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『ジェーン・オースティンの読書会』を観る

 ジェーン・オースティンの作品とその読書会に参加する人たちの断片が描かれている。ただ、オースティン作品を知らないもどかしさがずっとつきまとう。

 まだ読みかけのまま放置状態の『マンスフィールド・パーク』を探し出した。その腰巻に、

 「オースティンがこれほど重厚的に書かなかったら、恋愛は小説のテーマたりえなかったのではないか」

と、角田光代が書いている。
 700ページを超える長編。もう恋愛絡みはゴメンだナと思うけれど、まァ、ここは枯れ木だからこそ味わえるかもしれない。読んでみるか。

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井上ひさし・つかこうへい『国ゆたかにして義を忘れ』を読む

 時々、つかこうへいの言葉に触れたくなる。つかは、残念ながら、新しい言葉を発信できなくなって久しい。だから、書棚から引っ張り出した。

 ひさしとの対談。つかは、テレ隠しがあるような言葉使いながら、本当のことしか言っていないような気がする。もしかすると、つかは、だからこそ時代との折り合いがつかず、少し引いていたのかもしれないと思う。もちろん、つかが引き受ける筈がないけれど、テレビのコメンテーター(好きになれない言葉)になっていれば、今のアレコレに発する言葉は痛快だろうと思う。つかは、結局、劇作家、小説家としてより、つかこうへいを生きた。そう思う。

 以前読んだ本を読み返す。これは結構効果的なように思う。何故これを面白いと思ったのだろう、こんなに面白かったのか、過去との自分に出会いながら新しい地平が見えてくる(大袈裟な!)こともある。再読を薦める。

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『アゲイン 28年目の甲子園』を観る

  食べ物好き嫌いも、関心の方向も度合も、女性の魅力やらも、齢を重ねるに連れ、変わります。若いころは、たぶん、何もわかっていないのに「いいね」とかを言い、日本ながらの人情劇を最初から拒否してようなところがあったと思います。若いころはバカさ全開。しっかりしている人はかなりいたのに、ぼくは青年、中年までゴキブリみたいに動いていたような気がします。

 ようやく、自分の物差しで測って、自分なりの良し、悪しを気兼ねなく言えるようになった気がしています。そう考えると、蜷川幸雄は「蜷川天才」というのを表札にしたくらいだから、「譲れない私」が確固としていたんでしょう。

 マスターズ甲子園が主舞台。それに昔の事件が絡む。
 つながる、ということを示しながら、後味のいい映画だった。

 ぼくはアクション巨編とかが好きではない。テンポも速すぎる。だから、こういう映画はすごくいい。中井貴一は相変わらずの演技だけれど、こういう場合には適任かもしれない。


 

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鄭義信『パーマ屋スミレ』を読む

 東京オリンピック後の九州の炭鉱が舞台。そこで働く在日の人たちとその家族の過酷な生活が描かれている。懸命に生きていながら、厳しすぎる生活から抜け出ることができない人たち。劇作家は、冷徹に見つめ、甘さを排して描いている。

 劇作家は、鳥ではなく、虫の目かもしれない。一人一人に寄り添い、呼吸を聞き取れる場所で見て、人を描く。この劇作家の強靭な精神に触れ、沢山の課題を与えられたように思う。ただ、『焼肉ドラゴン』の方が面白かった。

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真保裕一『ダブル・フォールト』を読む

 小説を読んでそれが映画化されたものを観ると、小説の方が断然面白いと思うことが多い。たぶん、読んでいる時に頭の中で描いたものとのズレがあるからかもしれない。真保と出会った『ホワイト・アウト』は面白かった。読み始めると、どっぷりはまって、読み続けるしかなかった。織田祐二(漢字がよくわからない)主演の映画もそれなりに面白かったが、読んだ時の興奮はなかった。もちろんストーリーを知っているからでもあるだろうが。しかし、読書はいつの間にか配役していて、演出とカメラマンまでをやっているようなところがあり、読書の楽しみはそこにあると思う。

 真保作品5作目。新米弁護士の物語。始まりからページをめくらせるが、終わりの頃、先が見え始めると、まさか、と、思いながらその「まさか」だった。終わり方に不満を覚えた。呆気なさすぎる。「そうきたか」、この手の作品はそう思わせて欲しいのだ。それと、ヒロインの役者が決まらずしまいだった。『ホワイト・アウト』を凌ぐ真保作品を読みたい。

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マイケル・フレイン『コペンハーゲン』を読む

 どうやら原爆製造に関係している物理学者とその一人の妻との会話、それくらいはわかる。しかし、専門用語が散りばめられ、そこで「わからん」という思いが、作品がわからないという思いを強めていった。また、ト書きが一切ない。会話を通して、位置関係や動きを考えながら読むのもしんどかった。
 135ページ。長編というほどではないが、わからないという思いが超長編に感じさせた。訳者の小田島恒志は、「一読した途端、魅力的だ」と後書きに書いている。わからないなりに最後まで読ませる力はあったものの、ぼくにはその魅力がわからない。
 驚いたのは、作者あとがき(西洋の本はたいてい本編の前に書くが、本当にあとがきだったのだろうか)、が、57ページもあること。読みかけて、数ページでぼくは本を閉じた。

 2000年にトニー賞で作品などいくつかの部門で受賞したから、おそらく傑作なのだろう。イーダ殺すに刃物は要らぬ、『コペンハーゲン』の作品論を書けでよい。

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『長田弘詩集』を読む

 昨年、6月14日、肋骨を3本4か所折り、入院した。10日間入院した。まだ体の動かし方によっては、痛むので、もうちょっと入院したかった。
 大分駅の「アミュ・プラザ」をうろつき、紀伊国屋で本を数冊買った。その一冊が長田弘詩集だった。トイレに置き、座るたびに、数冊の中から一冊を読んだ。そして、ようやっと読み終えたという次第。
 詩集で面白いと思ったのは初めて。今まで読んだのは難しくて、とっつきにくく、最後まで読み終えていなかった。でも、長田弘は面白い。わかりやすい。こういう視点があるのか、こういう言い回しがあるのか、と、啓かれる部分も多かった。暮らしに詩集を!

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山本一力『研ぎ師太吉』を読む

 山本一力の描く人物が好きだ。人情溢れ、真っすぐで、だから周囲の人から好かれる。そして、登場する食べ物の何とおいしそうなことか。高価な特別な料理ではなく、ごくごくありふれた食べ物だけれど、この作品の中でもアジの干物、ソーメン、うどん等、読みながら無性に食べたくなる。

 この作品で、ただ一つ受け容れられないのは、犯人を追い詰めたのが拷問だったこと。登場人物の誰もが、それぞれ魅力と才能を持ち合わせているのだから、読者を「ほう!」と感嘆するような方法を考えて欲しかった。

 山本一力の、ぼくは熱心な読者ではない。まだ10作に満たない。ただ、裏表紙の「山本一力の本」の一覧や、著者の紹介欄に、まだ読んでいない作品が多いことを知って、まだまだ読めることを知って嬉しくなる。次はどんな山本作品に出会えるのだろう。

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杉浦久幸『ほいとうの妻~山頭火たれ山頭火~』を読む

 種田山頭火については句を読んだり、関連書籍を読んだり、テレビでの特集を観たことがある。幾つかの句はいいなァと思った。しかし、人物への興味が増すことはなかった。

 杉浦の作品は死んだ山頭火と妻サキノの会話で進められる。サキノの言葉のほとんどは山頭火を責めるものだ。生活の厳しさ尋常ではない生活の中で生活を支えたサキノの言葉に山頭火は言い返すことができない。ただ、紙に書かれた山頭火が、だからこそ、立体的になって、行乞しながら歩く山頭火の姿が見えてきたような気がする。

 責める言葉、言い訳する言葉から悲惨が浮かび上がる。こういう芝居をしようとも、観ようとも思わない。しかし、こういう作品に懸命に取り組む作家と俳優がいることはいいと思う。

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アーノルド・ウエスカー『結婚披露宴』を読む

 小説は面白い、面白くないの二通りになるかもしれない。
 脚本は、面白い、面白くない、好き、嫌い、上演したいという判断になる。
 昭和53年の『新劇』2月号(読んでいないから残しておいたんだろうが、まだ大学にいた頃。ウエスカーの名前と木村光一が訳したということで残していたんだろう)。いかにも、という感じ。いかにもの一言で片づけることこそ、イカニモ、かもしれない。ただ、この手のものはウエスカー独自のものではなく、似たようなものがあった。当時は時代を呼吸していたかもしれない作品が、今は、呼吸できない。
 つかこうへいが『熱海殺人事件』のバージョンを重ねたが、そうしないと、たとえ名作でも生きていけないという考えがあったのかもしれない。
 この作品が『新劇』に発表された頃、大学の演劇部でひさしの『藪原検校』を演出した。その2年前には同じ作品にぼくは出演した。そして、機会があれば、今でも舞台に上げたいと思う。ウエスカーのこの作品は、当時も、今も、上演しようという気持ちにはならない。丁寧に書かれているんだけれど。

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原研哉『日本のデザイン』を読む

 副題に「美意識がつくる未来」とある。

「デザインとはスタイリングではない。ものの形を計画的・意識的に作る行為は確かにデザインだが、それだけではない。デザインとは生み出すだけの思想ではなく、ものを介して暮らしや環境の本質を考える生活の思想でもある。したがって、作ると同様に、気付くということのなかにもデザインの本意がある。」

 久しぶりに刺激的な本に出会った。生活と世界を見直すいいきっかけを与えてもらった。

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土田英生『衛兵たち、西高東低の鼻を嘆く』を読む

 土田英生は好きな作家。というより、憎めない作家。アホみたいな芝居を書きながら、ちゃんと落としどころをわきまえている。遊び心が満載で、オイオイそう展開させるのかよ、と、そこを楽しむことができる。

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『想いのこし』を観る

 『GHOST』の公開がいつだったのか、『想いのこし』がいつの作品かはとんとわからない。ともに、死者が登場する。

 死者を登場させる誘惑に駆られている。もう5年目になる脚本だ。ただ、死後の世界とか霊がどうたらこうたらは信じていないし、広言してきたので、それが躊躇させる。

 死後の世界があることも、ないことも証明できない。だから、死者やその霊を出しても、ウソとは言えない。好きにできる。その「好きにできる」ところで作品の良し悪しが分かれてくる。

 アメリカ版は娯楽作品になっている。日本版は感傷が支配している。

 どちらがいいとは言えない。それなりに楽しめた。合掌。

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『シェイクスピアとコーヒータイム』を読む

 シェイクスピアのトップ研究者がシェイクスピアにインタビューする形をとっている。昔、シェイクスピアをかじっていたぼくには、劇作家・詩人と作品の周辺の些細なことまで教えられた。

 ただ、装丁が悪い。厚い紙を使っているので、めくりにくい。値段を上げるためだけで、読者のことを全く考えていない。E-honが知らせてくれて、実物を見ないで注文したので、こんなことになってしまった。反省。

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『HERO 2』を観る

 好きなドラマだった。ぼくは再放送で観たのだけれど、とてもよくできていて、楽しめた。今まで観たテレビドラマの中で、ベスト10に入ると思う。

 劇場版1は、そこそこ楽しめた。でも、テレビドラマには及ばなかった。
 劇場版2は、結構魅力的な役者を揃えていたけれど、退屈だった。
 この手の作品は、ズキューンと目標に向かって進む力があってこそ、観客は目が離せなくなると思う。場面ごとの密着性が弱く、だから、ノペーッとした印象が強く残った。
 『HERO』は魅力的なドラマだった。しかし、その過去の魅力によっかかって、新しい魅力を作ることができなかった。その気持ちすらなかったように思う。松たか子を出したい気持ちはわかる。しかし、邪魔だった。

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