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卒業式に思う

 今日の大分合同新聞に県下各高校の卒業式の様子とと卒業表彰の名前が掲載されている。佐伯豊南は今年は一人一人に卒業証書を渡した。ぼくは駐車場の係で時間通りに来ない保護者を雨の中で待っていて、結局校長の式辞が終わったところで会場に入ったのだけれど、開始から40分くらい経っていただろうか。新聞をざっと見たところ、三クラス多い舞鶴も一人一人にだったそうだ。昨年、城南中学の卒業式の時は、ビデオカメラで一人一人の顔をスクリーンに映し出す方式をとっていたが、ああいう方式でもとらないと、保護者席からは顔は見えないので、だれるかもしれない。

 毎年書いていることだが、卒業生の答辞が壇上の校長に向かって行われることにかなりの抵抗を感じる。答辞は在校生の送辞に対するもであれば、校長ではなく在校生に向かって言うべきだと思うのだ。たとえ在校生に向かって言うことではないにしても、壇上の校長に向かうために顔が見えないのがいけない。卒業生、在校生、保護者を見渡す形では緊張がたかまるのを慮って、背中にみんなの視線を感じながらも校長一人のほうがいいのではないかとの配慮であるにしても、ぼくはそう思う。

 さて、卒業式会議で、進行の原稿に「〇×殿」とあり、殿には上意下達’「げたつ」ではなく「かたつ」と読むのが正しい)の呼び方であり、それは10年以上前になるが朝日新聞の天声人語に書かれているのだが、いいのかと問うた。いいのだ、という答えだったからそれ以上は言わなかったが、原稿通りに進められたものの、来賓紹介では「×〇様」だった。この不統一感。

 答辞は良かった。詩の引用で始まり、その詩の後半の引用で終わる。春の気配ナンタラカンタラがない。加えて、みんなで共有する思い出の羅列に終わらず、本人の思いも溢れていた。途中涙声になるのが共感できた。

 豊南の卒業式でもう一つ良かったのは、退場の際、保護者席を囲みお礼の言葉を述べること。「こんにちは」で始まるものもあったが、それも微笑ましかった。

 来週は高校入試。どんな生徒が入ってくるのだろうか。

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