書けないことで発見することが多い

 『夜伽の部屋』は全く進まない。自転車を走らせたり、ゴミ回収所まで歩いていたり、風呂を洗ったり、洗濯したり、あれこれしている間、舞台装置に登場人物を配置して、衣装を直したり、年齢変更したりするけれど、彼らから喋りだすことがない。

 ただ、主人公についての考えが及んでいない。
 今までのぼくの芝居は主人公がいない。一人芝居はともかく、一応誰がメインかを明確にしない形で書いてきた。それは高校演劇の舞台で、差をつけないことを考えた上でのこと。
 ただ、今回の芝居の主人公は死んだ男であり、彼は声を発することも、それは違うと首を振ることもしない。かれは喋ることはないけれど、喋らせる要素は沢山あるはずなのだ。彼の材料を沢山集め、作りあげることが必要なのだろう。

 バカだね、今頃、気付いたなんて。

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分かった

 『夜伽の部屋』です。
 親父が死んだ日のあれこれを芝居に書こうとしています。
 なかなか書けない。
 その理由がわかりました。
 親父の死にぼくの死を重ねていて、ぼくは自分の死を経験していないから、ではないか。
 うわー、そうなると、遺書みたいなもんか。
 でも、ここで、一回死ぬのもいいか.

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遠回りするのも悪くない

 効率が求められている現代。
 エネルギーとか、あれやこれや(よく分かっていない)とか、「効率」の波が人間の考え方、生き方にも及んでいるような気がする。

 先に言っておくが、『夜伽の部屋』が全く進んでいないからで、もちろん、書いたり、考えたりはしているけれど、全く関係ない本を読んでいたりとか・・・。

 遠藤周作は執筆に行き詰ると、山手線の電車に揺られ「天啓を待つ」と書いていた。場所、風景を変えると、いいことはあるように思う。
 多分、おそらく、きっと、『夜伽の部屋』は今までとは違う何かを求めているのだろう。違う何かを発見できないことには、生まれない。
 こうなったら、とことん寄り道をしてやる。寄り道で、違う光と風と人に接して楽しめばいい。多分、そこから、生まれてくるものを受け止める感受性だけは大切にしたい。

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『夜伽の部屋』を再開する

 ずっと考えてはいたけれど、何かが足りない感じがして、その何かがわからなかった。
 ようやく、それを見つけた気がした。ノートに書こうとしたけれど、打つことにした。以前書いていたものを消し、書き始めた。親父が死んだ年の夏に思いついた脚本だけれど、もう5年になる。あのまま書いていたら、『雨の街、夜の部屋』みたいになっていたかもしれない。あれよりは少しはいいものになると思う。

 年金生活者は、とにかく無駄遣いをしないようにしなくてはならない。基本的には早寝早起き、脚本中心の生活とし、合間に散歩、読書、ギターで歌うことを気分転換に入れる。

 書くことはほぼ決まっている。5年間考えたんだから、主要な部分は書ける(はず)。ところが些細なところで停止する。現在は、久しぶりに再会した時の挨拶部分。どうでもいいのかもしれない。しかし、流れない。流れないのは何かが止めているからで、それをボンヤリと考えている。天啓を待つのみ。

 以前、若い女優に一人芝居を書く約束をした。その時は舞い上がってあれこれ考えた。肋骨骨折でストップした。約束が気になった。でも、とにかく今の脚本を完成し、その脚本の中に台詞にだけ登場する人物の一人芝居にしたいと考えている。そのためには、『夜伽の部屋』の完成が急務。急務だけれど、台詞一つにも納得いく取り組みをしたい。

 だから、ぼくは後2本脚本を書く。今年の夏が目標。

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『ヴェローナの二紳士』を読む

 昔読みかけたことがあるように思う。どこまで読んだのかは覚えていない。つまらなかったから、途中でポイしたのだろう。
 部分でのセリフは巧みさを感じるものの、最後になって、「オイオイ」と読み返したものの、やはりとんでもないセリフがある。
 昨年、蜷川演出で男性俳優のみで上演しているが、はて、どんな処理をしたのか俄然興味を覚えた。
 今回読んだのは松岡和子訳。
 訳者後書きでも解説でもその「?」については書かれている。ただ、エグラモーについては、たぶん、最後に登場する人物と二役を演じている関係で登場できなかったのだろうと推測するが、やはりセリフ一つで解決できるのに、と、思う。
 シェイクスピアだって、こんなヘマをするんだという有力な例の一つだろう。

 舞台にしたい度:ゼロ。

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『リア王』を読む

 肋骨4本を折って3か月半が過ぎた。まだ違和感があるものの、それは失恋の痛みと同様、一生(残り少ないが)道連れにするんだろうナと思うことにした。
 ここ一ヶ月は毎日自転車で走り、体力を取り戻す(あったら、だけど)ようにした。英語やら小説やらエッセイやらは読んだものの、どうしても戯曲が読めなかった。戯曲は、ぼくの場合だけれど、小説よりは覚悟と体力と気力が要る。先日、どうにか読めるような気がして、『リア王』を開いた。福田恒存の訳。学生時代から親しんでいるので、それにした。修士論文で扱ったんで、シェイクスピア作品の中では一番読んでいるのだけれど、こんなにすごい作品だったのかと初めて思った。
 『リア王』はシェイクスピアの最高傑作と言われるものの、上演頻度は少ない。リアとコーデリアが死ぬから、そこを変えて、ハッピイエンドにしての上演例もあるようだ。
 高校演劇の顧問をしていた頃、演劇はズレじゃないかと思うようなったが、『リア王』を読みながら、ズレで考えるのも面白いと考えた。学生時代は道化の存在こそ演劇的だみたいな形で展開したが、今ならズレで書くだろう。収穫。

 松岡和子の『深読みシェイクスピア』は面白い。彼女の目を開いた役者のエピソードも面白い。

 『リア王』を読むきっかけは、青森の知人が送ってくれた今年の新作がきっかけになった。テーマがでかい。高校演劇はこんなこともするという強さがあった。

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10年振りの新作に挑む

 『夜伽の部屋』を休んで、一人芝居を書いている。
 今まで一人芝居は3本書いている。それは高校生の舞台。今回は女優の卵、か。それ以前。時間も関係ないし、言葉も関係ない。あッ、言葉っていうのは性的な言葉。高校生には書いてこなかったけど、それが書けるってこと。
 一日一回は原稿に向かう。全く進まない時が多い。切羽詰まってないのかもしれない。何かの拍子にキーを叩くと、オヤオヤと思うほど進むこともある。口調が気になることもあるけれど、今はヒロインが喋り始めたら、それを記録するだけ。
 ぼくは彼女に「ラブレターです」とメールで送った。今までの経験から、その気持ちがないと、いいものは書けないと考えている。ぼくは彼女のことはほとんど知らない。顔の輪郭もぼんやりしている。どこにラブがあるんやねん。でも、あの夜の短い出会いで、書こうと思ったんだナ。ウン。
 一人芝居は莫大な量の台詞があり、相手役がいないから、間合いも自分でつくらなくてはならない。大変だ。その大変をさらに大変にするのは、愛情でしょう。脚本にも、演じる人にも。ウン。

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フェルナンド・フェルナン・ゴメス『自転車は夏のために』を読む

 スペインの芝居。スペインの歴史は全く知らないが、内戦やらなんやらで大変な時期があったらしい。その大変の前後までを描いている。きちんと丁寧に描かれていて、思いが入っていくものの、いざ上演となると、舞台転換が大変だろうなと思う。

 この作品には注が53ついている。その都度、後ろをめくり確かめるのだけれど、それが読む集中を欠かせる。そういう「確かめ」をしなくても読める翻訳はできないものか。つまり、台詞の中に入れ込んでしまってくれたら。括弧でくくってもいいから。研究者は注をつけたがる傾向にあるようだ。そして、彼らの日本語は正確かもしれないが、観客のことを考えていないことが多い。よく伝わらない台詞になっている。

 芝居愛好者は、値段と相談して脚本を買う。注を付けたいのなら、同じページに付けて欲しい。流れによっては無視できることが多いけれど、必要な時にはページをめくらなくてもいい形で。

 

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『夜伽の部屋』2014年6月現在

 実は、まだ考え続けているのです。

 兄二人、末っ子の娘を中心に考え、行き詰っても、まだその設定に拘っていました。で、どうにも身動きが取れない状況になり、ウダウダが続いていました。まァ、上演が差し迫っている訳でもないから、ダラけていたのも事実です。でも、考えない日はなかった訳で・・・。

 先日、末っ子の娘ではなく、その夫にしたら、と、ふと、思ったら、頭の中の舞台に活気が戻ってきました。貰っていて、使わないままでいた「紳士なノート」の最初のページに「最後のメモ」と控えめに書いて、再び始動。

 登場人物をちょっと入れ替えるだけで、舞台の流れが変わっていく。雨空が一気に晴天になった痛快感。

 それと沁みついた貧乏性。とにかく少ない人間で上演できるようにしようと、ずっと思っていた。それを改め、ちょっとだけ役者を増やして書きます。

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『夜伽の部屋』 5月29日現在

 夏に一気に書いてしまおうという考えで、ノートを持ち歩いている。で、ぶち当たったのが、年表の作成。それがないと、細部を埋めることができないような気がするのだ。

 流れはほぼ出来上がっている。狂言回し役は出来上がっている。あとは3人のズレや一致をきちんとしないといけないのだが、気が遠くなりそう。ひさしは、こんな労を惜しむどころか、嬉々として取り組んだのだろうなァと思い、だから、と、自分を奮い立てようとするのだが、・・・。

 シェイクスピア後期の作品は「ロマンス劇」と呼ばれる。『テンペスト』が一番上演回数が多いようだ。ロマンス劇を貫くテーマは和解。若い時の切っ先は鈍っていたのかもしれないし、視線の方向が変わったのかもしれない。学生の頃は「つまんねェ」の一言でポイしたけれど、今は受け容れられる自分がいる。
 「批判的な言葉は可能な限り使わない」「ありきたりであることを恐れるな」。ノートにそう書いている。今度の芝居は3人が一つの思いを共有できた時点で緞帳が下りる。別にシェイクスピア作品が念頭にあったわけでは全くない。でも、沙翁と近い?みたいな思いに、もしかして間違ってはいないのかも、と、我田引水するのであった。

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