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唐十郎・室井尚『教室を路地に! 横浜国大vs紅テント2739日』を読む

 パルコが閉店。開店した時の興奮は今も覚えている。昨日は娘と友達のアッシーちょなって北上した。3時間後の待ち合わせで、本屋で時間をかけて選んで、さて、茶店でゆっくり読むかと思っていたら、レジにいた。パルコは期待はずれだったとか。それで、パークプレイスに移動。2時間後にということで、回転寿司で食べて、スタバでお茶を飲みながら本を読み、その後は車で読んだ。雪が舞っていた。

 唐十郎が横浜国立大学の教授になったと知ったときは驚いた。そういうところといちばん遠い人に思えていたからだ。初めて紅テントの芝居を観た時の快感は、時間と空間を突き抜けるものだった。でもそいう人が国立大学の教室に立つのも極めて面白い。

 ただ、最初は苦労したようだ。ただ、次第に自分のペースでやっていき、定年までには面白い展開をしたようだ。その記録を読んで、唐の大きな足跡を確かめた。唐ゼミの学生の座談会も面白い。きっかけがあれば、才能を開花させることがある。唐と出会えた学生のなんと幸せなことか。

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永井愛『歌わせたい男たち』を読む

 卒業式が始まる2時間前の保健室が舞台。舞台の時間と現実の時間が流れが一致している。こういうのは好きだし、窓の外に見える人物であれこれ言うのも好きだ。そこで、卒業式に「君が代」を歌う歌わないの議論が繰り広げられる。

 学校での式で「君が代」斉唱の際、起立しない、歌わない教師が東京都では処分される。歌わない教師、それを説得しようとする校長と教師が、特に一方に偏ることなく展開される。しかし、歌わないと処分するということ自体が「歌わせたい男たち」の敗北を意味している。

 作品の中でも、「君が代」の「君」と「代」についての議論がある。国とか文部科学省は何か見解を示しているのかな。

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山本一力『背負い富士』を読む

 どうやら体調は回復したようだ。苦しかった。横になるしかなかったんだけれど、どの体勢もきつくて。健康への配慮の大切さをまた確認した。

 一力ファンとして全作品読破を目指している。早く新作を待つようにしたいのだが、結構多いんだよな。

 今回は清水の次郎長が主人公。どんな風に料理するのか。素材は面白い。ところが、これはいけない。作品の完成度が低いのだ。料理法が間違ったと思う。一力の魅力がない、というより、薄い。次に期待しようと思う。目下一番好きなのは『だいこん』。

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『世界で一番パパが好き』を観る

 金曜日は朝から具合が悪く、こりゃイカンと思いながら授業に行くと、修学旅行を目前の2年生から厳しい指導。そんなこんなで授業が終わると、早退した。これはたぶん寝込むナト思い、帰りに映画を借りて帰って、布団にもぐりこんだ。

 実生活から選んだタイトルなんだろうが、脚本がひどい。アホかと思うことの連続。もう観るのをやめようと何度も思った。我慢して観た。我慢して観るとか、そんなことはしてはいけないことなんだナ。でも、ほら、微熱とその周辺のことがあり、止めるのも面倒なので観続けてしまった。で、不完全ではあるが、つくり手の気持ちは伝わり、若い脚本家はあれこれで叩かれたほうがいいんだろうと思った。そして、こんな不完全な脚本を書くからこそ、才能があるのかもしれない。

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村上春樹『海辺のカフカ』を読む

 面白かった。『1Q84』よりチカラがあり、読ませる。読みながら広がる世界が魅力的だ。わからない部分も多く、それを最後でつじつま合わせしていないのもいい。読者が勝手にアーダ、コーダ想像すればいいんだろう。わからない部分には、村上がさりげなくアドバイスしてくれている。世界でいちばんタフな15歳の世界を、カフカ君と経験できた。

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『エピソードで読む松下幸之助』を読む

 豊臣秀吉と並ぶ立志伝中の人だが、人物的には秀吉より尊敬できるかもしれない。又聞きという形で幸之助の話はいくつか聞いていた。一度一冊は読んでみたいと思っていた。たまたま本屋で見つけ、買った。よかった。PHP総合研究所が編集したから、悪いことは入れないだろうが、それにしても誠実な情熱の人の様々なエピソードには学ぶところが多い。多くの政治家を出している松下政経塾は、私財70億円を投じてつくったそうだ。幸之助は社会をよくするのが会社の役目と考えていたようで、政経塾もその一環だったのだろう。塾出身の政治家諸君、今のあなたたちをみて、幸之助は何というだろうか。恥ずかしくないか?

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『DAVE』を観る

 午後雪が舞った。風が強く、まさに冬の嵐。佐伯では珍しい天候。車の屋根にうっすらと積もっていたが、今はもうない。風が飛ばしたのか。

 大統領のそっくりさんが、大統領が倒れ、側近の黒い思いでしばらく代役を勤めるという映画。笑いとスリルとロマンスのハッピーエンド。難しいことは何も考えず、楽しく時間をつぶせる。アメリカ映画はこういうのをつくらせるとうまい。

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村上春樹の言葉(13)

僕は思うんだけど、わけのわからないものをわけのわからないままに抱える力っていうのは、人生にとって大事なことなんですよね。

 人間は名前をつけたがる動物、と、ぼくは考えている。真夜中の奇怪な音を科学的に説明できなかった時代は、妖怪ナントカなのだ、とか。わからないままにしておく不安。その不安が少しは解消できるかもしれない。しかし、名前をつけた途端、あるものが明確になると同時に他のものを取りこぼしてしまうのではないか。愛とかその典型ではないかナ。愛っていうのはね、と語った途端、ある一面だけが浮き彫りになり、別の面が隠れてしまい、結果的には奇形な愛の認識になってしまう。

 愛とか友情が「ダサイ」の一言で退けられる傾向の時期があった。しかし、愛も友情も、生きていくうえでは必要不可欠ではないか。確か『SAY,YES』の歌詞の中に「言葉は心をこえない」という一節があった。超ダサって言われようと、愛や友情を大切にしたい。

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村上春樹の?

 『海辺のカフカ』を読んでいて?があった。それは文庫本の上巻54ページの真ん中あたりの「まるで前衛的な芝居の場面を見ているようでした」という所。なんてことはないが、それが1944年の証言の一部だとしたら、どうだろうか。

 やはり同じことを感じた人はいるようで、村上が読者とウエブ上で交わした通信の記録『少年カフカ』(現在、これを少しずつ読みながら村上春樹の言葉を書いている)に「この調書が作成された1946年にはもういわゆる前衛的な芝居は行われていたのですか?」と村上に問いかけている。それに対して村上は個人的な意見ですがと前置きして、

前衛演劇というのは明治時代からあります。たとえば戦前の築地小劇場だって、かなり前衛的な役割を果たしていました。(中略)すべての芸術には、いつの時代においても前衛というものがありますし、演劇に関しても同じことです。(後略)

と応えている。それはそうなのだ。ただ、問いかけた男性もぼくも、前衛という概念があったのかということ。

 前衛はもとは軍隊用語で、本隊の前にいる最前線の部隊のことのようだ。だから少数だけれど、いずれは本隊がそこにいく。つまり時代の先を行っている。ぼくがそういう考え方に接したのはイヨネスコの『ノート・反ノート』。1962年に発行され、1970年に日本語訳が白水社から発行。ぼくは1974年に買っている。現在読み返しを始めたところ。

 芸術や文芸には様々な運動があり、その多くは「前衛」の役割を果たした。しかし、1944年に田舎の医者が「前衛的な芝居の場面」という言葉が出ることには違和感を覚える。本当は前置きすべきだったが、これもぼくの個人的な意見です。

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村上春樹の言葉(12)

わりに怖い先生でいい加減な答えをすると、きつくしかられました。そのかわり、授業以外のところではうるさいことはほとんど言いませんでした(たとえば校則がどうのとか、そういうこと)。よく反対の先生っていますよね。ろくな授業もできないのに、細かいことばかりんめちねち言うやつ。そういうやつってほんとに頭にきますよね。

 以前結局上演されなかった芝居のパンフに「ベスト、ワースト思い出の教師」というタイトルで原稿を募集した。年齢も地域も様々で、遠くはイタリアからだった。ほとんどはメールで返してくれたので、その原稿はまだ残っているのだけれど、ほとんどがベストの回答。ワーストを持ち出すのはいけないと考えたのだろう。さすがぼくの友人、知り合い。

 ベストもワーストも考え方、感じ方によって様々だろう。

 ぼくが学校の姿勢で一番嫌いなのは「個性の尊重」(個性の村長なら面白い)。10年ちょっと前だったか、もうちょっと前、急に叫ばれはじめた。生徒の個性なんて尊重してはいけないとぼくは考える。どんな個性だろうとしなくてはいけないことはしないといけないし、してはいけないことはしてはいけない。学校経営方針に「個性の尊重」を掲げた校長に、個性とは何ですかときいたら、答えられなかった。いわんでもわかるだろうこのバカ、と、思っていたのかも。個性なんてものは押さえつけても出てくるものだから尊重しなくていいんです、と、ぼくはいったが、彼は方針から削除はしなかった。バカな校長だ。大人は子どもの目線で、と、それが効果的な場合もあるが、たいていは大人目線でいい。大人が子どもに迎合するようになってから、学校は乱れてきたのではないか。

 長くなった。寝る。

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『シャーロック・ホームズ』を観る

 時々職員室のぼくを訪ねる男子生徒がいる。彼は極めて有能で、大人と話ができる数年に一人の逸材。その彼が年末に、面白い映画観ました、と、いってきたのが『シャーロック・ホームズ』。

 中学時代にホームズは8割程度は読んだ。面白かった。近くのおじさんを犯人に推理小説を書き始めたくらい影響を受けた。ポーの創造しデュパンも面白いが、彼は行動しない。ホームズは推理力に加えて行動力がある。

 ホームズを現代に蘇らせるとしたしたら、こういう形なのか、と、思った。脚本がかなり寝られている印象を受けたが、どんどんやっちゃえっというのは快感だろうなアと思った。もう一本観たい。

 この程度の感想じゃあ彼には太刀打ちできなんだよな。

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『新しい人生のはじめかた』を観る

 休日は明るくなって犬と散歩に行く。数年前、田んぼの中にできた美容室の前を通るんだけど、今日その前を通る時、晴れ着の女性が出てきた。成人式なんだナ。それから町中をウロチョロした先々でそれらしい若者を見かけた。そういう時は「おめでとう」くらいの声をかける人間になりたいと思ったものだ。

 年末にテレビを買い替え、先日安いビデオデッキを買った。それで久しぶりにレンタルビデオの棚を漁った。新作は借りない。安くなるのを待って借りる。一応一本だけブルーレイ作品借りた。普通のディスクより80円高い。普通で十分なんだけれど、まッ、モノは試し。『OCEANS』を観た。ブルーレイの良さはわからず、海を様々な姿で撮ったカメラマンに感嘆した。

 さて、『新しい人生のはじめかた』。まず日本語タイトルがまずい。センスのかけらもない。まだ原題の一部をそのままに『ラストチャンス』のほうがいい。「はじめかた」ってハウツーものみたいなタイトルを考え、それが通る職場ってのが不思議でならない。作品は悪くない。「悪くない」っていう言い方をするぼく自身が許せないことは認める。そうなのだ。今後はやめないと。ともかく、傑作ではないけれど、味わいのある好きな作品だ。主演のダスティン・ホフマンがいい味を出している。相手の女優もいい。そして、変なタイトルなのに選んでしまったぼくがこれからの生き方を模索しているからこそ、登場人物のあれこれ、特に後がない人生に重ねているのも影響しているかも。作品世界に重ねる部分があったということ。肝心なことは、作品と共有できる部分がどれだけかってことではないか。

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山田太一『沈黙亭のあかり』を読む

 どんな本でも言葉を拾う。ぼくは読むのが遅いので、遅いことにはなやまず、丁寧に読むのもいいだろう、と、付箋を貼りながら読む。戯曲に関して言えば、付箋が少ない。ほとんどない作品もある。それはたぶん、いいことなのだ。人間が生きている。そこに毎日名句が生まれるはずがない。

 妻の死で、聞こえなく、話せなくなったマスターの喫茶店が舞台。大きなことは起こらない。人間は日常の微細なことに現れる。マスターは、最後まで沈黙のままでもよかったのではないかと思う。

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西村淳『面白南極料理人』を読む

 今日佐伯の書店で、水嶋ヒロの本を見た。コミック本みたいにビニールでおおっていて、中身がわからない。本を買う時にはパラパラとめくって、読みやすいかどうかみたいなことを確かめるというか、よろしくの握手みたいな儀式というか、そんなことをする。『KAGEROU』はそれを拒む。実にイヤラシイ。本好きの人間の気持ちを理解してない。いい作品は書棚に置いて、またいつか読みたいと思うのにな。

 さて。

 南極が自然科学系の文章で語れらたものを少し読んだことがある。西村は人間の生活を食物を中心に描いた。荒業の中にも繊細があり、繰り出す料理の何と美味しそうなことか。

 一年間の勤務が終わり、交代するのところで今度は女性がいる云々がある。今まで男だけだった世界に女性が入ると、どうなんだろう、あれダメこれダメが増えないのだろうか。

 映画化されたらしいから、いずれ、観てみよう。

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丸谷才一『思考のレッスン』を読む

 大学時代B5の縦半分くらいの薄い冊子が部屋にあった。雑誌『面白半分』に掲載され、猥褻ということで発禁になり、後に裁判になった『四畳半襖の下張り』。聞くところ、どこかのあるグループが資金作りに出しているとかで、どういう経路でぼくのところに来たのかはとんと覚えていない。永井荷風の作品らしいという噂だった。『面白半分』は裁判記録を臨時増刊で出した。その一冊はまだ何処かにあると思うが、裁判での特別弁護人が実に豪華で、井上ひさし、吉行淳之介、開口健、そして丸谷才一等。丸谷才一を読んだのはその特別弁護人としての発言だったと思う。

 夏に『文学のレッスン』を読んで、面白かったが、『思考のレッスン』も面白い。特に後半の「本を読むコツ」「考えるコツ」「書き方のコツ」は目からウロコもので、大学時代に裁判記録ではなく、これを読んでいたら、と、つくづく思う。特にこれから大学に進む若い人は4月までに読んでおくといい。受けて、考え、発信する。その基本を教えてくれる。

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アマチュアということ

 たとえば高校野球、大学野球や都市対抗野球の選手たちはアマチュアである。彼らの中にはプロ野球から高額なギャラで引っ張られることがある。アマチュアは素人、本職以外の余技と考えられている。そうではないのではないか、と、ずっと思っている。

 素人だろうと余技であろうと、だからこそ「勉強」しなければいけないのではないかと思う。アマチュアだからプロみたいにできなくても、知らなくてもいい、と、いうことにはならないように思う。プロとアマチュアの千引きは難しい。野球でも芝居でも、もっといいものを目指すからこそなのだ。

 そういうアマチュアであるためには、メインのもの、仕事とか、をしっかりしなければならないように思う。余技であれば、本技を充実させることが必要だと思う。本技が充実してこそ余技だと思う。

 ぼくにとって芝居は余技だけれど、今年も脚本を読み、芝居関係の本や雑誌を読みながら、芝居を考えていきたいと思う。

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失った時の辺りをうろつく

 東京から帰って失業保険で読書三昧の毎日を送っていた。保険が切れる頃に中津の定時制の講師の口が舞い込み、半年間暮らした。その時、講師をしていた二人と津久見で再会したのだけれど、年月の残酷さを知ったものだ。その中津に行き、住んでた周辺をうろついた。定時制の仕事が終わると、飲みにいった寿司屋、あるいは付き合っていた女の子の家を探したが、わからない。新しい道がどうも何本か通ったようで、そのせいではないかと思う。ただ、思い出は場所に宿る。付近をうろついただけで、思い出のよみがえり。ついでに、別の時代の女の子のアパートまで足を伸ばした。その付近も変わっていた。彼女だけを見ていたせいかもしれない。

 さて、明日から仕事。心と頭を切り替えなければ。

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