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『ストレイト・ストーリー』を観る

 ストレートではなくストレイトという表記にチラと首をかしげたものの、余計なことを挟まずに一つのことでまっしぐらという映画だろうと勝手に思い込み借りた。

 高校1年の頃だったか、東芝からカセットレコーダーが発売さっるのを記念して『フレッシュ・イン・トーシバ・ヤングヤングヤング』というラジオ番組で「何を録音したいか」を募集し、10名にその製品をプレゼントし、録音したものを送って、中からいいものを放送するという企画があった(長い文章だ。よくないナ)。ぼくのもとにそれが届き、放送された2本の中にぼくのものがあった。一本は本州を横断して、日本海側のどこかの港に停泊中のソ連の船乗りにインタビューしていた。凄い。それに比べて、ぼくは「まっすぐ歩く」。木があろうと崖があろうとまっすぐ。ひたすらまっすぐ。ストレート。そんなもんではないか、と、思ったわけだ。

 実はストレイトは主人公の姓。かなりお年を召した男性が、彼は糖尿病を患っている上に、歩くのに二本の杖が要るという困難を背負っているのだが、500キロ離れたところに住む兄が倒れたとかで、小さなトラクターで会いにいくというストーリー。歩く程度のスピードだから、時間がかかる。その時間の中で彼は多くの人に出会う。その人だから話せることもあり、そういう短い会話の中で、ぼくらは主人公を知っていく。ささやかだが確かなものがある。味のあるいい映画になっていて、こういう映画は好きだ。

 今日は津波で海岸沿いの道路が通行止めになっていて、消防自動車を見かけたり、マイクで注意を呼び掛ける車とすれ違ったりで、慌ただしい一日だった。NHKはずっと津波について。今日は温かく、春の粒子に満ちた穏やかな一日。陽だまりの中、シャツ一枚でビールを飲みながら、犬と話していると、この平穏が破られることなど考えることはできない。津波災害が起きませんように。

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『フリーダム・ライターズ』と『グッド・ウイル・ハンティング』を観る

 共に学校が舞台。作品としては『フリーダム』の方が断然いい。『グッド・ウイル』は天才的な数学の才能を持っている若者が生きるkとに目覚めるのだが、頭のいい人間だから、そこにカウンセラーが介在しなくても、遅いか早いかだけのような気がする。むしろ、カウンセラーで解決しない方が良かったように思う。前者は世間から疎外されている若者たち。それが真剣に接する教師によって、学力をつけるにつれ、自立していくというもので、『ゴクセン』に学校の本来の機能が加えられているとでもいえばいいか。

 昔ある進学校に勤務していた頃、「何々君は、東大に通したんだけれど」を枕詞にして、自分の功績を披露するのを常としていた教師がいた。優秀な生徒だったというだけのこと。またある学校では志望する大学を受けさせずに、合格する大学を受けさせ、学校の合格者の数を増やすことに躍起になっているらしい。一所懸命なのはわかるが、首をかしげてしまう。

 来週は高校では卒業式。如法暗夜の中で考え込んでしまう。

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ウディ・アレン『リヴァーサイド・ドライブ』読む

 おそらく人類が抱えている永遠の問題は戦争と平和の問題でも、環境問題でもなく、男と女の問題であることは間違いない。人類が地上に出現してからの問題であり、遠い将来においても解決される見込みはない。もちろん、あるカップルの解決はあるけれど、それが他のカップルの解決策になることはない。ベケットの『ゴドー』の台詞をもじれば、「あるカップルができると、別のカップルが分かれる。分かれるカップルがあると、生まれるカップルがある。だから男女の世界での幸せと不幸は常に一定だ」。

 恋の始まりのときのときめきと終わるときの失意感。プラスマイナスゼロではなく、マイナスなように思える。でも懲りないんだナ。これはぼくのせいではなく、わがままな遺伝子のせいだろう。

 アレンのこの一幕劇では新しいものは何もない。それでいいんだろう。ただスッゲー知的な会話が繰り広げられる。それに軽みを加えて、会話はどんどん転がっていく。そこが面白い。でも、また読みたいとも、上演を観たいとも思えるほどの魅力はない。

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三浦しをん『神去なあなあ日常』を読む

 面白い。夢も何もないまま高校を卒業した主人公が、「ここに行け」と親から送り込まれたのが、神去という名前の山奥。そこで林業に携わることになる。

 SWING-BYの代表の鶴原は林業をしている。昨年、林業小説の広告を目にしたぼくは彼にそういう本が出たらしいと伝えた。山が舞台の小説、映画、芝居はあるけれど、林業を描いたものは珍しい。彼は、ここが鶴原のいいところだけれど、すぐにゲットして、ぼくに貸してくれた。でも、ずっと読んでいなかった。活字に殆ど触れることがなかった時期だった。

 面白い小説、というより大好きな小説。そこに描かれた世界と人々の何と魅力的なことか。生活とか生きるとか、それは今の日本人の大半が過剰すぎるくらい浴びている「文化」の中で「私」とともに見失っているのかもしれない。ところが、横浜のノホホン男が、山奥でしっかり生きていくのだ。

 三浦しをんという名前は目にしたことがあるが、読むのははじめて。言葉が弾んでいて、その弾みが次を読ませる。クライマックスの書き方に物足りなさを感じるけれど、その時にはすでに自分で思い描くだけの力量がついている。

 ぼくの部屋の窓から見えるのは、山。それをいつも眺めながら、放置された山はよくないんじゃないか、と思いながら、腰が悪いから、と、次のステップを考えない。山のことをもっと考えるようになった。 

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『ティファニーで朝食を』を観る

 そう、ぼくはオードリー・ヘプバーンに心酔していた時期がある。だから、彼女はぼくの人生に影響した、ともいえる。

 佐伯には、高校生の頃、5つの映画館があった。今はない。土曜日、学校の帰り、フラッと寄った映画館。何故かはわからない。それまでにそんなことはなかったから。『マイ・フェア・レディ』を観て、世の中にこんなに楽しいものがあるのか、と、松井のバッドで頭を叩かれた衝撃だったのだったのだった。

 久しぶりのオードリーだけれど、それほど観たい気がなかったので、今まで観なかった。原作者のカポーティーはヒロインはマリリン・モンローが演じるべきだと最後まで主張したらしい。確かに。オードリーよりは、いい映画になっていたかもしれない。二人ともかわいいんだけれど、・・・。

 名画ではないけれど、幕開きの場面は実にいい。

 オードリーにヘップバーンをつけないと、漫才の春日の顔が浮かぶ昨今。あいつら、だんだん許せなくなってきている。

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『ノーカントリー』を観る

 始まってすぐ「ヤバイ」と思った。それは観るにつれて、確かになっていった。映画のつくり方はうまいとは思う。スキがない。だからかえっていっそう、ぼくには不向きな映画だという思いが強まった。

 別のブログに書いたけれど、ぼくは国母選手の腰パン騒動に対しての狂騒は好き嫌いとか趣味、生き方の問題だと考えている。「キチッとしなさい」というのは、自分の生き方の押しつけのようにしか思えない。彼がキチッとするのは競技をする上でのことではないか。在籍している大学にまで文句を言う人がいて、大学は応援会みたいなものを中止したのも、おかしい。自分の学校の生徒を応援して何が悪い。問題を大きくしたのは、マスコミの理念なき報道かもしれない。どこの新聞、そこのテレビ局はこういうスタンスだというものがなく、受け手にすり寄った姿勢。最近は国母選手はいい人だ、と、平気で変えてしまう。

 趣味にあわない。国母の腰パンなり着方はぼくの趣味にあわない。『ノーカントリー』も趣味にあわない。でも趣味にあう人もいる。実際国母はそういう着方をして、そういう映画をつくる人もいる。そうじゃなくて、と、それぞれがそれぞれの着方、つくり方をすればいいだけのことではないか。

 世界は多様だからこそ面白い。

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『キートンの大列車追跡』を観る

 バスター・キートンの映画を観るのははじめて。サイレントだから、台詞は音声ではなく、字幕。

 昔、日本人はチャップリンを好むが、西洋人はキートンの方を好むというような内容の文を読んだことがある。ぼくはチャップリンは大好きで、大好きなことを後ろめたく思わせるようなものがあった。

 今回、キートン作品を観て、表情を全く変えないキートン演じる主人公がこれでもかこれでもかというくらいにドジやヘマを続けるのをみて、もういいよ、と、ウンザリしたり、腹立たしくなったり。チャップリン映画ではそんなことなかった。世界中を敵に回してもいいけれど、チャップリンの断然面白い。

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『我が道を往く』を観る

 ビーン・クロスビー主演の白黒映画。彼が演じる神父はいい人でありながら、多方面に溢れる能力を持っているし、当然ながら歌がうまい。その辺が前面に出た映画。彼が、赴任したばかりの教会を去るところで映画は終わる。しかし、そのラストが問題。その教会の先輩神父は、その教会を建てて以来アイルランドだったかに住む母親に会っていない。会うだけの貯えができると、いつも教会のあれこれで消えてしまう。その母親が、息子の教会を訪ねる。いい人らしい配慮ではある。しかし、その母親は90歳を超えている。そんな老人に大西洋を越える旅をさせるのは酷ではないか、と、思ったところで終わるのだ。主人公が、二人が抱き合っているところをみて、静かに去るのだが、その理由もわからない。スターに気を使いすぎると、半世紀経ったら、田舎の暇人からNGが出される羽目になるのだ。作品で自立できないと。

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『我が家の楽園』を観る

 かなり昔の作品だから、白黒。タイトルに惹かれて借りたのだが、始まってすぐに名前の中に二つの好奇心を駆り立てる名前があった。フランク・キャプラの監督で、ナント、原作はジョージ・カウフマンの戯曲。彼についての幾つかの文は読んだものの、作品に触れるのは初めて。期待した。

 三世代がすむ家にあれやこれやの人間が出入りしている。ところがその家は地上げの対象になっている。その辺一帯の土地を買い上げようとしている会社に主人公の孫が副社長秘書として勤めていて、副社長は社長の息子で、二人は結婚に向かっている。そしてあれこれ・・・。

 古さを全く感じることなく愉しむことができた。所得税を払っていないから払えという国税庁の役人に主人公が言う「デパートに行ってお金を払えば、品物をくれるが、国にお金を払えば、国は何をくれるのかね」。単純明快。役人は幾つかの反論を試みるが、「払ってもらう」と捨て台詞を残して帰る。いつかまた役人が出てくるのだろうナと思っていたが、出なかった。主人公の考えを明確に示しているが、出てきた全ての問題を解決しないと幕が下ろせない訳ではないのサ、ということか。

 こういう出会いが明日をまた面白くするのだろう。ん。

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『シンデレラマン』を観る

 面白かった。貧困のどん底の主人公がボクシングで家族に食べさせようとする。ボクシング映画というよりは、家族映画になるのかもしれない。貧しくても幸せはあり、その幸せが父親に勇気と闘志を与え、さらに家族の幸せをより大きなものにしていく。

 現在日本で生活や子育てに大きな困難を持っている人は多い。しかし、政府からの金や制度の改革をしても、その人自身が解決に向けて行動しない限り、問題は解決しないのかもしれない。人間には何度か踏ん張り時があり、踏ん張る限り、物事は好転以外あり得ないのだろう。ヤケを起こしたらいけないのだ。

 昨日から体長がすこぶる悪く、授業だけは休みたくないんで、最後の授業を終えると、早退した。途中、ディーラーに寄って、代車に乗り換えた。ポワ~ンとしている。ゆっくり休みなさい、ということか。

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『おくりびと』を観る

 遅れてきたおじさんは話題が消えた頃に観るのでであった。

 面白い、いい映画。主人公がチェロ奏者だったのが、いい。他の楽器ではダメではないか。友達の母親がなくなって、棺が赤い炎で包まれた瞬間、無数の鶴が飛び立つ映像と重ねたのも、優しさ溢れる美しい瞬間だった。

 キャストも良かった。あの中で二人が亡くなっているが、アカデミー賞がいい供養になったと思う。二人とも好きな俳優だった。いままでどうも好きになれなかった広末涼子も少しだけ好きになった。派手さは全くない。微塵もない。ただただ真摯と優しさに溢れている。観ないまま死なずによかった。

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ぶっつけられた!(2)

 キノシタさん、たかおさん、ありがとうございます。これから、修理終了までレポートしたいと思います。

 昨日、事故が起きるとすぐに彼は保険会社を呼んでくれました。すぐに来た保険会社はデジカメ(かなり古い)を持ち出し、写真を撮ろうとしましたが、電池が切れていたんです。近くの人から調達して、写真を撮り、「全面的に悪いと言っているので、全額払うようになるでしょう」と。ぼくはそこで今後の流れを確かめたけれど、正確な説明はなかった。

 その後すぐにディーラーに行ったけれど、祝日で休み。今日、仕事の帰りにディーラーに行き、説明しました。ぼくはそこを全面的に信頼しています。その信頼に応えるだけの対応をしてくれました。ドアは修理ではなく、交換するとのこと。それには一週間かかるほどかかるらしい。ただ、「両方の車も動いていたのに、100対ゼロにした。代車のレンタカー料金については・・・」と保険会社は言っているとのこと。両方が動いていれば、ぶっつけられた方にも過失があるということなのだろうか。

 ディーラーは「へこんだまま運転するのを、他の人からみられることを嫌う人がいますが、どうしますか」と言った。ぼくはそんなことは気にしない。月曜日に、ディーラーが親保険会社と話し合うということなので、しばらくヘコんだ車で走ることになるのです。うん。

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古川敬『山頭火の恋』を読む

 佐伯出身の英文学者工藤好美の妹に恋をしていた、というのがテーマ。ならば、もっとその辺に焦点を絞って書いてくれたらと思う。研究書と思いきや、時に小説っぽい部分もあり、よく勉強はしているという思いで本を閉じた。山頭火に対するスタンスが定まっていないからだろうか。

 著者の古川さんは、中学、高校の先輩で、中学ではテニス部の先輩でもあった。佐伯で「トップクオーク」という劇団を旗揚げ。中央演劇祭での審査員をお願いしたこともある。

 いっそのこと、芝居にすればいいのに。

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ぶっつけられた!

 家の手前、100メートル足らずのところで、ポンと出て来たプリウスに後部ドアを直撃された。彼は全面的に自分が悪いというものの、今度こそ無傷で乗り潰そうと思っていただけに、決心は4300キロ走ったところで潰えた。

 そういう時、信号一つにひっかかっていれば、とか、考えてしまう。ほんの一瞬のいたずらで物事は急展開することがある。そういえば、車を受け取りに行く時、受け取った車で店を出た時、車が突っ込んで来て、その運転者とぼくが天国か地獄か、その入口の辺りで審問官を交えてあれこれの芝居を考えていたのだった。それが事態はかなり軽い形で現実になったということか。まッ、車は雨風を防いで走れば問題はない。

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サイモン&ガ-ファンクルを聴く

 高校3年の秋だったか、『明日に架ける橋』が出て、それを買い、何度も聴いた。そのジャケットには大空に向かうジャンボジェットの写真があった。ぼくはそれをハガキ大に丁寧に切り取り、年賀状に丁寧に貼り、3コーラス目の数行を丁寧に書いた。それを当時好きだった女の子に送ったのだった。

 そういう風に思い出をやたらとなぞるのも、よく知っている歌のCDだけしかレンタルしないのも、老いなのかもしれない。で、また、だ。S&Gのグレイテスト・ヒットアルバム。

 グレイテスト・ヒットと銘打てるのは数少ない。S&Gはその代表かも。ぼくが一番好きなのは『ボクサー』。今回何度も聴き、歌詞をじっくり読み、ますます好きになった。言いようのない切なさ。ぼくもまた東京で働き、帰郷したクチなので、ダブったりするのかもしれない。似たような歌に、エルトン・ジョンの『グッバイ・イエロー・ブリックロード』があり、それもいいけれど、『ボクサー』の方がいい。断然いい。浜田省吾の『路地裏の少年』は、活力に満ちている時、湯船で歌うんだけれど、それも似てはいるけれど、頑なな思い切りの悪さみたいなのがある。ギターで歌いたい、と、今気持がたかまっている。

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『談志最後の落語論』を読む

 談志が落語について語ったものを、そのまま文字にしている。彼の口にかかるといわゆる名人として名を馳せた人達もただの上手い人になってしまう。ただ、彼の率直さと平明さが、落語への興味を駆り立てる。

 枝雀の師匠の米朝が談志に「枝雀があんたと話がっている」と言ったそうだが、枝雀は楽屋で談志をみると逃げるように去ったという。もし、枝雀が談志と腹を割って話していたら、枝雀は自殺しなかったかもしれない。そんな気にさせるエピソードも語られている。

 落語界では反逆児みたいに扱われている談志だが、よく勉強している。落語に徹底的にこだわった人なのだ。そして、全ての道はローマに通ずるように、道を極めた人の考えは落語ででなく、他のものにも通じるだけのものがある。もちろん、芝居にも。

 談志は認めないかもしれないけれど、文珍の落語も笑ってしまい、好きなのだけれど。皆さん、レンタル店には落語のCDも置いています。是非、聴いてみて下さい。面白いですよ。

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枝雀を聴く

 新しい「靴」は、CDを入れると、それを録音してくれるから、毎度毎度の手間が要らない。それは特に目新しいことではないようだけれど、ぼくには画期的なことで、レンタルしては中に放り込んでいる。大声で歌いたい場合、長距離を行く場合のジャズ、懐かしき洋楽やフォーク、クラッシックのあれこれ、そして英語。ただ、子どもが入れて、乗り込むとすぐそれを流したりするってのもある。

 何故か無性に落語が聴きたくなり、枝雀を借りて、入れた。CDとDVDの2枚組。とにかく、車に入れようと、CDを聴いた。途中の沈黙に首をかしげ、で、DVDをみると、わかった。で、改めてCDを聴くと、『宿屋仇』は古典だと思うが、活き活きとしていて、面白い。高校生の頃、トランジスターラジオのないぼくは、昔のラジオでよく落語を聴いていた。あの頃のフワフワ感を思い出した。落語はいい。M1の漫才より多様で深く、味わいがある。

 古典落語は、さすがに時代を生き残っただけのことはある。シェイクスピアみたいなものだ。才能溢れる枝雀の死は惜しい。志ん朝もこれからだったのに。才能ある落語家は面白い。諸君、漫才より、落語だ!

 

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本屋にいる愉しみ

 まず。ミ~ケさん、金曜日、ぼくは食事当番の日なので、かなり前からアレコレ調節しないといけませんし、学年末で、成績を出す時期なので、不可能に近いのです。折角の、お誘いではではありますが、申し訳ありません。

 さて、昨日、娘のアッシー君(死語?)になって、フォーラスに行った。娘がウロチョロしている間にジュンク堂に行った。久しぶりだが、以前より本好きな人間にはたまらない空間になっていた。本棚と本棚の間が狭く、誰かがいると身体の方向を横にして通らなければならないほど。たまらない。時間がふんだんにあれば、全ての背表紙を丁寧に観て回りたいほどだった。芝居に関しても初めてみるものがあったし、洋書も大分では多い。エエイ、と、思わず引っこ抜いてレジに持っていくと、「配達しましょうか」と意外な言葉。思わず笑ってしまったのは失礼かもしれないが、買った本はそばに置いておく幸せをご存じないか?

 紀伊国屋書店がオープンしたニュースは感動的だったが、残念ながら、洋書が少なかった。ジュンク堂は紀伊国屋よりいい。フィッツジェラルドの『ギャッツビー』の音読CD6枚がついたものを見つけた時、異郷の地で奇麗になった昔の知り合いの女性に会ったような(経験はない)気持ちだった。ただ、聞いてみると、淡々として速い。何度も聞けば、そのうち当たり前になってくるだろうか。

 芝居の本は5冊。かなり抑え、今まで知らなかったものを絞り込んだ。世田谷パブリックシアターの機関誌みたいなものがあり、とりあえず一冊買った。シアターが theatre とイギリス式のつづりになっているのは、英国に留学した経験のある芸術監督野村萬斎のこだわりだろうか。こういう書籍は、田舎での生活では知ることがない。それと出会える本屋は貴重だと思う。

 フォーラスに行くんだったら、いつでもいいよ、と、娘に言った次第。

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『悲劇の天才画家 青木繁』を観る

 九州大谷短大のミュージカルコース卒業公演。ぼくにとっては、理想的な劇場で、これで5回目くらいになるだろうか。ここの公演は素直と情熱が作り上げる舞台で実に気持ちがいい。3日間、全4回公演の最後の舞台を観たのだが、「ヨイショッ」の掛け声で詰めて、超満員だった。「ヨイショッ」は昔状況劇場のテントで経験したことがある。あれは、舞台への思いを高めたものだった。大谷の学生も、芝居の一部だと思って、もう少し客席を興奮させるくらいした方がいいかもしれない。

 斎藤先生の舞台つくりはうまい。いつもながら感心する。大谷に斎藤先生がいる限り、学生は充実した芝居つくりに取り組めるだろう。

 ここでは脚本を問題にしたい。ぼくはタイトルの「悲劇の天才画家」に抵抗を覚えた。観たい気持ちを減少させた。悲劇とかは、観た人から出る言葉ではないのか。

 上演を観て、やはり不満は残った。この作品での悲劇は、青木繁の個人の性格が引き起こしたものだ。ならば、青木繁をもっと描くべきだったのではないかと思う。名前のない人と違い、評伝劇で悲劇を描くのは難しい。工夫がほしかった。

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