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朝の海とモーツアルト

芸術とは作者が意識して生み出せるものではない。その逆だ。それは作者を操り、作品としてこの世に生まれる。作者は奴隷なのだ。 東野圭吾『プラチナデータ』

朝いつもより早く出て海岸沿いを走って職場に向かった。落語が一段落して、最近はジャズとクラッシックをよく聴いている。今朝はモーツアルトの『フィガロの結婚』。黄金のマントを羽織った朝が海原を踏みしだいてくるのを横目で眺めながらのモーツアルトはなかなかいい。元気が出る。kれはめっけもんだ。

 さて、冒頭に東野圭吾の新作の一節を引用したのは、ぼくが考えていたことと似ているからだ。ミューゼよ我に語らせたまえ、と、西洋の古の詩人はそういってから、作品に取りかかったとかいう話を聞いたことがあるが、詩人は作品と読者をつなぐ存在、と、考えていいのだろうか。芸術家に必要な資質の一つは感受性だと思う。感受性ってのはアンテナで、何を受信することができるアンテナかどうかで、彼とか彼女の仕事内容が決まってくる。mちろん、受信したものを構成する能力も要る。それが知性。感受性と知性のバランスによって、作品の質が決まってくる。

 まあ、そんな屁理屈を考えていて、一番性能nいいアンテナを持っていたんがモーツアルト、と、漠然と考えていた。ほとんど聴いたことがないくせに、だ。そして、今朝、それは間違っていないように思えた。ぼくのアンテナはポケットラジオ並みのものだろうが、モーツアルトのそれはアメリカかどこかの超巨大なパラボナアンテナ。

 モーツアルトを流すと牛のミルクの出がいいとか、野菜がよく育つとか、なんだかわかるような気もしてくる。この夏はもうちょっとモーツアルトに深入りしてみようか・・・?

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