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池田政之『審査員』を読む

 朝、7時30分頃職場に着き、パソコンに電源を入れ、専用に持ち込んだ湯沸しにスイッチを入れ、パソコンにパスワードを入れ、大学の後輩の劇団のHPを開く、公演前のピリピリ感のある文章を役者版と作家・演出家版を読み、最後に女優のブログを読んで、googleのニュースページを開いて、コーヒーを入れる。それをすすりながらニュースを読み、聞える挨拶に同じ言葉を返し、仕事モードになっていく(ウソ。ぼくはいつでもどこでも同じモード。家や職場や遊びで、することがちょっと違うだけ、じゃないのか?)

 さて、池田政之の『審査員』

 戯曲賞の最終選考の公開会場が舞台。審査員に候補者、加えて過去の候補者が入り乱れてのあれこれやが展開する。一幕一場。こういう芝居つくりは、ぼくもやってきたので、親近感みたいなものを覚え、楽しめた。こういう作品、三谷幸喜の『12人の優しい日本人』とか、好きな作品だ(三谷は過大評価されすぎている、って、前書いたか)。
 池田には申し訳ないが、この作品、この手は、人数不足に悩むアマチュア劇団や高校の演劇部(無理、か?)は事情に合わせて設定を変える、書き変えることが可能なような気がする。その意味でも一読したらいい。深くはないが、面白い。嗚呼、そういうのを高校演劇の大会で上演すると、審査員からこっぴどくやられるのか・・・。

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秋田光彦『葬式をしない寺』を読む

 「こうなっております」、と、「祖母が亡くなりまして」に寺が差し出したのは料金表だった。クッションとなる言葉も置かずにすぐにビジネスか、と、思った。

 葬式仏教と言われる。確かにその通り。ぼくも老いて、周囲での会話で寺がどうのこうの話を聞くことが多い。いい話はほとんどない。一件だけ、ある寺の話はよかった。ああ、その寺の檀家だったら、と、思った。
 生まれたら、ある寺の檀家になる。選べない(変えることはできるのかもしれないが・・・)。そしてその寺は葬式と盆と彼岸にやってきてお経をあげて、金を持っていく。それ以外のつながりは全くない。そんな関係の中で戒名をつけられて、有り難味も何もない。
 秋田の試みは面白い。寺を劇団や様々な活動に場所を与え、そこに集まる人に寄り添いながら、仏教と寺の役割を考えている。現在の寺の多くは死者を送るだけで、残された人への配慮が全くない。お布施と書かれた封筒を指で挟んで「少ないですな」という寺があったということだが、バカが。こんな寺は早々につぶれてしまうがいい。そんなのは死に群がるハイエナ、厄病神、死神で、僧侶の資格はない。

 負のスパイラルが寺にはある。どんどん信頼を失うから、寺の本来の仕事(認識しているようには思えないけれど)どころではなく、台所を支えるビジネスをする。それでますます信頼を失う。自業自得だ。そして社会から寺は孤立していく。

 時々テレビで京都とかの大きな寺の僧侶の話を聴いていると、心が整然としていくような思いをする。昨年父が亡くなり、喪主として表に立った。その時、そういう風に寄り添ってくれたら、ぼくは救われたかもしれない。でも疲労感と寺への不信感だけしかなかった。

 2月10日、父の一周忌。ところが坊主が来ない。電話したら、忘れてた、だと。明日では、とか言うのをイヤイヤ・・・と断り、準備してた一周忌料金で家族で外食した。

 亡くなった人を送るのに僧侶は要らない。家族や知り合いで思い出話をすればいいのだ。

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梅が満開

 本のほとんどを実家においている。開高健の全集から数冊持ってこようと、行った(といっても20メートル程度の距離だけれど)。庭の梅が満開。

 ここは大内(おおち)の梅林として、かつては梅の花を見に来る人が多かった。大内の婦人会はテントを張って、食べ物や飲み物を販売していた。学校から帰ると、そこに走って行った。活気があった。でも梅林はなくなり、なくなっても訪ねてくる人はいたが、それも少なくなり、今は皆無。
 親父が梅を植えたのはそういう流れなにか、梅を取るためか、単なる気まぐれかはわからない。その梅が、今年は今が満開。うちの2本の梅はまだチョボチョボだったり、つぼみなのに。でも、春は確実に近づいている。この感覚が嬉しい。

 開高の全集2冊をみつけ持って帰る。読むのはちょっと先になるだろう。ただ、『夏の闇』を私、食い物、セックスで一応消化した。その前の作品を一応全部読んでみるかということ。

 どうやら花粉症のようだ。娘が一番ひどく学校への送り迎えが必要な状態。それに加えて、その上の娘の自転車が朝にパンクしていることで、右往左往が増えていく。必要にされていることを幸せに思わなくっちゃって、ことか。 

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まだ消化できない

 若狭はバカサとはよく言ったものだ。若い連中からすれば老人は可哀想に見えるかもしれない。でも、老人からすれば若い連中はツマランことで悩んでしまうから可哀想だと思う。だから、若い頃に戻りたいなんざ毛頭も思わない。

 で、ぼくも若い頃はそれはそれは可哀想な馬鹿者で、たとえば一本の映画を観てわからないと、わからない自分に言葉の刃は向かった。しかし、幸いなるかな老いること、わからないことにあまり悩まなくなった。それには、不幸なるかな老いること、あきらめがある。まッ、全部わかろうというのは無謀と不可能であることを知ったということだろう。ウン。
 だから、わかる・わからないではなく、好き・嫌いで判断するようになった。これだけで結構健康的になった。ところが、嫌いではないけどわからないというのも時々ある。それが、昨日読んだ開高の『夏の闇』。

 『夏の闇』は開高が自分のことを書いている。私小説。ところが、その開高一人の闇が背中や脇や耳の後ろにべっとりついて、多くの私小説とはマグニチュードが違う。
 東京で働いていた頃、仕事帰りのアパートの途中の下り坂の途中の古本屋で『輝ける闇』を買い、その隣の酒屋で薩摩白波を買って、すすりながら読んだ時の心の踊りとは全く違う。だから、それを近々読み返さなければとは思うが、もし、読み返して今と同質のモヤモヤがあれば、それはそれでいいか、と。

 『夏の闇』には打ちのめされた。こんなに後遺症があるとは。毎年「彼女」が14日にバーボンをくれるが、口当たりの良さについグイグイやって翌日苦しんだ時のようだ。余韻の質はかなり違うけれど。

 そう、余韻、と、考えればいいんだ、とにかく。

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開高健『夏の闇』を読む

 簡素な食事に慣れていると、結婚披露宴で盛り沢山を前にすると引いてしまうようなところがある。開高の『夏の闇』は濃厚コッテリの連続みたいな、とでもいえばいいか。

 南海も漢和辞典で画数を調べては調べた。国語辞典も何回も開いた。昨日も書いたが、こういう濃厚コッテリに堪えることができるのだ、今は。

 こんな小説は初めて。女のつくるピザがうまそうで、食べたくなった。こんなことしか書けない。ともかく、チョコマカ動いて、闇を抱え込まないようにしよう。

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前川知大『暗いところからやってくる』を読む

 人によって、健康の度合いを測る物差しは様々だろう。ぼくのような老人になると、身体の健康は落ちていくばかり。どこがどうということはないけれど、けだるかったりする。だからまァ身体のどこそこが特に問題がない場合、精神の健康の度合いは戯曲を読めるかどうかで測ることができるような気がする。戯曲を読むには集中力がないと、頭の中で人物が動かないのだ。ここ最近どうにか戯曲を最後まで読み通すことができているのは、精神面の状態はよくなっているように思う。

 さて前川作品。面白い。特にナンテコトナイ日常にちょっとした仕掛けをすることでその日常が面白い世界に変わる。魔法といっていいかもしれない。そして、読みながら上演したくなった戯曲。こんな気持ちは久しぶりで、これはかなりいい状態だと思う。とにかく書棚に残しておこう。ウン。

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相良敦子『無欲の人~熊谷守一物語~』を読む

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永井愛『こんばんは、父さん』を読む

 永井愛は好きな劇作家。今まで、新作が出るたびに求めて、読んだ。かなり楽しませてもらった。ところが、この新作はガッカリ感が残った。設定も、進行も強引すぎて、彼女の軽やかなな切れ味がないように思う。かつての勢いがない。
 勢いというのは期間限定みたいなところがあり、気持ちや意志ではどうにもできないところがある。言葉が溢れ出す、次から次に生まれ、書きとどめようにも追いつかないという時期がある。
 たまにはこういうこともある。次作を期待したい。ただ、三人芝居で、三人の俳優の顔ぶれ、その組み合わせがどういう舞台になったかは興味がある。

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凍えた強歩大会

 昨年は父の死で強歩大会には参加できなかった。今日は時折雪の舞う一日。昨年、2月4日、雪が積もり、その夜、父は死んだ。そんなことをチラリと思いながら、凍える手で水分補給の作業をした。

 チンタラの生徒がいなかった。豊南高校の生徒の美点がよく出ていた。最終ゴールが昨年より30分早かったって、これもすごいことだ。

 ただ、それから3連休後の推薦入試の準備。ちょっと酷じゃないか? それと、推薦入試を休みの翌日に設定する県教委もおかしい。入試の緊張感を保ったうえで実施したほうがいいと思うが、彼らはそういうことは無頓着なんだろう。バカだ。

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井上ひさし・つかこうへい『国ゆたかにして義を忘れ』を読む

 裏表紙の裏に1986年2月22日の日付。そして、買った時のコメントを書いている。昔はいつもそうしてた。中には女性とすき焼きを食べにいったことを、よせばいいのに、長い文で記録している本がある。演劇論の名著で捨てるわけにはいかないし、読み直すってんで、机の上とかに放置してて、誰かにパラパラとやられて、ってのも困る。まッ、ということで、27年ぶりの再読。ひさしとつかの対談。以下、付箋を貼ったところをいくつか;

いま、魅力的な女の人ってのはたいてい二号面といいますか、メカケ面していますね。

演技やっていれば本質にすりかわりますものね。

世の中、だまされ方の問題なんですよね。「こっちはいつでもだまされてあげるから、上手くだましてくれ」っての。泣きたいときに自分を泣かせてくれる、これが一番です。

生き方はもちろん、例えば親が死んだ時の悲しみ方すらわからなくなってきている。

ハッピー・エンドにする力量のない人は小説なんか書いちゃいけないと思います。

最近、タクシーの運転手さんが話し好きになっていませんか。

僕らのやり方って「本気なふりしてふざけられるか」というところがあるんです。

最近の事件には、モラルというんじゃないですけど、自分の作った嘘みたいなものに自分が酔えちゃう、というような面がありますね。

最後は、美学にならないと死ねないんですかね。

二人とも亡くなった。もっとも勢いがあった時の二人の言葉は切れ味がある。はて、27年前読んだ時、どんなことを思ったのだろうか。

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別府市美術館に行く

 精華高校吹奏楽部が公開リハーサルをするとかで、娘と友達を乗せて別府に行った。ほぼ3時間を、はて、どうして過ごすかを考えた。思い切って足をのばすことも考えた。国東、玖珠、九重の榎孝明の美術館(いつも素通りしていた)・・・。別府に美術館がある!時々学校にやってきては数十万の絵画を売りつけようとする画商が、入場料が安く、いい絵があると言ってたことを思い出した。

 100円。そしてこんなぼくでも名前を知っている巨匠(だと思う)の作品が並んでいた。客はほかにいなかったので、ゆっくり見て回った。生半可な知識(構図、ね)で、誰かと来た時にその人に知ったかぶりで解説するふりをしながら。ただ、もし「あげるよ」と言われたらどれをもらうかをゲスは考えたが、ない(だから、画商は毎回無駄足を踏むことになる)。
 美術館というより、博物館の要素もある、いい美術館。出てから海辺に行った。いい風といい光。できれば、美術館にコーヒーを飲めるコーナーがあれば、と、思う。

 ビーコンの展望台にも行った。初めて。300円。ここも一人。125メートルの高さからの景観。こういうのも、ほらあそこが何々だよね、とか、言いながら観るほうがはるかに楽しいだろうと思う。一人でのウロチョロを優先するぼくには望めない。
 

 別府に住みたいという人は周囲にいる。でも、温泉の利益は災害の可能性もある。瓜生島の例がある。ぼくは、別府市美術館が海岸に面していて、もしもの場合の作品が気になって仕方なかった。

 別府公園は素晴らしい。すでに紅梅が花を咲かせていた木もあった。別大マラソンがスタートしたのだろうと思い、歩いた。別府は面白い。川内選手、おめでとう!

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布施英利『構図がわかれば絵画がわかる』を読む

 肩書の「芸術学者」にちょっと好奇心。芸大の博士課程を修了したあと、東大医学部の助手として養老孟司のもとで働いたという。現在は芸大准教授。

 絵に興味のない人にはどうってことないかもしれない(当たり前)。で、お前は興味があるのかと問われると、ないわけではない、程度(な~んだ)。ただ、カメラを向けた時、何をどう撮るかのポイントは構図だろうから、役に立つかもしれないというだけの気持ち。答は、役立つ。

印象に残った文章を紹介します:

 芸術作品というのは、たとえばラジオのチューナーのようなものです。ラジオの電波は、どこにも溢れていますが、人はそれを感じることはできません。しかしラジオのスイッチを入れて、チューナーを合わせると、音が聞こえてきます。その電波は、ラジオでなく、テレビでも、携帯電話の電波でも、WiFiでも構いませんが、そういう目に見えない、聞こえないものを、そこに現すための装置が、たとえばラジオなのです。
 芸術作品も同じです。私たちの周りには、宇宙があります。その形やリズムがあります。構図はそれを要約し、目に見える、耳に聞こえるものとする装置なのです。そのとき、芸術作品は、宇宙と響き合い、宇宙をかいま見せ、そして宇宙そのものとなります。構図がしていることは、それです。
 その、たった一つのことなのです。

その辺を『モナリザの微笑』やゴッホやムンクやらの作品で説明していく。聴講生になりたい!

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眞淳平『世界の国1位と最下位』を読む

 面積、人口、GDP、税金、軍事力、石油・天然ガスの生産と輸出、貧困率、食糧自給率、進学率で世界の中の日本のの状況が明確に浮かびあがる。そのわかりやすさは、岩波ジュニア選書だからだろう。

 ぼくはこのジュニア選書シリーズが好きで時々買う。中学生付近の若い人にもわかるように書いているから、ぼくにもわかりやすい。若者だけにはもったいないシリーズだと思う。

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