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『ヒューゴの不思議な発明』を観る

 昔、佐伯には5つの映画館があった。

 現在眼科がある辺りに東宝系の映画館があり、小学校、中学校の頃は学校が許可する映画しか観ることができず、若大将シリーズを夏と冬の休みには見ていた。ホテルの駐車場辺りに東映。駅前にピンク映画(まだポルノ映画という呼び方はなかったような気がする)を上演する映画館。一度か二度、心臓をバクバクさせながら入場したことがある。今のAVとかに比べると、何の刺激もないものだったかもしれない。でも、全部見せなくても、人間には想像力があるから、かえって刺激的だったのかもしれない。そして某病院の近くに日活系とピンク系(こちらが日活ロマンポルノを上映してたのだろうか)の2館。高校2年の秋、土曜日、学校の帰りにフラッと入って、『マイ・フェア・レディ』を観て「世の中にこんなに面白いものがあるのか」とぼくの身体の細胞のすべてが沸き立った。これ以上落ちないよという劣等生のぼくは映画をめざし、そのためには大学に行く必要があることを知り、勉強を始めたのだった。

 『ヒューゴ』が優れているのは、マジシャンが映画に出会い映画制作を始めたという点ではないかと思う。映画の基本は夢ではないかと思う。テレビには夢がない。テレビには足し算と引き算しかない。映画には掛け算と割り算もある。これが根本的に違うし、制作費だけではなく、情熱の量が圧倒的に違う。
 昔、『俺たちのDJ』という単発ドラマ制作の端っこにいたことがある。撮影は大泉撮影所とロケ。照明スタッフは東映の人。ディレクターがなかなか本番に行けないので、急ぐようマイクに向かって言うと、「テレビ屋さんみたいないい加減な仕事しねえんだ」という声がかえった。夜のロケで、テレビ局のスタジオのメンツの親くらいの人が、塀に登って、立って、明かりを当てる姿を見て感動したことがある。

 『ヒューゴ』は夢みたいな言葉ではクソッタレで終わってしまう内容を知的で巧妙に仕立てあげている。脚本がいい。断然いい。作中の台詞にもあるが、何一つ無駄がなく、それぞれがゴッツいい感じ(死語?)で進んでいく。どうやって撮影したんだろうと思う妙も楽しめる。「ハッピィエンドは映画の中だけのことだ」という台詞がある通りの結末も不満はない。よくできた映画。

 

 

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KAWADE夢ムック『井上ひさし』を読む

 ひさしが亡くなってやがて3年になる。大学の頃、『手鎖心中』で面白い!以来、ほぼ読んだと思っている。大学の時に専門にしたシェイクスピア関係の本より多いのは、ひさしと関係の本。

 ひさしは彼なりの丁寧さで生きたと思う。

 別役実がひさしのベストに『藪原検校』をあげたのは嬉しい。オイオイ、別役さんとオレと同じだよ! 

 ひさしが50年前後でしてきたことは莫大。今もひさし関係の本は見逃さないようにしている。買っても読まないのは、未完の小説。

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『北京の55日』を観る

 中国は列強が入り込んで食い荒らされていた時期がある。その頃「義和団」という愛国の人たちのグループがあり、乱を起こした。その55日間を描いた作品。アメリカ人のチャールトン・ヘストンが活躍するなど、史実とは異なる部分があるようだが、面白かった。
 イギリス人のリーダーを演じるデヴィッド・ニーブンは好きな俳優。同じ顔でどんな役も演じることができる俳優だった。
 この映画の一番は、アメリカ人男性と中国人女性の間に生まれた少女。中国を去るヘストンが馬に乗せた時の表情で救われた思いがした。

 中国は列強に食い荒らされていた時期がある。だからこそ、その経験をより平和な世界創りに役立てると思う。しかし、今の中国は世界を食い荒らそうとしているように見える。間違っている。

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コミュニケーション能力

 コミュニケーション能力という言葉がやたらと使われる。それが何かはっきり説明できる人がいるのだろうか。
 というのは、学校現場では毎日(というわけでもないが)のように誰かが言っているけれど、もしかすると、教員自身にその能力が欠如しているのではないかと思えることが少なくない。

 ぼくは生徒会を担当している。昨年の生徒大会で「学校への要望」を決議して、執行部が書式やら、書き方やらを模索、検討して今年のはじめに校長に渡した。それへの回答が、先日の職員会議で提案された。これが、上から目線ってやつで、生徒への愛情のカケラも感じられない文章。人間が丸くなりすぎて、もう転がり始めたら永遠に転がり続けるんじゃないかと思うくらい丸くなったぼくも、つい、「詭弁だ!」と囁いたつもりが、皆さんに聞こえていた次第。
 つまり、それを読んだら生徒がどう考えるか、どう思うかを考えることが人間に「コミュニケーション能力」を云々できるのか。

 もう一つ。先日のBrass Festa in Saiki で司会を務めた中学校顧問のおしゃべりにも並行した。各学校の部長にインタビューするんだが、司会者の喋りのほうがはるかに多く、後の学校の部長には名前も担当楽器も言わせなかった。自分の喋りを優先していた。そうすることで、相手は、客席はどう思うのかを考えることができなかったのではないか。

 コミュニケーション能力はどれだけ話せるかではない、と思う。

 ここで、演劇が大手を振って出てきてもいい。芝居は台詞を喋ることより、相手が話す時にどう「聴く」が大切だろう。開高健が「人間は一本の管だ。食べて、出すだけ」みたいなことを言った。まず、受けいれることが肝心ではないのか。きちんと受け入れるから、きちんと対応できる。

 この問題については、継続して考えようと思う。

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年度末のバタバタ

 土曜日の新聞で管理職の異動が発表。どうでもいいことだ。最近は管理職の質の低下が甚だしく、県から言われたことを職員に通知するだけで、創造性も想像性もコミュニケーション能力もない。可哀想な人種だ。無能なくせに居丈高な管理職を前にすると、猛然と戦士になっていく自分がいる。それを、ぼくは楽しんでいるのだが・・・。

 昨日はマリンカルチャーセンターでボランティアに参加している生徒の写真を撮りに行き、午後は文化会館でブラスフェスタ。中学、高校、一般、それぞれの合同演奏の後は全員で演奏。指揮は、ぼくが高校時代の音楽の先生。とっくに退職して、今は安心院で農業と民宿のようなこと(ようなこと、って、失礼か)をやっているらしい。それは以前、テレビで観たことがある。73歳で躍動的な指揮。いい人生を送っているんだな、と、思いながら、わが身を振り返った。最近はいつ死んでもいいみたいな考えに傾斜していることをふと考えた。いつ死んでもいいんだけど、やはり、もう少し攻めの部分があってもいいだろう、と。フム。

 今日は午前中授業で生徒は放課。会議。1,2年生の進級判定会議。それから、通常の会議。そして、各分掌の反省。生徒会の学校への要望書の回答があった。笑う。彼らは何も考えていない。反対があり、それへのこじつけ。可哀想な人達だ。近々、その内容をすべて公表したいと思う。そこでぼくの「暴言」も明らかにする。

 今、学校は浮足立っている。でも、それは管理職のみ。教員は、はてどうするかと冷静に考えているのだ。この時期の職員室を芝居にしても面白いかも。ハタザワセイゴがやっちまうかもな。

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いやあ、疲れる

 高校に入学する娘の携帯うを買いに行った。スマホ。あれこれ説明を受けていると、光に入った方が安くなるというので、その説明から最終的に店を出るまでに3時間。説明責任を果たさなければならないのだろうから、加えてこちらの質問に店員がわからず、電話して聞いたりしたこともあり、長い。
 それにしても、料金システムがややこしくて、途中で頷くだけになってしまった。で、最終的にいくらになるんやと訊いても、わからん。もっとシンプルにしたほうがいいんではないか。
 そんなこんなで、今まで地元の企業ということで様々な勧誘を蹴ってきましたが、プロバイダーが変わります。

 後藤さん、先々週某劇団の2名と飲んだ時に、後藤さんの失望の話を聞き、な~んだと思い出しました。鳥を出してくれたらすぐに分かったのに。そうですか、お子さんと、・・・。フムフム。子育て楽しんでください。あの劇団はいいですよ。おそらく、全身で学校の要望や生徒に向かっていきます。外で飲まないぼくが唯一外に出る人たちです。昨年度は20名くらいの劇団員と我が家で焼き肉しました。ほかの劇団なら、そんなことはしない。

 ゴトーさん、久しぶりです。どこで働いているんでしょうか。「顔本」で、ぼくの名前で検索して、知らせてください。そこで、詳しく知らせます。

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娘、中学卒業

 多くの人は中学を二度卒業する。最初は生徒として。二度目は保護者として。最初は虫の目、二度目は鳥の目、的なところがある。もちろん、面白いのは虫の目。そんなことをウダウダ考えながら、保護者として卒業できた。
 卒業生が退場する時に、娘が遠くに見えた。目のあたりをぬぐっているように見えたが、花粉症のせいかもしれない。教室に異動して、泣いている生徒が多い。マスクを二つ使って顔を覆っている男子生徒もいた。生徒一人一人が最後にスピーチしたが、彼のが一番よかった。

 送辞も答辞も檀上でみんなに向かって言う。高校は送辞はステージ下で卒業生に向かって話す。でも、答辞は、檀上で校長に向かって話すのいだ。これはおかしい。断じておかしい。これに気付かない校長の感性も思考力も想像力もゲ(下よりも下)。今までそうだから、そんなことで動いている。極めて愚か。

 うまい酒だ。

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山田太一『心細い目のサングラス』を読む

 祖母が亡くなった時、いなくなったということだけで、特に死を身近なものとして意識しなかった。あれから10年、今度は父が逝き、今度はオレだナ、と、死をかなり意識するようになった。この10年の間に老いの浸食が進行しているせいもあるだろう。そうやって、老いや死と向き合うようになっており、覚悟(諦めという言葉は使うまい)が明確になっていくのだ。

 山田の作品の舞台はデイケア施設の事務室。
 母が介護施設に入っていて、土曜日に行くし、介護施設のスタッフルームを舞台に脚本を書いていたこともあるせいか、感触がかなり違う。一つは登場人物が多すぎて、雑然としているように思えること。経営者夫婦がいずれ介護を要するだろうことを示しながら、デイケアだから深刻な症状の人はいないかもしれないが、介護されることの現実と問題が希薄だから迫ってこない。介護施設をやめて、そのデイケア施設で働くことになった男が笑えないというのも、どうもとってつけた感じが否めない。

 老いに伴う問題は多い。医療費が、介護費用が、と、騒いでも本気になっていない。オリンピック招致くらいにオールジャパンでやれよと言いたくなる。加えて、老人が持っている金を使うようにさせるこの国の政治はどうなっているんだ。

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トム・ジョーンズ『ボーン・ルーム~骨格標本室~』を読む

 ぼくにとって脚本の最高の評価は「上演したい」。次が「舞台を観たい」。その二つは書棚に置く。観ることはできるかもしれないが、上演はほぼ無理なのだが、夢は枯野を、だ。「気になる」作品もあるが、気になり方で残すかどうか。微妙だ。読み返すことは滅多にない。

 もちろん立派には程遠い読む力。加えて、最近は一気に読み通す集中力も体力もない。おまけに、好き嫌いが結構ある。だから、ぼくの評価は当てにならない。結局、その作品に触れながら、実際は乏しい読解力と好みを語っているだけなのかもしれない。

 『ボーン・ルーム~骨格標本室~』はミュージカル。中年の主人公の夢の中に現れた死神が歌ったりする。台詞で済ませずに歌にする効果もあるのだろうが、わからない。いくら夢とはいえ、死神を出すことにすごく抵抗を覚える。この世に存在しないものを出してはいかん、と思う。でも、シェイクスピアの『夏の夜の夢』は好きなんだから、自分でも訳がわからない。でも、いい方向で考えれば、床にたまったホコリをかき乱す、と、考えれば、この脚本を読む意味はあったのだろう。ウン。

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エリアム・クライエム『負傷者16人』を読む

 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 寺山の短歌。下の句の「身捨つるほどの祖国はありや」が胸を騒がせて記憶の片隅に住みついた。『右であれ左であれ我が祖国』という小説のタイトルも思い出した。人は場所を選んで生まれることはできないから、生まれた場所によって背負うものが違う。

 アムステルダムのパン屋が舞台。パン屋は自分がユダヤ人であることを隠して生きてきた。ひょんなことで助けた男はパレスチナに生まれたアラブ人。時にひれったく思うやり取りの部分もあるが、ラストで、それがすべて必要だったことがわかる。
 ヤン・コットは『ハムレット』論の中で、『ハムレット』はスポンジのように時代を吸収する、と、書いていたように思うが、演劇の能力はそこにこそあると思う。ただ愉快な時間を過ごすのもいい。何かを考えさせられるのもいい。テレビドラマは自分を見失っているように思えてならないが、それでもやっちまう。舞台のシビアさはない。だから「何なんだ!」と思う作品が放送される。演劇よりはるかに多くの「観客」を相手にするなら、もう少し熟慮が要るんじゃないか。
 こういう芝居があること自体が素晴らしい。国立劇場で上演されたようだが、観たかった。演劇は個人レベルでしか発信できない。だから弱いんだけれど、だからこそ発信できる部分が多い。今のテレビ局にこういうドラマを作らない、作れないことが問題じゃないかと思う。

 

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