シェイクスピア『十二夜』を読む

 シェイクスピアの時代は男優のみで上演していたらしいから、女が男装する設定する芝居は、そういう事情を利用していると思われる。『十二夜』はセバスチャンとバイオラの兄と妹が船の難破で生き別れになり、バイオラは生きるために兄と同じ衣装を着て、兄そっくりになるという設定。最後には二人が向い合うのだけれど、どんな役者だったのか。

 人数の問題を解決できればやってみたい脚本だけれど、兄と妹の役者の問題をどうするのか。考えるだけで楽しくなる。

 来週の稽古日は稽古納めで居酒屋。芝居の話をしたい人は是非是非参加して下さい。

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『十二夜』上演の思い出

 今稽古でシェイクスピアの『十二夜』を扱っている。部分によって、24歳のとき上演した思い出が蘇ってくる。

 『恋愛狂騒曲』というタイトルでミュージカルにして上演したのだった。大学のロック研のバンドを舞台にのせた。ロックの序曲まで作ってもらって、温泉旅館の息子にも曲作りを手伝ってもらい、4つの大学からメンバーを集めての上演だった。今ではとうていできない規模だったように思う。若さってのは、怖い。

 発端は市民劇団に所属していた教育学部の女の子と同じ舞台に立ちたいという思い。彼女の名前は由美。以後、芝居のいくつかの転機に、由美という名前の女性がいた。結局、最初の由美は、事情で抜けたのだが、芝居は進行させた。上演する団体名で揉めたり、終幕の時、道化を演じた仏文の男がメイクを落とした「演技」で打ち上げの席で揉めたり、と、あの頃の周辺が芋蔓式に出てくる。

 今回の訳は木下順二、松岡和子、小津次郎。昔使ったのは小田島雄志訳だったが、全集を買ったのに、見つからなかった。来週もう一回扱うけれど、何か新しい甦りはあるか・・・。

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『お気に召すまま』を読む

 へとへと状態で稽古場に行き、先週の続きの3,4,5幕を読み、感想を交わすこともせず、帰ると、そのまま眠りについた。今朝は快調に4時に目覚め、犬と散歩に行き、風呂にゆっくり入った。この生活ペースがゆとりもあってよい。

 さて、シェイクスピア。学生時代以来の『お気に召すまま』。あの頃は読み物として読んでいたが、最近は頭の中で舞台を想定して、そこで人物が動く。なんでこんな会話場面が、と思うと、ハハア、この間にロザリンド役の男優が着替えているんだな、とか考えたりする。男女の色恋沙汰についてのコメントはなるほどと思うものがあり、シェイクスピア時代の観客は質的に高かったと思わざるをえない。冬休みは、シェイクスピア喜劇を読み直してみようかと思う。それにしても3人の訳で読むと、かみ合わない部分がけっこうあり、それも面白かった。

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『マクベス』を読む

 福田、小田島、松岡の3人の翻訳で読み合わせ。最初は、台詞の終わりがつかめず、ぎこちない感じでつないでいったけれど、徐々につかめていき、淀みなく読み進められていった。

 濃厚なイメージと豊かな言語表現にあらためて驚き、味わった。そして、以前は気付かなかったことも多く、作品の深さを知り、とてもよくできた脚本だと感心した。それにしても、照明も音響もない時代にどうやって上演したのか、と、興味は増すばかり。

 シェイクスピア作品の中では短い方だが、休みなしの読み合わせで2時間ちょっと。次回は『十二夜』を考えているが、二週に分けた方がいいかも。こうなったら、シェイクスピアの主だった作品は読み合わせてもいいかもしれない。舌にのせると、結構、心地よい台詞なのだな。ウン。

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年内の活動

 とにかく、全員でつかこうへいの全作品を読むことにした。基本的に全集を一人2週間のペースで回し読みする。ある程度読み進んだら、拾ったものを構成しながら芝居に仕立てていく。その間は、シェイクスピア作品を読み合わせ。訳者が違うものの、全員分の脚本をそろえられるにはシェイクスピア以外にはないから。

 稽古場って、いつも何か新しいアイデアを与えてくれる。不思議な空間だ。

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トム・ストッパード『ロックンロール』を読む

 ハヤカワ演劇文庫で出て、やや遅れて「悲劇喜劇」に掲載されたので、その二本を利用して、稽古日に2回に分けて読んだ。おそらく、こういう形でなかったら、数ページでギブアップしてただろう。この方法は使える。読んで面白かった作品だけでなく、読むのがシンドイなというものも、今後は練習の一つとして使える。トム・ストッパードって、怪物だナ。

 さて、皆さんは霊、霊魂について、どうお考えでしょうか。

 最近、亡くなった祖母が「私を忘れている」と訴えかけるような夢をみたとか、そういう話をある人から聞いた。で、その夢の体験者が「専門家」に相談すると、邪悪な霊に変わりつつあるというようなことを言われたとか・・・。唖然、呆然、ただ愕然。見せて欲しい。見えないから勝手なことを言えるのではないのか。じゃあ霊が存在しないと証明しろ、と、言われたら、もちろんできない。

 宗教は哲学の部分がある。ものの見方、考え方を人間の生死を中心に展開する。ところが、たとえば仏教の僧侶たちの多く、まずければ一部、はそれを生計のシステムにしてしまった。彼岸の中日や盆にはお経を唱えればお金になる。死んだ者に対してのみの活動で、生きている者には何も活動しない。「葬式仏教」と言われ、葬式は不要だ!という本も売れれている。仏教は死とだけしか向かいあっていない。大切なことは、生きている人にも向かい合うことだと思うのだけれど。

 中には社会問題に貢献している僧侶もいる。問題を抱えた子どもたちの相談を受け、世話をしたりする僧侶の活動をテレビで見たことがある。僧侶は、知恵のある人であり、もっと社会貢献をするべきだ。

 ともかく、次回の脚本ではこの辺のことを扱うだろうナと思う。

 

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劇団ワンツーワークス『誰も見たことのない場所』を観に行く

 スパイダーソリティアが816連勝で途絶えてしまって、これを上回る記録までたどり着くには、気が遠くなりそうだ。そんな状態で宮崎まで行った。

 面白かった。劇団員全員で、自殺した人の周辺の人に取材し、その莫大な証言から選びとった言葉で構成、脚本にした(ぼくには気が遠くなるように思えてならない)「ドキュメンタリー・シアター」というものらしいが、無駄な台詞がなく、その一つ一つが身に染みた。上演後のアフタートークも面白かった。会場の男性が「本人の映像で語ったものの方がいいのではないか。創作の部分があればもっとよかったかもしれない」と発言したのに対し、本人を役者が演じることでワンクッション置き、観客の想像力に働きかける効果があるし、これは創作だと思っている、と、脚本・演出の担当者は答えた。同感。

 さて、その劇団には大学の後輩が3人いて、久しぶりの再会。彼らは大学から芝居に走り続けてきた。敬意。そして、敬意が募るほどに刺激を受けた。もう少し入れ込んでみよう、と。佐伯の芝居仲間3人と行って、帰りの車の中では、これからもう少し積極的に公演を観に行き、刺激を受けようと確かめ合った。いい経験は次に走らせるんだ。うん。

 帰りは局地的豪雨の連続。ワイパーを高速にしても効かない。ところがしばらくすると雨は降っていないどころか道路は乾いている。ナーンダと思っているとまた豪雨。そんなことで、『龍馬伝』を見逃してしまった。しかし、悔いのかけらも感じない、そういう大満足の宮崎行きだった。

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ぼくの間違い

 ぼくが書いた脚本の中で一番好きなのは『S・O・S』だと思う。高校生に書いた。それをオトナ版にしようと書き始めたものの、途中で進めなくなった。高校生をオトナの登場人物にしようとしたからだ。ただ『S・O・S』の設定はぼくとしては気にいっていて、だから、その設定に寄っかろうとしたのだろう。間違いだった。書きたいことが形を求める。

 『A・CHA・RA・KA』を考えながら、その幕開きに「離婚式」を使おうとして、稽古場でも「相手の許せないところ」とかをリサーチしてもらった。幕開きに使うには、内容が濃い。その濃い部分を枕に使うのはあまりに安易。それで、安易な部分をきちんとしようと思った。

 毎年ある学校の顧問がオリジナル脚本をメールで送ってきて、意見を求める。彼はまじめだけれど、遊び心がない。2年間感想を送らなかったけれど、今年は送った。それを書きながら、ぼく自身のことも考えた。その内容はぼくにとっては極めて当たり前なこと。その当たり前なことを確かめることになった。

 来週は夏休み。佐伯図書館で脚本に専念しようと思う。

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公演に向けて(4)

 脚本は、ほぼ骨格ができた。骨格から書くのは初めて。今までは、場所と登場人物を決めたら、勝手に喋って、勝手に動いて、ぼくはそれを書きとめるだけだった。ところが今回は骨格を考えた。何か、作家みたいだな。

 今日も昼食を取りながら、ノートに書いた。だから、箸を使わなくていい昼食だ。ほとんど走り書きなので、自分で読み返した時に何て書いてあるのかわからない時もある。それを夜、あるいは朝、パソコンで清書する。

 骨格をつくったせいか、ちょっと歯の浮くような台詞が、以前は入れ歯になることを恐れて、削除したものだが、今回はそれをしない。もっとも、sれが骨格のあるせいなのか、それとも単にボケてきたからなのかは判然としない。

 一つだけ言えることは、今までの脚本とは全く違うテイスト(笑っちゃうな、こんな言葉使うなんて)になるということだ。ぼく自身が上演が楽しみでならない。うん。

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我が家のダースベーダー

 今までぼくの芝居はどこかの部屋で展開させた。それは個人や教師たちや親たちを考えるためだった。次の芝居は時代に向き合おうと思っている。ただ、それを一番小さな単位、夫婦で考えよう、か、と。だから、場所が変わります。

 ぼくは配偶者を「同居人」「娘たちの母親」とか呼んできたが、最近は「ダースベーダー」。もちろん、本人に向かっては言えない。言ってしまったら、・・・、ダースベーダーは息も乱さずに・・・。

 呼び方を変えるのは、距離感の調整。

 人間関係は距離感の調整で決まる。要は近づきすぎないことではないかと思う。結婚披露宴で「一心同体」とかスピーチをする人がいるが、そんなことはあり得ない。不可能なことをしてはいけない。抱き合っても距離はある。二人は適度な距離を見定め、保つことが肝心ではないかと思う。別に夫婦に限ることではないけれど。

 国も時代も、根源は夫婦。だから、次の芝居は、それ。本当は、ダースベーダーを使いたいけれど。 

 

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