中央演劇祭に行く~大分西高校~

 以前、全国大会に行った時、広島の舟入高校がその舞台に取り組んだ記録の冊子を見て、すごいと思った。舟入高校は顧問の先生が毎年原爆をテーマに脚本を書いていたが、生徒も色んな人の話を聞いたり、調べているのだった。その取り組みもすごいが、それをまとめて印刷して、冊子にしていることもすごい。

 大分西高校の舞台を観ながら、先輩のあれこれを「引き継ぐ」ことをすべきだと思った。各スタッフの取り組みと反省を記録しておいた方がいい。大分女子高校から西高校にかわるまでの前後の長い時間、大分の代表として活躍したのに、その遺産が微塵もない。これはもちろん、今の生徒の責任ではない。今年の参加校全てが考えなくてはいけないことではないか。

 「上演許可がおりなくて」急遽創作をしたということだが、その「上演許可」問題についてはぼくなりに聞き取りをしました。その辺については、総会で話して、大分の高校演劇が「引き継いで」いかなければいけないでしょう。

 かつての遺産はあった。それは元気。あれだけ元気が良ければ、後は「どうしても上演したい」脚本を見つけることだと思う。台詞を消す音響、ちぐはぐな照明、袖幕を揺らす出入り、今一歩の脚本。沢山の課題がはっきりしたのだから、次はそれを全部解決した舞台をみせて欲しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中央演劇祭に行く~大分鶴崎高校~

 月曜日から学校がインフルエンザで休校。帰ると、下の娘の学年がやはり同じ事態になっていた。そして、今日、うちの学校は木曜日までが一日延びた。どんよりとした天気に休校の学校は、なんとも奇妙な感触だ。

 昨年と同じ脚本だったが、今年の方が面白かった。父親と娘の恋人を女生徒が演じていたが、特に気になることはなかった。異性を演じるのは様々な困難が伴う。しかし、それは、演じる場合にはいつもあることで、どうやって演じるかが適切ならば問題はないことを教えてくれた舞台だった。キャスト全員が一年生というのが、来年を楽しみにさせる。頑張れ、鶴高!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中央演劇祭に行く~大分豊府高校~

 脚本、演技、装置、音響、照明、どれも良かった。特に演技は今回の参加校の中では一番よかった。また、台詞に大分の言葉をつかっているのもいい。近年地域の言葉を使う傾向は高まっているようだ。昔、ある脚本を上演する学校の手伝いをしたことがある。その脚本は東北の言葉を使っていて、慣れない、わからない言葉よりも、いっそのこと大分の言葉にしよう、と、提案した。彼らはそうしたのだけれど、審査にいらっしゃった故宮本研氏に酒の席でそのことを話したら、叱られた。そんなことを思い出した。関係ないね。ごめん。

 ぼくも明確な答えをまだ出せていないのだけれど、グループエンカウンター(以下、GE)を使ったことはどうなのだろうか。柳井先生がGEの練習にと3人の生徒を呼び出した設定も気になる。 ぼくなら、呼び出した生徒は一人だけにする。そして、GEを表に出さないか、途中でGEを破綻させる。GEとはどんなものか、その紹介ではないと思うから。『コーラス・ライン』が作者の頭をかすめたかどうかはわからない。あれだけ酷な過去を語らせて、後、どうするのか、どうなるのかが気になった。柳井先生が過去の自分に向き合うことから、今は立ち直って生きているというのだろうか。ただ、一度に3人は無理があるから、二人は「助手」なのか、と、色々なことを考えさせられた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中央演劇祭に行く~東明高校~

 脚本を朗読するという形での参加。パンフのキャストには男子生徒の名前があるから、彼が出られなくなってということなのだろうか。朗読はけっこう練習の跡がうかがえるだけに、生徒たちも残念だったろう。

  東明高校の創作脚本は朗読は完結しないままで終わったけれど、上っ面だけの内容だった。もし、もう少し魅力的なものであれば、彼が参加できなくなっても、残りの人だけでも上演しようよ、と、なったかもしれない。

 朗読にも工夫があってもよかった。椅子に座っていて、読む時だけ立ちあがって読む、それだけでも少し変わったかもしれない。

 あるいは、書いたところだけ読んで、これからどうするという形で意見を言い合うのもいいかもしれない。即興でもいいんだ。

 東明の今度の問題はどこの学校でも起こるかもしれないこと。そうなったら、どうするだろうかと考えてみたほうがいいかもしれない。そして、そうならないためにはどうすればいいのか。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中央演劇祭に行く~安心院高校~

 指導力不足教師を裁判員制度に絡めて描くのは面白いが、その線でととんやればよかったのに、結局主人公は「平均値の定理」になってしまったように思う。数学が不得手というか天敵のぼくにとっては、その定理がよく理解できなかった。

 それとこれは大きなお世話だろうが、鈴木君は、一度はあれとは違う線で演じたらどうだろうか。多様な役を経験するには3年間は短いけれど、違う役を演じることで、違う自分に出会えるように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中央演劇祭に行く~三重総合高校~

 高校生の舞台の持ち味が溢れていた。一つは元気。もう一つは遊び。縦横無尽に作り上げた舞台。

 ところが高校生創作の甘さも溢れている。「レミング」がそれ。それは芝居を完結するキーワードなのに、無造作に提出される。そして、いつも思うことだけれど、それで解決できるのだろうか?

 大会のために選んだテーマなら、深刻な問題だからこそ、全員で調べるとか、学校の教育相談の先生にきくとかしてもいいんじゃないだろうか。公園ではなく、家の縁側にして、ホームレスではなくじいちゃん、ばあちゃんにした方が、解決の糸口には近いような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中央演劇祭に行く~大分東高校~

 舞鶴で演劇同好会を2年。その時は予算も稽古場もなく、演劇祭前は生徒昇降口前で通していた。時期的に、5時には暗くなり、アコードエアロデッキのライトを照らして、そこでやった。一回通して、明日までの宿題を出して、ぼくは55キロを帰った。ただ、その後、外灯の下で稽古していたとかいう話もあるが、彼らの口からきいたことはない。大分東の生徒は、ラグビー部のグランドの横で稽古してきたらしい。その難しさ、だからこそ情熱もわかる。

 いい舞台だった。脚本がいい。ぼく達の日常とはあのようなもので、それぞれの背後の重さを明かさないまま、どーでもいいようなことを話している。沈黙も生きていた。そういう中から、切ない部分を感じた。ぼくはあの舞台に想像力をかきたてられ、参加してたのではないかと思う。石川遼子の生活も、新潟に転校して、ちょっとだけ帰ってきた理由も、ぼくなりに理解できた。竹中が進学したのが青森にしたのも、フムと思う。肝心なことは何も書かないことで、ぼくは参加できた。

 最後に大黒を全開にしてほしかったが、ちょっとした理由でできなかったようだ。タイトルももうひとひねり欲しかった。ザ・高校演劇、これぞ高校演劇、と、ぼくは思った。そういう舞台に最初に触れることができた幸せ。インフルエンザで学年閉鎖(だったか?)の中、校長に直訴して出場までこぎつけたらしい。そこまでする価値はあった。その舞台には生身の高校生の息遣いがあったからだ。ぼくにとっては初日ナンバーワンの舞台だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中央演劇祭に行く~はじめに~

 金曜日、仕事から帰って、犬とメダカに食事を与え、安物のナップザックに着替えとカメラと本を詰め込んで、出発した。そして、今日、土田英生さんの講演を聴いて、上演の講評を聴かずに、芸術会館を後にした。ここでぼくなりの感想を書くのに、審査員の3氏の意見を聴いてはいけないと思ったからだ。さきほど、携帯メールに審査結果が知らされた。九州大会の県代表には大分豊府高校に決まったようだ。ほう、と、思った。これからしばらく、上演校の一つ一つ舞台に、ぼくなりの感想を書いていきたい。

 大会期間中は天気がよく、芸館の外で色々と話すにはいい環境だった。楽屋口からも、正面玄関からも、色を変えていく木々がうっとりさせてくれた。

 今年の審査員は良かった。昨年までが悪いとは言わないけれど、組み合わせの妙もある。土田英生さんは、おっと、これは最後にしよう。

 審査員諸氏の判断とは異なるけれど、一人の観客として観て、考えたことを述べてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今年の大分県高校演劇大会の審査員に

土田英生さんが来ます。ぼくはそのことを書きたくて仕方なかったけれど、さきほど事務局長との電話でGOが出ました。

 ぼくは昨年150ほどの脚本を読みました。木下順二とチェーホフの全戯曲と演劇雑誌に掲載された作品、早川の演劇文庫、文芸誌に掲載されたひさしや野田等の作品で、ボルト並みのぼくなりの全力疾走でした。その中で、一番楽しめたのが土田作品。彼の作品が掲載されたものが届けられたり、過去作品を見つけた時は、嬉しくて、全てに優先して読みました。

 その土田さんが了承してくれたのは、舞鶴高校卒業生の山田さんのおかげです。彼女は今年の春土田作品を演出しており、そのルートが決定打でした。

 土田さんはテレビドラマ『赤鼻の先生』も書いています。大分の高校演劇に現在進行形のビッグネームが来るのは奇跡的なことです。講演もして下さるとのこと。11月7(土)、8(日)に芸術会館です。土田さんの話をいっそう楽しむためにも、高校生の舞台を観た方がいいと思います。入場無料。このチャンスを是非!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

東京演劇集団風『肝っ玉お母とその子供たち』を観る

 戦争は悲惨だ。しかs、その戦争で食いつないでいる人もいる。その立場に自分がなることにもなるかもしれない。「肝っ玉」はそういう僕たちの一人かもしれない。

 次男が死んだとき、「肝っ玉」は歌う。その歌は圧巻だけれど、彼女の悲しみに入り込むことを拒む。これがブレヒトの「異化」なのだろうかと思った。

 2年前、大分豊府高校で上演されたときより、ずいぶん良くなっていた。若手が育ってきたせいだろうか。ただ、何よりも、「肝っ玉」を演じる辻由美子は素晴らしい。上演が終わって、HRに帰る女生徒が数人「あのお母さんと話したい」と漏らした。立派だ。

 『フランクフルトに恋人がいるサックス奏者が語るパンダの物語』の二人が公演準備に帰るということで、夜のお疲れ会に参加させてもらったけれど、総勢14人の中に入るのは身体の細胞の一つ一つが躍動し続けた。一言求められたとき、「風の底力を感じる舞台」と言ったけれど、そういう舞台だった。

 毎度のことではあるけれど、風が去った後の寂しさったらない。月曜日は種子島らしい。ぼくは南の空を眺め、深いため息をつく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中央演劇祭を観て

 高校演劇の全国大会では7人(だったか・・・)の審査員が上演校中でよかったと思うものに○を3つつけ、その結果をもとに協議するらしい。○をつける人には1番から3番までの思いはあると思うが、それは表には出ず、上位3校だけを投票するらしい。(今は違っているかもしれないし・・・)

 演劇の審査は難しい。おそらく審査員にとっては文句なしの全員一致の舞台があれば、気持ちの上では楽だろうと思う。なかには、コンテスト形式に反対する声もある。順位をつけるのはおかしい、と。ミカンとリンゴを出して、どっちがおいしいですかなんて成立しない。いや、同じリンゴにしても、柔らかさ、甘さの度合いとかで好みは異なる、とか。審査する人は好みでは審査しないだろうけれど、評価の基準は異なるだろう。それに対して、コンテスト形式があるからこそ、高校演劇は成長していく。そういう考えの人もいる。確かにそういう部分は大きい。

 審査結果について誰もが納得することはまずないと思う。そのどこか不明な曖昧な部分があるから、高校生の演劇は多様ではないだろうか。生徒や顧問が躍起になって生まれる舞台は、順位の枠には収まらないものがたくさんある。

 もっと書きたいことはあるけれど、この辺で。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

様々な場面、様々な人たち(2)

 大学で演劇部に入った。プレハブの文化部の部室。高校時代の憧れの人が演劇部だったので、演劇がどういうものか知りたくて、と、言っているが、実は何故かわからない。覚えていない。

 大学紛争の残り火がくすぶっている頃で、部室にはヘルメットや角材があった。上演する学生会館ホールはガラスが割れ、壁には「日本帝国主義打倒!」みたいな落書き。「この辺で血が流れたんだ」と先輩は、「コーヒーでいいか?」と同じ口調で教えてくれた。

 その先輩の学費は年12000円。ぼくは36000円。入学した時の学費のまま卒業まで続く。ぼくが院に進んだ時は値上がりしたものの、70000万だったか・・・。とにかく、高校時代より安かった。

 変な学生が多かった。ぼくは先輩に連れられてあちこち、その変な人たちの場所に足を運んだ。ただ座って、観てるだけ、聞いているだけ。マージャンなんか知らないのに。でも、それなりに楽しかったし、そこでぼくは人間を観察する面白さを知ったように思う。そして、そういう流れの中で人脈みたいなのができ、ロックバンドを舞台に置いてのミュージカルとかもできたのだ。

 ぼくは今まで上の人から色々と可愛がってもらえたように思う。行動力がある訳でもないし、コミュニケーション能力がある訳でもなく、「いつも静かに笑っている」ような人間だった。記憶が明瞭でないのは、たぶん、いつもボーッとしてたからだろう。国立大学に合格できるとは思っていなかったのに、そうなって、ぼくは不思議な思いのまま、無防備だったような気がする。何があっても「ああ、そうなのか」てなことで、それを受け容れてたように思う。「肌の色をきれいに見せるにはどういう照明にするかを学ぶために、ストリップ劇場で照明のバイトをしたんだよ」にぼくはスゴイと思ったけれど、今ではそれがウソだと思うオトナになっちまった。

 昨年、英語教員の10日間研修を受けて、びっくりした。7割は無駄で下らないものだったが、岡山大学の先生のオールイングリッシュの講義の何と面白かったことか。最近の学生は幸せだ。ぼくの英文科ではなかった。だから、芝居に軸足を置いたのかもしれえない。その軸足は今もぼくを支えてくれているけれど。

 夏の終わりの感傷か。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

様々な場面、様々な人々(1)

 「泥棒の役が上手いねえ」と佐藤先生は言った。中学の時にどういう経緯かは忘れたが演劇に出ることになって、ぼくは演目も何もかも忘れてしまっているが、佐藤先生の言葉だけは覚えている。次の年も英語劇でピエロの役をしたけれど、何故泥棒だったのか、何故ピエロだったのかはわからない。

 ただ、佐藤先生(女性の英語教師)の「泥棒の役が上手いねえ」は明確に覚えている。「泥棒の役」が上手いのか「役が上手いねえ」なのか、今はぼんやりと考えたりするけれど、褒められたことが少ないぼくにとっては、貴重な一言だった。

 褒めることが大切だという考えは教育現場にもある。ただ、その時に「叱る」とのバランス問題があるのではないか。昔、カウンセラー講座を受けたことがあるが、班ごとの実習の時にぼくは注意された、「もっと大きな声で相槌を打たなければダメよ」と。彼女はそういう経験があるのか、ぼくに注意してくれたが、ぼくは違う。大きな声で「そうだよね」とかいうのはウソなのだ。気持の問題は声だけではなく、視線や姿勢にも現れると思う。

 話が逸れた。

 佐藤先生が褒めてくれたことは、もしかすると、彼女も演劇が好きで、ぼくを認めてくれたのではないか、と、今、強引に結論したい。それを思えば幾つかの場面でしり込みしたことを後悔するけれど、中学時代のあの一言がぼくを励ましてくれる。「歳とっても上手ねえ」と言われたいナ。佐藤先生、お元気でしょうか?

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

沈黙と観客

 昨日の日田三隈の舞台での沈黙がずっと頭にひっかかっている。三隈の生徒がまだ克服できていないと書いたけれど、それは、沈黙が「台詞がない」状態になっているように思われたところがあるからだ。

 沈黙は金。沈黙が言葉より雄弁な場合もある。

 ある掲示板で、作者が「気持の流れを大切に」と書いているが、沈黙で、それが途切れてしまうところがあったように思う。だから難しいんだな。あの時、演じる高校生はどうしてたのだろうか。ぼく達は黙っている時、ある言葉を繰り返していたり、どうしようと迷ったり、苦しんだりしている。それが動き、表情に現れる。だから「どうしたの?」という言葉をかけられたりする。

 観客が沈黙のシーンでおいてけぼりを食ってしまってやいないか。最初はわからないだろうが、黙るほどに観客にはわかっていくということはできないものか。

 難しい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

日田三隈高校『ボタン』を観る

 高速で日田まで90分。3150円。夢のようだ。一般道なら3時間はかかるだろうから、それは考えるだけでシンドイけれど、高速ならそれはない。ガソリン代がもう少し安く、高速料金もっと安くすれば、利用者は増えるだろうに。

 さて、日田三隈は昨年に続き全国大会に出場する。今年は群馬県桐生市。三隈の上演は8月10日らしい。

 岩男衣世さんの脚本を演劇部が潤色した『ボタン』は饒舌な芝居が多い中、沈黙が多いという意味で、意欲的な作品と言ってもいいかもしれない。沈黙の演技は難しい。台詞がある方が、ごまかしがきくけれど、沈黙はごまかしがきかない。もちろん、三隈の生徒がそれを克服しているとは言い難い。しかし、こういう舞台があることを全国大会で示すことができれば、高校演劇に新しい視点を与えるかもしれない。

 高校生の芝居を観るのは久しぶりだけれど、高校生は手を抜かない、ひたむきな取り組みが、教えてくれることは多い。ぼくはメモを取りながら観た。彼らに感想を求められた時に、きちんと応えようと思ったからだが、今、それを読み返して、次の舞台つくりに参考になるナと思う。

 日田三隈高校の全国大会での活力と充実の舞台を応援します。頑張れ、三隈高校!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『ハイ!ミラクルズ』を観る

 中学校の子どもが県の芸術鑑賞事業みたいなものに応募してチケットをもらい、一人で三重町まで行かせる訳に行かず、家族で行った。会場は高校演劇でお世話になった「エイトピアおおの」。仕事から帰り、家に入ることなく、そのまま三重町へ。

 会場に入ると、セットが迎えてくれた。これから始まる芝居へのワクワクよりも、何か魅力のない装置だなァ、と。台詞の言葉遣いに統一感がなかったように思う。幾つかの笑いが起こったシーンでも、ぼくは笑えなかった。腕時計の明かりをつけて、時間を何度も確かめた。新聞配達員という設定もウ~ン。あれこれして、結局70点満点というオチに、オイオイ、と。

 帰りの車の中であれこれ感想を交わした。中1の子どもは、面白かった、芸能人を見れたし、と。母親も楽しんだようだった。時には家族で同じものを観るのもいいナと思う。「子どものためのシェイクスピア」をやってくれないかな。どうせなら、異なる舞台を見せたいと思うのだ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一跡二跳

詳しい内容は、ここで:

http://www.isseki.com/Top.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

いよさんの質問に応えます

 一番いいのは演劇雑誌の定期購読ではないかと思います。書店で演劇関係の本を置いていることは滅多になく、劇場もあれば演劇賞も出している紀伊国屋でさえ、大分では5,6段の書棚程度。文庫にも古典がおさまっていますが、とにかく本屋で探すと限りがあります。演劇雑誌を講読すれば、評判の舞台がある程度わかるし、必ず新作が掲載されています。面白そうな本だと思えば、書店に注文します。その本の後書きにはその作家の別の作品に触れていることが多いので、それを注文する。他の作家の作品の広告も出ていたりする。ぼくは『テアトロ』『悲劇喜劇』『せりふの時代』(これは季刊)を購読していますが、どれか一冊となれば『せりふの時代』にします。ひさしや別役実他の劇作家が編集しているので、戯曲3本と他の記事も面白い。

 新聞では朝日が演劇賞を設けていて(今年の発表は今日だったか、昨日だったか・・・)、記事は多い方だと思います。三谷幸喜の連載もありますし。

 e-honというのがネットにあります。演劇、脚本、シェイクスピアの三語をぼくは登録していますが、そうすると、その三語に関係のある本が出たらメールで知らせてくれるのです。ぼくはそれで、たとえば『ハリウッド脚本術』だの『アボリジニ脚本集』だのを知り、注文したことがあります。

 これで漏らした作品はそれほどのものではないと諦めるしかありません。もっとも、脚本を読むのが仕事じゃないから、そんなに沢山は読めません。アンテナを張り巡らせていれば、いい作品は必ずいつかひっかかると思っています。こんなもので、よろしいでしょうか?

 それにしても茶道部、とは・・・。 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

出会った言葉(6)

 マリリンは一日の半分はぼうっとしているように見えた。それでも正常な時はすばらしい演技を見せる。正確に言えば、それは演技ではなかった。彼女は役中人物の感情をなぞっていたのではない。それは彼女自身の生の感情だった。彼女の演技というのは、自らの内面深く分け入って当の感情を見つけだし、それを意識のなかに引っぱり上げてくる、というプロセスから成っていた。結局のところ、優れた演技というのはみなそのようなものなのかもしれないのだが。ジョン・ヒューストン『王になろうとした男』(宮本高晴訳 清流出版)

 マリリン・モンローはグラマー女優と考えている人は少なくないと思う。しかし、演技者としても評価は高い。たとえば『ティファニーで朝食を』はオードリー・ヘプバーンが主演だったが、原作者のトルーマン・カポーティは最後までモンローを主張したらしい。もっとも、奇行の博物館のような人間が言ったところで、展示品行きだろう。でも、アーサー・ミラーがモンローのグラマーぶりに結婚したとも思えない。とにかくモンローという女優は虚像と実像には大きな開きがあるように思う。映画を観てもいないで、ナンテロだのカンテロだのを言う人もいるだろう。一度、映画をとくとご覧になれば、おわかりになるかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

出会った言葉(5)

どんな脚本でも。一度や二度は、もう駄目だ、投げ出そう、と思う時がある。そしてそれをじっと我慢して、達磨のように、そのぶっつかった壁を睨んでいると、何時か道が開けるということを私は沢山脚本を書いた経験から知っていた。黒澤明『蝦蟇の油』

 黒澤でさえ。ましてや。ならば数十倍の時間をかけて。脚本に着手。いつ出来上がることやら・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

出会った言葉(4)

観客というのは謎である。観客の反応を分析する目的で、これまで幾度か心拍数や体温の計測を含めたさまざまな科学的実験が行われた。いずれの実験も、なぜ観客がひとつの心と体を持つように反応するのかその理由を解明するには至らなかった。映画に注意が集中し、内容に共感を覚え、そのリズムと気持ちが一体になりだすと、観客は、集団として、一観客の能力をこえた受容力と感受性を発揮するようになる。ひとたびこのような状態に入ると、観客はこのうえなく微妙なユーモアすら理解し、それに反応する。あたかも一個の集合的感性がスクリーンを前にして誕生したかのようになるのである。同様に、映画に反撥をおぼえると、観客全体が一枚の岩盤のようになることがある。ビクともしない障壁を自分たちのまわりにめぐらしてしまい、映画の語りかけにまるで耳を貸さなくなるのだ。ジョン・ヒューストン『王になろうとした男』(宮本高晴訳 清流出版)

 ぼくが大学で演劇を始めた頃は観客論が盛んだったような記憶がある。最近は余りないようだが、表現は受け手を抜きにしては成立しない。脚本着手の前に、肝に銘じて。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

三谷幸喜『コンフィダンテー絆ー』を観る

 舞台だけれど、観客を入れずに、クレーンや移動カメラを配置して録画したもの。

 ゴッホやゴーギャンなどの四人の画家のアトリエを舞台にして、そこにモデルの女が絡んで、画家達の日々を描いている。訳者は魅力的。特にゴッホとモデルの女がよかった。ただ期待した分、肩透かしをくらった感じが残る。もっと面白いと思ったのだ。モデルの女に比重を置きすぎているのだろうか。芸術と日常が中途半端なのだろうか。悪くはないのだが、魅力的な舞台にはなっていない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

風の『ハムレット』を観る

 風の『ハムレット』を鶴城高校で観た。『マクベス』のほぼ2倍の長さで、T.S.エリオットは失敗作と烙印した。その作品が、きれいに刈り込まれ、一つの形として立ち上がった。見事だった。

 ぼくは卒論で『ハムレット』を扱った。その際に、幾つかの論文を読んだけれど、それに惑わされていたことを数十年後に風の舞台を観て気がついた。ある論文はちょっとしか出ないフォーティンブラスについてかなり力点を置いていた。ある作家はちょっとだけしか出ない二人の若者で芝居を書いた。ヤン・コットは「『ハムレット』はスポンジのように時代を吸い込む」と書いて、ぼくはそれに引き込まれた。

 シェイクスピアを専門にする主任教授の家に図々しく、大学演劇部の『夏の夜の夢』のチケットを売りにいったら、「座れ」と言われ、「向こうの演出家は研究者の意見を求める」云々と2時間ほど説教された。ぼくがただ一人だけ先生と呼べる人だが、研究者の論文では芝居は変わらないことがわかった。当たり前だが、現場でしか変わらない。シェイクスピアの作品を現場の感触で「こうだ!」を見つけて、初めて上演の価値が出る。研究者より遅かったら、現場の意味はない。

 風の上演は『ハムレット』がこういう芝居だったのかを教えてくれた。もちろん、それは一つの解釈でしかないのだろうが、面白く、刺激的な解釈だった。チャンスがあれば、是非!

 シェイクピアの作品の多くには元ネタがある。ぼくも彼の作品の一つくらいやってみようかと思う。この秋と冬に全部読み返してみようかと思う。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

如何に多くと出会えるか

 仲間と出会う。脚本と出会う。観客と出会う。これが上演までの過程。しかし、その間に如何に多くの出会いがあるか。言葉、動き、相手の考え方、表情、仕掛け、装置、あかり、音、小道具等。

 演劇は人間が豊かになる場所だと思う。だって、緞帳が下りるまでの出会いの莫大さ。もちろん、日常生活の比ではない。ところが劇場が、焦点化してくれる。

 芝居に出会ったことが、ぼくの祝福された生だと考えたい。加えて、仲間がいるのだ。

 そういう出会いの歓びと、だからこその楽しさを忘れることなく、舞台を作りたい。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

演劇に天才は要らない

 今、テレビでブレイクダンスのすごい連中をやっているけれど、彼ら体操でオリンピックに出ても金メダルかもしれない。昔と違って、選択肢が多いから、多種多様なところで多くの人が才能を楽しむことができる。

 演劇に最近テレビタレントが出ることが多い。舞台よりはタレントの方が収入がいいだろうからな。

 演劇は、しかし、生きている感触が濃厚で、生き方と関わってくる。演技は人生を重ね、その人が成熟することを求める要素は多い。金や名誉より、自分と向き合い、自分の成長を考える生き方があってもいい。イケイケドンドンの時代はもう終わったのだ。政治家や大企業のコマになってはいけないんじゃないか。ましてや、胡散臭い政権だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『労働者M』を観ながら眠ってしまう

 バタバタの土曜日で、アルコールも入って、深夜1時からの放送。久しぶりの日本の現代演劇の感触で、笑いながら観ていたが、眠ってしまった。

 ケラの芝居は初めて。手元に戯曲は数篇あるものの、まだ読んでいない。台詞を積み重ねて、次にジャンプするのが上手だなと思った。

 DVDに撮ればいいのだけれど、そういったものって観ないんだよな。小泉今日子を観たかったんだが、なかなか良かった。ファンだからかもしれないが、素敵な歳の取り方をしているんではないだろうか。タイトル、小泉今日子にした方が良かったナ?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

浮遊する時代

 母親を殺して、切断した首をバッグに入れ、ネットカフェだかでDVDを観て、タクシーで警察に自首した高校生。赤ちゃんをバイクのヘルメットを入れる所に入れ、パチンコと買い物の後帰れば、死んでいたので袋に入れて捨てた若い親。

 また、とんでもない事件が起きた。

 ヤン・コットは『ハムレット』を論じる中で「芝居は時代をスポンジのように吸収する」と言い、つかこうへいは「芝居が時代におっつかない」と言う。時代が多様になり、芝居も多様になる。舞台に世界をのせることができたのは、今は昔のことなのだろうか。世界の断片だけしかのせることはできないのだろうか。

 ぼくは時代に小さな釣り針のようなものでもいいから時代にひっかけたいと思う。時代を呼吸する舞台にしたい。うちのメンバーは若い。いずれ、彼らがぼくにNOを突きつけるようになれば、もっと面白くなる。「もうアンタ、引退したら」と云うくらいになれば、更に面白い。花も嵐もオジサンも踏み越えて欲しい。ところがどっこいオジサンは、テメーラに越えられてたまるか、と、ますます芝居に染まっていくのだな。

 平凡な日常の中で芝居で冒険をするのは、自由だァ~!

 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

初心は忘れた

 かなり昔ある演劇雑誌に野田秀樹がそう書いていた。世阿弥がいう初心とは「自分は未熟だと思うこと」みたいな意味だったらしいが、野田がどんな意味で使ったかは分からない。ただ、高校までの入学式や全校朝礼で壇上の校長が言ったので覚えた言葉で、野田のそれは鮮やかにひっくり返してくれた。

 一つの芝居が終わる。そして次に挑む時はまたゼロからのような気がする。もちろん積み重ねはあるし、それが練習、制作等では役に立つ。しかし、新しい芝居はいつも手探りから始まる。緞帳が下りて、打ち上げで酔って、泥のように眠り、目が覚めれば、ゼロの状態になっている。次の芝居がやたら遠い。訳の分からないまま動き始める、と、かすかに点滅する何か。その何かに向って手探りで向っていく。ぼくはその時間が一番好きだ。世界地図を前に広げて、新しい冒険の序曲を聴く軽やかな興奮がある。やがて、行き詰って、借金取りの催促におびえる日々になるのだが。

 昔、ソ連で『ハムレット』の完全な上演を目指して時間をかけた。数年後、その企画はつぶれたらしい。芝居は旬だ。やりたい時が旬なのだろう。

 今回、AV女優の芝居(これだけ書くとナントいかがわしいことか)を脇に置いて、別の脚本にする。多分、そっちがぼくには旬なのだろう。書きながら、舞台が見える。多分、こういう芝居をするのは最後になるかもしれない。いや、最後にしていいだけありったけのものをぶっこんでやろうと思う。

 古巣、OfficeせんせいしよんのHP; http://www.geocities.jp/officesensation/ 是非時々。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

『笑の大学』舞台版と映画版を観る

 WOWWOWで6時から観た。

 舞台と映画の違い。映画は無駄が多い。役者は舞台の方がいい。ぼくが舞台派だからという訳ではないと思う。舞台の役者の方が胡散臭く、弱い。映画の一番の失敗はキャスティング。稲垣が悪い。彼が悪いのではなく、無理があった。劇作家の顔ではないのだ。

 笑った。脚本に笑ったし、舞台版の演技にも笑った。

 笑のなかで浮かび上がる時代。演劇論、演技論、脚本の書き方まで入っている作品。一度は観ていい作品。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

明日は『笑いの大学』

 三谷幸喜の『笑いの大学』の舞台版と映画版が、明日WOWWOWで放送される。明日だけは子どもにチャンネル権は与えない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生き方と演劇

 特に容姿端麗という訳でもない。でも彼らは輝いていた。アメリカで子どもが英単語のスペリングを正確に言うコンテストでのこと。地区大会を勝ち抜いた連中が全米大会のステージに立つ。順番に前に出て、与えられた英単語のスペルを言う。正解ならば、残り、間違うとそこで退場。最後に残った者がチャンピオンになる。そこで出題される英単語はまず日常では使わない。彼らの部屋には分厚い辞典が置いてあり、一日5,6時間勉強する。漢字検定一級には、マニアックな問題が多いが、それを考えればいい。

 空いている時間を何かで埋める。そのための演劇であれば、多分失敗する。高校演劇はお金を取らないが、金を取る取らないだけじゃない。気持ちの問題だ。目の前の観客に全身全霊で挑むことによってしか、劇場は生まれない。舞台と客席が一体となった時に、そこは劇場になっているのだ。劇場になれない舞台と客席だけの場所を流れる空気は冷え切っている。

 睡眠を削ってまで取り組むことはない。そんなことをしていいことは何もない。ただ、やむを得ずそうしなければいけないこともあろう。スペリングコンテストに挑む子どもたちの中には買い物や、集まりへの参加の時間を惜しんで取り組んだ。プロとアマの違いの線引きは難しいが、そういう彼らはプロだといっていいように思う。練習は繰り返し。何度やってもOKとしない。もっともっとを求める気持ちなら今すぐにでも持つことができるはずだ。後は、継続。

 つまらない舞台は、つらねえ生き方をしてるからだ、と、断言していいかもしれない。いい生き方をしよう。ついでに満足でき、満足させる舞台まで活力の枠を広げようじゃないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

芝居、演劇、劇

 ぼくらが舞台でやることをどう呼ぶか。

 子どもの多くは劇という。ぼくは芝居とか演劇といい、劇とはいわない。しかし。

 もしかすると劇が正解なのかもしれない、と、思う。芝居とか演劇は、劇の根っこの部分から関心をそらしているのかもしれない。高校に入るまでの生徒は劇と呼ぶ。舞台で動き、喋る、その基本の面白さ、愉しみを押さえているのではないかと思う。

 小説、詩、音楽、絵画、彫刻等々の表現に劇的な要素はあると思う。ただ、「的」のつかない「劇」とは何か。舞台で動いて、喋れば、「劇」ではないのだ。「劇」とは何か。ベケットの「劇」をまだ理解できない。意識的に考えてみなければ、と、思う、ひな祭りの夜だ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

劇場が全てを教えてくれる

 演劇が教えてくれるものは多い。しかし、上演しないことには演劇は意味がない。練習(ある演劇関係者は「稽古」って言いなさい!ってよく言ってたが・・・)して、劇場で上演する。上演する側は観客を選べない。そこで上演する。緞帳が下りて、一つ経験。そこでぼく達は沢山のことを学ぶ。小説や美術や音楽と違い、演劇は人前で上演して、初めて成立する。「分からないお前らなんか関係ない!」とは言えない。演劇の面白さはそこだろう。それを経験したら、芝居は人生の中で恋人の愛情より価値が出て来たりする。恋人は去るが、芝居はいつも自分の内部、自分の目の前にある。芝居は人が人として生きる上で、最も有用な道具だと思う。

 芝居、しましょう!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

名作の言葉(1)

わたしたちの旅はまだ長いのだ。都市とともに老いてはならん。

                              唐十郎『二都物語』

 男と女もそうだけれど、演劇が時代に寄り添いすぎると、時代とともにこけてしまう。これはイカン。私をしっかりと保ち、自分の信念を持つことが今こそ求められるように思う。安部首相が「美しい日本」という極めて意味不明なキャッチフレーズで今日本を混沌とさせている。大体形容詞で語る政治家は信じてはいけない。形容詞には実体がないのだから。安部とはこけたくない。

 それにしても唐十郎はすごい。一時期彼の作品をやりたい時期があったが、もう体力も精神もとても太刀打ちできない。でも、本人はまだテント張ってやってやいるんだから、すごい。全集が欲しい作家だな。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『演劇やろうよ!』はいい!

 以前触れたが、かめおかゆみこ『演劇やろうよ!』(青弓社)は高校の演劇部の部室には置いた方がいい。

 著者は、演劇が好きで、できるだけ多くの人が演劇に触れることを願っている。その姿勢がいい。演劇関係の本はかなり出ているが、かめおかほどの誠実さはない。かめおかのこの本が一冊あれば、そこから創意工夫していけばいいだけのことだ。殆ど基本的なことは網羅している。それをわかりやすい言葉で丁寧に書いている。多くの演劇本は、演劇のことより、自分を語っていることが多いのに、かめおか本は演劇が好きだ、演劇は面白いに満ちている。ぼくも初心者に近いが、出発点を確かめることができた。「間違っていませんよ」とポンと肩を押されたような思いだ。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

デヴィッド・ボールの言葉(7)

脚本を一度か二度読んだだけで、稽古初日に乗り込んでいくなどもってのほかだ。

                            『戯曲の読み方』(ブロンズ新社・常田景子訳)

 ぼくの卒業論文は『ハムレット』、修士論文は『リア王』。ただ、最初にシェイクスピアを読んだ時は、全く面白くなかった。大学3年の夏の公演を解散覚悟で取り組んだのが『夏の夜の夢』だった。何故だったかは思い出せない。

 読む作業はかなりの労力が要る。小説より、戯曲の方が、そうだと思う。一回読んでわかるとは思わない。作品がまた読ませる。そしてまた読む。上演作品に決まったら、ほぼ毎日読む。流れを追う読み方では脚本の面白さはわからない。

 高校演劇の顧問の時、ぼくは毎回脚本を書いたけれど、役者は書いた人間と同じ苦闘すべきだと言った。一回読んで判断するなんざ、余りに安易なのだ。

 戯曲を読むには精神力と体力が要る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

かめおかゆみこ『演劇やろうよ!』はいいかも

 かめおかゆみこ『演劇やろうよ!』(青弓社)をトイレに置いて、座る度に数ページ読む。演劇初心者には、もしかすると、バイブルになるかもしれないと思う。演劇部の顧問も、もう一度確かめるという意味では一読した方がいいかもしれない。

 ホントに便利な時代になった。ぼくが演劇をかじりかけた頃は、演劇の本は少なく、高価だった(ぼくが貧しかっただけかもしれない)。今はインターネットで、たとえば「ういろう売り」もすぐに、それもルビつきで手に入る。脚本だって、かなり手に入る(まともなものは1割か?)し、演劇用語も、スタッフワークも、知る事ができる。しかし、ぼくは本を買うことを薦める。インターネットは勝手。価値があるかどうか、その辺の評価をくぐりぬけていない。本は、出版社の検討があり、「価値あり」と判断されたから出版になる。

 かめおかゆみこ『演劇やろうよ!』は初心者向け。それもオトナ向けではないかもしれない。しかし、基本はきちんと押さえているようの思う。本屋に注文して、まず、読むべきかもしれない。初心者も、のぼせあがった顧問も。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

劇場の問題

 劇場と呼べるものは少なく、殆どはホール。講演会やカラオケ大会にも使われる。

 そこが、結構問題が多い。建物は人の指紋がつくほどに長生きすると思うが、管理する側はそんなことは関係ない。管理するだけ。高校演劇の大会で減免のお願いをしても、「市の福祉関係の行事でもやっていません」という言葉が返ってきたりするところが少なくない。でも、滅多に使われることがなく、一年の使用率は3割程度ではないか。

 そこを使えば、人が集まる。ホールは人が集まらないことには死んだ空間だ。

 あるホールである劇団が上演して、前日の仕込みの時に役者の一人がムカデで噛まれ、急遽東京から代役を呼んだという話しがある。

 行政とは市民の中で呼吸することが肝心で、それがなされていない。

 大分の中では国東のアストくにさきがトップ。職員の方の姿勢が「使ってくれてありがとうございます」で、こちらが低姿勢になってしまう。三重町のエイトピア大野もいい。朝挨拶に事務所に伺うと、{どうぞ好きに使ってください」というおおらかさで、会場付近に姿を出すことはない。安心院の町民会館もよかった。どうにか10時までに会館外に荷物を出したら、会館の人が来て「ご協力いただいてすみません。一応10時までということになっていますので。外の明かりは一晩中つけておきますので、怪我のないように」。こう言われると、10時までがクセになっているので、嬉しくなってしまう。

 金をかけた建物が使われることなく、廃墟になっていく。そんなことやめた方がいい。どんどん使ってください、と、言えないか。朽ちていく建物だ。必要経費だけでもいいんじゃないか。

 もう一度言う。建物は人間が使って初めて価値がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一人芝居の面白さ

 昨夜、緒方拳の『シラノ』をチラッと観た。テレビの悲しさだろう、面白さが伝わらなかった。

 前任校で一人芝居を4本書いた。一人芝居はある一人の人間を演じる。緒方拳は何人かを演じていた。対話がある。落語みたいなものだ。ぼくからすれば、あれはあれは一人芝居にはならない。井上ひさしの『化粧』、あれが一人芝居の傑作。

 一人芝居では空気を濃くしないといけないように思う。そのあれこれが面白い。久しぶりに一人芝居を書くことになった。どうやら役者には遠慮が要らないようだ。高校生ではできなかった舞台ができる。ワクワクする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

そうだ!(2)

 大学で演劇を始めた。高校時代に好きだった女の子が演劇部だったので、どういうものか知りたかったからだ。そこには色々いた。高校演劇出身者が色々と話すが、ぼくには何のことかわからない。コンパの時は寝たふりしてた。それで、ぼくは本から入った。本になっているのは太鼓判を押されたものだから、素人には厄介極まりない。ただ、わからないまま続けていると、一つの言葉、一つの文、それが刺激して、次に進ませてくれた。

 ヤン・コット、ブレヒト、イヨネスコ、ベケット、ピーター・ブルック、わからないままそういう人の本を読んでいた。

 井上ひさしの『藪原検校』を上演した。濡れ場や強催促などをカットして3時間。ぼくは主に塙保己一を演じたけれど、先輩のアドバイスは「じれったくなるくらいゆっくり台詞を」だった。

 それを4年後に再演した。ぼくはある事情で大学に残っていた(詮索するなよ)。その時、濡れ場もやるという女性が二人。演出を始めてした。その時ぼくは先輩の教えを破った。台詞は速く。強催促の部分だけをカットして、2時間ちょっとの舞台になった。

 観客は一語一語を噛み締めるのではなく、展開を待つと考えたからだ。江守徹の『ハムレット』が恐ろしく早口だったという劇評が多分背中を押してくれたと思う。

 舞台の規則は多い。しかし、意味を感じなければ、それは規則にはならない。

 今でも時々「客席にケツを向けてはいけない」と高校演劇の場面では言われる。笑ってしまう。

 舞台ほど自由な場所は世界の何処にもない。

 だから、演劇は楽しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

そうだ!(1)

 学生時代。今はもう廃刊になった演劇雑誌で、吉田日出子さんの言葉に出会った。

 「舞台は私が私に成りきれる場所」

 自分のあらゆるものを総動員して演じればいいんじゃないか。「役に成りきる」という正体不明の言葉から解放され、自由になった。私は私。それでいいんだ、多分。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

田舎で演劇の刺激を受ける方法

 時々テレビで観ることができるが、面白いものを見逃さないにはかなりの努力が求められる。

 やはり、読むことだろう。『台詞の時代』『テアトロ』『悲劇喜劇』。二海堂書店に定期購読をお願いすれば、配達してくれる。この配達がたまらなくいい。その雑誌をめくりながら、新刊の情報があれば、それを取り寄せてもらう。それで戯曲、芝居関係の本は間違いなく手に入る。

 沢山、読もう。読む気持ちにならない時は、声に出して読むのも一つの方法だろう。肝心なことは、こだわりなのだ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

上演日決定!

 8月25日(土) 鶴見町町民会館 上演作品は『Happy Birthday, Dear...』

 もう引けない。しかし、キャストが足りない。口説くしかない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

三谷幸喜『戸惑いの日曜日』を観る

 WOWWOWで放送された三谷作品。演出は佐藤B作。計算されたドタバタで、笑った。メインの設定に様々な筋を絡めて、次を観たくなる。三谷は上手い。参考になった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

観客について

 注意が集中し、内容に共感を覚え、そのリズムと気持ちが一体になりだすと、観客は、集団として、一観客の能力をこえた受容力と感受性を発揮するようになる。

 ジョン・ヒューストンが映画の観客について述べたものだが、演劇も同じだろう。書く者にも、舞台をつくる者にも、観客の視点が要る。ただ、これには抵抗があるかもなと思うけれど、譲れない場合がある。それで失敗することも少なくない。楽しいが難しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

風の劇場を訪ねた

 東京演劇集団風の劇場は一回観たかった。その劇場を訪ねた。

 来年ブレヒトの芝居の仕込みの最中で、ベテラン、若手が一緒になって準備をしていた。芝居仲間のいい感じが一杯で、羨ましくて仕方なかった。ヤマシンは一回行った方がいいかもしれない。芝居仲間のあるべき姿を学べるはずだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

禁煙、節酒、さて芝居

 大分県佐伯市で来年夏旗揚げする SWING-BY は年明けに初会合をすることになっている。オリジナル作品で挑みたいと、目下、仕事の合間にもメモしながら脚本が産声をあげる状況を作っている。演劇の土壌もウナギもない場所なので、ぼくも舞台に立つことになるのだろうナと思い、2時間近い舞台に立つ気力と体力を考えている。

 演技することの楽しさ。それより怖さ。「それ、演技でしょ?」と演技はウソだと考えられているが、演技にはウソがないから演技なのだ。与えられた役割、言葉、動き。それに自分をどう重ねることができるか。全て真実。ウソに観客がOKするものか!

 ぼくは観客をくすぐりたい。大笑いじゃなく、コチョコチョ、と。

 ヤン・コットは『ハムレット』を論じる中で「演劇はスポンジのように時代を吸収する」と言った。確かに。芝居は時代を呼吸する。その点で芝居はあらゆる芸術に引けを取らない。むしろ抜きん出ていると声高に主張したいくらいだ。多分、ある程度時代と対決する舞台になるだろう。ただ、来年の参議院選挙の後になるので、その辺までに政治が誠実になっていれば、ちょっと困るけれど、困った方が日本にはいいから、いいか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日田三隈、九州大会最優秀賞!

 通夜の席で携帯が一回震えた。こっそり観ると、九州大会の結果。日田三隈の快挙。場所的に心の中で頷くことしかしなかったけれど、快挙。元気が出る。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一所懸命の度合い

 山口達也の演じる林家三平のドラマを観た。笑い一つに莫大なエネルギーを注ぎ込んだ三平を観て、ぼくは甘いことを痛感した。表現って、命を削る作業から生まれるのだ。頑張れと励まされたように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

どうせ見るなら大きい夢を

 仲間を集めて芝居をする。新幹線構想から弾き飛ばされた九州の裏街道の外れの小さな町だ。しかし、時間と労力と少しの金をかけて取り組む限りは、「小さな町の小さなグループの」の後に物珍しさめいた言葉で続けられるような芝居は創りたくない。

 『テアトロ』『悲劇喜劇』『台詞の時代』で、現在先頭を走っている人たちの作品に触れる。いい作品には嫉妬する。何故こういう脚本を書けないんだ、と、嫉妬する。ただ、時にはつまらないと思う作品もある。

 地方区ではあるが、気持ちは全国区。どこに出しても恥ずかしくない脚本を、とにかく、仕上げる。それだけのことだ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

ブレヒトという演劇人

 ポール・ジョンソンの『インテクチュアルズ』の中にブレヒトが扱われている。それによると、私生活はいい加減。人妻、女優に手を出してはポイ捨て。加えて作品も盗作、それまがいのものが多いとある。

 ブレヒトはかなりの成果と影響を演劇に残した。ジョンソンがあれこれを持ち出したところで、評価は動かないのかもしれない。ただ、似たようなことでのあれこれは今も行われているだろう。ブレヒトがやったようなことはシェイクスピアもやっている。

 ただ、やはり私生活は作品に現れる。シェイクスピアの私生活は不明なところばかりだが、ブレヒトの作品よりは人間の手触りがある。「異化」だから、といわれれば、そうなのかもしれないが、知的な面白さはあるけれど、魅力に欠ける。

 もうちょっとブレヒトについては時間をかけて、考えたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トルーマン・カポーティという作家

 世界ナンバーワンのホモ。ジェラルド・クラークの『カポーティ』にそいう言葉が出てくる。上下2段、700ページ近い伝記。読むのに骨が折れる。骨が折れるから、読むのに3年かかった。やめては、また、の繰り返し。その間、数十冊の本が先にゴールした。

 カポーティは戯曲も書いている。何と演出はピーター・ブルック。その辺の件は、若いブルックの右往左往といい加減さが見え隠れして、面白い。

 「本を書き上げたくないのは、書き上げるというのは死ぬようなものだからだ。」

 アル中で精神科にかかっていたカポーティーはそう言う。『冷血』の作家だから、説得力がある。クラークの大著の中で、一番面白いのは『冷血』執筆の部分。一つの作品を書くことは、命を削る作業に等しい。そういう気持で次の脚本に挑みたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

世阿弥を読む(1)

 1974年の3月に買った『世阿弥集』。学生時代に買って、読んでいない。読み始めてやめたのだろうが、受信状態ではなかったのだろう。それが何故か職場の机のあれこれの下にあって、パラパラとめくった。打ちのめされた。現代の演劇あれこれの殆どがあると思った。

いったい、老人の動作に、いくら歳をとっているからといっても、腰膝をかがめ、身体をすくめては、花がなくなり、古めかしい演出になってしまう。

600年も前の言葉。なのに、高校演劇や「アマチュア」演劇ではまだ行われている。ちょっと世阿弥を読んでみるか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

練習じゃない、稽古?

 昔、ある演劇関係者と話していた時、練習云々といったら、「練習じゃないですよ。芝居は稽古っていわなきゃあ」と言われた。

 今日、買っただけで読んでいなかった『世阿弥集』を開いた。『風姿花伝』の最初の文の注釈に「稽古の原義は〈昔を考える〉こと。先人の教えに基づいて研究し学修する意に用いる。練習もその一部分であるが、中心は研究である。多くは【研修】と訳することにした」とあった。研修・・・か・・・。職場じゃないんだからな。でも、「稽古するぞ!」って、「啓子、するぞ!」って何かいやらしいもんな。やっぱ、練習でいいか。これまで「研修」した結果だから、許してね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

北村想『高校生のための実践劇作入門』を読む

 脚本を書く作業は、殆ど舞台をつくる作業と同じだ。舞台を設定して、そこを人間が動き、喋る。設定さえきっちりしていれば、書くのがじれったいほど、彼らは喋り、動く。そこまでが、しかし、時間がかかる。

 北村想の高校生のための脚本講座は、多分、設定を少し間違っているのだろう、余り面白くない。高校生にはストレートが一番いいと思うが、変化球で迫ってくる。でも、高校生は一度読むといい。脚本の技術は結局は芝居作りの技術と大きく関係がある訳で、その辺を知らない、考えない高校生は結構多いのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人間を研ぐ

 日本人は米を洗わない。米を研ぐ。

 芝居は研ぐ作業で成り立つのかもしれない。作家が言葉を研いで脚本を書き、役者は演技を研ぐ。観客は感性と想像力を研ぐ。

 芝居は人間を研ぐ場所なのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

再び、劇場へ!

 片付け終わった舞台から誰もいない客席に向かうと、さっきまでのざわめきや高揚が夢ほどにも感触がなく、切なくなる。その切なさに酒で騒いで、泥のように眠って、ヨレヨレになってふとんから抜け出し、呆けたように一日を過ごす。何度かの芝居経験のそのどれもが、そういう終わり方だった。

 片田舎で芝居をする。やるか?と声をかけたのがきっかけ。それほど本気じゃなかったが、来年夏の旗揚げのあれこれを考えているうちに、やることが多く、のんびりしてもいられないことに気づき、マジになってきた。

 ここに住んでいるから、ここだから生まれる舞台にこだわりたい。そのためにはオリジナル脚本を基本にするつもりだが、それだけにこだわると、痩せていくような気もする。だから、上演したい既成脚本も数本は常に持っていたいとも思う。

 来年夏までのドタバタ小劇場をここで発信しようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)