)

 すぐに怒る。これはどこから来ているのか。

 もしかするとお笑いのところにないか。

 「やすきよ」の漫才からかどうかはわからないが、「ドツキ」が生まれ、「なんやねん」という形で返すボケとツッコミのパターン。ああいうところで、怒っていい、怒り方の方法を学習しているのいかもしれない。

 笑わせているのか、笑われているのか。その辺を見定めることができない芸人はあぶく玉だろう。

 頑張れ、えとう!

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鬼の顔

 先日スーパーに入ろうとしたら、バックして車があり、中途半端な状態でいたら、後続車のクラクション。ちょっと先に入れて振り返ると、その後続車はほんのちょっとぼくの車を避けながら行ってしまった。その時、助手席のご婦人がこちらを見ながら何か叫んでいる様子。何を叫んでいるのかはわからない。しかし、その形相が手厳しく罵っていることは容易に想像できた。

 ぼくも時々そういう顔をしているのかもしれない、と、思った。こりゃあいかん。これからは、ああいう顔をしてはいけない。ほんの十数秒のことに目くじらを立てることもなかろう。ご婦人が教えてくれた。サンキュー!

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Super Size Me の余波

 食べ物に対してのセンサーができたように思う。何を食べるかというメニューではなく、それがどういう食材を使っているのかというおとに神経を尖らせた方がいいのではないか。後を絶たない食品偽装問題。人間の生活と直結しているだけに、深刻だ。

 ごはんとみそ汁だけ食っても、スーパーサイズ・ミーのようにはならない。

 食い物について、よく考え、不埒な業者は使用しないことだ。

 タバコ、そろそろ、やめなければ・・・。

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Super Size Me を観る

 昔、アメリカでファーストフードを食べて太ったと二人の女性がその会社相手に訴訟を起こした。結局はそれが原因だと証明できなかったということで敗訴したらしい。それをある映画監督が知り、じゃあオレが実験台になってやる、と、30日間、その会社のものだけを食べて過ごし、それを映画にした。

 最初は入念な健康診断をし、極めて健康であると証明。そして、彼の30日間が描かれる。間に医師や栄養士等の専門家のコメントが挿入される。

 3週間足らずで、体重は10キロ以上増え、医師からはストップした方がいいというまでの健康状態になってしまう。実験を終えると、彼は元の体に戻るようにするのだが、9か月かかる。それでも、はて、完全に戻るか・・・。

 コメントも含め、かなり考えさせられる。ファーストフードをよく利用する人は一度観た方がいいと思う。

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大原照子『これなら作れる男のごはん』を読む

 定年後のことをおぼろげながら考えるようになっている。娘たちが高校卒業後進学した場合はまだ5年は働かないといけないのだが、その問題が解決できれば(できっこないけれど)、料理学校か農業の勉強をしたいとここ5年ほど考えている。料理は手を使うから、様々な感触も刺激としてはいいだろうし、植物は文句を言わず、かけた愛情が目に見えることがいい。

 どうなるかはわからないけれど、まァ、少しでも料理についての知識を増やしておいた方がいいだろうと思い、簡単そうなものを買った。基本的には、賛成する考え方だ。ここに書かれてあることを実践して、慣れたらバリエーションを付け加えれば、学校に行かなくてもいいかもしれない、と、思う。

 ただ、基礎知識がないから「ひたひたに浸す」という言葉に立ちつくしてしまったりする。しばらくは本で学ぼうかと思う。胃袋のことを考えない人間は頭のことも考えない、と、ジョンソン博士は言った。うん。

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