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『コッホ先生と僕らの革命』を観る

 オックスフォードに留学していたドイツ青年が祖国で英語を教えることになる。しかし、当時の学校は「軍国教育」ガンガンで、イギリスを敵視する風潮が強く、彼は戸惑う。そして、サッカーを取り入れた英語授業を開始する。
 生徒の否定的な態度を見た時にもしかしてと思う。そしてその通りに展開になる。つまりよくあるパターンなのだ。クラスのボス(この俳優が小栗旬に似ている)金持ちの実力者の息子で、やがてクラスメートが離れ、色々あって、最後には父親を振り切って友達のもとにもどるという、青春ドラマで何度も接してきたオキマリ。
 それを時々非難する人がいる。しかし、オキマリとかマンネリとかは、受け手が求めているのではないか、そう思えてならない。だから結構手強い。崩せるもんなら崩してみやがれくらいの強固なものがあるのではないか。
 コッホ先生と生徒たちも、その通りにきちんと進めてくれた。ドイツにサッカーが始まった、実話に基づいた話らしい。もうちょっと彼らを観たいと思わせながら終わる。

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28年振り、か?

 大分県教育委員会のHPによれば、本日現在で学年閉鎖が4校。学級閉鎖が34校。豊南高校は学年の部で3年、学級では2年生2クラス。

 ぼくは月曜から出勤できない状態になっている。実は、金曜日にどうもいつもとは違う体調を感じ、5限目の授業がない時に医者に行った。生徒にも職員にも休む傾向が目立っていたので、加えて前日早退した職員がストーブのそばでペチャクチャするのを隣でウゼエと聞いていたので、たぶんインフルエンザだと思ったので、医者嫌いなぼくが行ったのだ。全校生徒での一日かけての発表会もあるし、2年生の修学旅行目前なので気を使ったのだが、医者は「わかりません」。頭が重く、けだるいだけで熱がないから?土曜日の午後軽くなったので、思い込みだったのかと安心したら、日曜日からけだるさが重くなり、月曜日の朝一番に医者に行ったら、A型と判断された。

 昨日まではきつかった。体温が38度付近をウロチョロして、時々朦朧とした。地球の温度が0.4度上がってるとかだが、そんなの些細なことやんかと思っていたが、1度上がるだけでこれは大変なことになるのではないかと実感できた。
 昔、付き合っていた女生と医者に行き、二人ともインフルエンザ。その時は点滴装置を挟んだ診察台で一緒に点滴を受けた。その時の医者の言葉を今でも覚えている。「インフルエンザをナメたら死にますよ」。
 以来のインフルエンザ。ちょっと具合が悪いか、早退するか、と、職場を出た瞬間の解放感と歓びは体験した者でないとわからない。ただ、インフルエンザで休んでもダメだ。意識と無意識の間を行き来して、文字を読み気にならない。映画も、気がついたら終わっている。やはり、最高の休みはずる休みかもしれない。

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蟄居状態

 金曜日に体調に異変があり、周囲にインフルエンザが蔓延してるので、さすがに医者に行った。熱も平熱よりちょっと高いだけで、医者からは「わかりません」と言われた。とにかく家族と接しないようにして、昨日の夕方に軽快になったが、今日はダメ。殆ど部屋に籠り、ネガを電子データにする作業をした。懐かしい。

 明日は仕事に行けないかも。

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演劇右往左往~1977-8年~

 どうも、この辺の記憶が曖昧で整理できない。

 川端が演出した『土』は天草の高校まで出前公演をした。手伝いにならないけれど、ついていって、えらく寒かった記憶がある。古城とまだつるんでいる奥村の『北斎漫画』を観て、嗚呼、熊大演劇部にも演技の才人が表れたと感動した。安倍公房の『可愛い女』に一つ曲をつけた記憶があるけれど、その順番がわからない。ぼくはどこかで記憶喪失しているのだろう。その辺は来月長崎に行くので、ある程度は確かめられるかもしれない。

 大学の6年間は実に楽しかった。純情朴訥だからこそウロチョロでき、そのウロチョロで沢山のことを経験した。演劇も、英語も、勉強しなかった。高校生の試験前の一夜漬けみたいなことしかしなかった。無駄な役に立たないことばかり経験したと思う。ただ、ムダも積もれば意味をなす、と、いうか、わからない。わからないが、演劇が体の成分の一部になったと思う。

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佐伯市の成人式に行く

 受付のボランティアに生徒が行くので、一応。

 12時に集合して、簡単な説明を受け、1時からの受付までの何と長いことか。
 2時までウロチョロして、新成人の様子を眺めた。オイオイという連中が相変わらずいた。両手にビール瓶を持ってラッパ飲みしながら歩いているのがいたが、笑った。幼稚に思えたのだ。水みたいな飲み物、加えて瓶の処理をどーすんだ。ウイスキーの小瓶を懐から出し、グイと飲んで、懐に仕舞う。てな方がカッコいいと思うが・・・。また、タバコを吸ってはポイ捨てするのもいた。バカの博覧会場じゃないって。
 写真を撮り合う光景は相変わらずだが、今年はスマホが多かった。年配の人に写真を撮ってもらおうと渡したが、どこをどうすればいいかわからず、という光景もあった。

 受付が始まり、豊南の生徒は外で招待状を忘れた人への対応。今年は多かったように思う。半数近い新成人が忘れていたんじゃないだろうか。女性には3センチくらいの付け爪をしてて、鉛筆を持ち辛い風景も数回あった。

 受付が終わり、式場に入った。一昨年、去年と同じ内容で、面白くない。生徒に訊いたが、オープニングの太鼓が終われば帰りたくなったという意見もあった。市長の式辞も内容が希薄で、情けなくなったのも3度目。新成人をもっと感動、共感させるような言葉が皆無。

 全部を洗いなおして、もっといい成人式を考えるべきだ。担当は生涯学習課だと思うが、猛省を求める。この内容は何らかの形で、伝えたいと思う。

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忘れものを取りに行きました

 基本的には学校の飲み会には出ない。歓迎会で対象の時は出るが、送別会で対象の時には出ないことが多い。忘年会には幹事でない限り出ない。

 昨年の暮れ、佐伯の教員の集まりがあるから、と、誘われ、興味はないが出た。その流れの中で、マフラーを忘れた。翌日店に電話すると、「あります」。

 今日、取りに行った。受け取るだけでは申し訳ないので、少し食べて、少し飲んでくらいは、と。後輩の高尾のオススメノ「兼八」から。と、女性が声をかけてきた。美術を教えている人。後ろでうるさかった連中の一人だったようだが、それから美術や書道、演劇を交えて40分くらい話しただろうか。面白かった。ぼくは彼女に今取り組んでいる脚本の舞台美術を依頼したのだった。

 忘れてたまぐらーを首に巻いて帰る時、そのマフラーのなんと暖かかったことか。

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『いつか見た夕陽』補足

 『いつか見た夕陽』の上演は2回だったか、3回だったか。とにかく、2度目か、3度目の時だったか、ぼくが、モデルになった小野田さんみたいなところを演じたのだが、ぼくが入院している場面で、医者の執行(しぎょう)がドデカイ氷を持ってきて、それで熱を冷やそうとしたのか、不意をつかれたぼくは、ベッドからすべり逃げた。客はわいた。そして、また芝居にもどる。私と私が演じている人間。その辺を行ったり来たりできていたのかもしれない。

 あのドデカイ氷を持ち出したのが執行のアイデアだったのかどうかはわからない。ただ、あんなとんでもないことができた仲間は少ない。

 やばい。個人を述べだしたら際限がないぞ。

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蜷川幸雄『演劇の力』を読む

 疾走するジジイの記録。興奮し、嫉妬し、鼓舞された。

 ぼくが熊大演劇部に入った頃、Оさんが「櫻社が解散した」とか言ってた。中野良子がジュリエットを演じた『ロミオとジュリエット』が原因だったとか。商業演劇に走った蜷川を許せなかったとかがあるらしい。

 ぼくは蜷川の舞台は二つ観ている。藤真利子がジュリエットを演じた『ロミオとジュリエット』。そして『NINAGAWA マクベス』。これがプロの演劇か、と、圧倒された。

 蜷川はずっと疾走してきた。そして、まだ疾走している。ジジイになってもまだ。情熱あるこだわりを学ばなければ。

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演劇右往左往~1977年 『藪原検校』②~

 『藪原』の時は、部員も多く、なおかつ経験者が多くなっていたし、加えて部員の意気が高かった。ぼくは今まで何度も『藪原』の上演希望を漏らしてきたが、それは多分、この時の上演の記憶が濃厚に残っているからだと思う。

 お市をダブルキャストでの2回公演。カット場面は一か所のみ。だが、前回より上演時間は30分ほど短かった。時間を競う訳じゃないけれど、無駄がなかった、と、思いたい。

 中津出身の梶原(部室で飲んだりの時は山崎ハコの『サヨナラの鐘』(だったか・・・)を毎回リクエストされたものだ)が、前回ぼくが演じた塙保己一を演じた。主人公の杉の市と場面で、保己一はサトイモを食べている。楊枝で刺して口に運ぶことで、食べ汚さないためだと説明する。ぼくの場合、サトイモがなくてカボチャだった。3回公演の最初で杉の市の「何を食べているんですか」に「サトイモ」と答えたら、客席から「カボチャだとう!」という声が飛んだ。それで、次からは「カボチャ」と答えようとするのだが、出てこない。沈黙。ようやっと出てきた経験があった。そういうことがあったので、そのまま梶原に伝えた。そしたら、ほぼ同じことを繰り返した。言わないほうがよかったのかもしれない。

 杉の市を演じた山本は、ヌーボーとしていたが、それが悪どいことをする役柄にはよかった。彼は近視がひどく、デートの時にはそれを外した。彼女とホテルに行こうとして入っていったら、どこかの会社の社員寮だったというエピソードがある。

 今とは違いアナログの世界。形態もインターネットもない時代。移動するにも時間がかかった。ただ、じゃああの頃困ったかというと、そうでもない。それが当たり前だったから、苦にはならなかった。ところが、今、あの頃のことを考えるとシンドサが募る。でもでも、あの頃のシンドサを全く苦にしなかったことが情熱のささやかな証だと信じる。

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演劇右往左往~1977年 『藪原検校』①~

 新しい年になりました。もう少しだけ活力と充実の年にしましょう。

 さて、おぼろげな記憶をたぐりながら、さりとて深追いせず、少しの「あったようなこと」を辿っている訳ですが、間違いは承知の上で、薦めます。
 いつごろからか、時々校長が授業中に校内を巡り、授業を覗くようになりました。そういうのがあると、「今、何?」と生徒から訊かれ、「老人になると廊下をウロチョロするようになる。だからローカ現象と言うんだ」と説明したものです。最近はほぼ1時間「評価」のために座ります。笑ったのは、座った途端、携帯が鳴って、慌てて飛び出した校長がいました。彼は帰ってきませんでした。

 さて、『藪原検校』。その頃は部員が増えていた。ぼくは最前線を退いていたので数はわからない(理由になるか!)。6畳くらいの広さの部室には入りきれなかったと思うが、、はて、どうしてたのか・・・。

 『藪原』をやりたいというので、ぼくに演出せえと言ってきた。多分、モロモロの事情を知っているから便利ということなのだろうと思い、了承した。
 以前上演した時には「強催促(こわさいそく)」と濡れ場をカットして3時間の上演だった。ところが、濡れ場をやると言い出した女子部員がいた。それも二人。それでカットしたのは「強催促」の部分だけ。そして、お市だけダブルキャストでやることにした。だからどうしても2回公演。

 以前書いたが先輩のОさんは「じれったくなるくらいゆっくり台詞を喋れ」と言った。でも、『夢幻奏』で、ヤクザまがいの役をやった時には、相手に何も言わせないのが目的だったからゆっくりじゃなかった。機関銃のように話したはずだ。その時は何もわからなかったが、英文の同級生の部屋のテレビで江守徹の『ハムレット』を観たが、台詞が速い。Оさんの「ゆっくり」は捨てていた。

 ぼくは演出というより意見係みたいなものだった。ある日戸田だったか、阿蘇品だったかに呼ばれた。オープニングに踊りを交えたという。そのために練習してきたという。「お江戸の秋の夕間暮れ~」の歌を歌いながら、彼らは踊った。活力に満ちた素晴らしい幕開け。こういうメンバーでつくる芝居は多分失敗しないものだ。

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