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久しぶり、あれこれ

 昨日と今日、休みなのに面接練習に出かけた。この時期、高校演劇の顧問の頃は、大会に向けて本気になりつつあったものだが、久しぶりの休日出勤(仕事として認められることはないんだけれど)。休みの日の学校の感触は、明らかにいつもと違う。時間の場所だから、か、鬱陶しい管理職がいないから、か、ただ単にいつもと違う休日だから、か?

 キノシタ氏に大量のペットボトルのキャップをもらった。量で驚くことは滅多にない。驚くと、人は笑う。笑うことで脳は発狂を回避しているのだろう。帰りに野津と本匠の境のところでメダカの水を汲む。途中、短い橋を渡るとき、右は彼岸花、左はコスモスという景観。雨が落ちていなければ、もう少し駐車スペースがあれば、後部座席のカメラを持って写真を撮っていたと思う。

 大相撲千秋楽を観た。白鵬の優勝。優勝インタビューでの応対の言葉は良かった。イチローのクールな言葉もいいが、白鵬のひたむきを感じる言葉もいい。相撲はどんどん世界に開かれていいのかもしれない。千秋楽が共にモンゴル出身力士ということで、日本の国技が、と嘆く人もいるようだ。いっそのこと、世界の誰にでも開かれている世界にすればいい。ただ、中国力士との試合でモノイイがついて、中国には不本意な結果が出たら、「これが相撲だ!」と一喝できれば、と、妄想は膨らむ。

 ゆで卵が食べたくなった。大学の頃家庭教師をしてたが、ある中学生を教えることになった時、好きな食べ物を訊かれ、ゆで卵と答えたら、毎回10個出て来た。3つでいいのに。ともかく、好きなので、時々つくる。水に入れてゆでる方法に疑問を抱き、調べた。あるページで、沸騰するお湯に入れるというのがあり、以後その指示に従った。正解。素直が一番!

 禁煙の週になった。

 

 

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驚愕!

 『あしながおじさん』は名作だと昨日知った。ヒロインのジュディは少々短気なところがあるものの、まっすぐで機知に富み、遊び心満載の女性。ぼくは読むのを遅れたことを後悔した。三島の『潮騒』を読んだ時も、確か大学の時だったが、ああ高校生の時に読んでおけばと思ったものだ。

 今日、授業で、『あしながおじさん』を読んだことのある人います?と挙手を求めたら、一人。2クラスで一人。ぼくの理想の女性、と、宣言したところで、何の影響力もないのだけれど、読んで欲しい。

 ウエブスターの作品は大学4年間の「あしながおじさん」への手紙で綴られている。彼女は、実に好奇心旺盛で、時に役者を目指したりする。こういう女生と過ごせたら、あっちこっちの旅行以上の面白さを経験できるのではないかと思う。

 読んで、読んでよ、『あしながおじさん』!

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『あしながおじさん』を読む

 物語を書きたいと思った。秋である。そんな思いが首をもたげても不思議ではない。そしてこういう世の中だから、心温まる話がいいナと思い、「あしながおじさん」の現代版を考えた。じゃあ、とにかく、ウエブスターの原作を読まなければ、と、佐伯市立図書館が開くと同時に飛び込んだ。

 面白い。ヒロインのジュディの「あしながおじさん」への手紙形式で物語は進められるが、その手紙からにじみ出るジュディの魅力は、一言で言うなら、ぼくの理想の女性。

 ぼくの考えている物語にはモデルがいる。彼女にどういうことを付け加えれば、ジュディをしのぐ魅力的な女性に仕立て上げられるか、自信はない。またもや終わることのないものになるかもしれないが、その辺をウロチョロと思いめぐらすのも、秋には格好かもしれない。

 ストーリーはどなたも御存じだろうけれど、是非作品を読んでもらいたい。

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水嶋ヒロを応援する

 水嶋ヒロが役者をやめて作家になる、らしい。それを報じるニュースは断片でしかなく、詳しいことはわからない。でも、去年だったか、もっと前だったか、日本でいちばん美しい男、そんなランキングで1位になった男が、そういう決断をした。そういう決断をさせるものがあったのかもしれないし、ただ単に色んなことをしたいだけなのかもしれない。でも、鮮やかな決断だと思う。

 今日の稽古場でも話題になり、全く無縁なぼくらは話しあったんだけれど、彼についての断片を寄せあわせて、みんなで支持する方向で落ち着いた。

 今高校3年生は進路決定で忙しい。そういう時、様々な問題がある。ぼくが不思議で仕方ないのは、本人も家族もそうしたいのに、成績がいい生徒にはとにかく大学受験をさせる場合があるということ。それは生徒のためなのだろうか。

 水嶋ヒロは自分で考え自分で決心したのだろう。素晴らしいこと。彼の作品が出たら、読みたい。応援する。「応援されるべきは、あんただ!」という芝居仲間の視線を感じながら。

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和尚の耳

 どうにか和尚を迎えて、お経を聴いて、終わった。

 ぼくは、和尚の後ろに座っていて、不規則な高低のある頭をずっと見ていた。月面というのはこういうものなんだろうか。次に関心は耳に行き、何てふくよかな耳なんだ、と、ぼくは感心した。おそらく今までこんなふくよかな耳は見たことがない。だから、お経がありがたいのか。ぼくは時々、祖母の写真を見ながら、どうなん、と、問いかけていた。

 和尚(これは敬称であると聞いたこyとがある)が帰った後、集まった人で話した。それはそれなりに楽しかったんだ。和尚も誠実。それにはビックリ。みんなワイワイの中で、システムを詳しく検証しようと思うのだった。

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『表に出ろい!』の制作過程を観る

 野田秀樹と中村勘三郎は共に55年うまれの55歳。その二人が共演する芝居の55日間に密着した記録を観た。

 勘三郎と野田の夫婦と娘の3人芝居。その娘役はオーディション。野田は最終選考に臨むにあたって、「台詞の汚れていない人」と言っていた。言われて始めて、そうだよな、と、感心してすぐにノートに書いた。

 普通は公開しない稽古場の映像が続いた。面白かった。読み合わせの段階で、野田の顔には汗が流れ、シャツは濡れていた。そういう読み合わせって、したことあったようなないような。

 立ちに入って、そこで何かが生まれたら繰り返し、採用するかどうかを決める。現場主義。これも共感できる。勘三郎が「歌舞伎って決まっているんだけれど、その通りにできるけれど、そのままやったら博物館だよね」と言った一言にも共感。

 野田と勘三郎、どちらか一方が走ると、もう一方が必ず応えていく。これも面白く、爽快だった。

 何かが生まれる、何かを生みだす稽古場にしたい。

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待て! 待てない!

 理不尽だと思うことは、何か、たとえば会議が、始まる時、全員そろっていないから「時間を過ぎていますが、もう少しお待ち下さい」という考え方。何故時間を守った者が待つのか。遅れて来た者は遅れた分を失うのは当たり前ではないか。

 今日の会議もそうだった。

 「正直者がバカをみるってことか」とついつい嫌味も言ってしまう。おかしい。遅れてきた者も、始めてくれてた方がいかにいいか。

 時間は守りましょう!

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人生で一番勉強した時期

 ぼくは高校2年の二学期の終わり頃から、浪人時代を入れての2年間、一番勉強した。学校から帰ると(当時は8時間授業で、8時間目が終わるのは5時5分だった)すぐに寝て、5時間ほど眠り、遅い夕食を取り、「大学受験講座」をラジオで聞き、朝まで勉強して、そのまま学校に行くという生活だった。

 いつだったか、例によってよく覚えていないのだけれど、アルバイトをしたことがあった。海産物の会社で海藻を運ぶのが主な仕事だった。それで、仕事よりは勉強の方がはるかに楽だと痛感した。それが勉強に向かわせてくれた部分もある。そのアルバイトで始めて自分でお金を稼いだんだけれど、それが幾らで、どう使ったのかおぼえていない。仕事より勉強の方が楽だという記憶だけが残っている。

 今日から高校生の就職試験が解禁。工業科の2クラスは7割くらいの生徒がいない。それで『ノッティングヒルの恋人』を一緒に観た。男子生徒だけで観るのも、彼らの反応が面白く、それも含めて楽しめた。

 これでいいのか、と、考え込んでしまうのは、進学組。大志もなく、行けるところに推薦で行く。行けるところに行くから、勉強しない。進学ではない。ただ横すべりなのだ。もちろんそういう生徒はごくごく少数だけれど、これでいいのかしらんねえ。

 勉強ができるのは、集中できるのは学生時代だけだ。働きだすと、あれやこれやが多くて、なかなかできない。でも、だからこそ、働き出しての勉強は価値がある。何かを知りたい、できるようになりたい、何かを知った、できるようになった。それってすごく面白いことだと思うけれどナ。

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トム・ストッパード『ロックンロール』を読む

 ハヤカワ演劇文庫で出て、やや遅れて「悲劇喜劇」に掲載されたので、その二本を利用して、稽古日に2回に分けて読んだ。おそらく、こういう形でなかったら、数ページでギブアップしてただろう。この方法は使える。読んで面白かった作品だけでなく、読むのがシンドイなというものも、今後は練習の一つとして使える。トム・ストッパードって、怪物だナ。

 さて、皆さんは霊、霊魂について、どうお考えでしょうか。

 最近、亡くなった祖母が「私を忘れている」と訴えかけるような夢をみたとか、そういう話をある人から聞いた。で、その夢の体験者が「専門家」に相談すると、邪悪な霊に変わりつつあるというようなことを言われたとか・・・。唖然、呆然、ただ愕然。見せて欲しい。見えないから勝手なことを言えるのではないのか。じゃあ霊が存在しないと証明しろ、と、言われたら、もちろんできない。

 宗教は哲学の部分がある。ものの見方、考え方を人間の生死を中心に展開する。ところが、たとえば仏教の僧侶たちの多く、まずければ一部、はそれを生計のシステムにしてしまった。彼岸の中日や盆にはお経を唱えればお金になる。死んだ者に対してのみの活動で、生きている者には何も活動しない。「葬式仏教」と言われ、葬式は不要だ!という本も売れれている。仏教は死とだけしか向かいあっていない。大切なことは、生きている人にも向かい合うことだと思うのだけれど。

 中には社会問題に貢献している僧侶もいる。問題を抱えた子どもたちの相談を受け、世話をしたりする僧侶の活動をテレビで見たことがある。僧侶は、知恵のある人であり、もっと社会貢献をするべきだ。

 ともかく、次回の脚本ではこの辺のことを扱うだろうナと思う。

 

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井上ひさし『ふふふふ』を読む

 明け方は冷えて、いつもは折りたたんで足をのせている蒲団を手繰り寄せた。上も下も短い格好での犬との散歩もそろそろ終わりかもしれない。朝のシャワーも、いつもは水で終わるのだけれど、今日は湯のまま。そういえば、何気なく見上げる空が、漂泊の思いを掻きたてる空になりつつある。

 先日大分の本屋で買った本のうち、戯曲は一冊。それとひさしのエッセイ。後は全部英語関係。一応定年退職の区切りとして、ジョイスとベケットを生んだアイルランドの旅を考えているので、パブで与太話ができる、参加できなくても、盗み聞きができるようにしなくては、と、思っている。というのと、英検指導用の数冊。

 ひさしがタイプライターを習ったこと、ワープロが出てからは、日本語入力を習ったということを、『ふふふふ』で始めて知った。タイプの方は学生時代だが、ワープロは年配になってからだ。確かに、一人であれこれやっては失敗に悔しい思いを重ねるよりは、どこかで習った方が、効率的だ。

 同じことばかりの繰り返しの中に何かささやかでも新しいものを取り入れることはいいかもしれない。以前書いたATMでの失敗をするようなぼくにはボケ防止にも生活を換気しながらの生活を心がける方がいいかもしれない。ウン。

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喫茶店再発見

 昨日、娘たちと大分に行った。待ち合わせの時間と場所を決めて、車を降りると解散。ぼくは本屋に行き、かなり入念に見て回り、絞りに絞って9冊買った。そこの本屋は冊数が多いと、小さいけれどエコバッグとしてしばらくは使えそうな袋に入れてくれる。そのバッグを提げて、別に他に行きたいところはないので、本を読もうと思った。車に百均の老眼鏡を置いてあるが、炎天下、歩くのが億劫で、目に入った百均で買った。読書なら喫茶店かナと思って探したが、なかなかない。結局車まで歩くだけの距離を歩いてやっと見つけた。

 店内にはぼくより少し年配の男性がのんびりと新聞を読んでいるだけ。それぞれのテーブルに置いてある灰皿が、昨今やたら目につく「禁煙」を嘲笑うかのように痛快なほどの存在感があった。ただ、値上げの時期を境をタバコをやめようと思っているので、タバコは持ち歩かない。それが残念だった。ただ、読書には最適だった。佐伯の図書館より集中できるほど静かで、動きがない。生活保護受けていたローリングが最初のハリー・ポッターを書いたのが喫茶店だったというのも、こういうことかもしれない。

 もっと時間をかけて本を選び、そのうちの一冊を喫茶店で読みあげる。こういう「旅」もありかな、と、思った。

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おそれおおくも

 どういう訳か、今でも考え込むのだけれど、いくら考えてもわからない。まあ、夢の話といえば、当たり前じゃねえか!と言われそうだけれど、今朝見た夢で、ぼくは、ナント!、昭和天皇と話したのだった。

 場所は、これまたよくわからないけれど、藤河内渓谷のようなところで、ぼくは迎える側の一員なのだけれど、何かの拍子にさし向いになり、二人で話しこむのだった。おまけに、ぼくは平口。ただ、その話が弾んで、以後あれこれ説明する役になり、・・・、というもの。夢とはいえ、感動的だった。

 夢に出てきたというより、降臨された、という方がいいのかな。こういう夢、見たことないでしょう?

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何てこった!

 ずいぶん前、パンナコッタとかいう名前が繰り返されたことがある。ぼくは食したことはない、多分。味も色も形も知らないけれど、音は残った。それで、何てこった、とつぶやくたびに、パンナコッタが続くクセがついてしまった。

 今日、車を洗って、犬のおやつを買いに行き、ついでに来週の昼食とプラス分の金を下ろした。ぼくはいつも、カードと通帳を入れる。で、今日は音声指導がしつこいなと思いながら出た。出る時に「ありがとうございました」という音声が流れて、おせーよ、と、思った。ところが、記入された通帳をチェックするのに気が向き、現金を受け取っていなかった! アチャ!

 10年くらい前に似たようなことがあった。お釣りを取って、タバコを持っていかなかった。あの時は何とも思わなかった。しかし、今回は金が絡んでいる。金はもういいけれど、そういうことしてしまった自分が・・・。

 人生はよくできている。警告を与えてくれる。その警告を受けて、次は、と思う。そういうようになっている、のではないか?

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モームの言葉(3)

 『悲劇喜劇』10月号でつかこうへいの追悼を特集しており、24人の演劇関係者がつかとの思い出を寄せている。それを面白く読んだ。つかが伝説へと駆け抜けたような印象を持った。そして、無性につかの脚本を読みたくなった。明日、母屋に行って、山積みの中から発掘してみよう。

もし女性が苦痛に際してあまり感情を出さぬとすれば、それは我慢強いからでなく、痛みをあまり感じないからだ。

 出産の苦しみや痛みは男は想像しても理解できないだろう。竹内久美子の読みかじりで勝手に判断すれば、女性は出産の後の子育ての過程で苦痛にいちいち応じていたら、遺伝子がきちんと伝わることができないから、そういう風にプログラムされているのかもしれない。男性諸君、苦しみから逃げず、挑もう。おそらくその経験の果てに、女性に負けない(勝てるとは限らない)ものを得るかもしれないのだから。

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モームの言葉(2)

 引き続き、『モーム語録』から、モームの言葉を。

「新婚の一年目に世間の非難を受けずに結婚を解消することが可能であれば、五〇組の夫婦の中で離婚しないのは一組も存在しないであろう。

 中国のあることわざの一部に「三日幸せになりたかたっら結婚しなさい」という一節があるらしい。

 もし「特別に三年間の結婚生活を許す」みたいな形での結婚なら、不幸の半分はなくなるかもしれない。相手の嫌なところが見えてきても、「あと二年七カ月」とカウントダウンできれば、その嫌なところにズームインした生活ではなくなるんではないか。中には、後一年の延期申請をするものが出てくるかもしれない。不幸は「共に白髪のはえるまで」という気が遠くなる時間の我慢を強いられることにあるかもしれない。

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モームの言葉(1)

 先日『モーム語録』について書いたら、「何か具体例を紹介してみーろ」というご意見をいただいた。じゃあ、幾つか。

「女は、男を愛すると、相手の心を自分のものにするまで満足しない。女は、自分が弱い存在なので、男を支配しようと必死になり、支配しないと満足しない。知性が低いので、自分の理解できぬ抽象的な話を嫌悪する。物質的なもので頭がいっぱいなので、観念的なものに対して妬みを抱く」(行方昭夫訳・編『モーム語録』)

 ぼくじゃなく、サマセット・モームが言ってるんです。その辺、お忘れなきよう。

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女性でひどい目にあった人への処方箋

 格言めいたものの中で一番多いのは政治と女性に関するものらしい。一説によると、どちらもひどい目にあっているからということだ。なるほど。

 ぼくがロアルド・ダールが好きなのは、その辺を痛快に癒してくれる部分があるからだと思っている。もちろん、それを抜きにしても十分面白いんだけれど。

 岩波現代文庫の『モーム語録』を読むと、ダールが子どもに思えてくる。「よくぞ言ってくれた」と、もしかしたら、感涙の涙を流す男性がいるかもしれない。反論の刃を打ち砕くほどの痛烈。モームがそういうことを言う、その背後に彼もまた辛い目にあったのかもしれない、と、そう思うことでも癒される。

 最近モームのような作家はいない。子どもの目線で、とか、子どもにも迎合するし、セクハラ、パワハラ、アカハラとか。ついでに「嫌煙権」も、どうもウソ臭い、ウサン臭い部分が多い。特に子どもへの迎合は、イコール甘やかすことだと考えているオトナを生んだ。甘やかされて育った子どもはかわいそうだ。骨抜きにされているような気がする。モームだったら、どう言うのcだろうか。

 モームの全作品を読みなおし、訳し、構成した行方(なめかた、って読むんです)昭夫のご苦労に感謝する。ついでに全集を出していただければ、読まずに死ねるかと思う。

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誰もいない海

 海に行きたいと思った。それで犬との散歩を終えて、蒲江に走った。元猿海岸で、波と戯れた。一人でそんなことをしても、それほど面白い訳ではない。実は波と遊ぶのが目的ではなく、足の裏を洗うのが目的だったのだ。

 まだまだ暑さは厳しいものの、空を見上げると、秋の雲になっているような気がする。先週宮崎に行った時には、「太平洋ドライブイン」の下の海岸ではサーファーが波と戯れていたが、元猿海岸にはそんな姿もなかった。波がグググッと盛り上がっては打ち寄せる様を写真に撮った。押し寄せる波と遠くに浮かぶ雲。海もたまにはいい。空っぽの頭を海水で洗って帰った。

 いつもは行かないところにちょっとだけ行ってみるってのも、面白いですよ。

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自分と生活を科学する

 ああ何てバカだったんだ、と、嘆き、後悔することは山とある。だから、生きててすみません、と、思うことがある。そんなことを続けると、自殺してしまうかもしれない。ところが、自殺しないのは、いい加減なところがあるからだと思う。「まッ、いいか」と全てをおさめてしまう。許してしまう。

 自分とは一生付き合う。その自分に甘すぎるのではないかと思うことは多い。自分を考えることをしない。おそらく、自分にとって一番面白いのは自分なのだ。なのに考えない。もったいない。誰も考えてはくれないんだから、せめて、自分は自分をとことん考えよう。

 基本は自分を否定しないこと。もうどうしようもないな、と、思う部分があっても、それを上手に活かす方法や場所はある。自分と向き合い、自分を科学する。それを楽しみましょう。

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夢は枯野を

 まず「510さん」、『悲劇喜劇』9月号で演劇の上半期決算で、渡辺保が中津留章仁を出して「鬼才」と言っています。その脚本は半径3m以内にあるのだけれど、探す気力がないのです。津久見で公演の脚本は読みました。面白くなかった。もちろん、上演を見れば面白く、なるほど、と、自分の読みの浅さや間違いを反省することもあるでしょう。でも、今回はパス。

 日曜に宮崎で芝居を観て以来、脚本のことを考えている。登場人物の組み合わせは無数にある。その無数を一方を固定して、別をあれこれ変え、その逆をする。書こうとしていることはある程度は考えているのだけれど、その作業が書こうとしていることに問いかけ、洗いなおしをしてくれる。この作業の果てにピタリがあるはずだと信じている。

 さて、ぼくは次の春から3年で定年退職になる。退職して、それほど長生きするとは思えないものの、これからの3年をそれからの助走に考える部分がある。できれば、アイルランドに行き、ベケットやジョイスの町を訪ね、パブで飲んだり、話したりしたい。ついでに、イギリスでシェイクスピアと現代劇を数本観たい。となると、入試対応の英語とは全く違う勉強をしようと思う。まァそれもトレンドになりつつあるから、仕事現場とかけ離れている訳でもない。それと体力。腰をどうにかして、少しだけ無理のきく身体にする。タバコを現在減らし、10月以降は完全禁煙を目指している。

 はて?

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古城十忍『奇妙旅行』を読む

 以前「一跡二跳」のHPで次回公演の説明を読んだ時、是非観たいと思った。設定が実に魅力的だった。ずいぶん前のことだった。もちろん、東京まで観に行く余裕は様々な面でなかった。忘れていた。ところが、『誰も見たことのない場所』を宮崎に観に行った時、会場で古城の脚本が売られていたので、迷わず買った。

 読みながら、上手いと思った。展開させる台詞運びは上手い。感心しながら読んだ。感心しながらって、プロに失礼だけれど、プロの作品でそんな風に思うことは滅多にない。ところが、終わりに近づくにつれて、首を傾げ、傾げたまま読み終わった。挑んで読んだものの、その挑みに返ってくるものが違った、というのは回りくどい、か。物足りなかった。娘を殺された父親が娘を殺した男に会う前に準備した「復讐グッズ」の陳列の幕開きはぐんぐんとそそりたてていくのだが、呆気なく終わる。そういう終わり方しかないのかもしれない。ただ、過激な幕開きと平凡な終わりの間のそれぞれの両親の心情、その動きが希薄なように思える。それは、殺された娘の両親、殺した男の両親以外に5人の登場人物があるからではないか。被害者も加害者も要らない。他の3人も要らない。二組の両親だけでは転がっていかないので、あと一人だけ。可能な限り当事者に絞り込む、ってのが、まァぼくの手法です・・・。

 劇作家の才能は設定に尽きると思う。だから、この脚本はもっと読まれて、もっと別バージョンが生まれてもいいように思う。 

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