向田邦子『冬の運動会』を読む
よくできている脚本は、読んでいて人物が浮かびあがる。向田邦子の脚本をはじめて読んで、その腕力に感動と驚きを覚えた。感受性に富み、よく寝られている。っして、人に対する視線の何と優しいことか。
巻末の和田勉、丹波哲郎との話しも面白い。岩波現代文庫はいい作家を取り上げた。
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よくできている脚本は、読んでいて人物が浮かびあがる。向田邦子の脚本をはじめて読んで、その腕力に感動と驚きを覚えた。感受性に富み、よく寝られている。っして、人に対する視線の何と優しいことか。
巻末の和田勉、丹波哲郎との話しも面白い。岩波現代文庫はいい作家を取り上げた。
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敷地内禁煙で、校門でタバコを吸う。しばらくそれが面倒でやめていたが、半年くらいで復活した。どこの学校も同じような光景があるらしく、時に電話で「みっともないからやめろ!」という電話があったりするようだ。それは上が対応と判断をすることだ。ただ、生活の中には句読点と改行が要る。
今日、タバコを吸っている時、「晴れのち曇り、時々殺意」というタイトルが浮かんだ。こっちの方がいい。「断然」を3つくらいつけるほどいい。これで決まりにしよう。
『ハイヒールで乾杯』はずっとタイトルが決まらず、一人芝居バージョンに考えていたものを引き出しから出して、ホコリも払わずにつけた。タイトルもつけられずに書けるわけがない。
おそらく、たぶん、きっと、次は『晴れのち曇り、時々殺意』です。3月中旬の公演になるかもしれません。これから、時々、執筆状況を書きます。
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『焼き肉ドラゴン』は読んで面白く、舞台を観たいと思った数少ない脚本。
小さな劇団故のあれこれにはウンウンと。
ただ、面白くない。
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芝居を観たことはないが、男女二人が子どもの頃からのお互いへの手紙を朗読する形の芝居ということ、そして「Oha!4」の中田有紀(あき)アナウンサーも演じたはずだ。相手役の男優なんざ知らない。
英語の脚本は持っていた。いつどこで買ったのか、とんと覚えていない。最近物忘れがひどいけれど、とにかく思い出せないくらい昔なのだ。
脚本は二幕。一幕目は音読した。2幕目は、さすがに疲れ、黙読。50ページを2時間半。ダールの短編小説以外で、一気に読んだのは初めて。それほど面白かったといいう訳ではない。二人の顛末を知りたいだけ。世界にこういう「恋人」はいないんじゃないかと思う。生まれ育った環境に加え有為転変が過剰に思えてならない。
ただ、有為転変を経てはじめてわかることも少なくないだろう。局面は違うものの、昔付き合っていた人を思い出して、今だから、と、いう、そんなこと、あるもんな。
この本は、脚本を読むのが目的ではなく、英語のトレーニングのためでした。
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面白かった。しかし、わからない。わからないけれど、面白かった。
わかるということはどういうことか。芝居を観ていて、先を読んで、その通りになったら、膝を叩いたり、「やはりな」とつぶやいたりする。わかるということは知的なことだが、表現とは知的なものは部分でしかすぎず、心が揺り動かされる方が主要であり、それには名前がつけられない場合も少なくない。「なんて言っていいかわからいけれど」という枕詞のあとに「感動した」「面白かった」とつながる場合のように。
わかろうとする知的活動は捨てて、「こんなことアリかよ」「びっくり」「切ないナ」みたいな感情で接してもいいかもしれない。そんなことをぼんやり考えた。
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演劇に限ったことではないが、続けるからこそわかること、みえることがある。そしてそれを持続するための何かは、もしかすると疲れを知らない好奇心かもしれない。
この『ブラックバード』は、以前だったら面白く読んだかもしれない。面白くないという訳ではない。一気に読んだから。ただ、この世界はもういいや、と、思った。女と男は時にこのような奇妙な愛の形をとることがあるのだろうが、人間ではどうしようもない、たとえば時代とかを絡めることはできないものか。
二人芝居の最後に少女が登場する。それはそれでわかるものの、登場させないことはできなかったのだろう。書いている時、ある誘惑が湧き、どうかなァと思いながら誘惑を封じ込めることができないことがある。それはそれで暗い想像が広がるからいい。でも、我慢しきれなかったのか、と、思う。二人でやってきた芝居なんだから。『ゴドー』の少年とは違う。
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嫁入り前の娘と社会人の年齢だが社会に出ていない息子がいる夫婦が実は性体験を持っていないという設定。相変わらずのバカバカしい設定ではある。家庭という舞台のせいか、あるいは家族劇になっているせいか、どうも土田の天衣無縫さというかパンチがない。巻き込まれていく快感がなかった。
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今日は家族でパークプレイスに行った。もう子どもたちに付き添う必要はない。むしろ付き添って欲しくない年頃になった。ぼくは、だから、家電販売店に行った。約束の昼食の時間まで90分。そこで鶴岡、津久見の卒業生に会った。二人の卒業には7年の差がある。時間の流れを感じた。ぼくの目的は一眼レフカメラだった。買うのではなく、品調べ。今使っているデジカメは4台(代?)目だが、持ち歩くには最適だけれど、それはメモにはいいが、文章を書けない。キャノンの派遣打ち切りがなければ、教え子も被害にあっていなければ、キャノンをみたかもしれない。ここ2代キャノンなんだけれど、完璧に無視。ぼくはNIKONを一番みた。昔、昔、キャンディス・バーゲンとかいう女優が趣味の写真と語る、その手元にあったのはニコンだったように記憶する。一眼レフは、カメラ屋のカメラにしたい。昔持ったのはキャノンAE1だったが、レンズ機能の進化は凄い。これはいいなあ、そう思ったものは20万を超える。買えない。ただ、下げる気持ちは毛頭ないので、買える算段をしながら、ハードディスクを買った。320ギガで1万を切る。パソコン2台目の時、ハードディスク8ギガを買った時、あるいは5年前修学旅行のためにデジカメを買った時に2ギガカードを買った時、1ギガ1万以上だった。それが、今は、ナンテコッタ、パンナコッタ。
一人芝居。別役作品のいつもと同じ設定。ただ、別役の昔の暴力がない。すごく落ち着いてきた。川端康成がノーベル文学賞を受賞した時のスピーチは「美しい日本の私」。鶴城高校の国語の先生(徳永、だったか、今思い出すたびに、彼は素晴らしい教師だった)は、「日本と私、と、しなかったのがいい」と授業中におっしゃった。日本語の助詞は難しい。ただ、セールスマンには場所がない。風と同じ。じゃあ、今のワタシは?
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まだこういうスタイルで書く人がいるのか、と、訳のわからない感想を持った。タイルはり職人たちの逃げ場のない日常とそこでの右往左往。それだけ。国立劇場で上演されたようで、演出がやたらハイフンの多い台詞の意味を理解しかねていたようだ。原文がどうなのかはわからないが、句読点では感じが違うためだろうと思われる。ぼくの今度の脚本は句読点もハイフンもない。どうだ、こっちの方が厄介じゃないか?
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職場にパソコンの持ち込み禁止、USBメモリーもダメとなって、家での仕事ができなくなった。そのくせ学校でのパソコン使用時間が一日平均2時間を超えると、何やら検査を受けるとかナントカ…。何月何日にどれだけ使ったか、分単位で示すアイコンが月ごとにデスクトップに一つずつ増えている。だから一日90分以上は使わない。どうしても3時間とか使うことがあれ、次の二日は使わない、と。ぼくのような人間には、デジタル化された社会は非人間的になっていくように思えてならない。職場のコミュニケーションとか一方でいいながら、そのコミュニケーションが失われつつある。奇形な社会だ。
最初に引用しているサンドバーグの詩がいい。清水の成分の半分以上は詩人だから、か?
芝居はアナログだ。社会がデジタル化されるほど、芝居は意味も価値も輝きも増してくる。清水邦夫も、また。
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遠藤周作最後の戯曲。慶応の偉大なる先輩・芥川比呂志が亡くなったのが劇作をやめた理由らしいが、『黄金の国』を書いた同じ人間が書いたとは思えない失敗作。失敗の原因は医者を二人も出してしまったこと。加えて、一人は精神科医。その二人が亡霊を見たという男のことをあれこれいじくるのだから、面白い訳がない。冗長で散漫。
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山田長政が主人公。名前だけは知っていたが、はて、どういう文脈の中でだったかは、わからない。こういう人だったのか、と、意外な感じ。昔、「しおさいの詩」の小椋桂はアルバムカバーに岡田祐介を使っていたが、そうそういう感じなんだと思っていたら、本人はズングリムックリの人で、意外だったのに似ている。
大分出身の殉教者ペトロ・岐部が登場する。ローマからの帰りだが、キリシタン弾圧から逃れてきた日本人が「帰るな」というけれど、困難の果てに帰り、結局は火刑に処せられることが述べられる。もしかすると岐部をもっと描きたかったのが、長政に魅力を感じて、結局、こういう形になったのかもしれない。作品としては冗長で散漫。『黄金の国』のグイグイはない。
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朝から半袖で過ごせる季節になった。ウッドデッキに本とノートを持っていき、犬を放す。最近は本に飽きると、家の周辺の草取りをする。草は抜いても抜いても出てくる。際限がない。この溢れる生命が、地球を青くしているのか。さっき読んだことを考えながら草を抜くのは、まァ、咀嚼みたいなもんか。
『薔薇の国』は『黄金の国』の時代を先の戦争の時代に置いたものだが、歯切れが悪い。一つには絡まる要素が増えていて、そのやりくりが難しいからか。信仰は心の問題で、心は目に見えない。目に見えるようにするためには、場所と人物の設定こそ脚本の要なのだ。
さて、草抜いて、ビールでも飲むか。
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大学時代に遠藤の小説『沈黙』を読んだが、内容は忘れてしまった。踏み絵を「踏んでいいんだ」という神の声だけ覚えているのみ。この『黄金の国』はテーマは同じだが、戯曲としての完成度も高い。書こうとしていることがはっきりしているからだろう。キリシタンを弾圧する井上筑後守を以前キリスト教信者という設定(事実かもしれないが)にしたのがいい。
それにしても、キリシタン弾圧の何と悲惨なことか。ここまで人間はやるのか、と、恐ろしくなる。遠藤のたどり着いた「踏みなさい」という考えは、凄いと思う。
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最近ぼくはある作家の作品を集中して読む傾向にある。これは、はて、図書館の係になったから少しは借り出さないといけないという義務みたいなものがあるのは確かかもしれないが、昨年の木下順二、チェーホフは借りたものではない。まとめて読むと、重なっている部分が明確になり、その作家の核みたいなものが見えてくるような気がしてくるのだ、というところで、誤魔化しておくか。
遠藤周作はクリスチャン。神と人間、神は人間を救うのか、それが彼の核にある、と、思っていた。遠藤の作品を読んだのは学生時代で、専ら小説。そして、今回、遠藤の全集を図書館で見つけて、戯曲だけを読んでみよう、と。
『親和力』というタイトルが、もう少しどうにかならなかったか、と、思う。ゲーテの影響がどれくらいあるのかわからないが、それにしても・・・。観たくなる舞台の看板じゃない。
人は生きている限り、謝ってチャラになるようなことばかりではなく、解決も、その糸口さえ見出せない、そういうことが澱と重なっていく。それにどうやってケリをつけるのか。そこに宗教はどう挑めるのか。宗教に解決はない。宗教は装置。自分が自分を考える装置、その時間と場所なのだと思う。遠藤の劇作術は幼いけれど、彼が提出した問題に誰が納得いく答えを出せるだろうか。遠藤でも、出せないように思う。だから、価値があるのかナ。
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黒い寓話と呼んでもいいのか。大学時代「狐狸庵シリーズ」を笑いながら読んでいた。あのとぼけたおっちゃんにこんな面があるのか、と、意外だった。人は多面体だから、状況に応じて、ある面がググッと出てくることもあるだろうが・・・。
朝のテレ朝の天気コーナーから甲斐まり恵が消えたのがさびしい。今度の人もいいけれど、甲斐のあふれるばかりの可愛さは良かった。朝を迎える歓びだったのだが。
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ずいぶん前、井上が宮本武蔵を主人公に脚本を、それもミュージカルを書き、ブロードウエイで上演するというニュースが田舎にも届いた。それは結局立ち消えになってしまった。今回、蜷川演出で上演されるという新聞記事を読み、「私たちはみんな小次郎です」という蜷川の言葉の笑いつつ、はて、どんな形になるのか、興味があった。
新聞広告で文芸誌に戯曲が掲載されていることを知り、佐伯の書店をかけずり回り、3軒目でようやっと手にした。
宮本武蔵を描いているのではない。宮本武蔵を取り込んだのだ。いつもの井上作品。ブロードウエイを思い出した分、期待が膨らみ過ぎたところもあるが、でも、やはり、井上ひさしは面白い。
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灯台マンが、妻の癌によって夫であることに目覚める物語。簡単にいえばそんな話しだが、『君は海を見たか』の父と息子を思い出した。屈折した男がその歪みをなくし、相手と自分を直視するためには相手の死が必要なのか。
さて、めでたく、これで倉本聰コレクション全30巻終了。最終巻は『昨日、悲別で』だが、5冊ずつガバッと取ってるうちに、順番に並んでいないのに気付かなかったのだ。
宮本輝全集全巻制覇を目的に挑戦していた時、ふと目に入ったものの、宮本輝をぶっ飛ばす面白さだった。一行のト書きにも、倉本のこだわりがあった。道の電信柱を歩きながら触っていて、自転車が来たので、よけて一本触れなかったら、わざわざ戻って触ってなかった一本に触るということを、3つくらいの脚本で登場人物にさせている。そういうのがいくつかある。ついつい出てしまうのかもしれない。ダブる部分に作者の何かが見えてくるような気もする。
津久見高校の「演劇・脚本」のコーナーの本は少ない。7割は倉本作品。後は『北の国から』があるが、「遺言」までを収めたそれは1000ページをこえる。重そうだ。敷地外に煙草を吸いにいく時にも、トイレに行く時も歩きながら読むので、あまりに厚い本はイヤーな感じを与えるかもしれないナ、とか、考えながら、今しばらくは30巻の余韻に浸っていいんじゃないかと結論した。
今年生誕100年の太宰に挑もうかと、考えていたので、日本文学のコーナーに行き手を伸ばしかけたら、その下に向田邦子の全集があった。これも厚い。以前、ミーケさんからのコメントにあった向田の倉本作品について書いた言葉に出会えるかもしれない、と、思い、その第1巻を借りてしまった。実は今まで読んだことがないのだ。
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大竹しのぶ演じる若い人気女優がスキャンダルに追われ、その種をまいた責任を感じる萩原健一と周辺を描く。大竹しのぶにヤクザの兄がいて、ガッツ石松が演じる。ガッツを抜いたヤクザ3人の芸能レポーター批判はおかしくて、的を得ている。一番面白かったのはそこだ。
『祭りが終わったとき』にも出たが、スキャンダルの記事を買い取ってもらい、その記事を他の雑誌に売るという手口があるようだ。ぼくは芸能人がどーのこーのには興味がない。だから、朝食時のテレビでそういうのが流れると腹が立つ。ましてやナントカさんの新しいCMが届きましたとやるのは、バカじゃねえか、と、思う。
ただ、倉本作品は、はて、どう話を落とすのか、その興味を掻き立てながら、そう来たのか、と、なる。
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ハワイに移住した人たちの戦争と現在。戦争を違った角度で見直すことができる。盆ダンス、そして精霊流し。精霊流しの光が西へと流れる。西方浄土というけれど、実は日本の方に向かっているという最後の台詞に打たれる。
ぼくは姓名判断を信じない。もしビル・クリントンの女癖を出せるのなら、信じるかもしれない。同じように仏教に基づいたあれこれも信じない。迎え火、送り火って、ねえ。信じるか信じないだけ。ただ、この倉本作品を読むと、そういう形で亡くなった人を思い出し、幾つかの思い出にひたるのもいいかもしれないと思うようになった。今年の盆まで覚えているかな。
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将来も恋人も捨て風土病の研究に挑む若き医者の物語。直球勝負の作品。ヒロインが樫山文枝だから、ずいぶん前に書かれたのだろう。
親から経済的に独立することを自立だとぼんやり考えていたが、この作品を読んで、挫折や失敗したら、自分一人で立ち上がるしかない時もある訳で、自立とはそういうことではないかと思うようになった。痛み、苦さ、悲しみ、自立にはそういうものが伴う。生きることと真正面から向かい合うことからしか、自立はないようにも思う。春。また新しい生活が始まる。
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ホンカンとは本館で、警察官とその妻の行く先々の駐在所を舞台に繰り広げられる日常。大滝秀治と八千草薫が演じる。二人とも、倉本作品の常連。誰もの周辺にいるような人々のドラマは、もしかするとテレビに一番ふさわしいかもしれない。SFまがいの設定やスーパーマンは要らない。大滝秀治を想定して読み進めるからか、また味わいひとしお。佳作。
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青い血の人間が増え始め、赤い血の人間が排除しようとする。荒唐無稽ではあるが、ナチスがやった厳然たる事実があることを思い出してしまう。一回だけナチスが出てくるが、それが出るタイミングが、読みながらそう感じ始めたころだから、ニクイ、な。
ラストシーンの青い血が恋人の血の方に流れていところ。ぼくはそれをおぼえている。映画を観たのだ。はて、誰と観たのだったか。大学時代だと思うけれど。ぼくが誰かと映画を観た最初の記憶は弟。『涙君、さよなら』(これも倉本の脚本かもしれない、その時覚えたのではなく、倉本脚本を読みだしてネットで倉本聰をボンヤリ調べていたときの曖昧なものだけれど。十ディ・オング主演だったと思う)。まだ佐伯に映画館が5つあった頃で、ぼくが中学生(すると、弟は小学生だ)、映画の終わるころ隣の弟をみると、泣いていた。他の人で泣いていた記憶は『上海バンスキング』。それみて惚れたもんな。誰かとの記憶では『All That Jazz』。『ギルバート・グレイプ』。今思いだせるのはそれくらいか。ずいぶん前から、映画は一人で観ることしにしている。『ブルー・クリスマス』は誰かと観たような記憶があるけれど、思いだせない。もう、思い出が届かない、のかなァ。
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高倉健主演の映画脚本。ポスターは目にした記憶がある。
関東と関西のヤクザの抗争。刑務所を出た高倉演じる男が、足を洗いたいと思いながらも再び巻き込まれていく。『あにき』の方が作品としても健さんとしてもいい。
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独特な画風で一世を風靡した滝田ゆうが画家として出演、彼の眼でみた高倉健と大原麗子兄妹とその周辺をナレーターとしてつづっていく。倉本の作品はナレーションが多く、その多くは「~わけで」という形で終わるのが多い。
健サンが連続テレビドラマに出演していたとは。無口で不器用というイメージが健サンにはあるが、このドラマでも同じ。彼のイメージに合わせたのか、それともそういうイメージにしたのか。ト書きに「あの高倉健サンが、異様ににやついている」とかいったものがあった。
倉本作品を読みながら思うことは、最近オトナ向けのドラマが少なくなったように思う。子どもや女性をターゲットにしたスポンサーが多いからか。チャンネル権(死語か?)を子どもや女性に奪われてから、テレビから男が離れていった部分もあるかもしれない。イカン、な。ファーストフードのようなドラマではなく、懐石料理やフルコースのような、そんな食べ応えのあるドラマが復活していいんじゃないか。これからのターゲットは金を持ってるオトナにしないと。
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北海道の廃れていく町、そこの人々、東京に出て不器用に夢を追いかける若者、母と息子、母と娘、兄と妹、男と女、愛情や友情の様々な形、ショービジネスの光と影、そういうものが丹念に描かれている。いい作品。ただ、登場人物がはるかに少ない、父親と息子に焦点をあてた『君は海をみたか』の方が、感銘深い。
倉本聰コレクションも24冊目。ぼくは脚本のカテゴリーで書いているけれど、テレビドラマの脚本は、演劇よりもむしろ小説に近いような気がしている。ちょっと暴力的に理由をあげれば、読んでシンドクナイのだ。芝居の脚本を読む時ほど体力が要らない。台詞の多い小説とでもいえばいいか、その都度ト書きで作者がポイントを示してくれるので、小説よりも読みやすい。ただ、倉本作品を一冊借りた時は、宮本輝の全集制覇に向かっていた。気分転換に借りた倉本作品は宮本輝を吹き飛ばした。面白いことは間違いない。
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それまで子どもを振り返ることをしなかった男が、子どもが不治の病におかされて、子どもとの心の交流を取り戻すという話。今まで読んだ倉本作品で初めて南国沖縄が登場する。そして、脚本の完成度は高い。無駄が微塵もない。子どもの最期のシーンも見事。目下一番好きな作品。
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ある女優のデビューから突然の死までの2年の物語。いわゆる「芸能界」の裏、そこに巣食う様々な人種、マスコミの無節操な暴力、そして名もない人たちのパッとしない生き方ではあるが部類の優しさ。ただ、作品はズシンと重い。
女優(桃井かおりが演じる)の結婚した男の死に方は尾崎豊を思い出せた。書かれたのが、はて、尾崎の死より前か後か・・・。女優の死はマリリン・モンローを思わせる。女優が付き合っていた政治家はジョン・F・ケネディかもしれないが、死のベッドで電話に手を伸ばしていた、その電話は政治家ではない。モンローを下敷きに書かれたものかもしれないと思うけれど、ならば、モンローが生き延びるという風にひねったらどうだろうかとも思う。
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高倉健と倍賞千恵子二人の居酒屋のシーンに矢代亜紀の『舟歌』が流れる。結構いい選曲だと思った。観たことがあるのだった。
男と女、女と男、その様々なことはそれぞれの問題でもあるから、誰かに相談して解決できるものでもない。そういうものなんだ。そういうこともある。
もしかすると、ドラマの基本は女と男ではないかと思う。今現代のあれこれの事件も同じだろう。古代ギリシャの時代からのその問題を、多くの哲学者、文学者、小説家、脚本家、ソングライター等々が取り組んできたけれど、解決は見えていない。だから難しいとも、面白いともいえる。
女と男、男と女、その「と」の部分は誰にも見えないし、本人にも見えないかもしれない。それを描くには、二人の間に何かを介入させればいいだけのこと。でも、それで、OKとはならない。難しい。
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事件が終わって、渡哲也演じる刑事が部下の刑事に「ラーメンでも食いに行きますか」といって、その回の終わりとなる。東京で働いていた頃、アパートでそれを観ていたぼくは、無性にラーメンを食べたくなり、部屋を飛び出して、ラーメン屋に駆けた。「お待ち」の声で差し出されたラーメンをみて、ガッカリ。醤油ラーメンなのだ。「ラーメンでも食いに行きますか」の台詞を求めて10回分を読んだ、が、ない。
『大都会』の後、石原プロは『西部警察』を制作した、と、思う。ピストルを何発撃つかで、視聴率が決まるとか言われたものだ。ある時、VTRの編集で東洋現像所に行った時、先輩が「この階段、わかる?」「いいえ」「『西部警察』の最初、刑事達が下りてくる階段」、だと。その前はボーリング場だったとのこと。
『大都会』は切なくて、悲しい人間が多く登場する。人間ドラマに近い刑事ドラマだ。
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あるサラリーマンの奥さんが亡くなる。49日以内に「あの世」行きの列車に乗らなければいけないが、奥さんは「この世」の旦那のことが気になって、最後までこの世をさまよう。映画『ゴースト』の日本版みたいなものだが、倉本の脚本の方が先じゃないかな。奥さんを若尾文子、旦那を藤田まことが演じる。
自分が死んだ後、周囲の人がどういう反応をするか。葬式では、どんな人が来て、どんな表情でどんな会話をするのか。そういうことに興味はある。その辺の部分をくすぐりながらドラマは進行する。楽しめる作品だ。
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深夜のDJを大原麗子が演じる。その周辺の些細な物語。
高校時代、深夜放送は唯一の安らぎだった。「オールナイト・ニッポン」で最初にハガキが読まれた時には、長嶋が満塁ホームランを打った以上の興奮を覚えたものだった。
今なら、大原麗子がささやく深夜ラジオ。これは、いい。大原麗子バンザイ、そんなドラマ、か。
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後数日でギネスに載る世界一の長寿になる、ということでのドタバタ。発想が面白い。
津久見から弥生のトンネルを抜ける坂道に差し掛かる時の山の桜が美しい。桜が多い。そこは秋にはまたハッとするほどの赤や黄色に彩られる。いい季節になったと痛感する次第。
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ずいぶん前になるが、他県で教師をしている英文科の後輩が指導主事になった。出世コースの一つだろうと思うが、主事仲間から「お前、盆暮の付け届けをしているか」と言われ、してないと答えると、「そんなんじゃ出世できないぞ」と言われた、と、話してくれたことがある。10年以上も前のことで、その県が今はどうか知らない。
大分のそういうことの昔と今は、興味が全くないから知らない。ただ、金やモノを贈ってそういう地位についた人間は、今度はそういうことを求めるかもしれない。組織は腐っていく。昨年の大分はその腐った部分を露呈したわけだけれど、誰もが納得した形での解決をしていない。これはいずれ、どこかで別の形で出てくるかもしれない。
虚礼廃止が告げられたのに、気になって、妻と新年の挨拶に上司の家にいったら、来てるし、来るし、もの凄い数。そこでのバタバタが描かれている。社員の中に派閥ができているし、奥さんたちにもそういうものができている。ばかばかしいと笑えないことを、昨年の大分の教育が教えている。
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午後から「ブラスフェスタ・イン・佐伯」に文化会館に出かけた。ほぼ満席。中学合同、高校合同、一般合同、そして全部の合同へと続いた。音楽を聴きにいったというより、豊南高校の野村先生の指揮を観にいったという方が正しいかもしれない。彼のキレがよく、時にコミカルな指揮は、このうえなく音楽を楽しんでいるように見えた。ああいう芝居をつくりたい。
『坂部ぎんさんを探して下さい』は切なく、難しい。
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オバマ大統領が自分の下手なボーリングに「障害者みたい」といったと取り上げられている。日本の政治家も問題発言をしては、撤回します、を繰り返すけれど、一回発言したものは撤回しますの一言でチャラにはならない。「本当に私がバカでした。こんなバカに政治をする資格はありません。ここに、議員を辞職し、勉強し直して参ります」くらいすべきではないだろうか。
社会のシステムが変わると、価値観も変わり、それまでNOだったものがYESになり、YESだったものがNOになることは珍しいことではない。太平洋戦争に負けて、進駐軍によって黒く塗りつぶされた教科書は、その一つの例だろう。倉本のこのドラマは江戸から明治の過渡期のそれを描いている。八千草薫演じる芸妓の女っぷりがいいのは、そこに正しさが現れているからだろう。萩原健一演じる青年の屈折は、手のひらを返すように変わる人たちへの怒りだろう。「これを書く」とはっきりしていれば、登場人物はきちんと動く。
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子どもたちが友達とカラオケに行きたいというので、乗せていって、受付を済ませ、ぼくは外で本を読みながら、待った。保護者同伴という学校の決まりがあるらしくて、それで、同伴状態を保った。
城山の東側には桜の白い模様が浮きあがり、意外に桜の木が多いナ、と。この時期だけ限定で確認できる。春の愉しみだ。
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擬音の効果マンが引退と一人娘の結婚が重なる、その周辺を描いている。
ぼくが初めてテレビドラマを作る場に行ったのは、最後の音を入れるところ。たとえばオフィスのシーンでは、どっかで誰かが話したり、電話が鳴ったりとかの、そういう職場の音を入れる。一番びっくりしたのは、男が坂道を駆け降りてくる、塀を曲がったところで、家の中の女の顔のアップ(山口百恵だった)、そして再び走る男のシーン。音響効果のベテランはそのVTRをみるとアナブースに入り、砂をまいた鉄板に皮靴で立つ。VTRをスタートすると、彼はその鉄板の上を走る足踏み、女の顔のアップでは止まり、また走る。その彼の足音がVTRの男の走りにピタリと重なり、男の足音の完成となった。一回でやってのけた。「さすが」の声。昭和54年のこと。『父ちゃん』はその7年前の放送。
『父ちゃん』とほぼ同じころ芥川賞を取った畑山博の小説『海に降る雪』も音響効果の人間が主人公だった。それに登場するおばあちゃんが今でも忘れられない。
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夫婦喧嘩は犬も食わない、と、いわれる。珍しくもなければ、どうせ一時的なもので、犬さえも関心を示さない。犬さえ関心を示さないことに、人間が要らぬお節介を焼いてどうする。実際喧嘩している時にはまもとま話し合いなんてできるものではない。相手とやりあえる時はまだいい。まだ相手に向かっているからだ。どうしようもないのは、向かわなくなった時。最も痛烈な批評は無視である、と、開高はいった。
これも、八千草薫主演。夫は緒方拳。夫の浮気が発覚、それと長年待ち望んでいた妊娠がわかる。妻は新興旅行で行った平戸の旅館に「家出」する。傍から見れば、フンと鼻でひとつ。ただ、新婚旅行の時の部屋担当の仲居さんが近々結婚すると話していたことを思い出し、訊ねると、今でもいるという。結婚して子どもがいる。その仲居が絡んでくると、少し興味が出てくる。夫婦の形を考えるようになる。
倉本は様々な夫婦を書いている。多くはかなりの年月を経た夫婦。形ができた夫婦は強い。結婚したから夫婦になるのではない。二人の形ができて夫婦になる。
関係ないが、最近は娘と姉妹のような、友達のような付き合いに嬉々としている母親がいるらしい。バカの典型。世間知らずの娘としか話が合わないだけだろうが。
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日常では考えられない事件が毎日のように報じられている。その立場になったら、どんな行動をするだろうか。勝手なことを考える。実際ではそうはいかないだろう。
江戸末期、人のいい可愛い主婦が家に入ると、追われている「人斬り」がいた。彼女もそうなったらこうするといっていたのとは違う反応をする。それはいい。結末が、なるほどそう来たか、というもの。
『前略おふくろ様』のパート2でおかみさんを演じた八千草薫が主演。八千草、倉本作品には結構出ている。前回の『舷燈』『ばんえい』『『遠い絵本』・・・。にこやかでかわいい人だけではなさそうだ。
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芦田伸介演じる作家。彼は戦争経験者で、現在は戦争を扱った小説を書いている。彼が酒場で学生から議論をふっかけられる。昔はそういう学生がいた。おそらく、今は皆無ではなかろうか。
最近の東大生へのインタビューでは、官僚になりたいという声が多い。あの東大の安田講堂の学生たちは、そういう学生に比べると、はるかに健康だったように思う。子どもや学生は、大人や現状に簡単にYESと頷いてはいけないのではないか。官僚になりたいという背後に何らかのNOがあり、それを改革したいという志があればいいのだが、・・・。
ただ、戦争の末端にいた者を「戦争責任者」として責めるのもむごすぎる。彼らもまた犠牲者なのだから。
ぼくは、芦田伸介演じる小説家をある作家と重ねて読んでいたのだが、モデルはいるのかしらん。
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数年前、黒澤明の作品をほぼ全部観た。黒澤が好んで使った三船敏郎は予想以上に細かな演技ができる俳優だったが、そういう技術をこえた存在感は真似しようたってできない。
山本周五郎原作の『赤ひげ』を倉本聰が脚本にし、三船と加山雄三が演じた二人を小林桂樹とあおい輝彦が演じたテレビ版。全2巻のこの脚本も読みごたえがあった。作品の核がしっかりしているから、ゆるぐことがない。2時間の映画とほぼ半年の連続ドラマでは、作品の質感は異なるけれど、山本周五郎への興味はかなり煽りたてられた。全集は出てるんかいな。
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この面白さは原作者のジョージ秋山に負うところが大きいだろう。ただ原作の熱心な読者ではないので、原作の魅力を語ることはできないけれど、主人公の個性と生き方の魅力は「つまみ読み」でも感じていた。
倉本の脚本を読む限り、これは家族劇。父と息子の物語といってもいい。息子が進行役。面白く深い。「時代考証はかなりいいかげん」という断りもいい。時代劇は、現代のあれこれの要素を取り除いて描けるからいいのだろうな。
ただ、雲役を渡哲也というのが、どうも・・・。渡のまじめさがちらついて仕方なかった。無理があるように思ったのだ。じゃあ、誰がいいか。2巻を読みながらずっと考えたけれど、とんと浮かばない。つまり、どこにもいない人間を創り出したということか。
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倉本聰が捕物帳を書いていたとは。加えて、松本清張の作品を下敷きにしてあるものもある。松本はそれを快く了承したという。
岡っ引きは、現在の駐在みたいなものなのだろうか。いや、同心の公的助手か。身分は町民。その町民の岡っ引きの町民であるが故の無力、無力故の悲しさもヒシと伝わる。加えて、犯罪者もきちんと描いているから、この2巻に登場する人たちの生き様は確かな人間ドラマになっている。
来た仕事にはとにかく全力で取り組む。好きなものばかり食っていれば、栄養が偏り、トータルな成長ができないように、仕事もまた同じ。意に沿わぬものこそ、成長のチャンス。そう考えたい。そろそろ学校は異動と来年の仕事分担が始まる。何でもきやがれ!
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母親を老人施設に送っていく息子。母親は観光旅行と勘違いするようなことをいったりする。それがさらに切なくさせる。施設に送り届け、引き返して、やっぱり連れて帰ろうとするが、施設の長は「あなたは一度捨てたんだ。一年経ったら来なさい」と拒否する。現代の姥捨て物語が、辛辣なエンディング。是非再放送して欲しい。むしろ今の方が効果があるかも。
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アラスカと北海道を舞台に過去と現在のドラマ。この頃までに、倉本は北海道放送に毎年2本のドラマを書いている。東京生まれ、東京育ちの倉本が何故富良野に移住したのかは知らないし、移住したから書いたのか、書いたから移住したのか、知らない。ただ、北国が好きなんだろうな。それと、寒い場所が舞台の方がドラマは書きやすいかも。
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倉本聰のうまさの一つに子どもの使い方がある。『ガラス細工の家』は、小学生の兄弟を演じることのできる子どもがいなければ不可能だったと思うくらい、活きていた。この作品でも、夫婦を上手につなぎとめる息子が一番印象に残った。子どもは、テクニックで演じないから、はまったら怖いところもある。子役探しには苦労するだろうな。
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どこかで会ったことがあるような、あるいは、あの人はヤギに似ている、そういう問題を解決するために考案した理論が「世界の生命素の量は一定である」。
ぼくがテレビの仕事に入って最初についた先輩Sさんは顎鬚をはやし、顔の感じもヤギに似ていた。この人の祖先はヤギかいな、と、思うほどで、でも、そんなことはない。そこでぼくは、生命を宿した生物の体が滅びる時、その生命素は新しい体を求める。生まれつつあるものに、それは宿る。そして新しく誕生したそれには、その生命素の以前の記憶があるので、以前の容貌に似たものになる。何という画期的な理論だ。ただ、ベケットの『ゴドー』の「誰かが泣きやむと別の誰かが泣き出す。誰かが泣き出すと別の誰かが泣きやむ。だから世界の涙の量は一定である」の台詞を使わせてもらったのだけれど。
「生まれかわったら・・・」という台詞が『時計』の中で数回使われる。明治初期の北海道でのドラマ。最後は、生まれ変わったと思われる登場人物が、現代の雑踏の中ですれ違う。命の不思議みたいなものを感じた。
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「新世界」には一か所だけシンバルの出番があるらしく、北海道で演奏会をする交響楽団のシンバルのパートをある男がやることになる。本番で自分の出番を待つまで、それまでのあれこれを回想する。人間には勝負の瞬間が何回かある。その瞬間をわかりやすい形にした作品。
さて、ぼくのそういう瞬間は、と、考えるけれど、思いだせない。たぶんドキドキで迎えた瞬間はたくさんあったはずで、それで左右されたこともあるだろうに。それほど大きなものではなく、平凡の王道を歩んできたからなのか。乾坤一擲、遠くないいつか、待ってろ!
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一人の人間がいて、それをみる人間がいる。彼が何をみて、何を考えるか。そこで何を表現するか、どう表現するかが決まってくる。そこから生まれてくる多種多様の組み合わせ。おそらく今生まれている多くの作品のほとんどは根っこのところではもうすでに書かれたり、描かれているのだろう。もしかすると、表現領域で残された新しさの部分は手法にしかないのかもしれない。
釣りをするひとりの男。退職する際にお世話になった会社の上司にヤマメを上げようと、合計100匹を目指すものの、思いだされるあれこれ、そして釣れない焦り。大きな不安を残して終わる。
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笠智衆と田中絹代演じる老夫婦が昔住んでいたサハリンの町の地図を記憶を頼りに作成しようとする。しかし記憶が確かでないので、昔住んでいた人を訪ねて聞き取りをしようとするものの、もう亡くなっていたりで、進まない。その地図を忘れて探し回っているうちに、他の人の目に触れ、それまで作成していた地図が北海道のある町の部分であることがわかる・・・
4月に大学にいく人が、住むことになる町の地図をみるのとは、違う。老夫婦の作業に何の意味があるのか。地図を作ることで二人は活きている。紛失して落ち込んでいる夫に妻が「また作ればいいじゃないですか」という。その言葉によろこびと活力みたいなものを感じた。設定が勝利の脚本。
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計画した流れの中に予定外のものがポンと入り、やること為すこと全てが裏目に出てしまい、傷口がどんどん広がってゆく。そういう経験は何度もある。最近は、仕方ない、と、スッパリ諦めてしまうから、それほどでもないが、若い頃は「せめてこれだけは」とムキになって、醜態を曝したものだ。このドラマの切なさは、あの時のぼくの・・・。だからこそ優しさが沁み渡るわけで・・・聖夜のドラマが成立する。
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『2丁目3番地』で主人公の父親と弟が喧嘩して云々という話が出てくる。父親と息子が取っ組み合いの喧嘩をして父親が負かされてしまい、父親も息子もショックを受ける。父親は呆然とし、息子は悲しくて泣く。それと同じ話が『ばんえい』にも出てくる。どこにでもある当り前のことなのだけれど、取っ組み合いの喧嘩で知るからこそ価値がある。ぼくには息子はいないけれど、娘とそういうことになったら、・・・。 主人公の亭主関白ぶりには爽快な羨望をおぼえる。
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目が覚めたら12時半。こりゃあイカン、目覚めるには早すぎる、と、思いながら、イヤ完全に目覚めていると達観(こういうとき、使う言葉じゃない、カ)、起きた。テレビをつけあっちこっちチャンネルを回していたら、NHKで料理人の番組。
その料理人の名前は西健一郎。この西という人のこだわりと徹底は凄い。「死ぬまで勉強」「手間をかけることで、要らないものをなくし、いいものを出す」「高いものだけがおいしいんじゃない」「本当にこの程度でいいのか」「変わったものと美味しいものは違う」「開けた瞬間に精緻で美しい配置」「客の気持ちを把握して料理する」。ナンダ、この番組を観るために、起こされたのか。
西健一郎と倉本聰が重なった。
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35歳で男性体験を持たない秘書室の「お局さま」、通称「お竜さん」を岩下志麻が演じる。
今まで読んだ倉本作品は、男が中心だった。もちろん主人公には女が絡んでくる。しかし、どうも魅力的な女性を描いているとは思えない。『ガラス細工の家』でヒロインを演じた岸田今日子は女としてより、母親を演じた。『前略おふくろ様』で海を演じた桃井かおりは、作品の中では道化的色合いを帯びていた。『お竜さん』ではヒロインを岩下志麻が演じる。倉本の作戦かもしれないが、先入観を見事に裏切る、あるいはズラしてくる。そして、最後は都会の人込みの中の一人が哀愁の色を帯びて浮かび上がる。
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あんな奴だとは思わなかった、と、特殊状況の中である人間の日ごろと違う側面をみて、そういうささやきがうねることがある。現在の自分がイヤなら、そういう面が出ない環境に移ればいい。とにかく、人間は状況で生きる。
長男の中学入試直前に次男が誘拐される。これはそういう特殊な状況の中の家族の姿。その事件の展開と結末も面白いが、ドラマ自体の結末が他の刑事もの、はんざいものとは異なる。いつかハズレに出会うんじゃないかと思いながら、今のところなし。
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日本の国民的作家といえば、はて、誰を挙げるだろう。イギリスならシェイクスピアとディケンズ、アメリカはマーク・トゥエイン、フランスはスタンダール、ドイツはゲーテ、といったところを挙げる。じゃあ日本は、となると、ウ~ム、やはり、漱石? 対抗馬は浮かばない。大学出て、『猫』を読んだとき、巨大だがよくわかった。
猫たちが描く漱石の生涯。ちょっとピンボケのような気がする。
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今日、倉本聰の3冊を返し、新たに5冊借りた際、司書に寄贈のことについて話した。そこで、驚愕の事実。香典返しという形でお金をもらい、それで何か本を買う、当時は全集を買うのが流行りだったというのだ。唖然、呆然、ただ愕然。ここ数日間の興奮は何だったのか。宝くじが当たって歓んでいたら、それは前回の宝くじだった、みたいな・・・。
さて、倉本作品も4作目。今まで読んだ作品のどれもが「老い」を扱っている。そして、倉本聡は同じものを繰り返す使うことがある。たとえば、眠る前に枕を叩いて「枕さん、枕さん、明日の朝は○時に起こして下さい」というのは、今回の作品と最初に読んだ『2丁目3番地』にも出てくる。あるいは、新聞の写真とかで「○○さん、一人おいて、△▽さん」のひとりおいては、『前略おふくろ様』にも出てた。倉本の認印みたいなものか。なお、この作品には蜷川幸雄がプロデューサー役で出演している。
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いったい倉本聰コレクションを寄贈した人はどんな人なのか。倉本作品を読むほどに興味は増した。PARTⅡをトイレに行く時も読みながらの二宮金次郎方式で読み終え、巻末のおふくろ役の田中絹代についての倉本の文章に泣いた後、学校で一番古い人のところに行き、訊ねた。彼は同窓会名簿をめくって調べてくれた。ナント、在学中になくなっていたようなのだ。ぼくは名簿を見せてもらい、その時のクラス担任の名前を覚え、職員室でその担任教師の現在の勤務校を調べ、以前同僚だったと思われる教師に彼がどんな教師なのか、訊ねた。たぶん亡くなった人の親が寄贈したと考え、できれば担任教師に、何故倉本作品なのか確かめたくて、たとえば電話してもいいかどうか、判断材料が欲しかったのだ。言葉に詰まって、ユニークな人です、と、だけ。どうもよくないようだ。ぼくは再び同窓会名簿で、その前後の卒業生の担任を調べ、知っている教師の名前を探した。数名いたが、話せるのは2名。夜にでも、電話してみようか、迷いながらも、傾斜していく。
ほとんどない情報でぼくが勝手に推測しているだけで、知ったところで、だから何だということなのだけど、ぼくに倉本聰を引きあわせてくれたことを、運命なんて言葉も浮かび、その運命に導かれていきたいと思う。まだ5冊読んだだけで、残りは25冊。ゆっくり考えよう。
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『前略おふくろ様PART1』での成功の仕掛けは、主人公サブの母親への手紙文が、ナレーションになっていることだ。これがあって、不器用で、口下手な主人公が動けるし、職場や友人関係で見えない彼という人間もわかるし、彼の成長もわかる。
そしてこの作品の根底には人間、家族が明確に描かれている。それを強引に解決しようともしない。あるのはヒント程度。解決するのは、読者(視聴者)なのだ。書き手(制作側)が解決していいのは『水戸黄門』だけだ。
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全2巻に18回放送分が収められている。面白くて、一気に読んだ。
面白いのはト書き。音楽の指定で、「忍びこむように」とか「刺すように」という指定。脚本家だけでなく、演出家の視点が入っている。
このドラマが放送されたのは、昭和50年10月から翌年の4月。学生時代。部屋にテレビはないし、テレビをみるのは下宿の食事時。生活にテレビが入り込んで、今まで、テレビをいちばんみなかった頃。DVDになってないかな。観たい!
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ぼくが最後にテレビでした仕事は古谷一行と大場久美子の『本郷菊坂赤門通り』という土曜日9時からの連続ドラマで、先輩が『北の国から』を担当していた。連続ドラマでも、『北』の方が一回あたりの制作費が500万ほど高い3200万。本当かどうかわからないが、機材が寒冷地仕様だからとか云々。その先輩は、倉本總が稽古段階から付き合いダメ出しをするとか・・・。
昨年暮れ、宮本輝を2冊引っ張り出し、カウンターにいく途中、倉本聰コレクションを見つけた。最初から読もうかと思ったが、第1巻は『前略おふくろ様』で4巻。ちょっと重い。それで1巻もの、と、思い、『2丁目3番地』という軽そうな作品を抜き取った。忘れたままになっていたそれを読んだ。
面白い。登場人物の独創性と組み合わせ。そして、根っこに人間や家族を見据えながらも、重さが暗さにならない会話の妙。決めた。今年は倉本聰全作品に挑戦する。
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ト書きを書かない 句読点を使わない そういう方法で今回脚本を書いている こういう形で
一つは今回演出しないし、出演もしないので、演出と役者がどう考えるかをみてみたい誘惑があった。ぼくはト書きの多い脚本は好きではない。登場人物の台詞で考える方が楽しい。あまりに細かく書いていると、混乱してしまうこともある。また、平田オリザの脚本の記号も好きではない。こう喋れ、ああ喋れと記号で指示する。そう喋ってしまう書き方をすればいいだけじゃないのか、と、思う。読みにくいし、鬱陶しい。
演出と役者への挑戦でもあるが、同時に、ぼく自身が読み返すときに、労力がかかるのもいい。ただ、書きづらいし、進度が遅い。
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以前、年表をつくっているということを書いた。それよりずっと前、「好きだった人年表」をつくったことがある。もちろん、思うだけだった、憧れただけという人もいるから、かなり手間がかかる。ただ、この手間がべらぼうに楽しい。その人のあれこれだけでなく、その当時のぼくのあれこれ、二人で行った場所とコースやらその経緯やら、思い出はとめどない。
もちろん、苦いものも少なくない。その苦さも多種多様なんだが、当時よりも苦いかもしれない。あの時、ああしていれば、あんなことを言わなければ、と、青春のリグレットはぼくの背丈ほど積み重ねられている。
ただ、苦しい結果に終わったものもあるのに、懲りないのは何故だろう。
もう恋をすることもないと思う。ただ、その手前の部分でのちょっとした会話が楽しめれば、いい。
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以前、学年通信に、一日を動詞だけで綴ったことがある。補助線として目的語を入れたけれど、B4サイズなのでかなりの動詞を使った。
中学校の時の社会の教師は、家にいくつ蛇口があるか、いくつモーターがあるかで、文化程度がわかるといっていた。ぼくはすぐに数えた。蛇口は2つ、モーターは、・・・、冷蔵庫と洗濯機くらいだったろうか。ウチは文化程度が低い、と、思った。
人間と動物では動詞の数が圧倒的に違う。人間だけにあって、動物にはない動詞が、もしかすると人間をよくあらわしているのかもしれない。
今日は暖かく、春のようだった。家の周辺の枯れ葉やごみを拾った。首輪をはずした愛犬がついてまわった。彼女の住まい周辺を片付けているぼくをみている彼女に、「人間の文化って不思議か?」と訊いた。もちろん、彼女が応えるわけがない。応えない彼女の視線に、ぼくは恥ずかしさを覚えた。
『アメリカ古典文学研究』の冒頭でロレンスは「一番不自由な人間が一番自由だ」と書いた。文化も度数が増えるほどに、不便になっているのかもしれない。景気がよくなったら消費税を上げるという政治家は、幼い。将来の人間像が全く見えない議論ばかり。早く「政治家検定試験」をつくって、「この人はトップ当選でしたが、準2級でした。滑り込みセーフですね」というのもいいナ。平和を守ろうとすると、その守る行為が悲惨を招くこともある。
戦争は莫大な浪費と犠牲。どんな正当化も成立しない。
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どんどん店が閉まっていき、追い打ちをかけるように近くにショッピングセンターができるなか、奮起する人たちの姿を描く。
読みながら、佐伯の仲町銀天街の映像が頭から離れなかった。高校生の頃までの賑やかさは絶えて久しい。どうにかしようという動きはあったが、最近はその動きも見えない。ただ、佐伯では老舗の集まりだから、「腕」はいい。ぼくが頼りとする「二階堂書店」は、先日新聞広告に載ってた関西のお笑いについての本をお願いしたい、と、電話でいえば、数日後には自宅に届いている。こんなものが出ています、と、早川書房の劇文庫も紹介してくれた。
また、「音響堂」は以前、ドラゴンなんとかいう曲なんですが、と、いったら、カウンターを離れ、これでしょうか、と、差し出してくれた。演奏者の名前をみて、「!」。神業に思えた。そういう人材がほかにもたくさんいるはずだ。そういう彼らの技術や知識やこだわりを前面に出せば、と、思う。
商売をするなら、ぼくは断然本屋だ。ただし、コミックは置かない。週刊誌も置かない。小説と戯曲とペーパーバックの洋書中心。そして、お茶を飲みながら読める場所を設置する。本を買ったら、開く瞬間はワクワクだが、ゆったりできる場所で開きたい。でも、家に帰るまで待てない時もある。そういう時、「上、いい?」とか訊いて、許可をもらって入る場所。そこは店ではない。だから子どもは来ない。入れない。つまり、おとなの読書好きな人たちだけのための本屋。そこで、読書仲間と出会うことになるのだ。
活力ある町。それは活力ある人がいないことには。あッ、そうです、脚本を急がないと。
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本を読む気がしない、何もすることがない。そんな時はウダウダとインターネットしていたのだが、今はそれができない。それで始めたいくつかのことの一つが自分の年表つくり。昔のことを思い出すことは老人にはいいらしいので。
その年表によればぼくは大学の時、6本の芝居に出て、そのうち1本を再演の際、演出とギター演奏(恐ろしい)している。その6本は、先輩のオリジナル、共同執筆オリジナル作品、シェイクスピア2本、井上ひさし2本。独裁体制ではなかったけれど、ぼくの好みが反映されたシェイクスピアとひさし。
懐かしさいっぱいで読んだ『道元の冒険』には「2008」がつき、ついたぶん、やはり変わっていた。男が小説のタイトルで自分の人生を語る部分では、『我が心は石にあらず』が消えて『ノルウエイの森』が現れるみたいに。あるいは男を治療する医療現場の用語も。こんなに歌が多かったのか、と、首をかしげた。ぼく達が上演した時は、ロックバンドを舞台にのせて演奏してもらったのだった。(その後、部長になるはずの男が稽古しているうちにロックに興味を持ち、結局そのバンドのドラムス担当になってしまった。)
めちゃくちゃ面白い。昨年の今頃読んでいた木下順二は、ひさしの作品に思想がないと批判した。その批判にひさしは「一に趣向、二に趣向、三、四がなくて五に」、はて五に趣向が来たか、思想が来たか、ウ~ン。とにかく芝居は思想ではなく趣向だと言いきった。そのひさしの趣向があふれているのが『道元の冒険』だろう。こういう作品に出会えるから、読み続けることができる。
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昨年はこの時期26本の脚本を読んでいた。しかし、今年はまだ4本。もちろん、昨年の方が異常だった。あの勢いは何だったのか。一年で114本の脚本を読んだのは自己最高記録。木下順二とチェーホフの戯曲を読んだのは114本という数よりも読んだという思いを与えてくれる。集中して一人の作家を読むと、作家個人がほのかに見えてくるような気がする。
松下竜一は『豆腐屋の四季』で売り出した。大分県中津の人。個人。『豆腐屋の四季』はテレビドラマになり、緒方拳が竜一を演じた。その辺は記憶にあるが、その後は何か運動をしているようだという程度しか知らなかった。
ぐたくちの脚本は竜一が売れる頃から、亡くなるまでを丁寧に描いている。松下竜一全集が出ていると思うけれど、読みたくなる。作家を知って作品を読みたくなる、そういう経験ははじめて、だ。
ふたくちはおそらく全集を読んでいる。彼が竜一と洋子に言わせる言葉は、作品の中から拾ったのか、オリジナルかはわからないけれど、実にいいものが多い。これからふたくち作品も手をのばすことになるだろう。
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ここ数年痛感する一つは、子どもたちの聴く力が落ちていること。かなり力を込めて話しても、伝わっていないことがよくある。そのことを漏らすと、同僚も相槌を打つから、ぼくの老いが原因とも思えない。そしてぼくは学力低下の一番の原因は聴く力の低下だと、ほぼ確信している。ぼく達は机で学ぶことより、耳から学ぶことの方が圧倒的に多い。耳の使い方は乳幼児の頃に教わると思うが、となると、親に責任がある。
百回聴くより一回観る方が確実だ、と、言われる。でも、ぼくは目はあまり信用していない。観てわかったと思うのは怖いとさえ思う。ともかくよく聴き、よく観るようにしてはいるけれど、それでもわからないことが多い。もともと耳と目の情報を統合する頭の性能があまりよくない上に、最近は老いが拍車をかけている。
宝塚音楽学校は廊下を曲がるとき、直角に曲がらなければいけない、とか、宝塚に興味のないぼくにも幾つかのことが目と耳を通して入ってくる。NHKのBSでもよく放送されており、ということはそれなりの人気があるのだろうが、誰それが退団とかのニュース以外に報道されないのは、組織がしっかりしているし、彼女達がしっかりしているからだろう。とにかく何も知らない宝塚なのに、何故か知ったような気になっている宝塚。
大石静の脚本のタイトルに宝塚の感じがピタリと重なる。他にはないくらいのピタリ感がある。あまりにピタリとしていて恥ずかしさを覚える。大石に戸惑いはなかったか。だが、一回思いついたら、もう逃れられないタイトルだろう。年末だったか、藤原紀香主演のテレビドラマでほぼ同じ内容のものを観た。芝居の方は歌がふんだんに入っている。タイトルも内容も、宝塚。これでいいのだ。
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脚本に取り組みながら、なかなかまとまった時間が取れず、思うようにいかない毎日だ。教師という仕事は手を抜こうと思えばそこそこできるが、とことんやろうと思えば際限がなく、とことんやったところで生徒にその気がなければ空振りになってしまう職業だ。ぼくは「とことん」がどれくらいなのかわからないが、「とことん」の「と」くらいはやっているつもりだけれど、学力の幅が大きい現状に対応しきれず、無力感を感じることが多い。これは脚本がすすんでいない言い訳だけれど。
授業にも持ち歩くノオトに最近書いたのは。母の少女時代を想像するっていう台詞。ある時、ふと、おふくろはどんな青春時代をおくり、どんなことを考えたり、笑う時はどんな風に笑ったんだろうか・・・などということを思うようになったのを登場人物に言わせてみようか、と。何故そんなことを考え始めたのかはわからない。ただ、試験監督の時に、問題に取り組む生徒の中に、おふくろに近いとしたら、と、さがしていたりする自分がいたりする。
『ビロクシー・ブルース』はサイモンの青春時代が根っこにあるらしい。青春時代ってのは、どこの誰も似たりよったりで、滑稽と哀切の間を往復するだけの時間なのかもしれない。そしてその振り子の幅が大きいほど、面白くなり、輝きを増す。若い時に旅をしなかえれば、老いた時に何を語れる、というようなことをゲーテは言ったらしい。青春を語れるのは老人だけなのかもしれない。失って初めてわかるものなのだろう。
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なかなか以前のようにインターネットに接することができない環境になり、それはそれで多大な時間を他のことに使える喜びもあるからいいのだけれど、これはブログに書きたいと思うクセは消えていないので、そういう時にもどかしさを感じる。
文芸誌『新潮』に野田の新作が掲載されている広告を観て、帰りに書店に急いだ。なにせ文芸誌は少ないから、佐伯に芝居好きが2人いたら、もうあぶない。一冊はあった。一週間ほどカバンに寝かせて、読んだ。やはり。わからん。野田はわからん。
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次の脚本は遺書になると言ってきた。単なるメモじゃねえか、と、言われるかもしれない。仕方ない。ぼくは今まで設定だけで書いてきた。今回の設定は佐伯鶴岡高校の顧問の時に書いた『SOS』の設定だけれど、そこでは上っ面をピョンピョンだったけれど、今回は生きることを真正面から考えたいのだ。遺書としてはいい、でしょ?
宮本輝の小説を読みながら、人間の生死を考えてきた。他にもっといいものがあるかもしれないが、たまたまの流れ。流れでいい。
DVDで時にテレビで時にパソコンで映画を見ながら、文句も多いけれど、不意に涙を流したり。
人生での出会いは基本的に私との出会いだろう。出会いは日常にゴロゴロしてる。目をこらし、耳を澄まし、前に向かう精神がないと、出会いは成立しない。出会いに才能が絡む。ぼくは才能がないから、意欲的に前にいくだけだ。
何か、ぼくが望む世界に近づけているように思う。
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東京演劇集団風の上演台本。昨日、風の数人と飲むことになっていたので、その前に読んでおいた方がいいと思い、読んだ。台詞が乾いているように思えた。
夜は辻さん、柳瀬さん、稲葉さん、『パンダ』(長いので・・・)の中村、渋谷さんらと今日の鶴岡高校の上演に支障がない時間まで語らった。辻さんは、好きな女優というより、以前『響きあう者たち』の舞台を観て、演技に啓示を与えてくれた憧れと尊敬の人。その辻さんと話せた感動は大きい。そして話すほどに、人間性に触れ、ますます好きになった。店を出る時に、ツーショットでの写真をお願いした。こういうことは滅多にない。55歳のおっさんが恥じらいながらお願いしたのだ。
今朝目が覚めたら、6時47分。いつもなら、朝食が終わる時間。バタバタの中で日常に戻っていった。来週、舞台を観る。
水曜の予告は明日に回します。
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人物や状況を考えて書いていたものの、浅いと思い、色々と調べている。現在はホームレスんついて。
風呂に入っている時に、何かいい文献はないものかと考えているうちに、昔安部公房がカメラに凝っていた時、その頃は「ホームレス」という言葉は使われていなかったが、そういう写真と文章の本があったことを思い出した。はて、あの本は何処に。もしかして処分してしまったのか・・・。
調べるほどに混沌は深まる。ただ、この際、もっと深めてみようと思う。どっぷりはまることができれば、きっとある感触がつかめるはずだ。よって、脱稿は大幅に遅れそう。
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タカヂアスターゼとアドレナンで世に知られた化学者。今の時代ならノーベル賞ものなのだろうか。評伝劇である。品川は最近この手の作品が多い。
井上ひさしも評伝劇を書くが、彼は大量の資料に当たり、隙間をみつけるらしい。その隙間については何も残っていないから、そこを創作するらしい。評伝劇は。事実が残っているから、その点をどうつないでいくかが難しいと思う。ただ、ひさしの描く人物が実在ということを知らなくても、楽しめる。知っていれば、こう料理したか、という面白さもあるだろうが。
それに比べると、この品川の作品は人物紹介的な作品に思えてしまう。ただ、そういう人がいることを知るのもいい。「タカヂアスターゼのタカは高峰のタカではなく、ギリシャ語で強いという意味なのだ」と知ったかぶりもできるし、それにノーベル化学賞を日本人が取った時で、さらに日本人として自信みたいなものを与えてくれる。芝居とは関係ないが・・・。
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廣瀬さん、コメントありがとうございます。ブログに書き込みして、夕食後、すぐ寝ました。物音で目を覚ましたのが10時。それから脚本に向かっていますが、風邪は峠に差し掛かっている模様です。トイレットペーパー、使いまくりです。多分、風邪は、脚本の洗い直しのためには必要だったのでしょう。そう考えるようにしています。何事も。廣瀬さんこそ、職場は、下界よりは冷えるのではないでしょうか。冬へと傾斜する季節、ご自愛を!
さて、めぶき園で、利用者の詩吟、ハンドベル、太鼓に体液を揺られて、その効果が出てきたようで、今まで頭でこねくり回していたところが崩れ、崩れたら、ある感情みたいなものが芽生えた(めぶいた、と、言うべきか)。その感情がそれまでのっぺらぼうだったものに名前をつけてくれる。鼻水には負けるが、出てくる、出てくる。頭の感触の何ともろいことか。やはり感情、感覚の方が大切だな。時々、人間は肝心なことを忘れてしまう。
目がさめて、部屋のテレビをつけると、太田光の「わたしが子どもだったころ」をやっていて、それも、ヒントになった。やはり、起きなければならなかったのだろう。この世に無駄はない。受け止めるか、受け止めないか。それだけだ。グータラ人間、久々にキャッチ。
雨音を聴きながら、もう少し。今日が休みでよかった。ああ、鼻水が出る。
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脚本が進まなくなると、何か異質なものを飛びこませることで、解決してきたことは多い。だから、たいてい脚本の設定は、キャストの数から、一人か二人引いて書き始めたりした。ところが一人芝居だと、それが難しい。ただ、そういう時は虫でもいい訳で、蟻をそれにしたこともある。蟻なら、客席から見えなくても何の不思議もない。
今回は二人芝居。そして、それぞれが閉じ込められた狭い空間、加えて、明かりはほとんどない。音か、思い出、それくらいしかない。そう、今、行き詰っている。解決策は無数にある。、と、信じている。息詰まるからこそ、面白くなるのではないだろうか。そういう時こそチャンスなのだ。もちろん、成立していないからこそ、の可能性も濃厚ではあるけれど。
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朝、弥生の湯に行く。とことん汗を出した。入る前と後で体重が0.8キロ減っていた。ただ、血圧が高いか。
その後、本庄の方を走り、おふくろの見舞いに行って20分ほど話し、本屋で数冊買い(こういうことは最近ない)、スーパーで買い物して、帰りに娘を拾って、帰る。
ウッドデッキにパソコンを持ち込み、ビールを飲みながら、書き始める。犬も解いて、足元に。う~ん、いい。書き始めると、そうだったんか、と、思いながら、舞台と演技を想定して、微調整しながら、書く。今日は原稿用紙にして、4枚。たぶん書きなおさなくてはと思いながら、とにかく書いた。5時過ぎには、すぐ近くの西の山に太陽は隠れた。
今日の収穫は、言葉遣いをちょっと変えるだけで、人物が広がっていくこと。つまづくな、近々。
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この日記の一回目で眠ろうとしている時に考えたことか、夢なのかが曖昧だ、みたいなことを書いた。夢の手前だと思うが、タイトルを考えていた。それが、『たとえば、こんな二人』。たぶん、ポスターのことまで考えて、2列にするのは、それだときちんと2列におさまる、と、考えていたおぼろげな記憶がある。ウーム。タイトルは、芝居の顔だから、こだわるのだけれど、考えるより、浮かぶのを待つことが多い。
登場人物の名前も同じ。高校演劇をやっていた頃、県外のある学校の生徒が「うちの顧問はスナックの女性の名前を使っています」と教えてくれたことがある。ぼくはも似たようなもので、どうしようもない時は好きだった女性の名前を使っていた時期がある。ある脚本で「伽椰子」という名前を使ったことがあるが、『伽椰子のために』というはるか昔に読んだ小説のヒロインのものを借りた。登場人物には思い入れがある、だから、結構同じ名前を使っていた、と、思う。
最近は名前を出さない。男1、女1だけで通す。途中で名前を出せば、以後その名前を使う。
今回は、相手を呼び合うから、名前が要る。ポチでも寿太郎でもいいのだが、名前で違和感を与えてはいけないと思い、一人は極めて平凡な名前にしたい。もう一方は、その逆がいいかナと考えている。
場所が決まり、そこがどんな状態か、そして登場人物に名前をつければ、不思議に彼らはおしゃべりを始める。最初は、おいおい、それはないだろう、と注意すれば、聞きわけのいい彼らは、以後注意されることなく話す。ぼくはそを速記するだけ。今回、は、はて・・・。
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ある程度ノートに書いていくと、世界がおぼろげならはっきりしてくる。この辺が一番好きな時間だ。パソコンで書き始めると、このワクワク感はなくなる。書き始める時は、炊飯器のスイッチを入れる時に似て、後は炊き上がりを待つだけ。
ヨウカンさん、曲をつけてみたいとのことですが、この歌は男が女と付き合っていた頃に作った歌です。男の武骨さが漂う方がいいので、男が作らないとダメです。洗練さは要らないのです。曲をつけるのは、男を演じる役者か、ぼくです。
明日は体育祭。月曜が代休なので、新装したウッドデッキで、秋の日差しの中、犬を傍らに、ビールでもすすりながら、書き始めようと思う。今しばらく、この揺り籠の時間を楽しもうと思う。実際は、考えることが多く、右往左往しているのだけれど。
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昨夜、二週間ぶりに稽古場に行った。オーストラリアの中学生へのおもてなしと腰痛。この腰痛、舞鶴高校時代に、生徒と飛んだり、跳ねたりした後、テニスをして、アコード・エアロデッキ(懐かしい!)に座ろうとした瞬間のズキン!以来、時々の数回目。だから、昨夜も、体育の授業の見学状態。
そこで、新しい脚本について、現在たどり着いている所を話した。構想とか話しても仕方ない。現物を出すしかないんだけれど、今回は二人芝居ということを事前通知するのが目的。
帰って、風呂に入って、黒霧のワンカップを飲んで、眠った。ところが眠れない。興奮するようなものはないのに。そこで、寝返りをうちながら、挿入歌を考えた。稽古場で書いた詞を代表に渡し、来週までの宿題にしたけれど、ぼくはぼくで曲をつけてみようと。そのうち、芝居の台詞が幾つか浮かんできた。起きて、ノートに書こうかと思いながら、ここは眠らないと次の日の仕事が危ういと考え、考えを追った。そのうち、闘いのシーンを考えていることに、こりゃおかしい、と、目を開けて時計を見たら、2時。夢だったのか。そして5時に起きて、犬と散歩しながら、夢のことを考えていると、身体の粒子が脚本に向かっていると感じた。
犬との朝の散歩もウインドブレーカーを着るようになった。素手では冷たい、そんな朝だった。
やはり、芝居を考えるには、稽古場の空気を吸うことだ。二週間のモンモンが、稽古場で話すことで、うごめき始めたのだから。
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昔書いた脚本の設定だけを基に脚本を考えている。この脚本にはストーリーらしきものははない。状況と人間だけ。
ぼくは演劇にストーリーは要らないと、ここ、10年近く考えている。何故そう考え始めたのかは、わからないけれど、台詞で説明するような部分はできるだけ排除したいということかもしれない。
以前、読書感想文について書いたけれど、あれから数人に読んでもらって、学年ごとに県大会に行く作品を決定したけれど、読む人によって意見がこうも違うのかと思った。何を書いたかより、どう書いたかをぼくは基本に考えた。たとえば、読んだ本の一言で書いてもいいと思うのだけれど、そういう結果にはならなかった部分がある。
劇場に足を運ぶ人は何を求めているのだろうか。それは意味のない疑問かもしれない。ならば、何故演劇をするのか。ストーリーだけならば、小説でもいい訳だ。
緒方拳と串田和美の『ゴドーを待ちながら』を観た時に、ぼくは『ゴドー』がすごく身近な世界に感じた。解釈しようとると、難しくなる。そんなに難しく考える必要はない、と。
岩松了の『シェイクスピア・ソナタ』がまだ、頭を巡っている。何があって、どうなるんだ。「お前は、どう読んだ?」と問われているように思いながら、「すみません、もう一度読みます」という言葉を用意しているぼくがいる。
こうなって、だからこうなるのよ、とかいう形で説明できない芝居に今度は挑みたい、そういうことだ。
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シェイクスピア作品をさりげなく出しながら、それを生かしながら、人間たちを描いている。これがプロの作品か。
打ちのめされた。まだ、立ち直れない時に、彼の作品が掲載された「せりふの時代」が届いた。勘三郎との対談もあり、その中で勘三郎が避けてきた作家と発言している。怖い作家だ。ただ、その作品も読まなくては。
日常のあれこれに埋没して、芝居を考えなかった。脚本については忘れてはいないけれど、まとまった時間で考え、整理することを怠った。そうすると、さて戻ろうとすると、衰えた筋肉を感じる。生活の中心に据えないと。
岩松の『シェイクスピア・ソナタ』は多くのことを考えさせてくれた。姿勢が変わった、か?
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本の処分をしている最中、土田作品が掲載された演劇雑誌をみつけた。もっと早く、とにかく読んでおけば、埋もれることはなかったのに。後悔、後に立つ。
最近、土田作品を読む時は上演を考えて読むようになっているが、幕開きには戸惑った。サウナの客たちなので、裸で前を隠している、のだ。ウ~ム。しかし、すぐに彼らはみんな死んでいて、地獄にいることがわかる。死んだ人間を出すのにはどうも抵抗を覚えるのだけれど、土田の作品は死んでるからこそを活かしている設定にしている。だから笑えるところも多いものの、もっと面白くできるのにという思いが募ってくる作品ではないか。これは書き直せば、もっと面白くなると思う。作者がしなければ、やってみたい。
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結婚式。神父の言葉や聖歌隊の歌の合間に交わされるささやき。舞台よりは映画向きかもしれない。その設定で現代日本のどこかの披露宴会場を舞台に映画化したら、面白くなるだろう。
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街道筋の木賃宿が舞台。そういう場所だからこそ、どんな人間でも出すことができる。酔っ払い、巡礼の老人、馬車の故障で仕方なく立ち寄る金持ちの婦人、犯罪者等。チェーホフの舞台では珍しい。ただ、ここでも没落や不倫が漂う。チェーホフって、女でひどい目に会ったことがあるのだろうか。
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チェーホフ作品の多くに没落していく人達が出てくる。広大な土地を持ちながら、その土地が借金の抵当になっていて、もはやどうしようもない状況にある。でも彼らはどうしようもない。どうしようもないまま、滅びに向かう。
無節操な恋愛沙汰の何と横行していることか。そういう時代だったのか。
プラトーノフには4人の女が情熱を傾ける。それを納得させる俳優がいるんかいな、と、思う。条件が整えば、「プラトーノフと4人の女」、そういう形で書きなおしてもいいかもしれない。こういうのって、誰かやってるのかいな。そこに絞り込めば、悠々我慢の時間内で上演できるのではないか。
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長い。チェーホフの4大戯曲を全部足したくらいの分量があるのではないか。原卓也の解題を読むと、いつ書かれたのかわからないらしく、表紙部分が欠落していて、タイトルがわからず、生誕100年の時に主人公の名を付して上演したらしい。『題名のない戯曲』『父なし子』とかのタイトルの場合もあるらしい。
長いが面白い。たくさんの人間がごちゃごちゃと出る場面はそうでもないが、プラトーノフを中心に数人の登場人物になると、面白い。どう展開していくのかが気になって仕方なかった。
この作品の中には後の彼の戯曲のすべての要素が入っているといってもいいかもしれない。そういう意味では一度読んだ方がいい作品だろう。読み終えても疲れよりも軽い興奮が残った。チェーホフ中で一番。もっとも、上演は難しい。
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先週の稽古場で話したけれど、旗揚げ、2回目、その公演のどこかで、ぼくの内に観客に媚びたところがあったかもしれないので、次はそういうのではなく、そっぽを向かれてもいいから、本当にやりたい芝居をしたい、と、話した。
実は次の公演は笑いをメインにつくりたいと考えていた。しかし、チェーホフを読みながら、そして彼の不遇の劇作家時代を考えたりしながら、当り前だけれど、精一杯で挑むべきだと考えた。
他の仲間はそれぞれ脚本を持ってくるだろうけれど、ぼくはやはり書くしかない。チェーホフに脚本には、背中を叩いてくれるものがあるような気がする。焦らず、丁寧に考えていこうと思う。これが白鳥の歌になる覚悟で。
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『ワーニャ伯父さん』はこれを書きなおしたもの。それは共通の台詞が多いのですぐわかる。ワーニャにあたるフルシチョーフ(ソ連時代の首相の顔を思い出してしまった)が自殺してしまうところが大きく違う。やはり書き直しの方が整理されていてわかりやすい。
それにしても風に秋が漂ってきましたね。もう少しすれば、夜が読書には最適になる。今しばらくの辛抱。
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チェーホフが死の前年に書いた最後の作品は「喜劇 四幕」と書いてある。
『三人姉妹』のナターシャが『桜の園』ではロパーヒンとなって現れる。ナターシャより強力になっている。彼は農奴の子だけれど、最終的には桜の園を買う。そういう時代なのだ。そういう時代の流れを知ることもなく、だから抗うこともあんく、無邪気に翻弄されていく人達と違い、ロパーヒンは流れを知り、だから桜の園を救う術を知っており、アドバイスするんだけれど、桜の園の人たちは耳を貸さない。桜の園を出た彼らが、果たして生きていけるのか。悪い人たちではないだけに、思いやられる。
そういえば、チェーホフの作品に悪人はいない。対立やズレ摩擦はあるものの、悪人はいない。ただ時代の流れ、というよりはうねり、か、そこでは人間の愚かさが出ることもある。ただ、希望はある。トロフィーモフの言葉の中にそれを感じた。『かもめ』のニーナの最後の台詞にも似たような響きがあった。
人間だけを見つめて、その人間を語ることはできないんだろう。ある状況が引き出す人間の一面。作家はそこに目を向けるのかもしれない。
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お父さまはちょうど一年まえ、それも5月5日の、あなたの「名の日」になくなったのね、イリーナ。
『三人姉妹』はこの台詞で始まる。そういいえば、今まで読んだチェーホフ作品に父親はいなかった。明日読む予定の『桜の園』を開いて登場人物をみると、やはり、父親はいない。
チェーホフは、父親の店がつぶれ、逃げて、他の家族はモスクワに移住し、16歳から19歳まで、孤独で過酷な3年間を故郷で過ごした。19歳の時に奨学金でモスクワ大学医学部に進み、家族と一緒に住むようになってからは、彼が「家長」として家族の生計を支えた。チェーホフは44歳で死去するが、妻オリガとの間に子どもはいない。彼の生活には「父性」は欠如していた。チェーホフ作品の父親不在については格好の論文材料になりそうだから、どこかの誰か書いてあるだろうから、そういうのはそれに任せておけばいいだろう。
3幕は近くでの火事の場面。三人姉妹の家に迫ってくる火事は彼女達を襲う何かを象徴しているのかもしれない。彼女達は火事に抗うことはできない。次第に存在感を増すナターシャも、その何かの部類になるかもしれない。
「1900年10月、作者は書き上げたばかりの戯曲をたずさえてモスクワに出た。クニッペルはチェーホフがはじめて『三人姉妹』を原稿を朗読したとき、芸術座の面々が”これは戯曲ではなく梗概だ、これじゃ演技できない、役柄がない、ヒントだけだ”と、口々につぶやいたという逸話を伝えている」(池田健太郎「解題」) バカな!
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『イワーノフ』のイワーノフ、『かもめ』のトレープレフ、ワーニャはその系譜にある。頭がよくて、それ故時代や社会に多くのNOを見出しながら、なす術がない。そして、たぶん、女性を引きつける容姿。ここまで似通った人間を描いていると、作者が反映されているのではないかと考えてしまう。イワーノフとトレープレフは銃で自殺、ワーニャは時代と社会の俗悪、独善の権化のようなセレブリャーコフを銃で殺そうとするが果たせず、「つらい」と泣く。死ぬこともできない。『かもめ』のトレープレフは演劇に多大な関心を持ち、幕開きには「新しい」芝居の脚本と演出をする舞台が展開するし、いずれは作家になる。『かもめ』には「喜劇 4幕」とあり、どこが喜劇なのだ!と思うけれど、トレープレフに自分を重ねていたのであれば、チェーホフは自嘲気味に「喜劇」としたのかもしれない。そして、ワーニャでは病は深まっている。
一幕でのアーストロフとアーストロフの代弁をするソーニャの台詞に、自然保護を訴える部分がある。その通りと強くうなずてしまう。それが1890年の終わりに書かれたことに驚くとともに、チェーホフの英知を感じた。
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神西清の訳。読みやすく、わかりやすかった。7月に沼野訳で3回ほど読んだいたからだと思うけれど。ニーナの最後の台詞がいい。
明日は『ワーニャ伯父さん』読むつもりだけれど、「ワ」に「”」がついているので、はて?と思っていたが、『かもめ』でも「モスクワ」の、「ワ」に「”」がついているではないか。ぼくは国語科の教員のところに行き、、「ワ」に「”」がついているけれど、それはどう発音するのか訊ねた。そこに居合わせた工業科の教師は「えッ、そんなんがあるんかい」と異様に興奮した。国語教師もどうやら初めてのことらしく、インターネットで調べて推論を述べてくれた。ロシア語のある表記の時にそうなるのではないか、と。あるところでは「ヴァ」という表記もあった。どうせ、日本語では「R」と「L」の音に違いはないのだから、混乱を招く表記はやめて欲しい。それにどうやって打ち込めばいいのだ。
明日も神西清の訳だけれど、申し訳ないけれど、『ワーニャ伯父さん』と表記させて下さいな。あらかじめ、お断りを。
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こんなに悩む人間を見たことも読んだことも聞いたことがない。イワーノフ自身ハムレット2,3回口にするが、ハムレット以上だな。悩める人間の代名詞にハムレットはなったけれど、ハムレットの方が先に生まれたからだろう。腹が立つくらいに、イワーノフは悩む。幕切れも、腹が立つ。腹が立つけれど、面白く読めた。その面白さの正体はわからない。
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文芸誌に演劇界の才能が掲載されるのが、面白い。文学がブンガクになったようにも思う。演劇と文学は別モノというのはお互いにあったけれど、書かれたものは読まれるのだから、どう違うのか?面白い現象かもしれない。ぼくは松尾の作品には興味がない。押入れ探して、もう一つ読んでみようか。
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チェーホフ全集を買ったのは教員になって間もない頃だった。あの頃はよく全集を買った。モリエール、エリオット、ラテンアメリカ文学、福永武彦等。読んでるには3割。モリエールとエリオットは何回目かの引っ越しで失った。もったいない。今考えれば、若い頃は結構使える金があった。あの頃に戻れたら、結婚はしないだろうナと思うが、わがままな遺伝子がそうはさせないか。
これを最初に読んだのは学生時代だった。その時は長く感じたが、短い。そして結婚という経験が、そうなのだ、と、思わせたりする。いやあ、歳は取るもんだと思う。いや、そりゃあ、歳を取ることで魅力的な女性との恋が遠のくのは無性に寂しいことではある。しかし、仕事などでの苦労に比べて、女性とのあれこれの何と屈辱的で、不毛で、絶望的なことであるか。まあ、そういうことをチェーホフと共有できる面白さを楽しめる。
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喜劇に必要な要素を幾つか教えられる。期限が差し迫っていることが、一つ。それがないとダラダラでも問題ないので、喜劇にはならない。関係のない人間を出し、差し迫ったものが妨げられることで混乱を増幅させるのも一つ。そして、登場人物には必ず地位や名誉を重んじる人間がいること。『創立記念祭』にはそれがある。後は、そこから派生してくるものは無数にある。
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結婚披露宴のドタバタ。チェーホフの時代のロシアでも、披露宴で見栄を張ってたんだなあと思う。
日本の披露宴は色んな国や宗教のあれこれを取り込んでいるという文を読んだことがある。全ては業者の金儲けに協力しているとしか思えない。それに反対しても、「そういうものだ」と考えている向きも多く、それと闘うくらいなら、我慢する方が辛くはない、そう考えている人も少なくないと思う。もし、ぼくがまた披露宴をするようなことがあれば、こうしようという考えは沢山あるけれど、また結婚なんてことがあり得ないから、無駄な考えではある。
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6ページ、11段に及ぶ長台詞で述べられる夫であるための苦しみ、辛さ、絶望を読んで、鼻で笑う既婚の男たちがいるだろうか。もしいれば、その人は例外的に幸せな結婚生活、家庭生活を送っているか、あるいは、仕事や遊びに逃げているかではないか。
恋人と妻は全く別の人種だ。恋人時代の可愛さ、優しさ、くすくす笑いはすべて消え失せ、独裁者に「進化」してしまう。チェーホフが30歳前、結婚前に、これだけ書けるということは、彼の観察眼、か。
観客を男限定にして上演したら、面白いかもしれない。
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『熊』は最初から結末が読める。熊みたいな男と色白の華奢な未亡人のキスシーンで終わる、はて、どんなキャスティングをすれば面白いか。
『プロポーズ』も最終的には結婚まで行きつくのだが、『熊』よりも面白い。プロポーズに来た先で女と土地の権利で口論になり男は帰る。ところがプロポーズに来たことを知り、呼び戻す、と、今度は猟犬の顎が短いだので口論になる。この二人が結婚してうまくいく訳がない、と、確信したところで、チェーホフは結婚させる。何ということだ。また不幸な夫婦を生産してして・・・ああ、でもそれが現実なんだよな。わかる。わかるよ。籠の外の鳥は中に入りたがり、籠の中の鳥は外に出たがる。フランスの諺だったか。まあ、チェーホフだって、幸せな結婚をしたとは思えない。これを書いた時は独身だったけれども。
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佐伯は不安定な天候で、ズヴァーっと雨が降ったかと思うと、晴れ間が見えたり。おかげで庭(というほどのものではないが)の木々に水をやる手間がはぶけるのが何よりうれしい。ただ、「道の駅やよい」にメダカの水を汲みに行った時、ズヴァーッときたのには参った。
北島康介の金はすごいが、バドミントンも世界ランキング1位を破ったそうで、これは試合を観ないと。
『白鳥の歌』は老いた役者とプロンプターの老人との二人芝居。どんどん役がなくなっていく男の悲哀。帰っても誰もいない部屋。一度結婚のチャンスもあったが、その女との別れの件に、男の舞台へ向かう気概があるが、結局はこうなってしまう。ぼくも最近人生の仕上げ方みたいなことを考えているが、チェーホフはこの作品を26歳の時に書いたことを知り、若い時にできない奴が歳とってできるはずないか、なんて考えながらビールを飲んでいる。
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チェーホフ、どうしようかと思っていたら、『悲劇喜劇』9月号が届けられて、それに民藝が公演する脚本が掲載されているではないか。チェーホフ、宿命か?
どうもチェーホフが書いた、チェーホフに届いた手紙で構成しているようだが、作者の創作がどれくらいあるのかはわからない。もしかすると全部かもしれないし。登場人物の台詞はほぼ全てが手紙を読む形になっているので、一体どのような形で上演したのだろうかと興味を持った(初演は1971年で、演出は宇野重吉だったらしい)。動きがあまりないから、難しいだろう。登場人物の中にゴーリキーがいて、彼は面白い。彼の作品を図書館で探してみよう。
で、チェーホフを読むことにした。色々と小用の多い一週間あけれど、はて、どれくらい読めるか。
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『せりふの時代』夏号で『ロマンス』の作者井上ひさしのインタビュー記事が掲載されている。
「チェーホフ先生、あなたは笑える芝居のつもりで書いたかもしれませんが、舞台に立ち上げてちゃんと上演すれば、悲しくて泣けてくるではありませんか」というのが実は正しい答えなんです。あの四大戯曲を書いたのは晩年ですから、若いころの、力任せに無茶苦茶なドタバタ小説を書いていたエネルギーはやっぱり失っていたわけです。誰でもそうですけれど、人生の中で一番張り切って世の中と直に衝突する、あの感触は取り戻せなかった。そのかわり彼は、年季の入った才能を自分のものにしていたんです。愚か者ばかり登場して、愚か者がその愚かさゆえに、悲しい結末を迎える芝居ではあります。『三人姉妹』なんて、バカな娘三人がモスクワに行けばなんとかなると思って、モスクワモスクワと言ってるうちに、家を失って孤児になり、バラバラになってしまう話ですよね。これをそのまま書けば喜劇になったんだけれど、彼の才能がそうはさせなかった。三人の姉妹が舞台に揃って、「二百年後、二百年後には私たちの苦しみが・・・」とか言われれば、やっぱり誰だってジーンときちゃうんです。土台には喜劇の構造をしつらえるんだけれど、才能がそれを裏切って叙情劇に作り上げてしまう。そういう皮肉なメカニズムがあったんではないでしょうか。」
晩年っていっても、40代だもんな。尊敬するひさしではあるが、ちょっと首をかしげてしまう。病を背負って、死を覚悟していたかもしれないが、作家としては思うことを思うように書けた年齢ではないのだろうか。若い時と違い、作品もコントロールできたのではないか。でも、ひさしが言うんだからなァ・・・。
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昨日の鴻上作品とともに『せりふの時代』に収録されている。鴻上はもしかしたら根っこのない時代を描きたかったのかもしれないが、この作品には根っこがある。生と同じくらい確かな根っこがある。日韓合同公演らしく、日本語と韓国語で上演される形になっている。
ここに登場する人達は生きている。生きているからこそ生まれる言葉、動き。生きていくことと向かいあっているからこそ生まれる強い言葉。共感を呼ぶ動き。哀しみや切なさ、怒り、様々な感情が入り混じる登場人物たちに、彼らの生き方に巻き込まれていった。これがいつ、どこで上演されたのか知らないが、観たい舞台。収穫の作品だった。
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グローブ・ジャングルというのは、公園から姿を消してしまった、グルグル回る遊具の名前だそうな。それと地球を重ねているようだが、ウーン、わからない。作家というより、」評論家の作品のような気がするが・・・。「虚構の劇団」の旗揚げ公演の脚本だとか。
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喜劇4幕。このチェーホフの但し書きが混乱を招いているとしたら、結局はチェーホフとのズレがあるからではないかと思う。今日も昼食の時にパラパラとめくりながらチェックしたところを眺めた。チェーホフは、もしかしたら、当時の芝居に対してNOを突き付けるために喜劇という言葉を使ったのかもしれない。『かもめ』の中で歓喜や笑いは乏しく、自殺、不倫、家庭崩壊の気配、諦め、そういうものが大半を占めている。ところが、それを観ている(読んでいるのだけれど)者は、そういうことより、たとえば人間相関図を書いたりしている訳で、なるほどこういう世界か、大変だァとか思っている。チェーホフにとって、人間世界が喜劇であり、それを描くのが芝居だったのではないか。書き方によっては、大笑いの芝居になってはいただろうけれど、彼は人間をきちんと書いたため、笑いよりも別の面が浮かびあがったのではないか。推測ばかり並べても仕方ない。ひとまず、チェーホフから離れて、盆辺りから彼の全集に取り組もうと思う。小説も含めて、全部読んじゃうぞ!
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オレンジの色鉛筆でチェックしながら読む。人物相関図を書いてみると、何とまあ色恋沙汰に満ちていることか。これを悲劇調でやったら、退屈な芝居になるだろう。トレープレフの自殺にしても、彼の最後の台詞から、考えると、人生への絶望とかは程遠い感じがする。結局彼が恋していたのは、ニーナじゃなく、母親だったようにも思える。もう一回読んでみるか。
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平成22年だったか、現在より数年後のある家族が舞台。夫婦とその親、娘と息子、前妻との間の娘、それに二人の浮気相手。引きこもりだった息子が自衛隊に入り、海外派兵で戦争。自衛隊初の戦争経験者ということでマスコミが押し寄せてというもの。上演の際にきちんと整理すれば、それなりに面白い舞台になるかもしれない。
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奇妙な味の作品。電車の中で痴漢を捕まえる女から始まり、子連れで友達と買い物に行く女、カラオケボックスで歌う女等、それぞれ一人で演じられる。次第に彼女達のつながりがわかる。ズームアウトしていくような感じといえばいいか。練習用に、使える、かも。
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今日もぼんやり、うっすら、考えた。『かもめ』の幕切れは発砲らしき音がして、医師が確かめに行き、彼の医薬関係のナンテロが爆発したと伝え、一人の人物に母親を連れ出せ、彼女の息子が自殺したんだと伝える。自殺した彼を主人公にすることは可能だ。モスクワ芸術座で演出したスタニスラフスキーはそういう演出をしたのかもしれない。しかし、「自殺した」という台詞で緞帳が下りる時、涙が出ない。
悲劇=涙、喜劇=笑い。おそらく世界はそんな簡単な図式ではないのかもしれない。『リア王』だって、結構みんなズレていて、笑えるもんな。『マクベス』だって、あのせっかち病は、喜劇寸前でもある。喜劇とか悲劇とかいうレッテルで芝居を観るのは如何なものか、もしかしてチェーホフはそういう問いかけをしたのかもしれない。ダンテの『神曲』だって、原題にはコメディいの言葉あったような・・・(怪しい、ナ)。
「喜劇」だからといって、人間を道具として扱う限り、芝居ではない。ここまできちんと書きこんでこそ芝居なのだ。そういうことなのか、アントン?
ともかく、あと何回か読んで、次の作品に行こう。作品は多く、ぼくの余生は短く。しかし、とことん納得こそ、だ。今度はじっくり読んでみよう。
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一気に読んでしまった。訳文がすごく読みやすく、訳者のこだわりと遊びにほくそ笑みながら、楽しめた。
問題は「喜劇」。井上ひさしの『ロマンス』の中でチェーホフは「一生に一本でいい、うんとおもしろいボードヴィルが書きたい」と言う。そして『かもめ』にも「喜劇」と書いてある。喜劇とは何だ。
悲劇には主人公がいる。『かもめ』には主人公がいない、と、考えるのはどうだろうか。人間模様。登場人物の誰もが、生活を持っている。別役実が『電信柱のある宇宙』で人形について書いていた文が思い出される。髪の毛まで人間のものを使い、人間そっくりの人形を作った場合、それは神への批判になり、戯画化したような人形は人間への批判。確かそんな文章だった。前者を悲劇、後者を喜劇と考えれば、納得がいく。そうなのかどうかは、今後他の作品を読みながら、考えたい。
『ロマンス』で、スタヌフラフスキーとチェーホフが議論する場面がある。ある場面でえらく時間をかけ過ぎているとチェーホフは演出を批判する。喜劇はスピードがないと模様が薄れてしまう。
『ロマンス』は昨年10月に『すばる』に掲載されていたようです。ウッカリ、ガッカリ。
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刑務所に入った夫に面会に来るという設定が面白い。限られた時間、話すこと、することもままならない状況。男と女の二人芝居。日常でも演技することは少なくなく、時々本音が出るくらいだが、ここでは本音が日常よりは少し多い。もしかすると、本音で語りあえる状況ってのはないのかもしれない。
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栗山民也が『演出の仕事』を昨年出版して、その巻末に『ロマンス』の演出日記があった。それを読んで、毎月近くの本屋に一回足を運び『すばる』に掲載されていないか確かめていたが、見つからず、断念した。単行本になるまで待つしかないか。
八木の『チェーホフ家の人々』は年譜に沿った形で書かれていたが、井上は劇作家チェーホフの新しい姿を示してくれたように思う。チェーホフを4人の男優が演じ、それに妻オリガを演じる大竹しのぶ、妹マリアの松たか子が加わる。舞台カラー写真が多く収録されていて、舞台の感じを確かめながら読むことができる。井上のチェーホフへの愛情とも呼べるようなものがヒシヒシと伝わる。チェーホフを知ると同時に、井上を知ることができたように思う。
チェーホフの作品は悲劇か、悲喜劇か、喜劇か。八木と井上の作品は、チェーホフを読んでから再読してみよう。
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チェーホフの少年時代から死の床までを描いている。最後までグイグイ読んだのは、作品よりも、チェーホフへの興味からだろう。いずれすべての作品を読むつもりでいるが、その思いはさらに強くなった。
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五木寛之の作品は一時期読んだ。しかし、彼の代表作『青春の門』は読んでいない。その五木の小説を脚色したということになっているが、原作を知らないもどかしさがある。もしかすると、今読むと新鮮かもしれないな。図書館でさがしてみよう。
大学で演劇サークルに入った主人公の体験。ただ、この体験がすさまじい。新しい民衆演劇の創造を目指して地方に行き、住み込みで過酷な生活に屈することなく、暴力的な雇用者との闘いもあり、と、「大学のサークル活動」で想像できるようなものとは異なる。それは同時に、演劇が時代の中でどういう意味があるのか、芝居をするということはどういうことなのか、芝居をすることで、芝居を観ることで何を求めているのか、そういうことを突き付けられたような気がする。
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売れっ子歌姫の家をそぐわない恰好の男が訪ねる。彼女を見出し、売れるまで援助した男なのだが、今では天と地ほどの距離ができてしまった。召使と女中相手の話ではどうも胡散臭さい。やがて歌姫の母親が出て、そして歌姫が出て、彼は帰る。その時土産に置いたライムが香り立った。
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日常生活で仮定法表現は使わないようにしているが、観たい舞台をみせてあげると言われたら、劇団MONOを挙げるだろうし、一夜の酒の相手を誰でも世話すると言われたら土田英生を挙げるかもしれない。あッ、やはり、伊東美咲だな。でも、瞬間でもあれ、伊東美咲を抑えた土田英生、で、ある。
残念ながら、演劇雑誌に掲載された土田作品を読んだことしかない。今度はどんな仕掛けをしてくるかがいつも楽しみだが、バカバカしさもたまらない。
今回の作品は舞台装置が何や何やら、想像するのを放棄した。装置と同じくらいややこしい人間関係が楽しめる。この面白さを説明できる言葉は、一つ;読め!
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私立中学の5人の生徒の保護者が学校に来る。一人の女生徒が自殺し、それがいじめが原因ではないかという疑いがあり、いじめた生徒達の保護者。中にはモンスターがいる。
保護者の中に教師夫妻がいるのが気になって仕方なかった。教師の理屈や知識は要らないのではないか。保護者をあぶり出すことに専念した方が事の重大さとの「開き」「落差」「温度差」が出たのではないか。学校側も校長、学年主任、クラス担任の3人も要らない。ぼくなら学年主任一人にする。ちょっとした台詞で他の二人は処理できる。むしろその方が学校の体質が出せるのではないか。
一番気になり、答えが出せないことは、ぼくなら生徒の自殺を扱えるだろうかということ。教育現場にいる者としては、かなり切なくて、シンドくて背負いきれそうにない。背負う強さを持たないといけないのだろうか。ウ~ン。
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土日でどうにか体調が戻った。昨夜は8時前に寝て、何度も目覚めながら、3時前まで何度も眠った。そして脚本を読み、犬と散歩して、シャワーを浴びた。爽快。やはり眠りがいいのだろう。久しぶりの晴れの気配の中、軒先の色とりどりのアジサイも目の歓びだった。
久しぶりの脚本。正式タイトルは『フランクフルトに恋人がいるサックス奏者が語るパンダの物語』。長い。どうしても読みたかった脚本で、上演する東京演劇集団風の方にお願いして送ってもらった。それもモルドバから。
再読したい、再読して理解をしたい作品。秀逸な場面がある。それは女が男にこう言って欲しいと求めるシーン。ただし、男は「a」の音しか発することができない。「私のことを愛してるって言うように「a」と言って」「私のことを二度と忘れないって言うように「a」と言って」というような形で数ページにわたって続く。10年くらい前、兄と妹の芝居を書こうとしたことがある。その時の設定が妹は一つの言葉しか発せないというもの。日本語にも外国語にもない言葉つくるため、音を組み合わせるのにえらく時間がかかった。どうにかできたら、大分市の街角を歩いている時、同じ音の看板を見つけ、ショックを受け、そこで断念した。兄に凝った料理を作らせようと料理の本を買い込んだり、食材の勉強もそこでやめたのだった。たぶん、あるフランスの俳優が「ウイ」を70通り言えるとかいう文に触れて、挑戦したくなったのだった。
この『フランクフルト・・・』のシーンに入った時、あの記憶がよみがえった。とっくに忘れていたのに・・・。こえは面白い。練習に使いたいと思う。
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3人の男が大きなガラス板を運ぶ話。もちろん、実際には存在しないガラス板。そのガラス板から簡単に手をはなすわけにはいかない。この設定が素晴らしい。童謡歌手「はるみ」とポルノ女優「ルミ」の話には笑い転げてしまう。これでもかという言葉遊びには圧倒される。こんな面白い作品には滅多に出会えない。グイグイ引っ張られる。名作。傑作。ベスト。
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近未来の廃墟のような街の不法ラジオ局のDJ・市の放送はかかってくる電話とのやりとりと音楽。生活も哲学(あれば)も全く違う連中との話は暴力、歪んだ性、絶望、怒り、無気力に満ちている。ラジオだからこそ可能なことだろう。こういう手法もあるのか。
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腹立つような若者の生活が描かれている。が、面白い。ここまでやられると爽快ですらある(ってこともない、か・・・)。以前アメリカに留学している若者を描いた脚本を読んで腹が立ったが、この脚本に漂う空気が最後まで読ませる。才能を感じる。
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ケラって、ハチャメチャな作品を書くかと思っていたが、深くて味わいのある作品を書くんですねえ。三人の姉妹を軸に芝居は展開する。チェーホフの作品を思い出し、これは読まなくてはいけないと思った。チェーホフは幾つか読んだものの、昔、昔のことで、覚えていない。
読書シリトリみたいな形でぼくは今まで読んできた部分が多い。ある作品の中に出てきた作家、作品を次に読むという形だけれど、それで結構、広がった。スペインの詩人ロルカが出て、本屋に取り寄せてもらったら、2巻で二万弱だった時は狼狽したけれど。
初夏のテーマはチェーホフにしよう。昔よりは少しは読めるよぷになっているのだろうか。
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先日『リア王』を読んだ時と同じように、以前とは違って味わって読んだ。ちょっとした台詞のうまさと深さ。やはりシェイクスピアは凄い。
『テンペスト』はオペラにもなっているが、上演方法は多様だろう。映画にしてもいいかもしれない。『ハリー・ポッター』も吹っ飛ぶようなファンタジィにもなるだろう。その要素がある芝居を、照明も音響もない白昼の劇場で上演したのだから、当時の観客も凄かったのだろう。
読むほどに味わいが深くなるシェイクスピア。この歳になって、初めてシェイクスピアの凄さを知ったのかもしれない。
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今まで色々な人の訳で何回も読んだし、松岡訳も始めてではないけれど、今回が一番面白く読め、これは名作だと改めて思った。
松岡は後書きでこの作品には母性ないと書いてある。おそらくコーディリアに女性を集中させるためかもしれない。残酷な作品ではあるが、だからこそコーディリアが輝く。
言葉の巧みさを堪能できる。道化とエドガーがいい。
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芝居は雑多なところがあるから面白いのかもしれない。木下順二の作品にはそれがなく、それにしばらく浸っていたので、宋の作品は面白く読んだ。
開演前の注意に橋爪功を使い言わせた台詞にも笑ったが、それがちゃんと最後とつながっている。話題の中心は戦争時代に中国で細菌兵器の研究をしていた部隊。ヒポクラテスは「医者は患者のために尽くすのであって、人間を選ばない」というようなことを言ったらしいが、医学の知識が殺人に使われたことで副題は付けられたのだろう。
山の中の桜が咲いて、年に一度だけその在りかを知らせる季節。玖珠農業の校歌は野口雨情作詞、中山晋平作曲だが、「森は茂れり 野は広く われらが行く手は楽しけれ ・・・」と始まる。ガソリン買い控えでは問題は解決しない。この時期は歩くのがいい。朝の散歩が特にいい。あちこちに花が咲いてね。明日も早起きして、散歩だ。
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上の娘の卒業式でした。小学校の卒業式って、「卒業生起立」「礼」「着席」って号令がゼロ。高校は一つ一つ全部号令。それでも動きはまばら。小学生は号令がなくても一糸乱れない動き。練習はするんだろうが、素晴らしいと思った。爪の垢を集めて、高校の式の時に飲ませてやりたくなったほどだ。
保護者代表で謝辞を述べました。職場の女性から「泣きますよ、絶対」と数回言われ、絶対を付けるのはすべからくそういうものなのか、それともぼくを見抜いてのことなのかと考え、第4稿まで考え、五百字までそぎ落としました。娘の母親なんか始まる前からハンカチを目に当てている。「花粉症か」と訊くと、首を振る。
ぼくは入学の頃と今を比べながら、6年間という短いけれど、偉大な時間に驚いていました。これからが大変なのかもしれないけれど、くたびれたオジサンになってはいけない、娘に負けてたまるか、と、決心した次第。公演に向けてひた走ります。
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野間宏君はこの戯曲のことを戦後文学の「実験小説」に相当する作品であって、人間の意識の追及を試みようとした「意識のドラマ」といってくれていますが、それはその通りです。
木下順二全集9には『暗い火花』と小説『無限軌道』が収められている。各巻には木下が作品について書いた文がいくつか収められている。今回、それをちょっとめくってみて冒頭に上記文章に接し、野間が本当に褒めているのか、そしてその野間の言葉を額面通りに受け取る木下の人柄に少々がっかりしている。
実験小説ということは戯曲スタイルの小説いうことだ。野間は戯曲としては認めていないということになりはしないか。小説と戯曲は全く違うのだ。
これで木下順二の全集と付き合うのは終わりにしたいと思う。日本演劇史の中で巨星の一人の作品を今回一日一作という方針で読んできた。木下作品は今でも上演されているようだ。でも、ぼくは、たとえば井上ひさしが戦争にこだわって書き続けている一連の作品の方が好きだし、面白い。木下が「思想がない」と批判したひさしの作品には、木下のような思想はないかもしれない。しかし、人間への眼差しがある。人間への眼差しこそ思想の根底ではないかと思う。木下にそれがあったのか、作品を読んだ限り、それは感じ取れない。彼の思想とは、時代への眼差しではなかったか。その時代を描くにしても、人間の感触豊かに描くしかないんではないか。もしかすると、自分が納得いく描き方を模索した木下自身が舞台にのせる一番面白い素材ではなかろうかとさえ思える。
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大作だ。かなりの時間がかかったであろうし、木下のこだわりがいい形で現れていると思う。それだけに上演も大変だろうと思う。今回は半分以上を声に出して読んだが、名前やらナンヤラ、詰まること度々。
これを読んで一番の収穫は、義経が何故兄頼朝から討たれたのか、その理由がわかったように思えたこと。比類ない武将の面を確かめながら、この戦の後の彼を待ち受けるものを思いながら読んだ。
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「神と人のあいだ第Ⅱ部」。
戦争が終わって、日本の東京だけでなく、外国のあちこちでも裁判があったようで、第Ⅰ部は東京、第Ⅱ部は南方でのかなりいい加減な裁判が描かれている。漫才師の女が登場するので、かなり期待したけれど、う~ん。
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『神と人のあいだ第Ⅰ部』。東京裁判が舞台になっているが、被告人ではなく、判事、検察、弁護の三者のやりとりがが中心になっている。被告人は50名を超えるが、一人一人の罪状認否が延々と続く。木下って真面目なんだな。戦犯を裁くのだけれども、その裁きの前提が曖昧でおかしかったのだという印象を受けた。専門用語やらが出てきて、エンターテインメントの要素をかけら感じないぼくのような人間には退屈な芝居でしかない。
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祖父、父、子の3代に渡り、時代と生き方を考える作品。木下の現代劇は単調だ。おそらくそうしないと破綻してしまうからじゃないかと思う。幕開きは、今まで読んだのと違う感触なのだが、結局は会話劇になってしまう。そしてその会話は、木下のある思いを乗せるためだから、その通りになれば、結局単調にならざるを得ない。中身は凄いことなんだがな。
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ぼくの読みの浅さはあるだろうことを断っておかないといけないだろうナ。ナニセ巨匠だから、その巨匠に素人が「面白くない」というのだから。今まで23本の木下作品を読んできた。全集にはあと4,5本あるから、一応全部読んでみるつもりだけれど、結論らしきものがあるので、ここで書いておきたい。
木下順二には遊び心がない。
遊び心がないのは観客不在だからだ。木下が井上ひさしの作品に「思想がない」と言い、それに対してひさしが「思想なんていらない、趣向だ」と反論した。ひさしの趣向とは遊び心と言い換えてもいいだろう。遊び心は、こう書けば(演劇だから「こうすれば」になるだろうが)受け手がどう反応するかを考えざるを得ない。受け手があってからこそ遊び心は成立する。それが木下順二にはなかった。
彼には自分の問題を脚本という形で整理しただけではないのだろうか。
木下の民話劇が面白いのは、既に受け手との間で成立している素材を扱うからだろう。
木下のこだわりと書き続けてきたことには尊敬するし、困難な素材を会話で処理してくれると、わかりやすいから面白い。ただ、彼の現代劇は演劇ではないと思う。彼の「思想」を整理するための道具だった。(ああ、こんなこと書くと怒り心頭に発する人たちがいるかもナ。)以後、これを確かめる読書になる。
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堺利彦とその周辺をモデルに描いている。思想弾圧が激しかった時代を舞台に活動する人たちが「売文社」という出版社で語り合う。主人公渋六さんがコピーライターの仕事をしており、彼のつくるコピーは面白い。
書く人間がいれば、それを面白いと思う人間がいても不思議ではない。木下と同じ時代を生きた人なら、「冬の時代」に共感し、楽しむこともできるおかもしれない。シェイクスピア作品も訳し、演劇についての本も書いているから、木下の深くて確固とした演劇観で書いているのだろうが、そういう時代だったのかと、頭で理解するだけで、共感はできない。心が動かない。悩むこともないのだろうけれど、心が動かない自分自身に首を傾げたりする。ただ、民話劇は面白いと思うけれど。
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全集も第6巻に入った。全集を最初から順番に読む経験は初めて。結構骨は折れるが、それだけに楽しくもある。
東の国とは日本で、明治、鉄道工事が始まった頃が舞台。この作品も時代の一断面は見えてきて、それなりに面白く読めたものの、時代という波の彼方に人間が消えてしまう印象で終わった。
小説、映画、演劇、どんな作品でも、結局は現在の私に着地する何かをどう描くかだと思うけれど、現在の私と作品との隔たりの大きさを感じてしまう。これは、もちろん、ぼくの力不足だとは思うが・・・。
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戦時中のスパイ事件に材を取っている。しかし、時代の逼迫した空気が薄いし、人間の感触が弱い。
これはもしかすると戯曲形式の評論ではなないかと思ったりした。レーゼドラマという「読む戯曲」があるが、それではないか。劇団「民芸」が宇野重吉の演出、滝沢修主演で上演したらしい。
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戦後の沖縄に広島も絡めて描いている。木下は沖縄に行ったことがないそうで、それがいいのかどうかは分からない。ただ、沖縄に行ったからこそわかること、生まれるものがあるような気がするのだが。
坂手洋二も沖縄を舞台にした作品を書いている。坂手の作品に比べると、具体性に欠けるというか、観念的というか、だから、わかりにくい。読む時には戻ることができるが、舞台ではどうか。観客に手がかりが少ないのではないか。上演したいとも、観客になりたいとも思わないのだな。
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朗読台本『えんま大王のしくじり』を劇化したもの。死後の世界を扱っているが、タイトル通り陽気な作品。部分的に、はて、これはどう演出するのだろうかと考えてしまうが、底抜けの明るさを楽しむことができる。これにも山本安英が出演している。
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人間の人形を作る時、人間の髪を使って人間そっくりに作ればそれは神への批判になるが、戯画化して作ると人間への批判になる。別役実の『電信柱のある宇宙』にそんな一節があったように思う。
この木下作品に登場するのはカエル。カエルの社会だが、それは人間を戯画化しているから、これは人間を批判いているということになるのだろう。ただ、木下作品は長いと観念的になってしまうように思う。これはいずれ彼の現代劇を読んだらもはっきりするかもしれないが、その観念的な部分が演劇的なものを削いでいるのではないか。彼にとっての劇的なものは何か。考えてしまう。ただ、彼は実に丁寧に書いていることは脱帽する。
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人間は名前をつけたがる動物。ぼくはそう考えている。漫画家水木しげるは、日常のちょっとしたことに想像を巡らせ、妖怪という形で名前をつけた。
アマンジャクもそうかもしれない。ぼく達が山でつい大きな声で「ヤッホー」とやってしまうのは何故か、約束事なのかもしれないが、その山で生活している人には奇怪に映るかもしれない。
瓜子姫とアマンジャクを演じるのは山本安英。また山本安英だ。木下にとって、彼の演劇、劇作活動で、山本が果たした役割は大きいのだろう。山本がいたから書けた部分も大きいかもしれない。
この作品は山本を考えて書いたということなら理解できる。彼女を前面に押し出しているのだろう。ただ、作品としては物足りなさを覚える。
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これもよく知られている話だが、木下作品の中ではトントン拍子の話は夢の中で、実際はその通りにいかない内容になっている。わらしべ一本で長者になる話というのは、あまりにノーテンキすぎるとでも思ったのだろうか。
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山の中の池の底に「うるし」が大量にあり、それを巡っての人のいい男とずるい男の話。まさに民話。特に取り上げるものはない。
高校演劇で木下の民話を取り上げるのは一つの有効な方法ではないかと思う。成井豊の作品よりは遥かに優れているし、きちんと取り組めば舞台成果をあげることができると思うし、力量を上げることにもなる。成井のタイムスリップで訳が分からない作品よりは、はるかにいいのではないだろうか。舞台装置にも照明にも工夫の範囲は広い。
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ラジオドラマ。鳥や木の声を聞くことができる頭巾という設定で、音を活かしている。内容的にはそれほどではあるが、最後の母親とのシーンが風景が浮かび、ほのぼのとして気持ちがいい。
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手紙の書き換えは新しいことではない、なかった手が子どもを助けるために現れるというのも荒唐無稽。ただ、作品を支えるものがあれば、何故か許してしまう。おもんは山本安英だったらしい。木下を書かせたのは、山本という女優がいたからではないかと考えてまう。木下にとってのミューゼだったのかもしれない・
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ぐうたらが知恵を働かせて、勤勉な者から金品を奪う悪漢物語ともとれるが、これも彦市と同じで、寝太郎の知恵がどう働くかを笑いながら楽しめる。そしてこの手の物語に欠かせないのが「偉い人」や「金持ち」。そういう人が手痛い目に会うのを観て、観客は笑うのだろう。チャップリンの言葉にある;バナナの皮で子どもが転んでも人は笑わないが、気取った紳士が転ぶと笑う。
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西欧のファルス風の作品。ファルスは日本では「笑劇」という風に訳されていると思うが、それに近いのは狂言かもしれない現代劇ではない。喜劇と笑劇の違いはよく分からないが、笑劇は劇的な要素が薄いように思う。
木下順二は堅くて、真面目という印象しかなかったが、おかしいことも考える作家だったことを意外な驚きをもって楽しめる。
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熊本県八代市に伝わる彦市の話を基にしている。野津の吉四六に通じるものがあるが、この手の話は日本のあちこちにあるのかもしれない。木下は手際よく処理している。そして秀逸なのはエンディングだろう。こう終わらせたか、と、予想しなかっただけに面白い。
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『風浪』『山脈』は長く、特に『風浪』は熊本弁でどこで区切ればいいかわからず読むのに時間がかかった。全集には作品に関して木下の書いた文章も収録されているものの、別に木下作品を研究している訳じゃないから読まない。全集は今日から三巻目に入る。
『二十二夜待ち』は舞台はお堂での一夜。ばあちゃんと孫が実にいい。ばあちゃんが可愛く、ばあちゃん子だったぼくは気持が傾く。こういう二人を現代を舞台にして書くことはできるだろうか。木下作品のように嫌味なく、さらりと書けるだろうか。心が洗われる作品だ。
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戦中戦後のある山村を舞台に書かれている。その中でよかった台詞を;
ねえ、こうやってさ、今二人が顔と顔とを突き合わして、お互いの息と息とを顔の皮膚に感じながら向かい合っている。向かい合ってよかった。今この瞬間にこうやって会えてよかった。この感情・・・この二人の愛情ってものが、これこそが世界の中で、いや宇宙の中で唯一最高のものだ。
この台詞を言う女性を演じたのは山本安英。この作品のヒロイン。ぼくは木下の山本への言葉に思えてならないのだが・・・。
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『夕鶴』と並行して書いたので、どちらが自分の処女作なのか分からないらしい。
井上ひさしが劇作家として活躍し始めた頃、木下が井上作品に対して「思想がない」と言ったとかで井上は思想なんかいらない、趣向だと書いていたような気がする。
『風浪』は熊本を舞台に神風連の乱の頃を描いている。時代について語り合う台詞が多いが、それは現代にもそのまま通じるものが少なくない。よく調べて、丁寧に書いていて、歴史オンチのぼくにも理解できた。
ただ。長い。最初は6幕だったものを5幕にしたらしいが、それでも長い。上演には4時間近くかかるんじゃなかろうか。その長さをよしとしても、もう一つ問題が残る。この作品のどこが劇的かということだ。歴史を語る上での方法としてではなかったのかとさえ考えてしまう。歴史モノの難しいところか。
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萩尾望都に『11人いる!』という作品がある。宇宙船だったか何だったか、ナニセ読んだのが30年前後昔のこと。それには続編もあるのだが、萩尾にインスパイアしたのはこの木下作品ではないだろうか。きっとそうだ。萩尾作品、木下作品、どちらが先でもいい。一度読めば、ぼくの気持もわかろう。
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副題に「群読のために」とある。幾つかの役はあり、民話風の物語が展開するけれど、はて、群読の目的、面白さがわからない。
この一週間、木下順二の初期作品を読んで、この人は作品を練り上げる人だということがわかった。時間をかけている。今、桂文楽に関する本を読んでいるが、彼は一つの落語を仕上げるのに5年から7年かけたという記述があった。落語家は自分で演出、脚色もする訳だが、それにしても時間をかけている。
日本人は米を洗うとは言わない。研ぐという。大企業から小さな町工場に至るまで、日本の会社は世界トップの製品を作り出している。それは米を研ぐという言葉に通じる志と真理があるような気がする。
読書は自分との対話の部分がある。ゆっくり読んでいこう。
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西川流家元の踊り、清元の三味線、新劇の役者の朗読。3者による「立会劇」。
ストーリーもそれなりに面白く、踊りにも変化をつけるように工夫してある。これを基にミュージカルに仕上げることもできそうだ。
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都に出たもののうまく行かず、故郷に帰ってきた男が山伏なりすまして、騙そうとする。川辺で眠っている法螺貝でキツネを驚かすと、びっくりしたキツネは川に落ち、キツネの復讐を受けることになる。キツネが人に化けたりして、本人なのか、キツネが化けているのかで勘違いの喜劇が展開する。シェクスピアにお喜劇にも通じるものがある。面白い。
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中国の「除三害」を翻案・脚色したものらしい。木下作品では、虎狼、おろち、熊太郎(おんにょろ)が三害で、熊太郎が前の二つを退治して、さて、三番目はというところに一番興味があるのだが、少々拍子抜けの結末か。
山本安英が「観客があんなに笑ったのは観たことがない」という村人の会話部分は、木下が各地の言葉(地域語、方言)を基に作りだしたものらしい。面白い作品だ。
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手つかずの全集に1巻から毎日一作ずつ読んでみようか、と。
『夕鶴』は題名は知っている。昔中学校の国語の教科書に載っていた記憶はあるが、読むのは初めて。木下順二はヒロインつうを山本安英を想定して書いらしい。与ひょうが金に目がくらんで変わっていく様に、「あの人をひっぱらないで」と訴える場面は現在にも十分通じるものがある。ただ、舞台にするのは難しい。なお、山本安英の『夕鶴』の上演回数は森光子『放浪記』、松本幸四郎『ラ・マンチャの男』に次いで、歴代3位とのこと。
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アルツハイマーを内面から捉えて書いた作品。読みながら混乱したが、その混乱こそ、本人のものなのだろう。難しいテーマに挑んだのは、新聞記者の経験か。参考文献も多い。
弥生町民会館で高校演劇の大会を開催した時、古城氏には審査員として来てもらった。「一跡二跳」主催。福井での全国大会の審査員をした時に再会した。また、俳優希望の生徒とある学校に行った時、夜練習を見学して、その後飲んだ。劇団のHPに訪ねてみて下さい。
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男と女の二人芝居。
別役の芝居は最初はおかしい。この芝居でも、外国旅行から部屋に帰ると、男がいて、それももう数日間その部屋で過ごしているという。これはおかしい。おかしいと思いながらも、別役ロジックにはまってしまっている。
別役ロジックでつくられる世界は遊びの精神に満ちている。
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どうも気が滅入る脚本を続けて読んだので、笑える脚本ということで、職場の椅子周りを探して、ひさしの作品を再読。
戦後の二人の噺家のどん底生活を笑いを交えて描いている。修道女たちとのやりとりは面白く、元気をもらえる。そういう脚本を書けたらいいナ。
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パブのシーンはあるが、家庭劇と言ってもいい。欠点だらけの発明をする父親、それに反発を覚えながら家計を支える娘、そして何もかも承知上で、夫と娘を支える女。パブのシーンは男を描くために必要なのだろう。
封筒の発明をパブで認められたと思い、ようやっと日の目をみれると思い、家庭を捨てて、出ていきながら、所詮はパブでのこと、夢破れ帰ってくる男。妻はちゃんと彼の食事を用意していた。
切ない物語だが、家族が元の鞘に収まる。最後の娘の微笑みが美しい。
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喜田川歌麿の苦闘。周辺の人物に知っている名前の人物がいるので、興味はわく。
美人画の裏で、こういうことがあったのか、と、驚くと同時に尊敬すら覚える。
矢代静一に『北斎漫画』というのがあり、現在「一跡二跳」で活躍する奥村氏が学生時代に北斎を演じた舞台を観たが、学生でここまでできるのかと驚嘆したことを思い出した。
この池田脚本には美人がたくさん出る。それもまた興味の一つになる。
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「せりふの時代」2002年春号に掲載の作品。
「悲劇喜劇」1998年11月号の演劇時評で小林和樹は『さよならノーチラス号』についてこう述べてる;
「全く失笑しました。幼稚な作劇術と主題、もっと悪いことに演技が恥ずかしいくらいんです。しかし、観客は何がおかしいのかよく笑います。終始「これは一体何なのだろう?」と思いつつ、気が滅入りました。芝居というより一種のイヴェントなんでしょうね。」
この時評を読んだので、成井作品を探したら「せりふの時代」にあったので読んだ。成井の『銀河旋律』や[広くて素敵な宇宙じゃないか』は高校演劇でもよく上演されている。ぼくはその二つは破綻していると思うが、書いた人間がいれば、それを受け止める人間がいても不思議えはない。
「スキップ」という未来と現在を行き来する主人公の謎は謎のままで、解明されないもどかしさ。男と女の問題の甘さ。そして言葉が並べられるほどに、中身のなさだけが明確になる。
深刻でもなく、不真面目でもない。でも成井を書かせているものは何だろうか。成井豊という人が顔のないヒトになっていった。これで舞台を成立させるには、成井は演出勝負の人なのだろうか。ワークショップは面白いという声を聞いたことがある。好きでも嫌いでもない。これで許されるのか、というところ。
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美容院を舞台にのい地方の祭りの準備と打ち上げまでが描かれている。些細なことが延々と続く。残り3分の一辺りで少女の死体が発見される。しかしその事件も日常の会話に埋もれてしまう。その恐怖が最後にじんわり。なるほど、こういう手法も面白いか。
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刑務所が舞台。私腹を肥やす所長と囚人の物語。それだけで想像できるようなもの。だが、徹底して書きこんでいるから、悲惨がひしひしと伝わり、怒りを覚える。結末も安易ではない。いい脚本だ。
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作風という言葉がある。それはたぶん無意識に出てしまう何かで、その何かが他の作家と違う作品に味付けすることになるのではないかと思う。
以前、木谷の作品を好きじゃないと書いた。しばらくして、その作品が賞を受賞したというニュース。ぼくは自分の読む力のなさを思いながら、合わないものは合わない、と、思った。
木谷の新作。タイトルで読む気が失せる。ただ独特な作風で読ませる。それ以上は言えない。
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首相も務めたことがある西園寺公望の別邸を舞台に2.26事件周辺を扱っている。評伝劇になるのだろうが、名前とちょっとしたことだけを知っている人が虚実入り混じって描かれているものを読むと、その人が身近になってくる。
司馬遼太郎によると、日清・日露戦争に勝利した日本の軍隊はその時の体質のまま昭和の戦争に入ったらしい。日露戦争を描いた『坂の上の雲』を読むと、あの勝利は露西亜の思い上がり故の不手際で勝利しただけだった。乃木は人間的にはすぐれていたのかもしれないが、指揮官としてはどうも能力に欠けていたようだ。
この小幡作品でもそういう軍部と日本の首脳たちの愚かさが垣間見える。芸者上りの女中頭の気風のよさと発言が舞台を活き活きとしてくれる。ただ、当時の空気みたいなものは伝わるけれど、芝居はそういう説明だけではないと思う。ここから、さて、と、料理が始まるのではないかと思う。
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芝居でしか生まれない作品。軽妙、空虚、残酷、いい加減。時に眉をひそめながらも、最後まで読まないと気が済まない。上演云々は抜きにして、一読の価値はある。良い舞台、悪い舞台は知的な判断になるが、この作品世界は好きか嫌いかで別れるのではないか。好きではないが、嫌いではない。何か告白れた時の女子高校生の曖昧な返事みたいだが、そういう脚本だ。ぼくには。
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最後に「第一稿だから、公演までの稽古過程で変わっていく」といことを書いている。そうだろうなあ。芝居の転がりがあまりよくないのだ。加えて、「グルメ」を「ウルメ」と言い間違える辺りは貧困さを感じてしまう。ウルメってのはいわしの・・・と説明を加えてしまうとさらに悲惨になってしまう。何かないかと、探しながら読むけれど、今回は何もなかった。なお、特別料理とは娼婦。30年前の作品。
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舞台は西に向かう貸切列車。列車の主要人物はアインシュタイン。ただ、彼は登場しない。彼を取り巻く連中が彼を探す中、それぞれの結婚やら仕事の問題が絡み合いながら、時にドタバタしながら、芝居は進む。作品の中で最も誠実と思われる人間が広島で降りる。ドタバタの悲劇の終末がドーンとした余韻として残る。
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母と娘の二人暮らしの部屋に、部屋を間違えた男がやってくる。娘はかんりの年配で、ちょっとした拍子のはずみで男と結婚することなる。また見知らぬ娘が飛び込んで、それが娘になって、家族が出来上がるという話。そうなってしまう会話が楽しめるけれど、ウ~ン、それだけなんだな。家族までいってしまうのに無理があるからだろう。
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舞台は二つの離れた部屋。仕切りはなく、その部屋の住人はその二つの空間をアクティングエリアとして使う。一つは女性の衣服仕立て屋、そこで結婚を控えた女性のウエディングドレスをつくっている。そこに登場するのは、仕立て屋の女性と、夫、そして結婚を控えた女性、それと仕立て屋の女性が布地を買う店の女性。その布地屋の女性は既婚だが不倫をしており、その男の部屋がもう一つの部屋。それに、仕立て屋の女性が窓からパン屑を投げてやるカモ(オシドリ?)の夫婦が、雑談の中に絡んでくる。タイトルからすれば、カモの夫婦がかなり重要な役割を占めていることになるが、つまり夫婦、結婚を問題に芝居は進んでいく。
結婚、夫婦について描くのは難しい。アーダ、コーダを並べても、その多くは既に語られているからだ。だから、この作品はそこまで深入りせず、現象を描き、観る者が考えるという仕掛けになっている。ぼくも考えたもんな。
学生時代にシェイクスピアの『十二夜』を「恋愛狂騒曲」というタイトルでミュージカルに書き直した。恋愛の次は結婚かという思いはずっとある。結婚について笑い飛ばすような芝居の方が好きなのだ。「校長官舎の夜」という芝居を2年近く考えているが、「結婚狂騒曲」というタイトルがいいのかmれない。
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田舎にいて演劇雑誌を通して東京や関西の演劇情報に接する。その情報の多くは「ああ、そうか」程度だが、無性に観たくなるものが「第七病棟」の公演だった。石橋蓮司と緑魔子夫妻が唐十郎の脚本を上演していた。そしてその公演場所が、使われなくなった銭湯やら、とかとかとかに手を加えて劇場にするということだった。石橋は毎回その会場を探す。結構大変だったようだ。
どんな舞台を観たいかという質問には答えは多い。でも誰の舞台を観たいかとなると、ぼくはまず石橋蓮司をあげると思う。テレビドラマに出るようになっている。松田聖子の『私ってブスだったの』とかいう連続ドラマに松田聖子の父親役で出ていて、ここまで円くなったのかと、妙な感想を持った。でも、銭湯を上演可能な場所に替えるにはお金もかかるんだろうナと思ったものだ。
『ふたりの女』は第七病棟に書いた作品。唐の破天荒な想像力。破綻しそうで破綻しない足腰の強さ。唐と石橋を楽しめる舞台。確か、もう活動してないんじゃなかったか・・・。悔しい!
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地下鉄サリン事件がきっかけになったのだろうか。科学者らしき二人の芝居。「科学のためにステップを用意してきたのは軍隊と戦争です」という台詞があるが、坂手はそういうものを認めていない。柄本明と角野卓三の二人が演じる科学者らしき二人は科学に振り回され、自分を見失っている。それは喜劇的でもあるが、実は怖いことなんだ。
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幕が上がって、舞台で展開する世界に初めて触れた時、戸惑いを覚えることがある。たとえば、河畔の赤テントで初めて唐十郎の芝居を観た時、舞台の奥の開け放った向こうには対岸が見え、男二人が川に飛び込み、泳いで渡り、舞台に上がって長靴にたまった水をこぼした時。ただ、あの時は戸惑った瞬間は既に舞台に引き込まれていた。
この『骨唄』もまた戸惑いに始まった。その戸惑いは長く続いた。ただ、後半は面白く読んだ。舞台を観たくなった。しかし、その面白さがどういうもので、どこに起因するのかわからない。簡単に言えないからこそ、魅力的なのかもしれないけれど。男と娘二人の芝居だけれど、かすかの唐の風味があるような気もした。
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熱帯雨林についての小説を書こうとする作家と彼を取り巻く数人で描かれている。こういう作品を「観念的」といえばいいのかわからない。緑の壁、緑の服、その素材は食べることができ、取った部分はまた元に戻る・・・。苦手意識が理解が阻む、というより、理解力がないだけか。
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作品の向こうに作者が見えることがある。それはちょっとした言葉がきっかけだったりする。おういう時は、その作者に共感と興味を覚え、他の作品を探したりする。
サローヤンは英文学を専攻していたので、名前は知っていた。だが、読んだことはなかった。『人間喜劇』という小説はそのタイトルに興味を覚えたことはあるのに。もしかすると買っていたかもしれない。押入れの中にあるかもしれないが・・・。
いい作品だ。貧しく、恵みのかけらもない人達ばかりが登場するが、みんないい。悪人は一人もいない。最後、売れない詩を書く父親は老母と息子を連れて、家賃を払えずに何処かに行く。救いがないように思うが、人間っていいなあという思いが残り、そこに希望みたいなものを感じている自分がいた。人間が好きになる作品は少ないが、その少ない一作だ。
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ハヤカワ演劇文庫の新刊が届いたので、とりあえず一幕の作品を読む。もう一篇収録されているが、それは後日ということで、面白いのは作者の言葉。演劇について書かれた文章の中では、原点を見据えたもので、考えさせられる。自己弁護とかいう声もあるかもしれないが、一読の価値はある。作品は、ぶっ飛んだ。
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メアリー・ホールの20の質問だったか。名前も数字も自信がない。彼女は演出家で、役者に自分が演じる人物について好きな食べ物とか休日をどう過ごすか等を考えさせる、そういう話を聞いたことがある。演じる人物について考える一つの方法だろうと思う。
『インディアン・サマー』はある大学の総合文化研究室の主任教授の一周忌の日、研究室前の廊下(廊下といっても、机や椅子、コピー機、キャビネット、書籍、ストーブ、コーヒーメーカー等が置かれているから、部屋みたいなものだが、通路にもなっているところがミソ)に出入りする人たちを描いている。何かが起こる訳ではない。将棋を指したり、ナメコ汁を食べたり、酒を飲んだりするだけ。主任教授の話の間の色々な雑談めいた話がほとんど、といった芝居。これが滅法面白い。搭乗員物が、書かれていないことを想像できるように書かれているからではないかと思う。登場人物は16人。そのうち外国人が6人。その6人が効果をあげている。
メアリー・ホールの方法がどれくらい効果があるのかわからない。作家が書かなかったこと、捨てたことにこだわっても答えはないから、かえって迷路を複雑にするだけにならないのだろうか。長谷川の脚本を読んで、思い出して、そんなことを考えた。
先月読んだ脚本の中で、『ワールド・トレード・センター』と『お隣りの脱走兵』には英語の台詞がある。『インディアン・サマー』には英語だけでなく、タイ語、タガログ語が出てくる。ゴキブリが一匹いれば、実際にはその何倍かのゴキブリがいるそうだから、外国語の台詞がある脚本はかなりあるのかもしれない。役者も大変になったもんだ。
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女の5人芝居。舞台はカナダ。いわゆる「銃後」を守る女たちを通して戦争を描いている。戦場を通してのものとなると、映画作品に優れたものが多いけれど、こあ女たちの戦争中の日常を通して戦争の愚劣、残酷、無意味を描いている。
日本の防衛費がゼロになって、その費用を福祉や教育に使えば、どれだけの問題が解決することか。人間は戦争を否定しながら、戦争の準備は怠らない。海の向こうの戦争が芸能人の離婚と並べられる日本。戦争で莫大な犠牲と消えない悲しみを経験しながら、この有様だ。人間は静かに繰り始めているのかもしれない。
脚本は上演のために書かれている。上演を観ることができれば、それが一番いい。しかし、上演は、演出と役者による解釈がある。脚本を読みながら、頭の中に舞台を描き、やがて顔を持ってくる登場人物、そういう楽しみもまた捨てがたいものがある。面白い脚本は人物が顔を持ってくる。
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アメリカに留学中の男の部屋に、同じ日本人の男と女、韓国の男の留学生、日本人女の旅行者が絡んでの一幕一場。「お前俺達がバカだと思ってただろう。なめんなよ。バカを楽しむのと本当のバカは違うんだ」という台詞がある。ギクッ。「お前」ってオレのことか? しかし、何と言おうとバカはバカ。考える力を失った野放図な脳ミソと節操のない下半身。腹立たしくなるばかり。ゴミだ。
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「これは私が死んだ時、8mmフィルムの箱に解説代わりにつけておくつもりです」と補遺に書いてある。「私」とは岩淵達治。ブレヒト関係で名前を知っているが、千田是也の演出助手を務めていたことを初めて知った。それでか。
戯曲と銘打っているけれど、日本と外国のあちこちで撮りためた映像には興味深いものが多い。ベルナール・アンサンブルの『第三帝国の恐怖と悲惨』の舞台稽古。蜷川幸雄が演じた舞台。いっそのこと、岩淵達治演劇ミュージアムをつくって、日替わり映像で本人が解説するのが理想的な形に思える。独自のこだわりで演劇を駆け抜けてきた人がそこにいる。
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屋外での幕開き。そして劇場へと案内される。その後も観客は幾つかの劇場へと移動することになるようだ。こういう方法もあるか、と、その方法が一番印象的だった。
戦前、戦後、現在を歌舞伎町を舞台に様々な人で描いた舞台。規模はデカイ。ただ、その規模の割には内容はおとなしい。ゲリラ的な上演に思えるけれど、内容は品行方正なのだ。ただ、あの歌舞伎町の歴史の一端には、そうだったのか、と、知って嬉しい一面もある。
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読み終えて、オルガを調べた。評判が良くない。ピカソの最初の妻で、ピカソの絵になんくそつけたり、折り合いが悪くなって、財産云々でなかなか離婚に応じないで、とかとかとか。
読み始めはピカソの陰の女だったが、最後はピカソが陰になってしまった。女の一人芝居だが、これは難しい。東京演劇集団風のブログでは現在、辻由美子が演じている最中のようだ。観たい。
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児童文学賞の表彰式が舞台。ところが佳作の受賞者がアダルトビデオの女優だとわかり、児童文学にそれはまずいんじゃないかとなり、しかし作者は女優名ではなく本名だし、作品や顔が出るわけではないので、全体写真の時に工夫すればいいということになるところが大賞受賞者に盗作疑惑が出て、と、出版社の担当者達の右往左往が展開する。
いわゆるシチュエーション・コメディになるとは思うが、舞台が閉鎖された空間だ。そこが問題ではないかと思う。場所を出版社ではなく、ホテルにして、ホテルの人間を出すとかした方がよかないか。観客になんらかの形で関係ある場所の方がいいように思う。話の終わらせ方も安易ではないか?
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