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演劇右往左往~1973年前篇~

 一郎して熊本大学法文学部文学科に入学。映画研究会に入った。文化部の部室は学生会館の食堂の横の空き地のプレハブが「コ」の字に建てられていた。舗装もされていないし、部室の裏手は草だらけの空き地だった。映画研究会の部室の並びの端に演劇部はあった。まッ、新入生は、興味を示して誘われないように、どんなサークルがあるかは最初に確かめていた。まッ、ぼくの関心は映画だけだったから、映画研究会に入った。しばらくして、演劇部に入部した。理由は二つあるが、今は、脚本の勉強のためという一つだけにとどめたい。

 映研は途中でやめた。別に演劇の方が面白かったという訳ではない。当時の映研はウダウダで、それは活動と呼べるものではなかった。

 演劇部の部室にはヘルメットと角材があった。いわゆる学生運動が、全盛時に比べたら「残り火」程度かもしれないが、まだ学内でも続いていた。学生会館(ガッカン、と呼んでいた)の入り口には独特の字で書かれた立て看板(タテカン)が並んでいたし、講義の教室にきれいとは言えない服装の学生が入ってきて大きな声で訴えていたのを覚えている。たいてい、彼らは複数で来て、教師が来ると、「時間をくれ」と交渉する係が必要だったのだ。ストライキやデモもあり、ぼくも参加したことがある。

 当時の部長は工学部のОさん。都城出身で、他の大学に行く弟、妹の三人で一軒家を借りていた。ただ、そういう場所がたまり場になるのはよくあることで、Оさんの家も例がではなかった。ぼくは彼からあっちこっちに連れていかれ、ぼくは誘われるままについていったのだが、彼の家での麻雀大会で、誰かがトイレにいく間に、パイを並べたりしていた。Оさんは卒業できなかったと思うのだが、よくわからない事情は別のところで触れることになる。

 法学科のSさんは宮崎出身。今考えれば、演劇には程遠いだった。彼は舞台に立ったのを見たこともないし、話しも聴いていない。忘れただけかもしれないけれど。宮崎県庁に入ったと記憶するけれど、誰かのことと混同している可能性もある。あまり思い出がないのは、同級生なのОさんより先に卒業したからかもしれない。

 同級生は他に三人いた。一人は女性。彼女は途中でフェードアウトした。

 その他にも部員ではないようだけれど、時々顔を出す人もいて、部員が何人だったかはよくわからない。

 入部して夏休みに入るまで、はて、どんな活動をしたのかとんと覚えていない。一つだけはっきり覚えていることがある。新歓コンパで話している芝居の言葉が何のことやらわからず、帰る勇気もなく、ぼくは寝たフリしていた。そしてぼくは、次の日、本屋で芝居の本を探した。何を読んでいいのかわからなくて、結局エイ!と選んだのはブレヒトの『今日の世界は演劇によってナンチャラカンチャラ』というのだった。精読しながら進めてもわからない。足し算レベルの男に数学はわかるはずがない。

 長くなった。自戒に譲る。 

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