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演劇右往左往~Officeせんせいしよん(2)~

 「せんせいしよん」は話し合いに大分川沿いの「ホワイト・フラミンゴ」に集まった。いつもワイワイの雑談で、話は進まなかった。今だから思うことだが、実りある話し合いにするには、飲み食いを入れてはいけない。

 さて、「せんしよん」の旗揚げ公演。何をするか。『12人の優しい日本人』に決まったが、その経緯は覚えていない。ぼくは、とにかく、作者の上演許可依頼の手紙を書いた。
 しばらくして、電話がかかってきた。三谷幸喜の事務所から。「申し訳ありませんがあの脚本の上演は許可できません。ただ、お手紙を拝見して、上演しないで下さいとは言い辛いので、こちらが知らないところで上演したという風にしていただけませんでしょうか」

 上演許可ではない。何かあったら、あんたらの責任ということか。OK。GO!

 メンバー集めが始まった。教員、大学生、卒業生、在校生でどうにか集まった。警備とピザの配達を含めると14人。この人数で芝居をつくるのは難しい。仕事やら都合やらで、全員がそろうことが少なかった。稽古場を転々としながら、それでも、続けた。公民館の在り処を知った。時にはキャストの教員の学校の体育館を使ったこともある。平日は仕事の関係で練習はできないので、練習は日曜日だけになる(まだ土曜日は授業日)。昼頃になると、弁当を買いに行く。そこでぼくは「のり弁」を知った。安くて、そこそこ美味しくて、腹にくる。

 公演が近くなった頃、演出のまーさんと二人で弁当を買いに行った。車の中で、12人の協議が終わって、みんな出ていくので緞帳は下ろせないんじゃないかと話した。タカムク演じる警備員が、残されたバラの花を空き瓶か何かにさして部屋を出る時に部屋の明かりを消す、と、サスがその花を照らし、緞帳が下りる、とか。

 十分な時間は確保できなかったが、いい舞台になった、と、思う。そして、その舞台を新聞社が幾つか入っていた。

 

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演劇右往左往~Officeせんせいしよん(1)~

 確か安倍証のアパートだったと思う。そこに4人が集まった。安倍雅浩(以後、まーさん)、安倍証(以後、しょーさん)、角陽一郎(以後、マルス)、そしてぼく。高校演劇の顧問。当時はまだ大御所がいた頃で、彼らに反旗を翻す気持ちなんて毛頭なく、もっと面白いことができるという考えが根底にあったと思う。その辺では一致していた。そして、その頃は明確ではなかったが、それぞれがつくる芝居は全く違った。それがよかったと思う。

 まーさんは、確かな人間観と巧みな設定の面白い芝居を書いた。しょーさんは、独自な視点で突っ込み、遊び心満載の芝居を書いた。マルスは、けた外れのエネルギーと機材を投入し、高校演劇では類がないと思える舞台を創出した。その3人に及ばないぼくは、ただ花火を打ち上げるだけだった。その4人は、仕事と演劇部の指導に加えてさらに大きな負担(ぼくらの誰もそんなことは思わなかったけれど)を抱えることになった。

 しょーさんは「せんせいしよん」という名前を言った。「よは小さいよではなく、大きいよです」。英語のせんせしよんと「センセイをしてる」という大分弁をかけたネーミング。みんなOK。ただ、劇団ではなく、面白いことをしてる人たちを応援し、巻き込むためにも、冠詞はOfficeにしたいとぼくは言った。それも了承され、Officeせんせいしよんは誕生した。独身男の潤いのない殺風景な部屋だった。でも、ぼく達4人は静かだがワクワク感が全身に満ちていた。

 高校演劇を経験しながら、大分に残った卒業生には演劇をする場所がない。それが根っこにあった。ぼくらが3年間苦楽を共にした生徒が演劇に関わりたいという気持ちがあれば、その場所を用意したかった。当時、大分にも幾つかの劇団、それめいたグループはあった。しかし、そのどれもが高校生を受け容れるものがなかったのだ。ぼくはそう思っていた。

 じゃあ、とりあえず、自分たちで舞台に立とう。こんなに面白いんだぞ、悔しかったら俺たちを超えてみろ、という招待状と挑戦状をまずやろうじゃないか。そして、Officeせんせいしよんの旗揚げ公演が決まったのだ。

 

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退職を祝われる

 肺炎からどうにか生き延びた頃、芝居仲間から電話。退職を祝うので大分に来なさい。
 それで昨日、電車で大分に向かった。新装の大分駅で降りると、改札口で彼が待ってくれていた。主賓が早く行くのもよくない、と、彼はホルトホールを案内してくれた。それからホテルにチェックインして、会場に向かう。5,6人くらいだろうと思っていたら、その3倍の人数にビックリ。Officeせんせいしよんのメンバー、高校演劇で苦労した人達、練習会場を無料で提供してくれた恩人、何かと世話になった人達。10年以上振りという人もいて、驚きが感謝を深めた。

 会費も取らない上に、記念品まで用意してくれていた。万年筆とボールペンが合体したようなパーカーのペンで、キャップの部分にRyo Mochizuki とぼくのペンネームが彫られていた。ペンにペンネームというのも面白い。「これで小説を書いてください」というメッセージが添えられていた。有難い心配りにただただ感謝。

 せんせいしよんでプロデュースした「高校生卒業公演」の第一回目のパンフを、両面こぴーしていて、それをもらった。彼は数冊持ってきていて、配っていたが、36ページという常識破りの量のパンフを読み返すと、口だけ人間のぼくは実に多くの人に支えられていたことがわかる。人の幸せは、どういう人に囲まれているかではないかと思い、ぼくは幸せだったと思う。同時に、36ページのパンフを作った活力が、今は全く失われていくことも痛感。退職です、ジジイですなんて言ってられないと思った。

 かなり飲んだ。どれだけ飲んだかわからない。ただ、二日酔いの感覚はなかった。facebookに参加者の一人が昨夜のことを書いていたので、ぼくも書いたけれど、文章が滅茶苦茶で、二日酔いじゃなく、まだ酔っぱらっていたことを知った。電車で正解だった。

 演劇右往左往を再開しようと思っていた。東京の生活での観劇から始めようと思っていたが、取りあえずOfficeせんせいしよんを書いてしまおうと思う。あの頃が一番活力と充実の時期だったから、それを辿ることで、少しは活力が蘇るかもしれないと、甘いことを考えている。

 ともかく、31日で退職です。生徒や教職員の方、そして学校以外の場所で付き合ってくれた多くの人に感謝します。これまでを感謝します。ありがとうございました。

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最後の授業・・・

 3学期最後の授業日に、最後の授業をしました。それは今年で退職するぼくにとっては32年間の締めくくりとなります。先週から、英検の問題の解き方を説明しながら、それなりのことはしてきたつもりですが、今日は英語はゼロ。昔演劇初心者に使ったエチュードを中心に自由について話したつもりです。最初は全部の流れを考えようと思ったけれど、メインさえ据えれば、後は即興でどうにかなるだろう、と。どうにかなった訳ではありません。振り返ると、幾つかが頭にしまったままだった。でも、そういうのはぼくの日常だ。

 校長があちこちに声をかけていて、学校職員の中に外部からの人がいたし、授業には遠慮した卒業生が昼休みに花束持ってきてくれたりで、緞帳に「火の用心」を見て、芝居の終わりを迎えた気持ちでした。

 4月からの生活は分かっているものの、それは、また。

 今まで迷惑をかけたことの方がはるかに多いと思いますが、あれやこれをひっくるめて感謝します。ありがとうございました。

 

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どうにか復帰

 月曜から出勤したものの、途中リタイアが続いた。今日、どうにかフルタイムで勤務できた。ただ、もともとなかった集中力が極度に衰えている。体力が落ちているのは実感できるが、病は気にも大きな影響を与えることを実感した。気の充実を目標に、身体を無理しない程度に動かして体力を取り戻さなくては、と、思う。

 最近の仕事は退職書類の作成。もっと明解な書き方をしてくれればいいのに、そういう表現をしていない書類に向かって、集中力がないので休み休みだが、休んでいるうちに、何を考えるんだったかを忘れてしまっている。「これで間違いありませんか」くらいの書類を用意できんのか!

 娘が行くことになりそうな大学のHPを覗いていたら、そこの教授が大学の先輩。不思議な巡り合わせ。

 生きていると色々あるけれど、縁みたいなものを考えると、結構面白い。

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