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『夜伽の部屋』 5月29日現在

 夏に一気に書いてしまおうという考えで、ノートを持ち歩いている。で、ぶち当たったのが、年表の作成。それがないと、細部を埋めることができないような気がするのだ。

 流れはほぼ出来上がっている。狂言回し役は出来上がっている。あとは3人のズレや一致をきちんとしないといけないのだが、気が遠くなりそう。ひさしは、こんな労を惜しむどころか、嬉々として取り組んだのだろうなァと思い、だから、と、自分を奮い立てようとするのだが、・・・。

 シェイクスピア後期の作品は「ロマンス劇」と呼ばれる。『テンペスト』が一番上演回数が多いようだ。ロマンス劇を貫くテーマは和解。若い時の切っ先は鈍っていたのかもしれないし、視線の方向が変わったのかもしれない。学生の頃は「つまんねェ」の一言でポイしたけれど、今は受け容れられる自分がいる。
 「批判的な言葉は可能な限り使わない」「ありきたりであることを恐れるな」。ノートにそう書いている。今度の芝居は3人が一つの思いを共有できた時点で緞帳が下りる。別にシェイクスピア作品が念頭にあったわけでは全くない。でも、沙翁と近い?みたいな思いに、もしかして間違ってはいないのかも、と、我田引水するのであった。

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悪いのはオイじゃなく、老いばい

 昨日で中間考査が終了。何と、その日の午前中にすべての採点を終えてしまった。たぶん初めてのことだと思う。なんかスゴイぜ、オイ(日ごろは使わないくせに)は。満足に気が緩んだのか、椅子の背もたれにすべてをあずけて眠った。フト目が覚めて、これではいけない、と、早退。毎年、12月までに年休10150時間ほど残しているが、今年は残さない。休める権利は使い果たしてしまおうという魂胆。授業には一切影響を与えない基本は守りながら。

 最近、午後のある時間、ガクンとくることがある。いや、ないことのない日のほうが少ない。体力の低下。80歳でエベレスト登頂を達成した三浦雄一郎氏の輝きが増してくる。

 最近、学校現場では印刷に紙の両面を使う。パソコンからプリンターに直でやると両面は可能なのでそうする場合もあるが(一番少ない授業は5人)、多いと印刷機を使う。両面印刷したはいいが、両面とも同じ、ということが多くなった。「復習する時のためにあえてこうした」と生徒には言うけれど、次は、と思いながら、またやっちまう。
 ハムレットは「これはぼくの狂気のせいだ」というが、そう、ぼくのミスは、老いのせいだ。だって、試験終了日の午前中に採点を終了してしまうほどの情熱あふれる取り組みをしてるんだぜい。

 

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蓬莱竜太『木の上の軍隊』を読む

 ひさしが書こうとしていた脚本を『まほろば』でひさしから絶賛(?)された蓬莱竜太が書いた。どの程度の資料が蓬莱に渡されたのかはわからない。しかし、当たり前だが、ひっしだったらこうは書かなかっただろうという感触が読んでいて絶えず湧き上がった。

 8月15日を挟んで、2年間木の上で暮らした二人の兵士の物語。その二人を木にしばり続けるものがどうも弱い。一つには、「語る女」がどうも邪魔でいけない。語る言葉が違うようにも思う。また、具体的なものが希薄。たとえば、彼らは「敵軍」が捨てた食べ物や、タバコ、酒で命をつないでいくが、缶詰とかのラベルの話が出てきてもよさそうに思うのだが、皆無。
 もっとも、若い蓬莱にそれを求めるのは無理なのかもしれない。蘇軾や飢えの経験がないから、その辺に頓着がなかったのが、あえてそぎ落としたのかもしれない。でも、食うことへの執着が薄い。

 ぼくは、芝居は特殊化と一般化だと考えているが、木の上の兵士の特殊な物語は一般化できなかったような気がする。蓬莱がもう一度手を入れることを期待する。

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『ことばの魔術師 井上ひさし』を読む

 雨が降っていなくて、子どもの送迎の必要がない朝、はて今日はどの辺を走ろうかと考える。ただ、来年の今頃のことを考えると、今日はその練習でもするか、と、ちょっと家事をやってみた。フムフム。そのうち、この夏に完成させる脚本のことを考え、休みの午前は机に向かう生活パターンにしたほうがいいと判断。とにかく、ということで、菅野昭正編の本を読んだ。

 ひさしは昔オーストラリアの大学に客員教授を半年ほど勤めたことがある。その時のエピソードをロジャー・パルバース紹介している。ひさしがアデレード芸術祭で「日本人は笑う」というテーマで講演をした。質疑応答の時、日本人が手を挙げ「何故直木賞の人が講演するのだ。私はそれより上の芥川賞を受賞している」と言ったらしい。パルバースは名前を伏せているけれど、そういう見方は確かにある。芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学、みたいな線引きをしている向きもあるようなのだ。ひさしは、芥川賞は作品に与えられ、直木賞は作家に与えられると以前書いていた。そんなことは、読者からすればどーでもいい。面白ければ、芥川だろうが直木だろうが、関係ない。ぼくにとっては、村上春樹よりはひさしの方がはるかに面白いのだ。

 退職まであと309日。あっという間に過ぎて欲しい。

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『ハックルベリィ・フィンの冒険』を読む

 授業の予習をしている時、fat があり、そういえばガートルードがハムレットのことを「あの子は fat だから」という台詞があり、ハムレットが太っているのはおかしい、と、「ハムレットは痩せているほうがいい」とする研究者。彼か彼らははやっと「汗っかき」の意味を見出し欣喜雀躍した、とか。そいうのを思い出し、ネットで「文芸論争」で検索したら、東北大学大学院生の『ハックルベリィ・フィンの冒険』に関する論文があったので、読んでみた。内容は、マーク・トウエインの傑作としてアメリカ人の必読図書のトップだった作品が図書館から追放されたことへの考察だった。
 『ハックルベリィ・フィンの冒険』は、今は亡き篠田一士が『世界の10大小説』(だったか・・・)に数えた傑作。それがアメリカの図書館で追放された理由は、「黒人」の扱い方にあったようだ。ぼくは、論文を閉じ、学校の図書室に向かい、確か今年度初めてだナとか思いながら、探して読んだ。

 黒人が奴隷として売買されていた時代が舞台。だから当時のアメリカを知ることができる(知ったところで、そこでオシマイなんだけど)し、時間の流れが遅い。ただ、遅いのは「それから一か月」とか書いているから、もうそんなに経ったのかと思うだけで、物語は効果的なスピードで進められる。そして面白い。そして、ハックのその時々の考えと判断はほぼ正しい。現代にも十分通じる。
 ぼくが読んだのは小島信夫の訳。奥付に訳者の紹介もなかったけれど、たぶん小説家。それで、読みやすかったのだろう。
 ハックの精神はアメリカに流れているように思う。というより、今世界はその方向に向かっている。マーク・トウェインの偉大さは、それを感じ取っていたことだろう。図書館が追放するのには、納得がいかない。

 篠田の本を買いながら『ハック』は読んでいない。明日、陋屋からそれを探しだし、読み、それから、きっかけの論文の後半を読まなければ。うん。

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belair さんへ

 丁寧な書き込みありがとうございます。ぼくも数冊ほど本を読み、独りよがりにならないよう努めてみました。あなたがおっしゃるように、キリスト教が広がるのをNOとした江戸幕府が檀家制度を利用したこと、だから戒名を取り入れざるを得なかったことや墓石のこと等、なるほどと思うことはあります。

 でも、檀家の者としては、盆とか彼岸とかにヒョイと来て、お経をあげて、帰っていく。つながりを感じないのです。だから、戒名がありがたいものではない。仏事以外の地域の行事に参加し、檀家の人と話し、「知ってくれている」からこそ、戒名そうきたか、と、味わえるのではないかと思います。時代劇の中に、僧侶に相談に行く場面はよくありますが、昔はそういう役目も果たしていたのでしょう。人とともに生きるのが宗教だと思いますが、人はどんどん変わっていくのに、寺は変わっていないのではないか。仏事の時だけしか機能しない。ますます葬式仏教になっていく。これから逃れるためには、檀家に近づき、知り、死ってもらう関係作りが必要だと思います。

 テレビで見る僧侶の中に何度も頷くことがあります。立派な僧侶は多い。また、僧侶にも生活があるから、幼稚園や駐車場を経営するのもわかります。でも、今のままではつながりが希薄になっていくだけです。

 その付近は今書いている芝居でも触れます。友人が演出してくれるので、上演が決まったらここでお知らせします。もし、可能であれば、客席に。

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「温泉県」却下

 誰が考えたのか知らないが、香川の「うどん県」の後追いに加えて、ナルホドと思わせるオリジナリティの完璧な欠如。それはいいと思っていた人がどれくらいいたのかは知らないが困った人達だ。

 香川の「うどん県」は、いいとは思わないけれど、納得できる。うどんは人間がつくったものだし、香川の消費量は他を圧倒するらしいからだ。しかし、温泉は日本の至るところにあり、『いい湯だな』の歌に来たから南まで温泉地が出てくるではないか。他県にとられる前にという焦りがあったのかもしれない。ともかく、「○○県」はうどんでおしまい。他の県が真似するようなものを、その線で考えるべきではないか。

 ある高校で卒業記念品の要望を抑えて、校長が屋上に高名をデ~ンと置いた。バカだな、と、思った。そんなことしなくても、あそこが○○高校よ、と、言われることのほうがいかに素晴らしいことか。

 大分は大分だよ。それでいいじゃないか。その方がカッコいいと思う。上手に乗れないなら、流されているだけだ。

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気がつかなかった書き込み

つまらない先生の講義聞いて、学校は全部つまらないから、行く価値ないからって言ってるのと一緒。

逆に自分が納得いくお経をきいたら、すべてを捧げてその僧侶に尽くせるの? 
自分が出来ないで偉そうに発言する事は最近の流行でしょうが(政治に関してもそうですが)、自分何様?という気がします。

自分の個を捨ててやってる僧侶はいくらでもいますから。青春もなく修行して、でも自分の寺では食べて行けなくてバイトをしながら布教をしてる僧侶もいますから。

結局は時代の流れに即して、今までの時代の流れに反発したいだけじゃないですか?

現在の自分の自己の持ってる基準ですべてを判断する自己中の考えだと思いますよ。

経験のない子供が、好きなようにできないから法律なんていらない、といってるのと一緒です。

軽はずみなことは言わないで、よくよく考えて発言してください。

 「寺は滅びる」にこういう書き込みがあったこと、今日、気が付きました。申し訳ありません。こういう反論は大歓迎です。
 ぼくは別に軽はずみなことを言っているではありません。祖母と父の死を通して実感したことです。ぼくが否定しているのは「寺の商売」です。ぼくは、二人の葬儀を通して、「商売」以外何も感じなかった。祖母が逝去した時、父とお寺に行った時、その旨伝えたら、「こういう風になっています」と料金表を差し出した。「それは寂しいことで・・・」という言葉もなかった。おかしい。ぼくはそう思った。それからは、その連続でした。

自分の個を捨ててやってる僧侶はいくらでもいますから。青春もなく修行して、でも自分の寺では食べて行けなくてバイトをしながら布教をしてる僧侶もいますから。

 ぼくはそういう人が、檀家に寄り添う人になって欲しい。今、それが皆無だから、「寺は要らない」と言っているのです。時流とか関係ない。ぼくはぼくの経験、そこからの不信感で言っている。そういうことを受け止めることができないのは、所詮、ぼくの相手ではない。ぼくは寺と歩み寄る姿勢はあります。テレビで観る僧侶には感動することもあります。それは宗教ではなく、人に感動しているんです。

 ぼくの考えをきちんと受信してください。でも、それは、ぼくの発信方法がまずいのだナ。悪い。ただ、あなたと同じように、ぼくも、過激なのです。ん。

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対大商戦を観る

 臼杵市民球場に、野球を観に行った。朝、犬と散歩する時、パラパラと雨。それは止んで、また、と、とにかく行くしかない。今の豊南高校野球部は大きい生徒はいない。みんな小柄に見えるし、スーパースターいない。でも、だからこそかもしれないが、等身大のプレーをする、いい雰囲気のチームのように映る。3月の大会は敗退するまでの3試合を観たけれど、敗退する前の試合を観ていたかなり年配の方々が「藤本(監督)がここまでよう育てたのう」と話していた。それは選手への賞賛でもあり、嬉しかった。

 さて、今日の相手は古豪。甲子園にも数回出場した(と、思う)大分商業。8回までラクラクの2点差でリード。9回裏に同点。延長12回でサヨナラ負け。

 高校生は時に化ける。今まで何回もそういうことを経験した。野球でも、演劇でも、何でも、化ける現象は多い。豊南高校野球部には化ける要素はある。甲子園大会県大会に活かしてほしい。

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ちょっといい話

 学校には外部から苦情の電話がかかることが多い。その数は学校によって違うと思う。以前、といってもかなり昔になるが、ぼくが勤務していた学校の職員朝礼で教頭が「昨日電話があり、さっきうちの店でお宅の生徒がタバコを買っていった。一体どういう教育をしてるんだという内容です。今朝ホームルームで注意してください」ということを言った。ちょっと待てよ、と、と、今より10才以上若かったぼくはキムタク風に言葉を挟み、「タバコ屋がタバコを買ってくれたんだから毎度ありがとうございますならわかる。それが、売っておきながら何てことだ。撃ったお前が悪いって何故言わなかったんですか」と続けた。そういうのはあまりない。中にはありがたい情報もある。

 さて、ある学校に外部から電話があった。あまりよろしくない情報。それで、全校生徒にこれこれの電話があった。そういうことはしないように、と、注意した。ところが、生徒会長が立ち上がった。「先生は、自分の子どもがそうだと言われたら、そんなことはないと否定しませんか。何故、その電話に、うちの生徒に限ってそういうことはありませんと言わなかったんですか。ぼく達を信用していないということではないですか」。立派である。ぼくよりはるかに理路整然としている。ところが、そう言われた教師が対応を間違ったんでしょう(たとえば、「うるさい!」みたいな・・・)。それで、生徒会長がキレて、その教師に掴みかかっていった。それを止めたのが、謹慎に何回もなった生徒というのだ。「やめろ、それ以上やってはいかん」と。

 どこの学校のいつのことかは知らない。でも、いい話だと思う。

 最近は県教委も管理職も、自分のことを優先しているように思えてならない。「私はこうやっています」というアリバイつくりのアピール。だから、問題が解決するどころか、・・・。そういうゲスな人材を排除し、能力と情熱と空気を読める人材を配置すべきだろう。そうすりゃ、学校はよくなう。間違いない。(間違いない、とか言っていた芸人はどこに行ったのだろう?)

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『海峡』を観る

 青函トンネルをつくる物語。

 前回書いた『たんぽぽ』で、俳優伊丹十三が出演した『本郷菊坂赤門通り』。そのロケで函館に行った時、ぼくは一人で青函連絡船で函館と青森を往復した。12月だった。函館から青森に着いたら、青森駅のすぐ近くで、もっこりと雪が積もっている。石川さゆりの歌の一節「青森駅は雪の中」が実感できた。すぐに函館行きに乗った。船内の「海峡ラーメン」は食べておくべきだったと、数多い後悔の一つ。

 あの海の下にトンネルを掘る映画。吉永小百合がきれいだった。今もきれいだが、もshかしたら一番きれいな時期だったのではないか。ただ、小百合の美しさだけが際立たないのがいい映画の証拠。工事のチーフが高倉健。口数は多くないが、意志の強さを現すことができる世界でも稀有な俳優。

 名画ではないだろうが、いい映画。こういう映画をつくろうとする志はいいと思う。名前のない多くのヒーローをもっと知りたい

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『たんぽぽ』を観る

 伊丹十三作品でぼくが一番好きな作品。これほど食い物にこだわった作品が、映画だけでなく、小説や芝居にもあるだろうか。伊丹のこだわりが徹底していて、文明批評だけでなく、人間批評にもなっている。今は亡き俳優の風貌と演技、今やトップの俳優の若い頃の姿が、何とも嬉しい。伊丹の相棒の宮本信子は凛として魅力的。アメリカの西部劇映画を上手に使っているのも、伊丹の知性か。最後に、公園で母乳を与える母子の姿が延々と流れる。これも面白い。その二人の名前がクレジットにちゃんと出てるのも、伊丹の偉いところ。

 『本郷菊坂赤門通り』というドラマはぼくの最後の仕事だった(助手だったので、それらしい仕事はしていないけれど)。古谷一行演じる新聞記者の上司、編集長役で伊丹が出演していた。編集長のデスクには本が積み重ねられていた。本番前にそれを眺めたら、極めてクセのある本で、「この本誰が?」とADに訊いたら、「それ伊丹さんの本です、全部」という返事。ふう~ん。それからしばらくして、伊丹は監督で才能を発揮しはじめた。何かを成し遂げる第一条件はこだわりの度合いだろう。もと生きて、もっと映画をつくって欲しかった。

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演出、決まる

 まだメモ段階の脚本。演出したいと申し出た方が出現。適格ではないが、生まれてもいない子を養子にだすような、とでもいえばいいか。どういう育て方をされるのかはわからない。ただ、養父が、これはきちんと育てなければと思うようなものを生まなければと思う。

 5年くらい前から月初めに、学校のパソコンに先月使った時間の一日ごととその合計が表示される。先月はこの5年でダントツトップ。実は脚本を書いている、のではなく、この一年の必要な教材の7割を準備してしまおうという考えなのだ。加えて、個人指導の申し出にOKして、それが加わったのも大きい。以前は学校で一箱吸っていたタバコが今はほぼ一週間もつようになったのも、パソコンに向かう時間が多い結果。

 『夜伽の部屋』この夏に脱稿予定。

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あと327日~半袖で行く~

 朝、テレビで天気予報は欠かさない。雨天の場合は子どもの送り迎えを考えなければならないからだ。子どもに甘いと思われるかもしれない。ぼくは、雨の中を自転車で移動したことは何百回とある。運転しづらい経験は多い。それが事故につながるかもしれない、と、思えば、送り迎えをするのは事故防止ではないか。

 ついでにもう一つ。その日の予想気温で、着ていくものを考えるのだ。ところが、昼間20度の場合、暑いのか寒いのかがわからない。そこで、今日は半袖で行った。午前中日蔭は寒かった。少々だが。でも、職員室も、教室も、日陰。嗚呼。

 昼休みに某キー局のカメラが入る。たこ焼きパンがどうたらこうたらのことらしい。それをたくさんの生徒が買うところを取材とか。バカな企画。くだらない。そのパンの人気は、つまり、弁当を持ってこない生徒が多いことを示すことになるのではないか。OKした管理職もおかしい。マスコミに乗ればいいという浅はかな考えが多いのだ。それはオオモト、つまり県教委にもある。大向こう受けばかり考えるから、教育の腰がすわらない。いずれ、そんなバカの例は紹介したい。多いぞ。

 静かに余生を送りたい。騒がせるな。

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ちょっとした動きの妙と納得の一言

 長嶋さんが国民栄誉賞を受け、始球式で松井さんの一級を空振りした。その前も、その後もも長嶋さんの動きには熱烈なファンとしては切なさを覚えた。ところが、何回も見ていると、空振りした直後、長嶋さんはグリップの部分から軽やかに手を放すと、ボールをひっぱたく部分(何て呼ぶのか知らない)をヒョイと握ったのだ。何万回も繰り返したので、おそらく彼の体が反応したのではないか。嬉しかった。あの軽やかな動きに、ヒーロー長嶋がいた。

 村上春樹が京大で公開インタビューを行った。いずれ、それも一冊に収められるのではないかと思うが、村上の好きな作家が漱石と吉行、そうでない作家が川端康成だとか。
 漱石と吉行はぼくも好きで、それはどこかで以前読んだような記憶もある。ただ、今回村上が川端に?を提示したのには膝を打った。ぼくはどうも川端がノーベル文学賞を価する作家とは思えないからだ。彼の作品を否定するのではない。『古都』は好きな小説で、京都言葉の美しさを堪能した。ただ、・・・。

 些細な二題でした。

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八千代座に行く

 柳川に鰻を食べに行ったところ、御花の駐車場が予約でいっぱいで止められなくて、じゃあ、と、山鹿に向かった。八千代座を一度見ておこうと思ったのだ。

 明治の終わりごろに造られたようなのだが、今も現役。客席は少し傾斜していて、後ろの観客が見やすい配慮がなされている。ステージに立つと、いい感じで客席が見渡せる。舞台はそれほど大きくないが、その割には奥行きがあるのは、回り舞台の関係だろう。舞台下に行き、舞台を回らせる部分を見る。地元の小中高の生徒が発表会や合唱とかに浸かっているそうで、人間を呼吸しているためだろう、八千代座には生命力に満ちていた。

 使用料が高くて、稼働率が低いと、劇場を殺しているようなものではないか。、

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