« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

デイヴィッド・ゴードン『二流小説家』を読む

 校庭の桜が数輪花を開いた。庭の枝垂れ桜は濃いピンクのつぼみをかなりつけて、このままいけば、今までで一番多い花を咲かせそうだ。正真正銘の春。

 日曜の新聞の書評、広告。書店が職員室の机に置いてくれる出版社の新刊案内。e-honにはシェイクスピア、演劇、脚本のどれかにひっかかった新刊をメールで案内してくれる。そして毎回ではないが、NHKのブックレビュー。以上から新刊情報を得ている。『二流小説家』はNHKのブックレビューでなぎらけんいちの推薦。すぐに注文したが、後に注文した本より遅い。やっと届いたら「このミステリーがすごい 海外篇」「週間文春ミステリーベスト10海外部門」「ミステリーが読みたい 海外篇」で1位を取るという史上初の3冠を達成し、品薄になっていたというのが、遅れた原因だったとのこと。

 描写力があるので、あぶない場面やドギツイ場面では頭の中で鮮明に絵が浮かぶ。ただ、そのドギツサ故に好きになれない。これだけ書く作家がいれば、好きな読者がいても不思議はない。桜の季節にはあまりふさわしくないかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

The Peace

 腰紐を解いてセロファンから箱を出すと、その箱の中にスチール缶がある。蓋を開けると黒いアルミ箔がり、それをめくると金色の紙があり、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
 1000円のピースが出たというので、一応試さないとと思い、佐伯を駆けずり回ったが、蒲江の店には置いてあるということ。そこまで買いに行く情熱はない。おがくず風呂に行くついでなら、と、思うがどこの店かわからない。それで、大分に住む同僚(大分のタバコのドンみたいな人を知ってるらしいので)に頼んでいたら、さすが、今日目の前に差し出してくれた。タバコを減らし、最終的にはやめるつもりだが、まぁまぁ・・・。
 
 1000円のピースは高い。しかし、現在ピースのインフィニティは470円で、3日で二箱を一箱にすれば、それほど負担ではないし、とか、計算をはじめている。しかし、佐伯では売っていないので、インフィニティでそうするしかないみたい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

760キロ走る

 朝日がのぼるから起きるんじゃなくて目覚める時だから旅をする(吉田拓郎『人生を語らず』)ってことで、目が覚めたので、2時半に車を転がした。
 目的地はかごしま近代文学館の向田邦子。でも、途中で気が変わり、霧島に行こうと思い自動車道を降りた。ところが、降りたすぐに生駒高原の案内が目に入り、27年前の夏の終わりというか初秋の頃、そこまでドライブしたことを思い出し、そちらにハンドルを切った。ウダウダとあれこれ思い出をたぐり寄せているうちに、えびの公言に入り、名前の知らない山の頂上付近が白いので、まさかと思っていると、道路脇にはツララや氷が見えたので、そうなのか、と、。
 のんびりした田園を走っているうちに人吉に出て、こうなったらともかく鹿児島に行こうと決めて自動車道で南下。途中、そうだ桜島だと思い、ナビをセットした。とこrが、ナビが何をすねているのか適切な案内をせず、「しっかりせんか!」と怒鳴っているうちに文学館の近くだったので、ともかく向田邦子に挨拶。実は今ある脚本を考えているんだけれど、と、新しくなった向田邦子の一室で彼女の写真を見ながら相談して、心地よく励まされて、桜島へ。
 風が強い日だった。もくもくと噴煙を上げる桜島を見たかったのだが、煙が流され、曇のような空。桜島に渡り、溶岩と火山灰の道路を走り、3箇所から写真を撮った。あちこちにブ厚いコンクリート製の車一台が入るほどの避難場所があり、そういうのがゾクゾク感を煽った。
 今度結婚するという知り合いに会いたい気持ちが何度も首をもたげた。しかし、意識の流れるままに走るのが今回の基本なのでその都度押し殺した。結婚したら鹿屋に住むということだが、桜島に近い。ちょっと心配。
 全線が完成していない自動車道を降りて、延岡道に乗るまでがノロノロ。ナビが「この先渋滞しています」と義務的に言うので「そんなんわかってるよ!」と怒鳴りつけてやった。

 予定の7時に2分早く帰着。様々なことを思い、それをなぞって、振り落とし、脚本だけを固めた。さて、新学期が始まるまでにどれくらい書けるか。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

佐伯の美味い店~チャンキー~

 自動車道を降りて、あるいは国道10号線から佐伯に入って、佐伯駅に向かう道沿い、左折すると城山に行く大手前の交差点と佐伯鶴城高校の案内のある信号の中間、やや大手前寄り。なかまち駐車場の右手にチャンキーはある。
 たこやきの店。我が家はそこのたこ焼きにはまっている。佐伯はラーメンも美味しい店が多いが、我が家では好みの店が異なるのに、だ。多い時は周に3回買うこともある。しょうゆ、そーす、塩、すっぴんの4種類がある。すっぴんは焼いて、何もかけないたこやき。店のおすすめのようだ。下の娘はこれオンリー。
 テーブルとカウンターがあり、店の中でも食べることができる。中学時代にたこやき屋をやりたいと思い、高校を卒業すると、自分で調べた大阪の店に修行に行った。大阪時代のことは知らないが、先日2周年を迎え人気が広がっているようだ。15分くらい待つこともある。しかし、まだ20代の店主の女性の満面の笑みでの「まいど!」で渡されるアツアツのたこやきを受け取る歓び!に15分なんてアフリカゾウの瞬き程度。

 一度、ご賞味を!
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

四九日法要、終わる

 親父が頑固に住み続けた家から仏壇を移した。その仏壇購入に関しても考えに考えたけれど、考えた結果になった。

 うちの寺の住職はいい。納骨の時、線香もロウソクも忘れてしまっていたのだが、他の墓にないですか、と、臨機応変の対応。妻は取りに駆け出していたのだが、近くの墓からありがたくお借りして、呼び止めた。そういうことは結構ありますので、後は倍返し、で、と、住職。それよりそれより、ある霊感の強いとされる美少女が、その住職はいいオーラが出ていると言ったらしいのだ。凄いでしょ?

 法要と法事の違いって知ってますか。法要というのは和尚の読経。法事はそれに食事とかが加わったものらしい。あの犬は名犬ラシイ。(きつい、か?)

 親父が死んで、喪主のぼくに色々と暖かい言葉をかけてくれる人が沢山いた。ありがたい嬉しさを感じさせてくれたのも、親父がいたからだ、と、考えたりした。その辺の妙は確かにある。

 ごくごく少ない人の集まりにしたが、合間合間のつなぎの会話の面白さを堪能した。こういう場所だからこそ。

 ある人は四九日法要の時に和尚に御布施を渡したら、その和尚受け取るや「薄いですね」と。ぼくが、もしそういうのに出くわしたら、

 A:謝って、引き返して、足して、渡す。

 B:薄いってどいうことや、と、問い返す。

 C:位牌で殴る。

 はて?

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

田中千禾夫『おふくろ』を読む

 親父が死んで、やがて49日。死んで、葬式周辺までは、葬儀社に丸なげしたが、以後のあれこれが実に面倒なことが多い。

 ぼくの今住んでいる家には仏壇がない。この家を建てた時に、親父とおふくろの住民票を移したものの、彼らは頑強に家を移らなかった。その家に仏壇があるものの、老朽化で雨漏りをするので、ぼくの家に仏壇を移すことになる。で、仏壇選び。仏壇に付随するあれこれ。情報が増えるにつれ、何と面倒なことか。

 ともかく、あれこれの小さい動きが多く、右往左往。疑問は山とあるけれど、形式としてのことだけに限定し、知人や和尚やらに電話して、という有様。そのへんについては、近々ここで書こうと思う。

 朝日新聞で「親父の背中」(だったか?)で著名人が父親について語っている。母親についてより、冷静になれるのかな、と、思う。無口なりに、うるさいなりに、結構子ども思いなのだ。

 毎日、高校生に接していて、おふくろはどいう思春期を送ったのか、どういうことを考えて、感じていたのか、それをいつか芝居の中に入れたいと思っていた。だから、田中千禾夫のい『おふくろ』を読んだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

森本薫『華々しき一族』を読む

 天気予報ではなく、天気告知といってもいいくらい、最近はよく当たる。昼から雨が降り始めた。春をグンと引き寄せる雨と思えば、恨めない。

 そろそろ身辺整理をしないといけない。新楽器には机の移動があるから、どこにでも行けるようにしとかないと大変なのだ。それで今日は机の上。教員になってから車の運転免許を取り、同僚の知り合いから紹介してもらって車を買った。中古のスカイライン。100万。その封筒を諸君室の机に入れたまま帰った。日曜日に下宿先に学校から電話があり、職員室が荒らされたが貴重品はないかという内容。しまった! 急いで学校に行くと、ぼくの封筒は無事だった。おそらく机がプリントやらで乱雑だったので、こういう机には何もあるまいとこそ泥は踏んだのだろう。そうか。乱雑なりに効果はあるのだ、と、以来、片付けなくなった。管理職は「片付けなさい」とうるさいが、防犯のためという強い信念があるから、従わない。これでもし、盗まれたら、きれいに片付けるようになる、と、思う。たぶん。

 森本薫の机はきれいだったろう。明窓浄机。丁寧に書いてある。不純物がないと人間の不純が見えてくることになる。ついついどうでもいい人間を出してしまうぼくはに我が身を振り返る時間を与えくれた。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

竹内銃一郎『満ちる』を読む

 3年が卒業して授業時間が減り、クラスマッチやら会議やらで残された授業もなかったりして、かといってクラス担任のようにこの一年の生徒の記録をする作業もなく、例年この時期が一番本を読める。ただ、一人職員室の片隅で楽しんでいるのも、と、殊勝な気持ちになったのか、昨日は英文法の本と漢字検定1級の本、それと大判の漢和辞典を買った。定年退職したら、漢字検定1級を取ると以前から公言していたので、そろそろ準備をしようか、と。でも、今日もまた脚本を読んでしまった。

 処女作を超える作品を書けない、と、言われる。処女作が最高作とは思わない。しかし、若い頃の勢いのある作品は細部に?という部分がある場合もあるが、魅力はある。ベテランの域に達して、綻びはなくなるものの、魅力がなくなる。そうでない作家を今頭の中で懸命に探すのだけれど、思いつかない。

 お前は、じゃあ、どうなんだ!

 今考えているのが処女作なのだ。今までのは習作。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

夏目漱石『吾輩は猫である』を読む

 3年くらい前向田邦子を集中的に読んだ時、向田が小学生の時に『猫』を読み、面白かったとか書いていて、まさか、と、思った。学生の頃かに読んで、かなりの教養がないとわからないと思ったからだった。

 今回は電子辞書で引きながら読んだ。掲載された雑誌(高浜虚子の『ホトトギス』だったか)の売上がグンと伸びたらしいから、当時の読者の受け止めるチカラは高かったと思う。辞書を引き、注釈を読みながらだから、えらく時間がかかったものの、面白かった。漱石は凄い作家だと痛感した。

 くどすぎるくらいに書いていて、そのくどさに溢れる漱石の博学。そして『坊っちゃん』を思わせる部分に、教師漱石の生徒観。女に対しての攻撃性。戯作者を思わせる言葉遊び。とにかく楽しんだ。このまま漱石全作品という想いがあるものの、『猫』は全集の1巻目だが、2巻目が図書館にない。それがストップになっている。順番通りに読みたいのだ。ウ~ム。どうしよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

鼻毛は切らない

 今日は暖かく、入試中の職員室ではワイシャツ姿の職員もいた。庭の白梅が一気に咲き、豊後梅の蕾が膨らんだ。近くにフキの沢山あるところがあり、それをひと株頂戴してうちの敷地に移植していたら、今年は3つのフキノトウが顔を出している。植物のセンサーの高性能に驚かされる。

 昨夜ヒゲを剃った。別に伸ばしている訳ではない。カミソリを買うのをいつも忘れてしまうからだ。以前は電気カミソリを使っていた時期もあるが、どうもあの感触が好きになれない。たまたま、親父の葬儀に弟が帰ってきて、カミソリを買って、それが残っていたので、それを思い出したので、剃っただけのこと。風呂上がりに、つい、鼻毛を切った。切るのはいいが、おそらく切りすぎた。そして、今日は花粉の量が多いという予報。そして、そして、鼻が少々ぐずった。鼻毛は異物を食い止める働きがあるのに、それを切りすぎるなんて、なんという愚だ。

 梅が安心して花を咲かせるように、生き物は与えれている本来の力や防御力があるのに、人間はそれを自分で削ぎ落としているのではないか。

 春の到来が嬉しい。春、ようこそ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

司馬遼太郎『愛蘭土紀行』を読む

 アイルランドに行きたい、と、思う。いつごろだったのか、何故なのかは判然としない。ベケットやジョイスを生んだ国だから、と、今は人には言うけれど、二人は気になる作家だが、好きな作家という訳ではない。ただ、デフォーやワイルド、イエーツも生んだ訳で、結構独特な持ち味の人ばkぁりだから、彼らを生んだ国の空気を吸ってみたいと思う。

 司馬は文章はあまり上手とは思わない。ただ、莫大な知識が溢れる文章で、それが魅力で二巻の本を読み終えた。そして、アイルランドへの思いは強まった。

 30年以上前に『真夜中のカウボーイ』を観た。男二人が暖かいフロリダに憧れ、そのバスの中で一人が死ぬというという内容だった。アイルランドに行きたいと思うと、必ずそれを思い出す。死の床で、アイルランドのパブでビールを飲みながら・・・というのを思い描くってのでも、まァいいや。もうちょっと研究はしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

卒業式に思う

 今日の大分合同新聞に県下各高校の卒業式の様子とと卒業表彰の名前が掲載されている。佐伯豊南は今年は一人一人に卒業証書を渡した。ぼくは駐車場の係で時間通りに来ない保護者を雨の中で待っていて、結局校長の式辞が終わったところで会場に入ったのだけれど、開始から40分くらい経っていただろうか。新聞をざっと見たところ、三クラス多い舞鶴も一人一人にだったそうだ。昨年、城南中学の卒業式の時は、ビデオカメラで一人一人の顔をスクリーンに映し出す方式をとっていたが、ああいう方式でもとらないと、保護者席からは顔は見えないので、だれるかもしれない。

 毎年書いていることだが、卒業生の答辞が壇上の校長に向かって行われることにかなりの抵抗を感じる。答辞は在校生の送辞に対するもであれば、校長ではなく在校生に向かって言うべきだと思うのだ。たとえ在校生に向かって言うことではないにしても、壇上の校長に向かうために顔が見えないのがいけない。卒業生、在校生、保護者を見渡す形では緊張がたかまるのを慮って、背中にみんなの視線を感じながらも校長一人のほうがいいのではないかとの配慮であるにしても、ぼくはそう思う。

 さて、卒業式会議で、進行の原稿に「〇×殿」とあり、殿には上意下達’「げたつ」ではなく「かたつ」と読むのが正しい)の呼び方であり、それは10年以上前になるが朝日新聞の天声人語に書かれているのだが、いいのかと問うた。いいのだ、という答えだったからそれ以上は言わなかったが、原稿通りに進められたものの、来賓紹介では「×〇様」だった。この不統一感。

 答辞は良かった。詩の引用で始まり、その詩の後半の引用で終わる。春の気配ナンタラカンタラがない。加えて、みんなで共有する思い出の羅列に終わらず、本人の思いも溢れていた。途中涙声になるのが共感できた。

 豊南の卒業式でもう一つ良かったのは、退場の際、保護者席を囲みお礼の言葉を述べること。「こんにちは」で始まるものもあったが、それも微笑ましかった。

 来週は高校入試。どんな生徒が入ってくるのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »