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まだ消化できない

 若狭はバカサとはよく言ったものだ。若い連中からすれば老人は可哀想に見えるかもしれない。でも、老人からすれば若い連中はツマランことで悩んでしまうから可哀想だと思う。だから、若い頃に戻りたいなんざ毛頭も思わない。

 で、ぼくも若い頃はそれはそれは可哀想な馬鹿者で、たとえば一本の映画を観てわからないと、わからない自分に言葉の刃は向かった。しかし、幸いなるかな老いること、わからないことにあまり悩まなくなった。それには、不幸なるかな老いること、あきらめがある。まッ、全部わかろうというのは無謀と不可能であることを知ったということだろう。ウン。
 だから、わかる・わからないではなく、好き・嫌いで判断するようになった。これだけで結構健康的になった。ところが、嫌いではないけどわからないというのも時々ある。それが、昨日読んだ開高の『夏の闇』。

 『夏の闇』は開高が自分のことを書いている。私小説。ところが、その開高一人の闇が背中や脇や耳の後ろにべっとりついて、多くの私小説とはマグニチュードが違う。
 東京で働いていた頃、仕事帰りのアパートの途中の下り坂の途中の古本屋で『輝ける闇』を買い、その隣の酒屋で薩摩白波を買って、すすりながら読んだ時の心の踊りとは全く違う。だから、それを近々読み返さなければとは思うが、もし、読み返して今と同質のモヤモヤがあれば、それはそれでいいか、と。

 『夏の闇』には打ちのめされた。こんなに後遺症があるとは。毎年「彼女」が14日にバーボンをくれるが、口当たりの良さについグイグイやって翌日苦しんだ時のようだ。余韻の質はかなり違うけれど。

 そう、余韻、と、考えればいいんだ、とにかく。

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