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秋田光彦『葬式をしない寺』を読む

 「こうなっております」、と、「祖母が亡くなりまして」に寺が差し出したのは料金表だった。クッションとなる言葉も置かずにすぐにビジネスか、と、思った。

 葬式仏教と言われる。確かにその通り。ぼくも老いて、周囲での会話で寺がどうのこうの話を聞くことが多い。いい話はほとんどない。一件だけ、ある寺の話はよかった。ああ、その寺の檀家だったら、と、思った。
 生まれたら、ある寺の檀家になる。選べない(変えることはできるのかもしれないが・・・)。そしてその寺は葬式と盆と彼岸にやってきてお経をあげて、金を持っていく。それ以外のつながりは全くない。そんな関係の中で戒名をつけられて、有り難味も何もない。
 秋田の試みは面白い。寺を劇団や様々な活動に場所を与え、そこに集まる人に寄り添いながら、仏教と寺の役割を考えている。現在の寺の多くは死者を送るだけで、残された人への配慮が全くない。お布施と書かれた封筒を指で挟んで「少ないですな」という寺があったということだが、バカが。こんな寺は早々につぶれてしまうがいい。そんなのは死に群がるハイエナ、厄病神、死神で、僧侶の資格はない。

 負のスパイラルが寺にはある。どんどん信頼を失うから、寺の本来の仕事(認識しているようには思えないけれど)どころではなく、台所を支えるビジネスをする。それでますます信頼を失う。自業自得だ。そして社会から寺は孤立していく。

 時々テレビで京都とかの大きな寺の僧侶の話を聴いていると、心が整然としていくような思いをする。昨年父が亡くなり、喪主として表に立った。その時、そういう風に寄り添ってくれたら、ぼくは救われたかもしれない。でも疲労感と寺への不信感だけしかなかった。

 2月10日、父の一周忌。ところが坊主が来ない。電話したら、忘れてた、だと。明日では、とか言うのをイヤイヤ・・・と断り、準備してた一周忌料金で家族で外食した。

 亡くなった人を送るのに僧侶は要らない。家族や知り合いで思い出話をすればいいのだ。

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