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20年前のフィルムを現像に出す

 ビニール袋に8本、未現像のフィルムを発見。近くの写真屋に出した。最近は写真屋はそういう仕事をやっていないで、福岡に出すらしい。現像だけにしてもらった。
 かなり劣化しているだろうナ、と、思っていた。スキャナーでネガを読み込こんだところ、デジカメと重なっている場面もあったが、デジカメ前のものもあり、劣化している(それとも、カメラマンの腕が悪かっただけかも)ものの、懐かしいものもあった。

 今度は、ビデオテープをCD化してみようと思うが、テープがかびだらけになっているかも。

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無色な無職生活~部屋を片付ける(1)~

 朝、番匠川の河口まで自転車で走った。走行距離を見て、8キロ。帰りの距離を思うと、気が重くなった。行きはヨイヨイだが。もう少し考えて走らねば。

 午前と午後は、机二つとベッドの移動。狭い部屋でのそれは、パズルのようで、工夫と根気と時間を要した。少しずつの移動の間、掃除機とクイックルワイパーを使い、壁まで雑巾で拭いた。かなり機能的な配置になった。
 明日からは、廃棄作業。ここまで来たらイケイケドンドン。ところが、昔のチケットの半券でさえ、立ち止まってしまう。自分が出た舞台のそれは、「スペースを取る訳じゃないんだから」と考えてしまう。職場の机の移動の時は「見ないで捨てろ」と自分にも同僚にも言ってきた。仕事の個人的なものは大切にするが、そうでないものは、躊躇なく捨てた。
 これからが大変なんだろうな。本も衣類も、最低半分にしたい。
 それにしても、よく頑張った。腰に来てる。それが自転車か部屋掃除のせいかはわからないけれど、よく頑張りました、と、思う。

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無色な無職生活~空腹感が募る日々~

 無職になって一ヶ月。10時前後に寝て、5時過ぎに起きるのは変わらない。ただ、仕事の上でのあれこれがなくなって、「あれをせんといかん」というものが皆無になって、緊張感がないので、気持ちの上では頗るよい。
 朝、起きて、まず洗濯機を回し、自転車に乗って、番匠川の土手を走る。約8キロ。帰って、洗濯を干す。
 ちょっとした用事も自転車で行く。それで太腿のパンパン感がある。数年前から、年配の男の後ろ姿で、ズボン(若い人はパンツと言うのだろう? 何を今さら)のケツ(下品?)の下部の生気のない線が気になっていた。張りがない。布がたるんでいる。直川鉱泉(ちょっと前から「かぶと虫の湯」と名前を変えた)は年配客が多い(どこでも、たいていそうか・・・)が、衣を脱ぎ捨てた彼らの臀部の下部はしぼんでいるというか萎えている(しぼむと同義じゃないか!)というか、ゲッソリしている。で、ぼくは自分のその部分に手を当て、まだそうじゃないことを確かめる。自転車効果なのかどうかは分からないけれど、もう少し、一日の距離を延ばしたい。
 たぶん、自転車で運動量が増えたせいだと思うが、空腹感が強くなった。仕事をしていた時もあったけれど、昼食は時間だから、と、いうものだった。その時も空腹感はあったけれど、今はそんなもんじゃない。空腹感が襲ってくるのだ。以前がさざ波の空腹感とすれば、今は怒涛のそれ。先週、直川鉱泉で体重を測ったら59.5キロだったが、今日は1キロほど増えていた。
 「仕事がないから暇だろう」と思うのだろうか。「ご飯、炊いといて」と言われる回数が増えている。以前「おかずを一品でも作るとか」とやんわりした命令があったが、断った。無職の生活を堪能しなければ。全額ではない年金が払われて、さてどういうパターンで生活すればいいかが判明してから、設計ができる。
 部屋の大幅模様替え、尊敬する知り合いの教え子の一人芝居の脚本。発想以来3年目になる『夜伽の部屋』の完成。老犬の世話(今年の夏を生き延びることができるか)。庭木のいじり。そんな生活。若い奴らには到底理解できない、生きてることを全身で楽しめる毎日。でも、気持ちは、舞台に向かっている、ウン。

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巨匠の言葉~捨てるということ~

 40年前、文学部ということで、文学という言葉を心の勲章にしていたような青二才の時。大江健三郎が『洪水は我が魂におよび』という上下巻の小説を発表した。新潮社の『波』で、大江は2000枚の原稿を推敲の過程で1000枚にしたとか言ってた。

 それはずっとぼくの内部に沈殿して、時々プワンと浮かんできていた。

「とにかく、捨てることを学ばなくてはいけない。いい作家というのは何冊本を出したではなく、原稿を何枚くずかごに捨てたかで決まるんだ」

「短いストーリーをひき延ばすというのがいちばんよくないんだ。」

ガルシャ・マルケスはそう語っている。(『物語の作り方』)
 書きたいことをドヴァーッと書いて、後は捨てる。書く人間は捨てる「感受性」が問われるかもしれない。10で書けることより、1で書けることもある。

 生活も同じような気がする。

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肝心なのは思い切りだよ

復讐を決意したものの、なかなか踏み出せないハムレットは友人のホレーショにそういうことを数回口にする。
 断捨離。これがなかなかできない。
 部屋の模様替えをしている。働くオジサンモードから、働かない後期高齢者予備軍モードに変えようとしている。ところが、久しぶりのモノに出会ったりすると、思い出がくすぐられ、そこから果てしない連想が始まったりして、進まない。肝心なのは思い切りだよ。ハムレットの言葉が聞こえる。
 3月中にやっつけてしまいたかった。今日、思い立って、断行。ラッキーなことに、進学した娘の部屋を臨時の物置にして、そちらに残すものを持ち込み、今後使わない、見ない、使わないものを処分。プリンター2台等、エコセンターに持参。ある程度やってしまうと、ビールを飲みながらになった。何やってんだよ、と、怒鳴られるかもしれない(誰に?)。でも、片付ながら部屋の設計をしているんだナ。たぶん、ベッドを西側、机を東側にという配置になると思うが、この移動が、ナニセ窮屈な空間なので難しい。
 可能にするのは、とにかく、内容を減らすことなのだ。肝心なのは思い切りだよナ、ハムレット。

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大手前再開発事業の疑問

 以前も計画が持ち上がり、潰れた。
 なのに、また。
 ただ、今回は巧妙で、高校生を使い街づくりを考えてもらい、という、姑息な手段を取った。市長はどうしてもやりたいんだろう。大手前の土地を市長が買ったとかいう噂も流れているようだ。
 市議会がどれくらい機能しているのかも疑問。佐伯には政治がない。本当に悲しいけれど、悲しいけれど本当。市長も市議会も何も考えていないんだろう。誰のための市政? 市長、あんたのためか?

 

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佐伯は危ない?

 今日、ある場所でちょっとしたことである人と話し込んでしまった。きっかけは、ぼくが国民健康保険の話を市役所に訊きに行ったら、年間84万もかかることを知って驚いたということ。つまり、その金額を10ヶ月で払い込むのだけれど、一月8万。いくらなんでも、高すぎると思うのだ。

 その人曰く、「佐伯は高い」。 隣の延岡は旭化成があるので、安い。佐伯は、キャノンの御手洗さんの出身地で工場を造る話があったらしいが、用地を全く考えていなかったので流れた。

 

市の新庁舎も、以前は使える机等は使う方向だったが、出来上がると、全部新品。

 城山の麓に歴史博物館(みたいなもの。名前を知らない。こういう市民が悪い!)を造ったが、設計料は3千万だが、それを3回したので1億近くかかったらしいこと。

 大手前の再開発にしても、それをどうなるものか。一部の人はウハウハ(これはぼくが言い換えたもので、その人が使った訳ではない)かもしれないが、結局は税金で負担されることに決まっている。

 佐伯には活気がないでしょ。夢がないんです。政治家も、自分の生活だけで、アリバイ作り的な仕事しかしていない。

 佐伯で老後を過ごすぼくに、その人は悲観的材料をこれでもか!と並べた。帰って、財政破綻で検索したら、健全で探す方が早いほど、沢山あった。
 色々な問題があるのだろうが、この佐伯で死ぬまで暮らす。ならば、ぼくにできることを考えなければならない。

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目薬は悲しい

 特に異常がないけれど、つい買ってしまう目薬。沢山並んでいる中から、説明を読んで、値段表示を見て、(買わなきゃいいのに)買ってしまう。それは、たいてい、あれこれ売っている量販店でのこと。
 ところが、あんなに選択を考えた目薬なのに、最後まで使ったことがない。
 職場に行っても使おう、と、ポケットに入れれば、入れられたことを忘れれてしまう。
 久しぶりのジャケットを羽織った時、ポケットの発見するも、ちょっと時間が過ぎているから、と、残っていてもポイ。
 自分のいい加減さにウンザリする。でも、ささやかな言い訳を一つ。目薬の校歌を実感できていないんだ。

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ギターが弾けない

 左手人差し指の先が何かに触れると痛む。それほど強くはないが、気になる。何より、仕事を辞めて、ギターの練習をしようと思っていたが、弦を押さえることができない。そして、今度は右手の中指の第一関節部分の中央やや右寄りに同じような症状。
 それで医者に行った。イボだという。「年を取ると抵抗力がなくなりますから」と女医は言った。少なくなるではなく、なくなる、か。ベストは液体窒素で焼くことだという。「痛い?」「ええ、まあ」「・・・」「じゃあとりあえず、塗り薬と飲み薬を出しておきますから、それで」「そうですね、ダメだったら、それで」。ということで、痛さからエスケープした。

 老いれば、それに伴い様々な身体の不都合が出てくることは承知している。そういう仲間が病院には多い。以前は、いや今もぼくは彼らや彼女らは上の世代の人に思っているが、もしかすると、何ら違和感なく、仲間として受けいれられているのかもしれない。

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大宰府に行く

 今年、下の娘が受験生になる。それで、大宰府に行ってきた。上の娘の時は、試験直前の正月明けに行った。それを反省して(何を?)新学期前に行こうと。
 もうそんなに混んではいないだろうと思ったら、大間違い。混雑。中国の観光客が多かった。一部でささやかれているほどはうるさくなかった。
 娘の学力を考えれば、合格はお願いできないので、前より賽銭を奮発して、「少しだけ応援して下さい」と願った。
 梅が枝餅とナンチャラとカンチャラを買って、帰路に。

 もちろん、そうしたから、ご利益があるとは思わない。絵馬をぶらりと眺めたが、それに書かれた文言の切実さもない。莫大な量の絵馬は競いやらあるだろう。でも、人は流れて行く。自分の流れに従えばよい。たぶん、幸せはそこにしかないんじゃないか。

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やはり納得できない

 久しぶりにJRで一泊旅行に出た。
 やはり、放送があった。
 「他のお客様の迷惑になりますので、携帯電話のご使用はデッキでお願いします。」
 別に使うつもりもないのだが、他の客の迷惑になるという理由にはどうも納得できない。というのは、後ろの席では家族がシリトリやらUNOやらに興じ、そのワイワイ、キャッキャがかなりうるさくて、それも迷惑といえば迷惑。やはり、携帯電話を使う場合は他の客に迷惑にならないような音量でお願いしまう、と、すべきではないだろうか。

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