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勝手に動くのだ

 明日から文化祭。今日は仕込みとリハーサル。無理もないけれど、リハーサルは下手。何をどうするかを考えてリハーサルに臨みましょうと訴えていたけれど、考えていない。余裕がないのかもしれないが、リハーサルで、本番の出来不出来はわかるような気がする。確かめるところが明確だから、リハーサルの動きはテキパキしている。つまりは準備がよく行われている。

 今年は昨年の動きの3分の1くらい。一つは仕事を分担したから。もう一つは、可能な限り口を出さないから。生徒がやりたいことはやってもらいましょう。そこで何か問題があれば、NOではなく、どこが、何故を考えればいいという姿勢。口を出さないと首をかしげることが多く、終いには首の骨が折れそうになる。そこで「こういうもんだ」と首をもとに戻す。

 多くの行事は「そうするもんだ」という極めておおまかではあるが方向はみんな知っている。だから、行事は勝手に動いていく部分がある。それに気づいた(思い込んだ)のは20年くらい前。もしかすると、その動きに中途半端な強引を加えたら、壊れてしまうかもしれない。行事は行事の意思で動く部分があれば、それを尊重してもいいんではないか。強引を加える無理をしてはならない。ちょっとした工夫と少しの努力でいいんではないか。それが全体。ただ、その全体の中での部分の充実は急務かもしれない。

 さて、今年はどんなものか。全体行事の司会の質は昨年よりはいいと思う。だから、今年は司会用の脚本は書かなかった。当然「想定外」のことがないはずがない。でも、彼らは処理できる人材なのだ。頼む!

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弱り目に祟り目

 先週火曜日から、娘たちの母親が韓国に行き、土曜から福岡に行き、金曜日はトランジットみたいなものか。主夫をして、朝食と夕食を中心に、家事に精を出した。
 日曜日、目が覚めると大寝坊。6時35分。前夜、朝から出かけることを確認して、申し訳ないがコンビニのサンドイッチということを確認していたのに、慌てた。いつもは通らないことにしている道を無意識に選んでしまって、コンクリートの塀に車の後部を・・・。

 雨の降る日は天気が悪い。車以上に精神がへこんだ。へこみながら、こういう時の精神の持ちようこそだと考え、走れなくなった訳じゃないからいいか、と、と考えることにした。ついでに、自戒のためにも、この無残は残すか。

 ついでに、人が生きていく上ではいろいろある。そのいろいろに潰されてはいけない。極端な話、生きてりゃ、何かのきっかけで好転することがある。そう。そうなのだ。真面目は肝心。でも、どこかに「テキトー」を盛り込んだらいいんじゃないか。

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大銀ドームの屋根が

閉まるのを眺めていた。明日、どうやらトリニータの試合があるらしく準備の色々な動きが見られた。そのドームを借り切って、インターハイの開会式の「太鼓の検証」。

 大分国体の時にTAOが演奏したらしい。それを事務局から借りたDVDで観たら、あまりに呆気ない。観客からは演奏者が豆粒ほどでしかない。インターハイの開会式でも太鼓を使うということなので、太鼓をフィールドではなく、観客席に設置したいと提案して、そうしたらどうなるかを検証した訳だ。太鼓は、その音の振動が体に伝わるからいいのではないか。

 大銀ドームの屋根が閉まるのを見ながら、これにどれくらいの電気料金がかかるのかをぼんやり考えた。

 楊志館高校の太鼓を聞いた。素晴らしい。本番では野津と安心院の太鼓が加わる。解決すべきは「反響によるズレ」。

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つらい季節~若松監督の死を悼みつつ~

 老いていくと、体の潤いというか、水分が少なくなるのか。冬になると、脛がかゆくなる。掻かないようにするんだけれど、寝てる時に、固くなった踵でゴシゴシ掻いている。痒みの虫がうごめき始めたような気がする。

 朝の犬との散歩も着込む。デートに行くわけじゃないから、寒さを凌げればいいんだけど、厳寒の朝はかなり着込む。それでも体を固くしている。転んだら骨折しても不思議じゃない。ぼくは何故か手が冷え込むので、洗濯係としては、冬の朝、洗濯物を干す時がつらい。干し終わったら、洗面所でお湯で温める。

 夏と冬、「いつもこの時期って、こんなに暑かったけ(寒かったっけ)」「どうかなァ」という会話を交わす。それは覚えているけれど、昨年の暑さ、寒さはとんと覚えていない。子どもの頃はもっと寒かったと思う。加えて炬燵しか暖房器具がなかったし、寝具も貧しかったし、ヒートテックもなかったし、そんなに栄養あるものを食べていなかったし、地球温暖化もなかったから(世界が認識してなかっただけだろうが)、寒かったはずなのだ。でも、温暖化が進んでいるのに、寒さがこたえる。これは「老い」のせいにするに限る。

 若松監督が亡くなった。彼の映画を観たことはないと思う(だって、記憶がなくなりつつあるんだから)が、時々、テレビ画面で見かけた。「国家が喜ぶような映画は絶対つくらない」という姿勢は立派だと思う。『あらかじめ失われた恋人たち』(だったか・・・今もう一度観たい映画)の脚本と監督した田原総一郎の「もっとつくって欲しかった」は、最大の賛辞だと思う。

 ジジイを感じさせなかった若松監督。それに比べて、乾いていく体に、火葬にしたらよく燃えるだろうと思っているジジイ。いけないね。諫早まで芝居を観に行って、帰ったら、『夜伽の部屋』に着手しよう。これには4人と6人の2バージョンがある。とりあえず4人バージョンから。精神が乾ききるまでに。

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沼野充義『チェーホフ かもめ』を読む

 以前ほど書店で本を探す時間がない。書店に行くのが月に1、2回だから当たり前。それも子どもが行くから、乗せていったついでだからなおさらのこと。それでも、行けば、新刊のコーナー、文庫、新書、文芸雑誌、そしてNHKの棚をざっと見渡す。このNHKのコーナーがけっこうミソ。放送内容がまとめられて一冊になっている。そこに沼野の『かもめ』についての一冊があった。

 津久見高校の時(あッ、敷根先生、書き込みありがとうございます。応援してます。)何人かの作家の作品をまとめて読んだ。その一人がチェーホフ。若葉マークの教員時代、月に3~5万ほど本を買っていたが、その時にチェーホフ全集を買った。中央公論社の微妙なサイズの全集。ところがすぐに挫折した。それを突然思い出し、せめて戯曲は全部読もうとした。莫大な数の小説やその他はとても・・・。
 全部読めたのだけど、まァ全部読めたから面白くなくはなかったのだろうが、ピンとこない。何が面白くて、まだあちこちの劇団ではチェーホフを上演しているのか。数年前、沼野の『かもめ』の訳が文芸誌に掲載され、読んだら、実にわかりやすかった。でも、まだわからない。
 今回、沼野の解説を読んで、少しはわかったが、膝を打つほどではない。ただ、喜劇についての説明には膝を何回も打った。そこから、再読すれば、もしかして、と思えた。三度目の正直を目指して。

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中津留章仁『欺瞞と戯言』を読む

 津久見出身で鶴城の卒業生、中津留の新作。竹下景子、長谷川初範、真山章志、岸田茜、 下條アトムが出演し、上演日程の中に津久見市民会館が入っている。
 中津留が高校生の頃、大分の高校演劇部は27校ほどあった。演劇祭では、リハ一日を入れて木曜から日曜まで上演するのだが、一日12校という時もあった。その日の上演が終わって、宿で夕食を取るのが9時頃。もはや夕食というよりは夜食。大変なのは審査員で、眠気止めのコーヒーやドリンクをせっせと出したものだった。それが、現在は10校に満たない。中津留が東京で活躍しているのだから、津久見高校と鶴城に演劇部があってもいいんじゃないかと思うのあが・・・。

 さて、津久見での上演が来週のようで、差しさわりがあってはいけないので、一言。中津留は上手になった。ただ、この作品を彼がどのように演出して見せてくれるのか。できれば観に行きたいが、仕事が山とあるからなァ・・・。

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遊びと暇つぶし

 人の名前が思い出せないことが多いことは以前書いた。忘れ物に気付いて帰ると、はて、何のためにと思い出せないことがあると、これも書いたような気がする。職場でやりかけの仕事をCDに移して家でやろうと、準備したのに、弁当を持った途端その肝心のCDを忘れたということを書いた、か、なァ・・・。

 今でもはっきり覚えていることは、それでも、ある。子どもが小さい頃、何をすると聞いたら、「遊ぶ」ときっぱり言った時の言葉と声。実際、子どもはみんな遊びで体と心と頭を成長させる。遊ぶってことは極めて創造的なことなんだ。ところが成長するにつれて遊べなくなる。勉強やら仕事やらが生活のメインになり、暇つぶしになる。もちろん、そこに創造性は殆どない。

 学校の文化祭は遊びの場所である。しかし、創造性がなければ、無駄な場所になる。

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『鍵泥棒のメソッド』を観る

 『なんでも言って委員会』で日本映画の評価が低かった。津川雅彦は、自分はいい映画をつくっていないのに、苦情は多い。あれだけの名声を得た人が、何故おおらかに映画を語れないの不思議に思う。

 どうしても観たいというので、19時からの上映に乗せて行った。リピーターが増えているとか、だから上映がのびたとか、そういう情報があったので、期待した。

 前半はイライラした。疑問ばかりが出てくる。その疑問に映画は応えない。後で、そういうことだから、と、思う。脚本が悪いんだな。都合でできている。
 後半はそのイライラがそういうことでそうなったのか、と、思う。でも、最初のイライラはどうしてくれるんだ。これから観る人のためにあれこれ言えない。でも、脚本は破綻している。ラストシーンなんか、笑ってしまう。お粗末に笑ってしまう。ウソを成立させることができなかったのではないか。ウソを成立させることができないことは致命的だ。
 『スター・ウオーズ』を初めて観た時だったか、宇宙船の下からの撮影が長く、長く、長すぎて、結果「デカイ」と思った時に、その映画のリアリティにに入っていった。

 ウソは最初が肝心なのだ。

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丸谷才一氏を悼む

 丸谷才一氏が逝去した。博覧強記という言葉がこの人ほど当てはまる人は依然にも以後にもいなかったのではないか。ぼくは熱心な読者ではなかったけれど、10冊程度の書物にはずいぶん教えられ、刺激された。(もっとも、それは読後限りで、次のアクションへと向かわなかったけれど)
 永井荷風作とされる『四畳半襖の下張』が雑誌『面白半分』に掲載され、猥褻ということで摘発された。ある活動組織が資金源獲得のためにコピーしたという薄くて小さいものが、幾つもの手を渡ってぼくの手元に届いて、読んだ。どこがいいかもわからなければ、騒ぐほどの猥褻さも感じなかった。
 その裁判に、弁護士では文学的素養がないということで、丸谷が特別弁護人になり、吉行淳之介、開高健、井上ひさし、五木寛之等の作家に法廷で質問した。そのすべてのやりとりを『面白半分』は臨時増刊号に出した(この根性が、おそらく『面白半分』の神髄だったのではないか)。それは今まで読んだどんな文学論よりも面白かった。以後、オリンピックの間隔程度で彼の本を買っては、読んだ。チビチビではあるが、ぼくも少しはわかるようになっていったのだと思いたいが、ぼくは齢を重ねるほどに、丸谷の偉大さを感じるようになっていった。彼が『6月16日の花火』を書いたからこそ、ぼくはアイルランドに行くのをその日にしたのだ。

 お疲れ様でした。あなたの残した業績は広く、深く、面白い。人生を愉しみ、文学を楽しむ達人のご冥福を祈ります。

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コミュニケーション能力

 学校の面接練習は就職組から進学組に移行した。生徒の応答の傾向については以前にも書いたが、もう一つ。
 それはコミュニケーション能力について。長所・短所や自己PRの中で、それを挙げる生徒が増えたように思う。
 しかし、それは自分で言うことだろうか。「私は明るい」は自分で言うことではなく、相手に「明るい人だ」と思わせることが肝心だと思うが、それと同じように「きちんと質問を理解して、きちんと答えている」と相手に思わせることなく、自分で「コミュニケーション能力があります」と言ってもそれは通じないのではないか。簡単に考えすぎているように思う。ただ、それは生徒ではなく教師が考えるべきことで、つまり、教師が簡単に考えすぎているのだ。
 たとえば全校集会でコミュニケーション能力が求められている、だからそれを学ぶ必要があると校長が言う。それはよい。しかし、別の話の時に、聴く側のことを考えているのか、というと、どうも自分の言いたいことだけを言っているだけではないかと思えてならない。皆さんにお願いが8つあります、って、一度に8つも覚えられると思っているのだろうか。そういうこと。

 コミュニケーション能力を身につけるには、まず受信能力を高めること。発信能力はその次。そう思うのだが・・・。
 
 

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『デルス・ウザーラ』を観る

 黒澤明が旧ソ連に招かれてつくった映画。アカデミー賞で外国映画賞をとっている。
 ぼくが今以上にぼーッとしてた頃、そのニュースに接し、凄いことだけれど、観たいとは思わなかった。何故なんだろう。だいたいが、食わず嫌いで損をしてきたこと数知れず。かなりの時間をおいて、触れて、感動して、ああ何故と悔しい思いをしてきた。久しぶりにそのタイトルを見て、過去の蘇りに急き立てられるように、観た。
 特に何か事件があるわけではない。探検隊にある日加わったデルス・ウザーラの自然に根差した生き方を描いているだけ。その俳優がとてもよかった。演じているようには見えなかった。朴訥と知恵の人だが、探検隊の隊長の家に住むようになると、どうも居住まい好ましくなく、自然に生きることを選ぶ。シベリアの厳しい自然でも、それが彼の馴染んだ日常なのだ。まったくの妄想だけれど、宮崎駿の『もののけ姫』に影響を与えているのではないか。

 シベリアの四季のロケが多い。当時黒澤は60歳を超えていたんじゃないかと思うが、過酷なロケだったろうな。特に冬のロケは。昔、冬の大沼公園でロケに参加した時、雪と氷だけだったが、弁当を食べるときに座りつづけることができない。時々背中で座って(わかる?)、立って、またケツで座って食べた。15回の連続ドラマの一回分だけ。黒澤はその何十倍も同じ生活したんだろうから。撮影の裏側をついつい考えて、やはりスゴイ人は挑む人だナと思った。

 メイキング・フィルムがあれば、絶対面白いだろうに。

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もの食う人達

 誰かが何かを食べている、その様が時々、命が永らえるために食べているように思える時がある。それは、時にグロテスクに、時に神々しく見える。

 生き物が食べるものはすべて命あったもの。『ノッティングヒルの恋人』にフルーツだけしか、それも木から落ちた「死んだ」果物しか食べないという女性が登場する。木から採った果物は「殺した」ことになるから。そういう人が実在するのか知らない。そういう人をつくりだすところに人間の面白さがあるのかもしれない。人間は人間で遊ぶ。人間を遊ぶ。

 たとえば畜舎にモーツアルトを流すと牛乳がよくとれるとか、部屋の鉢植えに話しかけるとその植物が元気だとか、そういうことを聞いたり、読んだりする。命は交感できるのかもしれない。ともかく、すべての命はほかの命を喰らうことで、命をつないでいる。食べるということは、厳粛な儀式かもしれない。「いただきます」「ごちそうさまでした」は作ってくれた人にではなく、それを与えたくれた命に向けられているのかもしれない。そう考えると、日本って、いい国なんだ。

 

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高橋哲雄『アイルランド歴史紀行』を読む

 ずいぶん時間がかかった。アイルランドに興味はあるものの、ジョイスやベケットが生まれ育ったところということで、いくつかの風光明媚なところを知ればいい訳で、歴史までは。加えて、カトリックとプロテスタント、協会の記述が長く、だから時間がかかった。

 一つ、はっきりしたような気になったのは、ジョイスやベケットが祖国を離れ、異国で生涯を閉じた理由。アイルランドのカトリックはかなり厳格なようで、おびただしい書籍を発禁処分にしている。その中にはジョイスの『ユリシーズ』やミッチェルの’風と共に去りぬ』も入っていたらしい。おそらく望む活動が祖国では厳しいと思ったのではないか、などと、素人は勝手に想像した。

 教員生活もあと500日と少し。もう教団に立つ考えはない。もっとも、子どもが進学すればそんなわがままを言えないかもしれない。その時はその時。とにかく、6月16日にアイルランドを訪ねるつもりで、こつこつと勉強している。今まで数回挫折した『ユリシーズ』に来年は挑戦しようと思う。もっとも、最近BSで放送する各局の日本各地の美しさを首魁する番組を観ては、そちらのほうがいいか、と、思い始めているのだけど、まァ、その時考えよう。

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ツール・ド・佐伯を手伝う

 ボランティアの依頼が来た時、今年で22回目というのに、そういうものがあることを初めて知った。それもそのはずで、数年前までは蒲江でやっていたとかで、蒲江、米水津、鶴見、上浦、弥生、本庄、宇目、直川までの佐伯全域を走破する190キロのコースを設定したらしい。今年の参加者は700名。7歳が最年少とのこと。坂は多いが、山と海との変化に富んだコースで、目の歓びは多いと思う。

 ぼく達が担当したのは米水津の「空の公園」どんなにでかい津波が来ても絶対に届かない高所にあり、豊後水道を見下ろせる喧嘩でも有数の絶景ポイント。生徒は行ったことがないらしく、そこを知っただけでも良かったと思う。ある時間帯は怒涛のごとくサイクリストが押し寄せた。でも、彼女達はよく働いた。感心、感謝。

 いずれは、もっと大きな大会になるのではないかと思う。今日のような快晴に自転車で走るのは気持ちいいかもしれない。体力が許せば、と、傾きかけた。しかし、ある人の自転車が100万と知り、一瞬で萎えた。ボランティアでいい。

 

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好きな俳優(4) デイビッド・ニーブン

 久しぶりに『ナバロンの要塞』を観た。初めて観たのはかなり昔で、面白かったと思ったので、録画した。録画するとなかなか観ない。加えて、2時間半という表示を見ると、度胸が求められる。

 今回久々に観て、映画の物語より、背景が面白いと思った。その背景が、あの物語を支えていたのではないか。

 それにもデイビッド・ニーブンが出ている。戦争映画、不可能な使命、だから結構深刻な表情を続ける。でも彼はとぼけた演技も面白いのだ。

 『大頭脳』という映画で、頭脳がでかいから首をかしげて演技する、あれを観たのはいつだったか。

 

 役者の力量はふり幅の大きさにあると思う。とんでもない悪役をできる役者は、とてつもなく優しい人を演じることができる。ディビッド・ニーブンは振幅の大きい役者ではなかったか。

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開高健『もっと遠く!』を読む

 1981年の秋3500円で出版された。教師になりたての頃。アラスカからホーン岬まで釣りでアメリカ大陸を縦断するという内容で、貧しくても南米篇と合わせての7000円で買った。ノートブックパソコンより大きく厚い本には写真が満載で、釣りをしないぼくでも開高のペンで釣りに熱狂したような気もする。彼はよく中国の古諺「(前略)一生幸せになりたかったら釣りをおぼえなさい」を引用してた。

 今回は、全集で読んだ。写真はない。でも、30年前に写真を見ながら読んだ時に比べ、文章を味わうことができた。
 形容詞が腐るということを教えてくれたのは開高だと思う。その通りでキレのいい文章。それが書けるのは、莫大な知識を取捨選択してるからだろうナ。ゆっくり読んで味わうことができた。ぼくのナンバーワンの作家。次がダール、というと、開高つながりかよ、と、言われるかもしれないけれど、結局、その二人の作品は、読み返している。ダールは孫のために「チョコレート工場なんちゃら」みたいなものを代表に沢山書いた。でも、開高は自分の書きたいものだけを書いた。

 日本がイケイケドンドンの時代で、トヨタが車を提供したり、あちこち寄り道したりで、出版社が作家に好きなことをさせることができた時代が産んだ一冊かもしれない。

 南米篇は来月。文化祭が終わってから。
 

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村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』を読む

 東大の柴田の講座に村上が招かれ、学生と翻訳についてのあれこれのセッション。

 今頃になって、と、言われそうだが、英文を読んでいると「彼が言った」「彼女が言った」というのが多い。日本語の小説に比べると圧倒的に多い。二人のセッションの中でも取り上げられていて、それは、英語には男言葉、女言葉がないから、だと。ごくごく当たり前のことながら、今まで考えたことがなかった。
 もちろんそれだけではないけれど、そういうささやかな「気づき」があるのも読書の楽しみかもしれない。

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ペットの効用

 進学する生徒と時間外に英語を勉強している。それにペットの効用についての英文があり、そういえばそうだと思う部分があった。
 ペットが精神面でいい影響を与えてくれることは、たとえばアニマルセラピーとかで証明されている。ところが、ペットにはそれ以外にも、風邪、腹痛、頭痛に対しても効果があるということなのだ。そういえば、うちに犬が来て、今月の終わりで13年になるが、そういうのと確かに無縁な13年のように思えるのだ。
 今、朝の5時、懐中電灯を持って散歩に行く。これからは寒くなる。でも、そういうことで、どうにか健康に毎日を送ることができているようだと考えれば、寒さなんか拒んではいけない。ぼくの足音を聞きつけて、玄関でお座りして、尻尾を振って迎えてくれるのだから。お互い様ってこういうことか?

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