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演劇右往左往~1977年 『恋愛狂騒曲』~

 「ひよっこ意識ではやれない」とぼくは話し合いの場を離れた。誰かが追っかけてきて、「あんたが抜けたら意味ないじゃないの」とか言われた。その頃には焼けた下宿が鉄筋コンクリートで再出発していて、ぼくは当然、そこに帰った。帰れと言われたのがそこだったのか、帰路だったのか、誰が来たのかとんと覚えていない。で、「Theater Jack」での公演となった。

 結構人数が多い芝居なので、何かの事情で稽古に来れない者もいる。それは仕方ない。ところが何日も来ない者がいた。確か彼は居酒屋でアルバイトをしていたと思う。彼は復帰したものの、以来ぼくは学生の酒がある店でのバイトはダメだと言い続けている。

 公演が成功だったかどうかわからない。客席に本多がいたのかも知らない。ただ、あの試みは結構面白かったと思う。それはもしかすると、Оさんに退部勧告したくせにと言われるかもしれない。どうなんだろう。他の部員から反対があった記憶はないのだが。

 それで終わりのつもりだったが、後輩が『藪原検校』を上演したい、ついては演出を、と、言われ、熊本大学演劇部の秋の公演に関わることになった。

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演劇右往左往~1977年 名前をめぐる紛争~

 教育学部に本多という女子学生がいた。彼女は市民舞台に所属していた。漢書の舞台を観た経験があるかどうか、覚えていない。これもいつだったか覚えていないが、稽古場に行き、代表からアドバイスを求められた記憶がある。そこでアドバイスしてしまう人間の愚かさよ。この愚かさは以前も以後も日常茶飯なのだ。
 ぼくは、大学構内で彼女に「一緒に舞台をつくろう。そのために劇団をつくる」と伝え、その時は了承したのだ、彼女は。
 ぼくは熊本の各大学の合同公演を考えていたので、それに彼女をどうしても加えたかった。商科大学から安田、中村、工大からは徳永が加わった。本多が参加を辞退にしたのは半分の意味が失われた気がしたが、もう動き出していた。

 演目はシェイクスピアの『十二夜』。歌を入れ、ミュージカル風(?)に書き変え、また、当時のロック研に生演奏をお願いした。「序曲」も作ってもらったろころが、『道元の冒険』と違うところ。ロックミュージカルを考えていたのだが、井野が音楽に加わった。ところが、彼はフォークなのだ。だから、目論見は外れたけれど、井野はいい曲を書いた。

 さて、寄せ集め、ごった煮の集団。名前を決めようとなり、ぼくは「シアター・ジャック」を考えていた。同級生の辺木園が「フラッパー」。辺木園は「ぼく達はまだ羽がはえたばかりの飛べない鳥だ」と言ったが、ぼくは「そんなヒヨッコ意識では舞台に立てない」と言った。当時シージャック事件があり、「シアター・ジャック」は物騒だという意見があり、多数決で「フラッパー」に決まった。ぼくは、ならば、と、参加を辞退し、会議の場を去った。

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演劇右往左往~1976年~

 某大手商社に入社したYがどこからか、ストーブとやかんを調達してきた。彼は同じクラスで、なんやかんやでウマが合い、よく飲んでいた。『夏の夜の夢』くらいから参加し、『道元の冒険』では台詞を数ページ飛ばしたことがある。
 彼のアパートの隣の空き地に車があり、ずっと動かないままなので、持ち主を調べ、連絡すると「あげます」と言われ、もらった車を運転していた。ソツがないのだ。

 前回の執行は部長になったと思う。夏の公演の『スパイ物語』ではいい曲をつけた。

 多分、『スパイ』の前だと思うが、戸田の彼氏の川端が商科大学に入学した。で、誰かの部屋で話し合いをしている時、廊下の端っこにいる川端を発見。「うちの演劇部に入ればいいじゃん」(そんな言葉じゃないが、とにかくぼくにとっては中川の例もあったし、境はなかった。芝居する、しない? それだけ。川端は『スパイ』に出てたと思う。彼の野太い歌声を覚えているから。

 ぼくは就職のことをあれこれ考えていたし、卒論もあった。

 卒論は『ハムレット』。何故あんなに長いのかというところで書いたように思う。

 卒論は結構気合が入っていた。だから、締め切り前に仕上げ、書けていない連中の支援をした。全く進んでいないのもいれば、徹夜続きでコンタクトで目が痛くてどうしようもないのもいた。卒論が終わった連中に召集かけて、あれこれ指示して、どうにか提出までこぎつけることができた。

 ぼくは大分の会社への就職が決まっていた。年が明けて、和田先生の家に年始に行った。先生は「お前は人にありがとうございますとかできん、院生も同じ作品を扱っていたが、お前の論文の方が面白い。院に行け」と言われ、先生の家を出たすぐの公衆電話から会社に断り言葉。その後、家に電話して進学することを伝えた。親の出費を全く考えていなかった)行為。でも、許してくれた寛大さに感謝する。

 そしてぼくは試験を受け、修士課程に入ることになった。ただ、もっと芝居をしたいあという思いの方が強かったのかもしれない。

 

 

 

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まだ生きていたのか!

 俳優飯田を見たというメールが届いた。初任校の同僚から。

 飲酒運転撲滅のビデオに出たのが6年くらい前か。それを学校の研修で見たとのこと。

 それがつくられて、時々電話やメールで「見ましたよ」と冷やかされていたが、まだ使ってるのか。いい加減やめてくれないかな。

 電話すると、人間ドックでナンチャラ、それでカンチャラの話。久しぶりって、結構、面白い。

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演劇右往左往~1975年 後篇~

 薬学部に群馬から綿貫というちょっと変わった女の子が入学し、演劇部に入ってきた。マンガが得意で、秋の公演では大活躍だった。
 演目は井上ひさしの『道元の冒険』。道元の時代と現代が交錯する芝居。道元の時代は当然僧侶が多いから坊主頭でなくてはならない。『藪原検校』の時はみんな頭を丸めたが、そうすると現代のシーンで困る。そこで綿貫が坊主のかつらを作ると言い出した。部室の前に椅子を出し、それに座る。新聞紙で頭の形をなぞりながら、糊で貼ってい、端を切り取り、そして肌色の絵の具をを塗り、完成という方法。綿貫は公演パンフレットでも見事なイラストを描いた。

 『道元の冒険』には歌がある。ぼくはロックバンドを使いたかった。その頃、フェア・バンド。シャフトはIさんがらKさんに代替わりしていた。Kさんは英文科の先輩。快諾してくれた記憶がある。曲はKさんがつけた。フェア・バンド・シャフトをステージにのせ、生演奏でやることにした。会場は郵便貯金会館。白川のほとりにあり、好きなホールだった。

 公演が終わり、部長を譲ることにした。ところが、候補の執行(しぎょう)が、フェア・バンド・シャフトのドラムスに引っ張られていた。ぼくはKさんのアパートに行き、抗議した。ところが話しているうちに、今度はぼくがヴォーカルに誘われた。冗談だろう。歌えねえ。何度断っても、KさんはLPレコードを5枚押しつけ、「聴いてくれ。それで判断してくれ」と言った。一応受け取って帰ったものの、部屋にオーディオ機器はラジカセしかなかった。数日して、聴かないままLPを返し、無謀な申し出は丁寧に断った。ただ、あそこで、自分の音痴を考えず、部長もやめることだし、ちょっと覗いてみるかの軽い気持ちでやっていたらどうだったろう、と、思うことがある。後悔後に立つ。

 

 

 

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演劇右往左往~1975年 和田先生~

 和田先生のことをまとめて書いておきたい。『夏の夜の夢』のチケット押し売り以来、ぼくは彼が好きになった。女子(この言い方は何故かテレる)の多い英文科で、女子は和田先生をあまり好きではなかったようだ。和田先生も女子が好きではなかったと思う。何故なら、女子はシェイクスピアにはいかない。生き方に文学もない。その辺があったのかもしれない。
 それから時々先生の家に行った。一人では行き辛いので、同級を誘い、先輩のMさんを誘った。Mさんは修士を出たが、論文が書けないとかナントカで、ぼくは彼より先に修了した。Mさんはいつも快く受けてくれた。和田先生がMさんに説教している間にぼくらは酒の燗をしていた。

 もう絶版かもしれないけれど、筑摩書房の「シェイクスピア全集」に和田先生の訳が2作品入っている。スペンサーの『妖精の女王』は共訳だけれど、分厚い分、高かった。

 『妖精の女王』は12行(だったか?)の詩篇が延々と続く。その講義を受けていたが、「受けた」ものを全く思い出せない。後期試験一発の試験の時に、ぼくはヤマをかけた。作品の性質と和田先生の性格から考えて、この10篇、と絞った。英文の上級生のところに同級生の5人のうち3人が集まり、パチンコに行って打ち上げ、その金で食料と酒を買い、先輩の部屋で試験勉強する。ヤマは的中。
 4年でも継続の講義を受けた。今度は5篇に絞ると広言した。で、全滅。ぼくは呼びだされ、「お前、卒業できんぞ」と言われた。「大学院に行って、勉強します」と応えた。正月明けに先生に挨拶に行った折、「お前の卒論を読んだ。院生のより面白かった。大学院に行かんか」と言われた。先生の家を出て、近くの公衆電話で就職先に電話して断った。
 

 20年ほど前に先生は亡くなった。連絡を受けて、葬儀会場に駆け付けた。早く着いた。ぼくは後方の席に座り、遺影をずっと見ていた。今まで沢山の元気をもらった恩師。先生と呼べるただ一人の人だった。職員室のぼくの席には先生の本がある。先生、どうですか、と問うと、「下らねえな」という声が聞こえてくる。

 和田先生が亡くなって、墓前にいつか作品を手向けたいと思っている。次の脚本がそうなると思う。

 

 

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演劇右往左往~1975年 前篇~

 どうもこの辺(どの辺?)の記憶が曖昧なのだが、Оさんが、東京の20人会とかいう劇団に所属していた(いる)Nさんと仲良くなり、二人で芝居をしようということになり、後輩の池田(後輩は名前にする。そうしないとアルファベットだらけになって、ぼく自身訳がわかんなくなってしまう)とかを引き抜き始めた。それで、部長のぼくは大先輩に退部勧告をした。
 Оさんは『黒髪小劇場』というユニットを立ち上げ、子飼商店街近くの寺で芝居を上演した。どんな芝居だったか覚えていないが、美しい女優がいて、彼女が着物をはだけて胸を見せたのは強烈だった。曖昧なので、どの頃かを無視して書けば、Оさんは彼女に惚れたみたいで、ロック研のIさんも同様で、ОさんはIさんの部屋に木刀か何かを持って「殴り込み」。Оさんは捕まって、拘置された。看守に「字が多い本が欲しい」とリクエストすると、英和辞典を貸してくれたという話を聞いた。

 そして、上がいなくなって、さて、どうしようかと考えて、市内のホールでの公演をして解散しようくらいの気持ちになり、どういう経緯を経てかはおぼえていないが、『夏の夜の夢』を上演することになった。ところが、キャストの数に及ばない部員数。ぼく達は講義で座る位置を変え、とにかくキャスト集めを始めた。
 熊本女子大の中川が入ったのはこの頃だと思う。Оさんが彼女といた時、中川が「腹減った~」とか言い、それがいいと言ったのを覚えている。どうも、Оさんとのあれこれは、『夏の夜の夢』を挟んでのことかもしれない。でも、Оさんが、シェイクスピアに賛成しただろうか・・・。
 キャストを集める一方で、ぼくは自転車を漕ぎ、英文科の先輩を訪ねて、翻訳を持っていないか訊ね回った。しかし、主任教授がシェイクスピアが専門なのに、持っている人は少なかった。とにかく、ぼくが脚本に手を入れた。ミュージカル映画がぼくを決定づけた影響か、歌を入れ、舞台にエレクトーンとドラムスで演奏という形をとった。

 どうにかメドが立ち、チケットの印刷が終わり、ぼくはそのチケットを主任教授にある夜売りに行った。和田先生は、奥さんを亡くされ、敷地の隣に娘さん夫婦が住んでいた。チャイムを鳴らすと、和田先生が出て、「何だ」というぶっきらぼうに「芝居のチケットを買っていただけないか・・・」「上がれ」。
 それから2時間説教と講義。説教は「シェイクスピアの専門のオレに何故相談せんのだ」という内容。ぼくは正座して和田先生の言葉を受けた。結局チケットを買ってくれなかったが、「よく来た。頑張れ」という言葉で送り出してくれた。

 公演直前に東京演劇アンサンブルの『夏の夜の夢』(『真夏の夜の夢』、だったかもしれない)が熊本市民会館に来た。タイミングが悪い。でも、みんなで観に行って、ぼくらの方が面白いと、ナント、思ったのだった。

 その年の4月に、長崎出身の戸田が入部した。『夏の夜の夢』のボトム達の市民世界を同学年のHが鹿児島出身だったので、鹿児島弁でやることにした。後で聞いたことだが、戸田は毎朝竜田山に登り(登るというほどの高さではないが)、鹿児島弁の台詞を練習したということだった。

 中心になって、なおかつ学生会館から離れての公演は無謀だったかもしれない。でも、だからこその充実があった。部員も増えた。

 その頃だろうか、ぼくはペンネームを考えた。望月羚。

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『コーチ・カーター』観る

 演劇の自分史みたいなものを書きながら、芋ほり式に出てくる部分もあれば、とんと思い出せないものもある。このページを訪ねてくれる人にはどーでもいいことだろうけれど、幾つかの点を線にすることができないと、気になって仕方ない。多分、記憶間違いもあるだろうし、それはもしかしたら、まずないだろうけれど、昔の芝居仲間が読んだら、憤慨するかもしれないようなこともあるかもしれない。

 『コーチ・カーター』は青春映画で括れる作品。舞台はバスケット。卒業できない生徒がかなり多い高校に新しいコーチがくる。その高校でかつて全米代表選手になったOB。彼は部員にバスケット競技だけでなく、学業や礼儀まで求める。ほぼ読める展開。でもだからいいのではないかと思う。

 ぼくは、その映画を観ながら、指導者がいなかったナと思った。同時に、ぼくは指導者になって、何もしてなかったんではないかと思う。ワイワイの中でその場凌ぎのテキトー。
 では、それが改められたかというと、どうもそうではない。たぶん、カーターのような演劇部顧問は多いのではないか。ウ~ン。

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演劇右往左往~1974年 後篇~

 下宿が焼けて、身の回りのものを持って、沈む夕日を見ながら、はて今日は誰のところに泊めてもらおうかと考える。家があるのは幸せなんだと痛感した。しばらくして、大学の裏手のアパートに住むことになった。

 Оさんのところに石井喧一さんがいた。別役実の『椅子と伝説』の公演で舞台スタッフとして加わっていたとかで、どういう経緯でОさんのところに泊まるようになったのかはわからないが10日前後はいたんではないか。ぼく達は数人で彼を囲み毎夜毎夜誰かの部屋に集まって、脚本を書いた。酒を飲みながら、石井さんは色々と話してくれた。今は覚えていないが、とても面白く、ぼくの芝居つくりに溶け込んでいると思う。石井さんは、今でもテレビで見かける。ギョロ目で、ちょっとそそっかしくて間抜けな演技が上手い。
 題材は小野田寛郎さん。戦争が終わったことを知らずにジャングルで生き続け、発見された人。次はこういうシーンにしよう、とか話し合い、それぞれが書いて、発表し、いいものを取って、構成していくという手法だった。これまた詳しいことは覚えていない。それを『いつか見た夕陽』というタイトルで上演した。
 一ツ橋大学演劇部に熊本出身者がいて、その関係で、2本立て上演した記憶があるが、その熊本出身者が女形で演じた以外覚えていない。情けない。
 ぼく達だけの単独公演の時、ぼくが独白しているシーンで、下駄を鳴らして一人の男が入ってきた。ぼくは舞台上からその男を怒鳴りつけた。芝居が終わった時、Оさんが、「あいつは空手部の奴で、もしかしたら舞台に上がってくるかもしれないので、オレ達、モップやら箒を持って、待機してたんだ」と言った途端、もし上がってきてたらどうなったかを思って、震えた。

 ぼくは演劇部の部長になっていた。

 

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演劇右往左往~1974年 前篇~

 熊本大学法文学部文学科は、2年進級時に専攻を決める。ぼくは国文か哲学を考えていた。Оさんが専攻何にするんだと訊かれ、そう答えたら、「演劇部ならシェイクスピアだろう」と言われ、英文科にした。ところが、英文科は人気があるので、試験があった。ぼくが合格したのは、女子学生ばかりにウンザリしていた主任教授ができるだけ男子学生を取りたかったからだと思う。彼とのことは75年の時に触れることになる。

 演劇部夏の公演は井上ひさしに『藪原検校』に決まった。決まった直後Оさんが「じゃあ全員坊主にせんといかんな」と。それで、男子部員は全員坊主頭にした。
 その頃、付き合っていたというのはぼくの独りよがりかもしれないので、時々部屋に行って話をしたり、自転車でサイクリングしたり、映画に行っていた教育学部の女性がいた。彼女が腰まである長い髪を、水泳の授業では邪魔になるので切りなさいと言われ、切った髪を紙袋に入れ、ぼくの部屋を訪れた。彼女は泣いていた。坊主にしてすぐぼくは彼女を訪ねた。二階の彼女に声をかけ、顔を出した彼女に「オレも切った」と帽子を脱いだ。幼い行為だ。

 『藪原検校』は歌がある。熊本商科大学の細波(さいは)さんが作曲、本番では大橋さんと二人で演奏してくれた。テーマ曲はノリがよく、今でも時々歌う好きな曲だ。

 ぼくは魚売りの七兵衛兵と塙保己一を主に演じた。強催促(こわさいそく)と濡れ場をカットして3時間の上演だった。Оさんは「じれったいくらいゆっくりと台詞を喋るんだ」とぼくに言ったのを覚えている。

 当時のチケットが残っているが、199円。200円にすると税金がとられるとかの理由だと教えられたが、後にぼくは税務署に行って確かめたが、そうではないとのことだった。

 最終日は昼と夜の2回公演。夜の部で、座頭たちが飲みながら話すシーンで、ナント、本物の酒を飲んだのだった。塙保己一がサトイモを食べるシーンがある。サトイモがなかったということでカボチャが使われていた。昼の部で、藪原検校が何を食べているんですかと訊き、ぼくは台詞通りに「サトイモ」と応えた。すると客席から「カボチャだろう!」との声があった。それで、夜の部では「カボチャ」と言おうと決めた。ところが、そのシーンになったら「カボチャ」という言葉が出てこない。しばし、沈黙。やっとカボチャが出たが、あの沈黙は長く感じた。

 ぼくには『藪原』が成功か失敗かはわからなかった。『夢幻奏』よりは圧倒的に観客の数は多かったなァと思った。そして観客が多いのは気持ちが良いと思った。

 そして夏の合宿。天草。宿舎に法学科の友人から電話。「お前の下宿が燃えよる」。だからすぐに帰った。隣の家の火が下宿にうつったらしい。ぼくの部屋は一番端っこにあったから燃えてはいなかったが、放水で濡れていた。本がそれを吸って厚くなっていた。ぼくは机の引き出しから5千円札を取ると、友人のところに行って、酒を飲んだ。
 翌日、整理に行くと、映画関係の雑誌と本が全部なくなっていた。映画から演劇の方に傾いたのだった。

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演劇右往左往~1973年 後篇~

 ぼくは下宿していた。叔母の知り合いに紹介してもらった。水前寺公園の近くに住んでいたその人は、入学の祝いにシャープペンをくれた。かなり精巧な品で、ぼくはそれを10年以上使った。失くすか壊すかことが多いぼくにしては珍しい。
 その下宿は、畳3枚に畳一枚分の板間の部屋。朝夕の食事に、日曜日の朝食のオマケがついて月12000円。当時、ぼくの仕送りは2万円。タバコ一箱が120円の時代。コンパの会費が1500円くらいだった。
 ちなみに、授業料は年36000円。月3000円。Оさんは月1000円だった。今と違い車を持っている学生は一握り。テレビも電話もなく、とにかくみんな金がなかったから、金がないことが全く気にならなかった。机と部屋には本箱一つとテーブル(炬燵)、それと布団と電熱器しかなかった。電熱器は小さい鍋でインスタントラーメンを作るために使った。その頃、日清から「出前一丁」が発売された。

 学生会館はかなり傷んでいた。一階の食堂や今のコンビニみたいな店は戸締りができるようになっていたが、二階は、ピアノの置いてある部屋は出入り自由。(音が出ないそのピアノで、ぼくは人差し指一本でショパンの「ノクターン」の練習(と、呼べるか?)をしていた。そして、二階のホールも同様で、「日米安保反対」とかのアジがペンキで書かれ、壁の上側のガラスは割れたままのものがあった。「あそこで血が流れたんだ」とОさんは、一隅を指さして言ったことがある。
 そのホールで12月だったか、公演をした。Sさんが書いた『夢幻奏(むげんそう)』。

 どういう芝居だったか、よく覚えていない。上半身裸になり、暗幕で身を包み、コロスのようなことをした場面があったような気がする。そして、ぼくのヤクザまがいのシーンもあった。何が何だかわからない芝居だった(今思えば、その頃はアングラ全盛だった)。ぼくはただ与えられたことを素直に(?)しただけだった。寒風吹き抜ける学館ホールで数回(詳しい数も覚えていない)上演した。観客は舞台の人間より少なかった。

 それがぼくの大学デビューの舞台。

 その公演の前か後か、Sさんがぼくの部屋に来た。大学に入っての少ない写真をきちんとアルバムにおさめ、短いコメントを付け加えていたが、Sさんがそれをめくった時、ヤバイと思った。夏の合宿の写真の下に「やめることばかり考えていた」と書いていたのだった。
 Sさんは、ぼくの本箱を眺め、「こんなに読んでいるんなら、イーダ、ホン書けるよ」と言った。どういうことか全くわからなかった。本箱にどういう本があったのか、どれだけあったのか、全く覚えていない。Sさんが退部させないために言ったのかもしれない。でも、そういう形での励ましは初めてだったので、嬉しかった。

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演劇右往左往~1973年 中篇~)

 熊本大学演劇部は夏の合宿を天草で行った。確か、天草の北にある富岡だったと思うが、怪しい。魚の形をして、尾っぽのところに放射状に広がった針のついたイカ釣り針を2本買った記憶がある。一本は当時好きだった女性に送り、もう一本は部屋の本箱に置いていたが、翌年やはり合宿中に下宿の隣が燃え、それでうちの下宿も燃え、失った。

 天草は好きな場所で、以後よく訪れた。また触れることになると思う。

 合宿でたっぷりと稽古をしたかというと、あまり記憶がない。借りたのか、勝手に使ったのか、船を漕いで沖に出て、飛び込んで、岸まで泳いだ記憶がある。
 一つだけ。設定だけを与えられて、即興で台詞を喋る「エチュード」(と呼ばれていた)で、相手役は誰だったか忘れたけれど、何かを売りつけられ、それを絶対に買ってはいけないという設定だった。ぼくは、白紙状態なので、相手に喋らせたら、応じきれないから相手に喋らせない作戦に出た。ヤクザ口調でまくしたてただけだけど。それが諸先輩には好評で、冬の公演につながることになった。

 続きは後日。嗚呼、長い道のりだ・・・。

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演劇右往左往~1973年前篇~

 一郎して熊本大学法文学部文学科に入学。映画研究会に入った。文化部の部室は学生会館の食堂の横の空き地のプレハブが「コ」の字に建てられていた。舗装もされていないし、部室の裏手は草だらけの空き地だった。映画研究会の部室の並びの端に演劇部はあった。まッ、新入生は、興味を示して誘われないように、どんなサークルがあるかは最初に確かめていた。まッ、ぼくの関心は映画だけだったから、映画研究会に入った。しばらくして、演劇部に入部した。理由は二つあるが、今は、脚本の勉強のためという一つだけにとどめたい。

 映研は途中でやめた。別に演劇の方が面白かったという訳ではない。当時の映研はウダウダで、それは活動と呼べるものではなかった。

 演劇部の部室にはヘルメットと角材があった。いわゆる学生運動が、全盛時に比べたら「残り火」程度かもしれないが、まだ学内でも続いていた。学生会館(ガッカン、と呼んでいた)の入り口には独特の字で書かれた立て看板(タテカン)が並んでいたし、講義の教室にきれいとは言えない服装の学生が入ってきて大きな声で訴えていたのを覚えている。たいてい、彼らは複数で来て、教師が来ると、「時間をくれ」と交渉する係が必要だったのだ。ストライキやデモもあり、ぼくも参加したことがある。

 当時の部長は工学部のОさん。都城出身で、他の大学に行く弟、妹の三人で一軒家を借りていた。ただ、そういう場所がたまり場になるのはよくあることで、Оさんの家も例がではなかった。ぼくは彼からあっちこっちに連れていかれ、ぼくは誘われるままについていったのだが、彼の家での麻雀大会で、誰かがトイレにいく間に、パイを並べたりしていた。Оさんは卒業できなかったと思うのだが、よくわからない事情は別のところで触れることになる。

 法学科のSさんは宮崎出身。今考えれば、演劇には程遠いだった。彼は舞台に立ったのを見たこともないし、話しも聴いていない。忘れただけかもしれないけれど。宮崎県庁に入ったと記憶するけれど、誰かのことと混同している可能性もある。あまり思い出がないのは、同級生なのОさんより先に卒業したからかもしれない。

 同級生は他に三人いた。一人は女性。彼女は途中でフェードアウトした。

 その他にも部員ではないようだけれど、時々顔を出す人もいて、部員が何人だったかはよくわからない。

 入部して夏休みに入るまで、はて、どんな活動をしたのかとんと覚えていない。一つだけはっきり覚えていることがある。新歓コンパで話している芝居の言葉が何のことやらわからず、帰る勇気もなく、ぼくは寝たフリしていた。そしてぼくは、次の日、本屋で芝居の本を探した。何を読んでいいのかわからなくて、結局エイ!と選んだのはブレヒトの『今日の世界は演劇によってナンチャラカンチャラ』というのだった。精読しながら進めてもわからない。足し算レベルの男に数学はわかるはずがない。

 長くなった。自戒に譲る。 

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蜷川幸雄『演劇ほど面白いものはない』を読む

 NHKBSで放送されたものを編集したもののようだ。見逃してしまった!悔しい。

 幾つかの言葉を。

 「いくら志があっても、慣れると、集団は腐っていく。」
 「演出家とは何かというと、それは観客の千の目を代表している立場であり、僕自身そうい う自負はもちろんあります。」

 「自分が創る芝居や演出が、エリート臭くない、普通の庶民生活者、身近な自分の父や母のような目線でいたい。」

 明日からのブログで、どこかで蜷川は出てくるので、はい。

 

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泥棒の訳が上手いねえ

 中学時代、学年で演劇をした。タイトルも内容も忘れた。ぼくは泥棒の役だった。指導したのは英語の佐藤由美子先生だったと思う。本番が近付いていたある日の練習で、彼女が「飯田君、泥棒の役が上手いねえ」と言った。その言葉だけは覚えているが、その時どんな反応をして、どんなことを考えたのか全く覚えていない。その関係か、確か英語劇だったと思うが、ぼくはピエロの役を佐藤先生から与えられた。今だから思うけれど、佐藤先生はぼくの役者としての素質みたいなものを感じ取っていたのかもしれない。(すべての人に役者の素質はあるのだけれど。)

 大学の演劇部の夏の合宿で、「エチュード」をたくさんした。入ったばかりのぼくは何もわからず、相手に何も言わせないようにヤクザみたいな人間でまくしたてた。そして、秋の公演で先輩が書いた脚本にはそのシーンがあり、ぼくは同じ役を与えられた。

 ぼくのささやかな演劇経験のごくごくささやかな初期の経験。それからの経緯をちょっとたどってみようと思う。うん。

 

 

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図書館報のインタビューを受ける

 時々職場の机上に図書館の新聞が置かれている。豊南のそれは職員や生徒にインタビューした記事がメインになっている。それを申し込まれ、オレ、生徒に役に立つような本読んでないし、読書しましょうなんてこと言えないし、もっと他にふさわしい人がいるんじゃないの、と、言ったものの、オメエでいいんだ、と。フー。

 図書委員長と副委員長がきちんとやるんだ、これが。読めば2分くらいの紙面なのに、40分くらいかかった。拾うものがあるとも思えないが、フーム。

 ただ、ああいう形だからこそ出てきた言葉もある。授業で痛い目にあっているから、こー言えば、アー言われるみたいなことに熟知しているから、オズオズと言葉を発するんだけれど、時々「もっと聞きたいんですけど」「内容が濃いです」とかくすぐる訳だ。で、調子に乗って話して、後で、あいつらの術中にはまったことに気付いた。

 今年読んだ本のベストは、開高健の『夏の闇』。空前絶後の私小説だろう。

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『三匹のおっさん』を読む

 作者の浩をぼくは「ひろし」と読んでいた。「ひろ」だと言われても、ぼくは男だと思っていた。

 書店で、前から見て、手に取り、買おうかと思ったことはある。数日とかではなく、数週間ごとに、迷った。何故迷ったのかはわからない。

 学校の図書館の司書に、「ある?」と訊いたら「ある」。で、借りて、読んだ。
 結構抑えどころはしっかりしている。人物構成も面白い。これはテレビドラマ向き。「ガリレオ」より、ウケるかも。ただ、キャスティングが難しい。

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