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米原万里『打ちのめされるようなすごい本』を読む

 丸谷才一は「わたしは彼女を狙ってゐた」というタイトルで解説を書いている。日本の書評レベルをあげたと自他ともに認める丸谷が自分が書評を担当している新聞のメンバーに加えたいと思っていたのが、そのタイトルの意味。丸谷に評価されること自体、米原にとっては「最高の読み手」の称号を与えられたに等しい。

 『打ちのめされる~』は米原の書評を集めたもの。とにかく読む範囲がハンパじゃない。この世のありとあらゆる本を読み、それについて丁寧に、的確に(彼女が書くならそうだろう)、面白く書いている。もし何かについて知りたいと思ったら、目次を追えば、必ず見つかるというくらい、チョー博覧強記の人のその栄養源が、加えてその本の背景も含めての読み方までを教えてくれる。明らかなことは、この米原の書評集こそ「打ちのめされるようなすごい本」なのだ。もし望みを叶えてもらえるなら、宝くじよりも、ぼくは彼女の書棚を弁当とビール持ち込みで一日だけ閲覧させてもらいたいと思う。背表紙を眺めるだけでいいのだ。

 打ちのめされるような人を失ったのは惜しい。あまりに惜しい。

 

 

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受信すること

 土曜日にかなり飲んだ。時々ギターで歌った。日曜日、いつものように「おがくず風呂」に行き、身体は楽になった。顔なじみになったおばちゃんが、最近サービスをしてくれる。短い会話で救われる部分は多い。

 今朝は、2時に目覚め、そのため今日は眠かった。

 事実はない。あるのは解釈だけだ。そう言ったのは誰だったか。ここ数日それをぼんやり考えている。最近のあれこれに、解釈というか思いというか、頭が右往左往している。

 何かが起こる。それをどう受け止めるかには個人差がある。今は情報量が多すぎて、受け止めることができない。そして大変なことになる。

 きちんと受け止めなくてはいけないものがある。AKBがどうたらを朝から流すテレビには期待できない。

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弔辞

 K、君は死ぬという個人的偉業を成し遂げた。しかし、あまりに唐突で、あまりに早すぎた。棺に君は端正に眠っているように見えた。そして、祭壇中央の君の写真は実に深みのあるにこやかな顔で、君の充実した生だからこその顔だと思った。

 君と会ったのは寒い夜だった。まだテレビを持つ学生が少なかった頃、演劇部員で月曜ロードショーでチャップリンを放映するので、それを観た帰り、君と結婚することになる1年生の戸田の部屋の前の道だった。会いに来たが、いないので、しかし寒いので足踏みをして体を暖めていた。翌年、彼女を追うように近くの大学に入り、そして、ある演劇部員の部屋に集まっていた時、廊下の端で彼女を待っていた君に、「うちの演劇部に入ったら」と声をかけた。長崎に向かう時、そんなことを繰り返し思い出していた。『スパイ物語』での「全部買っちゃった、・・・」の挿入歌を歌う君の野太い声や『土』の天草公演での寒さやら、大分の高校演劇の講習会に呼んだこと、思い出は思い出を呼んだ。

 めぐり合わせ。そういうものがあるのだろうか。ぼくは、昨年諌早の高校生の演劇発表会を観る機会があり、そこで久しぶりに徳に会った。そして彼に、今度は徳や君に会うためだけに長崎に行くと徳に電話で話し、そろそろその時期だ、と、思い、長崎の夜のワイワイを思いながら眠った翌日の朝、武から訃報のメールが届いた。いつもは昼くらいにしか携帯を触ることはないのに、何故かすぐメールを開いた。

 めぐり合わせ。武はぼくが長崎の夜のワイワイを思っていた時、君は最近は飲まない酒を武と自宅で酒を飲んでいた。そして眠った君は身体に変調をきたし、救急車が呼ばれた。武は気に病んでいた。しかし、もし、武がいなかったら、戸田は一人で対処しなくてはならなかった。それを考えると、武がそこにいたことは、最適のめぐり合わせではなかったかと思う。

 通夜の後、武と徳で居酒屋で話した。武は君が医者に行かない理由を「訳がわからんことを言うたい」と何度も言った。でも、ぼくはよくわかった。それを考えると、君は君の流儀で生き、君の流儀で死を迎えようとしたのではないかと思う。

 ホテルで6時過ぎに目が覚めた。今日の葬儀用にワイシャツを用意していたけれど、池やパックが来るので会いたいという気持ちもあったけrど、それまでの時間をとても一人で耐えられなかった。先日父を送ったばかりだが、父の死よりも、年下の君の死は重かった。それをぼくなりに一人で受け入れることが必要だった。

 めぐり合わせ。その言葉にある妙。生きるということはその妙に彩られている。やがて、葬儀が始まる。池やパックが会場に到着している頃。徳も武もステージ作りに精を出しているだろう。徳はステージから手を合わせますと言っていた。ぼくは、君と飲むはずだっただけの酒を飲んでしまおうと、飲みながら、書きながら、涙が出ている。「妙」に生きている嬉しさ故だと考えたい。

 祭壇の君は、両隣に娘さんがいた写真だという。なるほど。にこやかな一徹者。ぼくはずっと君の写真を見て、心に刻み込んだ。あの世とやらがあるのなら、遠くないいつかぼくは君を探し、長崎でのワイワイを持ち出す。その時はぬこやかに迎えてくれ。

 

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平田文也編『堀口大學』を読む

 わたしの耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ

 有名なコクトーの詩は大學の訳だったのか。

 大學は東大の赤門の近くで生まれたのが名前の由来らしい。フム。

 彼の詩や翻訳を読み、かなりいい仕事をした人だとわかった。もっと評価されていいと思った。軽みと遊び心があり、女とのあれこれ、そして自己をみつめる深さ。詩人とはこういう人なのだ。彼の「詩」を引用する。

 難儀なところに詩は尋ねたい ぬきさしならぬ詩が作りたい

 たとへば梁も柱もないが 然も揺るがぬ一軒の家

 行と行が支え合って 言葉と言葉がこだまし合って

 果てて果てない詩が作りたい 難儀なところに詩は求めたい

 

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竹内一郎『なにもいらない~山頭火と放哉~』を読む

 二部構成。一部が山頭火と亡霊の放哉と女性記者。山頭火の庵が舞台。山頭火にスームインしている。二部は、時代が飛んで、倒産するIT企業が社員旅行で山頭火の庵を訪ねてのスッタモンダ。山頭火からグっとズームアウトしている。一部と感触が違い。戸惑う。一部の山頭火と放哉も自分の内に向かうけれど、二部の現代人はそれがない。ただ、二部が解説や批評が多過ぎる。

 中学のテニス部の先輩古川敬氏が山頭火の本を書いている。それによると、山頭火が佐伯に足を踏み入れたことがわかる。実は、次の芝居で、山頭火を話の中に出してみようと思っている。

 舞鶴高校で中央演劇祭に出場した時、審査員の一人が「暗転が多すぎますね」と批評され、以後一幕一場の芝居を書いてきた。もちろん、暗転はしないけれど、三場の芝居を書いてみようか、と、思ったのだ。自分に課していたような制約の多くがそれでポンと外れる。狭い部屋から戸外に放り出された右往左往の状態だけれど、開放感はたまらない。

 次は佐伯を舞台にした芝居なのです。

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『ミレニアム1 ドラゴンタトゥーの女』を読む

 先週末、下の娘がインフルエンザにかかり、加えて彼女の母親が東京に行き、4日間主夫をした。チョコマカと動くのもまた楽しいけれど、これが毎日なら・・・やはり分担でないと。

 テレビで映画のCMが流れて、その感触からそれほど観たいという気持ちにならない。しかし、まァ、読んでみるか、と。作者アーソンはこの第一作が出版される直前心筋梗塞で亡くなったらしい。3部まであり、それがことごとく驚異のセラーのようだ。腰巻で秋元康は「数ページで引き込まれた」と書いてあるが、それは疑問。ぼくは、主人公にドラゴンタトゥーの女リスベットが絡み始めてから加速していった。リスベットを創り出しただけで、ラーソンの才能を認めていいと思う。ただ、作品は、後だしジャンケンみたいなところもあり、そこがちょっと戸惑う。しかし、謎解きのきっかけが極めて微細なところからで、面白かった。

 今日は晴天。週間天気予報をみると、最高気温が少しずつ高くなっている。家の梅の花が数輪開いた。春が近い。今年の春は嬉しい。

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『阪急電車』を観る

 毎日多くの人とすれ違う。その人たち一人一人が様々な事情、ここではあえてドラマと言おうか、そういうものを持っている。それがほんの一瞬絡まる。それが『阪急電車』。心にしみる傑作。

 宮本信子と芦田愛菜のおばあちゃんと孫が核となっているが、それが実にいい。宮本の凛として気品のあるおばあちゃんが素敵。それにちゃんと向かっている愛菜ちゃんも、うまい。あっちこっちにオトナの商業ペースに乗せられて可哀想に思えるが、愛菜ちゃんを長い目で見て、俳優として育てることを考えてあげたほうがいいと思う。

 ともかく、一回観る価値がある。

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『漫才ギャング』を観る

 父が死んで、微妙な変化が生じているような気がする。何がどうなのかは判然としない。でも確かに何かが変わった。変わりつつある。ならば、それに従ってみようか。全ては必然。ウン。

 品川ヒロシ監督って、あの漫才コンビのイカツイほうかな。平板な感じはしたが、最後まで無理なく観ることができた。ただ、最近は暴力シーンに耐えられなくなくなっている。暴力でしか表現できないものもあるだろう。しかし、それを出さずに処理して、「そうきたか」というのがぼくは好きだ。

 ぼくの変化(あるとしたら)は、父の死というより、父の死を通して自分の死を考えたからではないか、と、思う。ならば・・・。ならば、覚悟せんといかんちゅうこと。芝居に向かっていけそう。

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サンスベリアスタッキー

 通算5回目のおがくず風呂から帰ると、佐伯の靴屋数軒回ったが気にいった品物がないというので、大分に連れて行った。天気がよく、ドライブには最適だった。

 靴を買って、1時間ほど自由行動ということで、本屋で上下巻のミステリーを買った。カバーも袋も要らないというと、じゃー、と、店員は炊飯器でもあるまいし、本にテープを貼った。おい、それを剥ぐ時に本の表紙を傷つけることはないのか、と、敬語抜きで訊く。その店員、何言ってんだの冷ややかな眼差し大丈夫です、と。

 それを外でタバコを吸いながら読み、待ち合わせの時間前に約束の場所に行くと、鉢植えを売っているところにサンスベリアスタッキーというのがあった。説明書を読むと、空気清浄力があり、NASAが宇宙船に乗せて効果を実証しているのだ、と。見た目にはネギのように見える。それが白い鉢から4本、ニョキッと出ている。無愛想ではある。しかし、人間でもそういうのが結構切れ者っていうケースは沢山見てきた。ぼくの部屋に合うかはわからない。しかし、百均で買ったコーヒーの木が今や10倍くらいのボリュームになっていて、その話し相手(気があう木だろうか?)にでも、と、買った。コーヒーの木に比べ15倍の値段。高いか安いかは今後でわかる。汚れちまったおじさんの部屋には可哀想だが、我慢せい。

 高尾さん、木下さん、丁寧な書き込みありがとうございます。心配りに深く感謝します。

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劇的アフター

 部屋の窓から他家の畑を挟んで父親の家が見える。主人を失った家がいつもより暗く見えるのは気のせいかもしれない。

 月曜日に葬儀が終わり、今は後処理のあれこれに動き回っている。3年の卒業考査に再試験を課したので、昨日と今日学校に行ったが、後はあれやこれやの煩雑な手続き。

 沢山のことを学んだ。具体的に書くとくどくなるので書かないけれど、「なるほど」と「そういうことか」が沢山あった。

 後処理よりは、考えることが多い。家に帰った時、あるいは出かける時、親父は今、と、気にかける癖がついていることに気づいた。父親の冷蔵庫の中身を処理する時も、様々な想いや言葉が飛び交った。これからはそういう様々な想いに名前をつける時間が続くのだろう。

 父親の車を処分した。8年で15000キロ。1年間で2000キロ弱。ひと月170キロ弱。母親のところ、買い物くらいではそれくらいか。

 皆様のご厚情に深く感謝します。

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勇気の要った朝

 昨日は、佐伯では珍しい雪。1限目の授業で降り始めた時は、とても積もるようには思えなかった。ところが、途中で雪のひとひらが厚くなっていき、あっという間にグランドを、太郎の屋根も次郎の屋根も白くしていった。

 帰る時にはフロントグラスが凍りつき往生した。家に帰ると、みんな帰っており、子どもは雪だるまをつくっていた。「こんな機会はない」と暗くなっても、せっせ。一番いい懐中電灯で照らして協力した。彼女たちの遊び心はいい。

 今日の朝も車はガチガチ。屋根に昨日の雪を残して出勤。

 そして今日は晴天。ただ、体育館での予選会は冷えた。冷えながら、予選会ってこういうもんでいいんか、と、幾つかの?を残した。来年度の文化祭の司会に使える5人だった。これは収穫。

 車の屋根に雪を残して帰宅。

 ただ、今朝の朝起き時は冷えていて、起きるのに人生をかけるくらいの思い切りが要った。最近発見した暖かい「セーター、ウインドブレイカー、はんてん」の格好で暗い中犬と散歩に行く。はんてんはいい。

 積もった雪を踏みしめるとギュッと音がする。自己流芝居体操をしながら歩くと、寒さは消えた。でも、指先は凍えた。

 春まで、あとちょっと。皆さん、寒さに耐えましょう。

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