演劇右往左往~Officeせんせいしよん(3)~

 『12人の優しい日本人』の旗揚げ公演は大分市のコンパルホールで行った。稽古は、あちこち場所を変えながら転々とした。半数が教員だったので、その中の一人の学校の体育館を使わせてもらったこともある。

 旗揚げ公演って、結構エネルギーがあって、さまよいながらの稽古でも、みんな無理を重ねたと思う。ぼくが転任した先で声をかけて、巻き込んで役者までやった人もいた。多分、誘う意気込み、言葉にも力があったのかもしれない(ウ~ン、あまりに身勝手、か?)。

 工夫は少なく、役者だけの芝居だったが、まァ、それなりに、と言う結果。ところが、会場にある批評家とある新聞社が来ていて、その批評家は新聞紙上で絶賛。新聞社は、翌年の正月4日目に、今年のホープに今はメジャーになった沖縄のBeginと同じ紙面に載ったのだった。

 ぼくはその公演パンフに「東京の人が観に来る芝居をつくりたい」と書いた。当時、つか劇団でやっていたという人が劇団をつくり、東京のどこそこで上演するとか威張っていた。大分県で支持されていないのに、と、思ったのだ。『立見席』はおかしい。だったら、みんなで東京行けや。ところが東京で勝負できるほどの力量もない。

 パンフにそう書いて、ぼくはもう東京を向くのはやめた。今ここにいる連中でやればいい。そして、やる限りは誰が観てもいいものをつくりたいと思った。

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演劇右往左往~Officeせんせいしよん(2)~

 「せんせいしよん」は話し合いに大分川沿いの「ホワイト・フラミンゴ」に集まった。いつもワイワイの雑談で、話は進まなかった。今だから思うことだが、実りある話し合いにするには、飲み食いを入れてはいけない。

 さて、「せんしよん」の旗揚げ公演。何をするか。『12人の優しい日本人』に決まったが、その経緯は覚えていない。ぼくは、とにかく、作者の上演許可依頼の手紙を書いた。
 しばらくして、電話がかかってきた。三谷幸喜の事務所から。「申し訳ありませんがあの脚本の上演は許可できません。ただ、お手紙を拝見して、上演しないで下さいとは言い辛いので、こちらが知らないところで上演したという風にしていただけませんでしょうか」

 上演許可ではない。何かあったら、あんたらの責任ということか。OK。GO!

 メンバー集めが始まった。教員、大学生、卒業生、在校生でどうにか集まった。警備とピザの配達を含めると14人。この人数で芝居をつくるのは難しい。仕事やら都合やらで、全員がそろうことが少なかった。稽古場を転々としながら、それでも、続けた。公民館の在り処を知った。時にはキャストの教員の学校の体育館を使ったこともある。平日は仕事の関係で練習はできないので、練習は日曜日だけになる(まだ土曜日は授業日)。昼頃になると、弁当を買いに行く。そこでぼくは「のり弁」を知った。安くて、そこそこ美味しくて、腹にくる。

 公演が近くなった頃、演出のまーさんと二人で弁当を買いに行った。車の中で、12人の協議が終わって、みんな出ていくので緞帳は下ろせないんじゃないかと話した。タカムク演じる警備員が、残されたバラの花を空き瓶か何かにさして部屋を出る時に部屋の明かりを消す、と、サスがその花を照らし、緞帳が下りる、とか。

 十分な時間は確保できなかったが、いい舞台になった、と、思う。そして、その舞台を新聞社が幾つか入っていた。

 

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演劇右往左往~Officeせんせいしよん(1)~

 確か安倍証のアパートだったと思う。そこに4人が集まった。安倍雅浩(以後、まーさん)、安倍証(以後、しょーさん)、角陽一郎(以後、マルス)、そしてぼく。高校演劇の顧問。当時はまだ大御所がいた頃で、彼らに反旗を翻す気持ちなんて毛頭なく、もっと面白いことができるという考えが根底にあったと思う。その辺では一致していた。そして、その頃は明確ではなかったが、それぞれがつくる芝居は全く違った。それがよかったと思う。

 まーさんは、確かな人間観と巧みな設定の面白い芝居を書いた。しょーさんは、独自な視点で突っ込み、遊び心満載の芝居を書いた。マルスは、けた外れのエネルギーと機材を投入し、高校演劇では類がないと思える舞台を創出した。その3人に及ばないぼくは、ただ花火を打ち上げるだけだった。その4人は、仕事と演劇部の指導に加えてさらに大きな負担(ぼくらの誰もそんなことは思わなかったけれど)を抱えることになった。

 しょーさんは「せんせいしよん」という名前を言った。「よは小さいよではなく、大きいよです」。英語のせんせしよんと「センセイをしてる」という大分弁をかけたネーミング。みんなOK。ただ、劇団ではなく、面白いことをしてる人たちを応援し、巻き込むためにも、冠詞はOfficeにしたいとぼくは言った。それも了承され、Officeせんせいしよんは誕生した。独身男の潤いのない殺風景な部屋だった。でも、ぼく達4人は静かだがワクワク感が全身に満ちていた。

 高校演劇を経験しながら、大分に残った卒業生には演劇をする場所がない。それが根っこにあった。ぼくらが3年間苦楽を共にした生徒が演劇に関わりたいという気持ちがあれば、その場所を用意したかった。当時、大分にも幾つかの劇団、それめいたグループはあった。しかし、そのどれもが高校生を受け容れるものがなかったのだ。ぼくはそう思っていた。

 じゃあ、とりあえず、自分たちで舞台に立とう。こんなに面白いんだぞ、悔しかったら俺たちを超えてみろ、という招待状と挑戦状をまずやろうじゃないか。そして、Officeせんせいしよんの旗揚げ公演が決まったのだ。

 

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演劇右往左往~1977-8年~

 どうも、この辺の記憶が曖昧で整理できない。

 川端が演出した『土』は天草の高校まで出前公演をした。手伝いにならないけれど、ついていって、えらく寒かった記憶がある。古城とまだつるんでいる奥村の『北斎漫画』を観て、嗚呼、熊大演劇部にも演技の才人が表れたと感動した。安倍公房の『可愛い女』に一つ曲をつけた記憶があるけれど、その順番がわからない。ぼくはどこかで記憶喪失しているのだろう。その辺は来月長崎に行くので、ある程度は確かめられるかもしれない。

 大学の6年間は実に楽しかった。純情朴訥だからこそウロチョロでき、そのウロチョロで沢山のことを経験した。演劇も、英語も、勉強しなかった。高校生の試験前の一夜漬けみたいなことしかしなかった。無駄な役に立たないことばかり経験したと思う。ただ、ムダも積もれば意味をなす、と、いうか、わからない。わからないが、演劇が体の成分の一部になったと思う。

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『いつか見た夕陽』補足

 『いつか見た夕陽』の上演は2回だったか、3回だったか。とにかく、2度目か、3度目の時だったか、ぼくが、モデルになった小野田さんみたいなところを演じたのだが、ぼくが入院している場面で、医者の執行(しぎょう)がドデカイ氷を持ってきて、それで熱を冷やそうとしたのか、不意をつかれたぼくは、ベッドからすべり逃げた。客はわいた。そして、また芝居にもどる。私と私が演じている人間。その辺を行ったり来たりできていたのかもしれない。

 あのドデカイ氷を持ち出したのが執行のアイデアだったのかどうかはわからない。ただ、あんなとんでもないことができた仲間は少ない。

 やばい。個人を述べだしたら際限がないぞ。

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演劇右往左往~1977年 『藪原検校』②~

 『藪原』の時は、部員も多く、なおかつ経験者が多くなっていたし、加えて部員の意気が高かった。ぼくは今まで何度も『藪原』の上演希望を漏らしてきたが、それは多分、この時の上演の記憶が濃厚に残っているからだと思う。

 お市をダブルキャストでの2回公演。カット場面は一か所のみ。だが、前回より上演時間は30分ほど短かった。時間を競う訳じゃないけれど、無駄がなかった、と、思いたい。

 中津出身の梶原(部室で飲んだりの時は山崎ハコの『サヨナラの鐘』(だったか・・・)を毎回リクエストされたものだ)が、前回ぼくが演じた塙保己一を演じた。主人公の杉の市と場面で、保己一はサトイモを食べている。楊枝で刺して口に運ぶことで、食べ汚さないためだと説明する。ぼくの場合、サトイモがなくてカボチャだった。3回公演の最初で杉の市の「何を食べているんですか」に「サトイモ」と答えたら、客席から「カボチャだとう!」という声が飛んだ。それで、次からは「カボチャ」と答えようとするのだが、出てこない。沈黙。ようやっと出てきた経験があった。そういうことがあったので、そのまま梶原に伝えた。そしたら、ほぼ同じことを繰り返した。言わないほうがよかったのかもしれない。

 杉の市を演じた山本は、ヌーボーとしていたが、それが悪どいことをする役柄にはよかった。彼は近視がひどく、デートの時にはそれを外した。彼女とホテルに行こうとして入っていったら、どこかの会社の社員寮だったというエピソードがある。

 今とは違いアナログの世界。形態もインターネットもない時代。移動するにも時間がかかった。ただ、じゃああの頃困ったかというと、そうでもない。それが当たり前だったから、苦にはならなかった。ところが、今、あの頃のことを考えるとシンドサが募る。でもでも、あの頃のシンドサを全く苦にしなかったことが情熱のささやかな証だと信じる。

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演劇右往左往~1977年 『藪原検校』①~

 新しい年になりました。もう少しだけ活力と充実の年にしましょう。

 さて、おぼろげな記憶をたぐりながら、さりとて深追いせず、少しの「あったようなこと」を辿っている訳ですが、間違いは承知の上で、薦めます。
 いつごろからか、時々校長が授業中に校内を巡り、授業を覗くようになりました。そういうのがあると、「今、何?」と生徒から訊かれ、「老人になると廊下をウロチョロするようになる。だからローカ現象と言うんだ」と説明したものです。最近はほぼ1時間「評価」のために座ります。笑ったのは、座った途端、携帯が鳴って、慌てて飛び出した校長がいました。彼は帰ってきませんでした。

 さて、『藪原検校』。その頃は部員が増えていた。ぼくは最前線を退いていたので数はわからない(理由になるか!)。6畳くらいの広さの部室には入りきれなかったと思うが、、はて、どうしてたのか・・・。

 『藪原』をやりたいというので、ぼくに演出せえと言ってきた。多分、モロモロの事情を知っているから便利ということなのだろうと思い、了承した。
 以前上演した時には「強催促(こわさいそく)」と濡れ場をカットして3時間の上演だった。ところが、濡れ場をやると言い出した女子部員がいた。それも二人。それでカットしたのは「強催促」の部分だけ。そして、お市だけダブルキャストでやることにした。だからどうしても2回公演。

 以前書いたが先輩のОさんは「じれったくなるくらいゆっくり台詞を喋れ」と言った。でも、『夢幻奏』で、ヤクザまがいの役をやった時には、相手に何も言わせないのが目的だったからゆっくりじゃなかった。機関銃のように話したはずだ。その時は何もわからなかったが、英文の同級生の部屋のテレビで江守徹の『ハムレット』を観たが、台詞が速い。Оさんの「ゆっくり」は捨てていた。

 ぼくは演出というより意見係みたいなものだった。ある日戸田だったか、阿蘇品だったかに呼ばれた。オープニングに踊りを交えたという。そのために練習してきたという。「お江戸の秋の夕間暮れ~」の歌を歌いながら、彼らは踊った。活力に満ちた素晴らしい幕開け。こういうメンバーでつくる芝居は多分失敗しないものだ。

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演劇右往左往~1977年 『恋愛狂騒曲』~

 「ひよっこ意識ではやれない」とぼくは話し合いの場を離れた。誰かが追っかけてきて、「あんたが抜けたら意味ないじゃないの」とか言われた。その頃には焼けた下宿が鉄筋コンクリートで再出発していて、ぼくは当然、そこに帰った。帰れと言われたのがそこだったのか、帰路だったのか、誰が来たのかとんと覚えていない。で、「Theater Jack」での公演となった。

 結構人数が多い芝居なので、何かの事情で稽古に来れない者もいる。それは仕方ない。ところが何日も来ない者がいた。確か彼は居酒屋でアルバイトをしていたと思う。彼は復帰したものの、以来ぼくは学生の酒がある店でのバイトはダメだと言い続けている。

 公演が成功だったかどうかわからない。客席に本多がいたのかも知らない。ただ、あの試みは結構面白かったと思う。それはもしかすると、Оさんに退部勧告したくせにと言われるかもしれない。どうなんだろう。他の部員から反対があった記憶はないのだが。

 それで終わりのつもりだったが、後輩が『藪原検校』を上演したい、ついては演出を、と、言われ、熊本大学演劇部の秋の公演に関わることになった。

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演劇右往左往~1977年 名前をめぐる紛争~

 教育学部に本多という女子学生がいた。彼女は市民舞台に所属していた。漢書の舞台を観た経験があるかどうか、覚えていない。これもいつだったか覚えていないが、稽古場に行き、代表からアドバイスを求められた記憶がある。そこでアドバイスしてしまう人間の愚かさよ。この愚かさは以前も以後も日常茶飯なのだ。
 ぼくは、大学構内で彼女に「一緒に舞台をつくろう。そのために劇団をつくる」と伝え、その時は了承したのだ、彼女は。
 ぼくは熊本の各大学の合同公演を考えていたので、それに彼女をどうしても加えたかった。商科大学から安田、中村、工大からは徳永が加わった。本多が参加を辞退にしたのは半分の意味が失われた気がしたが、もう動き出していた。

 演目はシェイクスピアの『十二夜』。歌を入れ、ミュージカル風(?)に書き変え、また、当時のロック研に生演奏をお願いした。「序曲」も作ってもらったろころが、『道元の冒険』と違うところ。ロックミュージカルを考えていたのだが、井野が音楽に加わった。ところが、彼はフォークなのだ。だから、目論見は外れたけれど、井野はいい曲を書いた。

 さて、寄せ集め、ごった煮の集団。名前を決めようとなり、ぼくは「シアター・ジャック」を考えていた。同級生の辺木園が「フラッパー」。辺木園は「ぼく達はまだ羽がはえたばかりの飛べない鳥だ」と言ったが、ぼくは「そんなヒヨッコ意識では舞台に立てない」と言った。当時シージャック事件があり、「シアター・ジャック」は物騒だという意見があり、多数決で「フラッパー」に決まった。ぼくは、ならば、と、参加を辞退し、会議の場を去った。

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演劇右往左往~1976年~

 某大手商社に入社したYがどこからか、ストーブとやかんを調達してきた。彼は同じクラスで、なんやかんやでウマが合い、よく飲んでいた。『夏の夜の夢』くらいから参加し、『道元の冒険』では台詞を数ページ飛ばしたことがある。
 彼のアパートの隣の空き地に車があり、ずっと動かないままなので、持ち主を調べ、連絡すると「あげます」と言われ、もらった車を運転していた。ソツがないのだ。

 前回の執行は部長になったと思う。夏の公演の『スパイ物語』ではいい曲をつけた。

 多分、『スパイ』の前だと思うが、戸田の彼氏の川端が商科大学に入学した。で、誰かの部屋で話し合いをしている時、廊下の端っこにいる川端を発見。「うちの演劇部に入ればいいじゃん」(そんな言葉じゃないが、とにかくぼくにとっては中川の例もあったし、境はなかった。芝居する、しない? それだけ。川端は『スパイ』に出てたと思う。彼の野太い歌声を覚えているから。

 ぼくは就職のことをあれこれ考えていたし、卒論もあった。

 卒論は『ハムレット』。何故あんなに長いのかというところで書いたように思う。

 卒論は結構気合が入っていた。だから、締め切り前に仕上げ、書けていない連中の支援をした。全く進んでいないのもいれば、徹夜続きでコンタクトで目が痛くてどうしようもないのもいた。卒論が終わった連中に召集かけて、あれこれ指示して、どうにか提出までこぎつけることができた。

 ぼくは大分の会社への就職が決まっていた。年が明けて、和田先生の家に年始に行った。先生は「お前は人にありがとうございますとかできん、院生も同じ作品を扱っていたが、お前の論文の方が面白い。院に行け」と言われ、先生の家を出たすぐの公衆電話から会社に断り言葉。その後、家に電話して進学することを伝えた。親の出費を全く考えていなかった)行為。でも、許してくれた寛大さに感謝する。

 そしてぼくは試験を受け、修士課程に入ることになった。ただ、もっと芝居をしたいあという思いの方が強かったのかもしれない。

 

 

 

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